12. 雪山 ―前編―
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・国家・固有名称等は架空の存在であり、それに類似する実在ものとは一切関係がありません。
「んんん~~~~~~~~~!」
両手を組んで前に伸ばし、私は軽く背伸びをした。
「好調、好調っと」
もう来週は試験日だ。
やはり少しでも誰かに隠している事を話せた事で、私の心は随分と軽くなり『勉強』も捗っていた。
とは言っても、既に昨年の時点で中学3年分の教科書の内容は、参考書の説明文と共にUCSへの書き込みは終了している。
だから今私が行っているのは、入力作業では別の作業。
一つ目は、過去5年間の出題傾向から予測される出題頻度の高い部分を、UCS内の情報から効率的に取り出せるようにする作業だ。
現代のイメージ的には、パソコンやスマ-トホンの表示画面にショートカットを貼り付ける作業に近いかもしれない。
ただ、何でもかんでも取り出せるようにしたら表層領域が混乱してしまうので、UCS内にも情報の誘導経路を構築しなくてはならない。
本来、これは人間の記憶では普通に行われている事だ。
所謂、『連想』というものである。
然しながら、UCS内の記憶領域にはこれが自ら構築しない限り存在しない。
そもそもUCSは人間の演算処理能力を高める目的で使われるものだから、記憶領域に用いる事自体が裏技なようなもの。
だから『連想』に近い情報検索ルートの構築が必須作業となる。
2つ目は、UCS内の整理。
知り得た情報を損傷無く保存出来るメリットがある反面、情報整理を自ら入念に行わなければ為らないというデメリットだ。
保存出来ると言う事は、逆に言えば消去も能動的に行わなければ為らないと言う事だ。
これを人間の脳は『忘れる』と言う自動的な消去処置を行う。
実際には、忘れるというより思い出せなくなると言うのが正解だが、つまるところ自分の意識が情報処理の過負荷によって損傷しない為の安全装置が自動的に働くという機能。
それもUCSには存在しない為に消去しない限りは、被った情報は被ったまま残るし、間違った情報も残り続ける。
正確な情報を迅速に取捨選択する為には、以上の2つが不可欠だ。
…今回の、3年分の情報を3ヶ月で運用可能にする行為も結構厳しかったけれど、2つ目の世界でDrの養女でいたときも結構苦労したのである。
あの時は、こんな行為自体が想像外であった事も加えて、科学技術が格段に違っていた。
その上【アーシア】の科学技術は、この世界の科学技術――何が理由か知らないが、記憶より進んでいるけれど――よりも、遅れていた。
だからそのカルチャーショックも一際大きかったのだ。
更にはDrはあの世界の最先端技術を開発していた人であったから、養女として迎えてくれた恩に報いる為に、せめて手伝い位は出来るようになろうとそれこそ死に物狂いで『勉強』したものだ。
そんな少し昔の事を振り返りながら、私は休憩ついでに居間へお茶を飲みに向かった。
そしてお湯を沸かす迄の間、ニュースでこの世界の情報を得ようとテレビを点けた。
いくつかコントローラーを操作してチャンネルを変える。
すると目的のニュース専門チャンネルが映ったので見る事にした。
ニュースで流れていた中で、目を惹いたのは海外のニュースだ。
それは、今年の元旦に始まった中東の戦争。
多国籍軍側の国家元首は、新年の祝賀に乗じて攻め込んできた事を激しく批難すれば。
攻め込んだ中東の国は、そもそも両国で使われている暦では新年を向かえていない。
両国の争いに政治目的で無理矢理介入してきている以上、我々の暦以外で語る事自体が間違っていると反論する始末。
まぁ戦争も政治の一環である以上、自らの正当性を主張しあうのは当然だろう。
ただ、多国籍軍に参加していない何カ国かが、その中東国家を支援する可能性があると解説者が言っていた事が気になった。
因みにこの世界は、私の調べた限りの情報ではあったが、各種衛星の運用と陸上兵器の進化によって航空兵器の絶対的優位性が失われている様子だった。
それは何故かと言うと、先ず衛星等の低軌道以上の高度に存在する設備及び月面基地の全てが、世界連盟主導の元で管理が行われており、その衛星の性能も運行情報も得た情報も全てが世連により監視されている。
当然その衛星には気象衛星や通信衛星、外宇宙探査衛星等から、衛星兵器――国家所属の衛星では無いので、『軍事』では無い――迄もが含まれる。
そしてその衛星が得た情報は、平和利用と相互監視という意味合いから、全てが公開されている。
また登録の無い衛星――建前は、地球圏のデブリ(space debrisの略称)除去となっている――は、先程の各種衛星兵器がレーザー兵器等で5ミリ未満まで破砕する。
そして、民間の航空機は安全な運行の為に、航空機全てを世連に登録する決まりだ。
つまり無登録の航空機は、軍用若しくはモグリである事が誰にでも――インターネットを使えれば子供でも――判る。
これは、特定国家が航空機による隠密進入及び隠密攻撃が不可能である事を示す。
それでは弾道兵器はどうであるかと言えば、これも同様。
低軌道進入の時点で衛星の迎撃対象となり、再突入前に自動的に迎撃される。
つまり長距離ミサイルも封じられたに等しかった。
そうなると戦争の基本は、前時代的に陸上兵器と歩兵となる。
テレビでは、多国籍軍側と中東国側の人型陸上兵器が、撃ち合っている映像が流れている。
そしてそのまま日本の自衛隊派遣部隊の映像も流れてきた。
日本のPPDFは盾の先端を地面に突き刺し、基本的守備隊形。
そしてその合間に盾を使った依託射撃で砲撃を加えている。
つまりこの世界に於いても日本は専守防衛を貫いている訳だ。
(…科学技術や歴史は明らかに違うのに、何故か幾つかの符号は合っているんだよね…)
その辺りが謎と言えば謎だ。
休憩も終わりにして、さて机に戻ろうかとしたとき、インターホンが鳴った。
(あれ、昼のこの時間に誰だろう?)
パネルを覗くと、正門の外にあるインターホンからの呼び鈴だった。
そしてカメラには、人の良さそうな中年夫婦の姿。
(はて、男性の方はどこかで見たような…?)
うちは道場を開いているから、基本的に昼間は開放したままになっている。
だからそれを知っているお客さん――藤崎さんとか――は、門の中まで入って母屋のインターホンを押す。
それを知らないという事は、初見のお客さんという事だ。
対応しようとした私は、パネル横のランプが既に赤からオレンジに変わっている事に気付いた。
これは既に別の場所から対応中と言う事を示す色だ。
カメラを覗くと、今日は休講日だと朝食のときに言っていた美咲さんが対応している。
(美咲さんのお客さんなのかな…?)
居間を出ると、丁度父さんと母さんが道場の方からやってきた。
私が来客の旨を告げると、あの夫婦はやはり美咲さんのお客様との事。
そして両親も美咲さんの親代わりとして同席するとの事だった。
余計に解らない事態に首を傾げる私だったが
………
……
…!
…ま、まさか、『お見合い!?』
そう、そうだ。
きっとお見合いの交渉に違いない!
あの人の良さそうな夫婦は、きっとどこかの富豪さんなのだ。
それでその御子息が美咲さんを見初めたに違いない!
だって美咲さんは、女の私から見ても美人だし、スタイル良いし、人柄もおしとやかで気配りが利く上にスポーツ万能だ。
その上、現在特定の相手がいないというのだから十分考えられる。
そして美咲さんはナンパ男なんぞにひっかからない芯のある人。
そこまで調べた相手が、お見合いから結婚を前提としたお付き合いを求める…
十分考えられる話じゃないか
ふっふっふ~、どんな相手なのか後でじっくり訊こう♪
しかし、私はこの判断を後程おもいっきり後悔した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「え?お見合いじゃ…ないの?」
美咲さんとお客様夫婦そして私の両親とに談笑が終わり、お客様が帰ったのに私は美咲さんの部屋に押し掛けたのだ。
そしてわくわくしながら美咲さんに聞いてみたのだけれど、結果はこの通り。
「逆に問います。
どこからそんなお話が出てきたんですか?」
訊かれたので考えてみる。
(うん、出てない。
出所があると言うならば、私の脳ぐらいだ。
つまるところ、私の勘違いってこと?
あー恥ずかしい。
私一人で舞い上がっていただけみたい)
「…も……して、藤…さ……ら…すか?」
そんな反省を脳内でしていると、美咲さんが小声で何か呟いていた。
小声過ぎて良く聞こえなかったが何を言っていたのだろうか
その顔が少々赤いのは、何故だろう?
「ん?どうしたの美咲さん。
何か言った?
それに何か、顔赤いような…」
「!?、な、な、な、何でもありません!」
む、何か重大なチャンスを失ったような気がする。
そんなこと考えていたら美咲さんから反撃が来た。
「そもそも、あの方達は御礼に来られたんです!
車の転落事故を発見した私に!!
…ふふふ、そう言えば未だ瑞希ちゃんには詳しい話を訊いていませんでしたね
……この際です、あのときの事訊かせていただきましょうか」
(やばいっ、あの目は本気だ、手加減抜きのときの目だ!)
藪をつついたら墓穴を掘ったなんて格言は存在しないが、私は今そんな気分だ。
「え、え~っと、その話は受験が終わってからじゃ」
「大丈夫です、2時間くらいで駄目になるような教え方はしていないつもりですし♪」
「いやいや、その2時間が運命を分かつことも…」
「それでは明日は2時間早く起きて…」
「いえ、試験日間近のこの時期に生活ペースを乱すのも…」
必死になって撤退戦を試みる私だが、彼女の巧妙な包囲網にどんどん逃げ道を失ってゆく。
このままでは、占いについて、ひいてはあの手紙とあの文字について、話さなきゃいけなくなる。
私は大慌てで理屈を組もうとし頭を全開で回していたが、いくら考えても美咲さんを説き伏せられそうな理屈は組めない。
(仕方ない、納得してくれるかどうか解らないけど)
私は手紙の部分だけ暈して話す事にした。
「ふ~ん、占い師……ねぇ」
(ああ、やっぱり無理!?)
『占いの結果が書いてあった手紙』を『占い師が伝えた』に変えて、信じた理由は直感と言う事で説明をした。
したはしたけど……いや確かに、手紙の部分を暈しても胡散臭い事は間違い無いよね。
私だって、あの手紙が【アーシア】の文字で書いていなかったら、絶対に信じなかった。
「…わかった。
信じてあげる」
「…え?」
「何よ、『え?』って。
信じて欲しくなかった?それとも冗談だったの?」
「い、いえ、本当の事だけど…いいの?」
あの説明で信じられるとは、その事が信じられなかった私は、つい聞き返してしまった。
そんな私に、いつもの一本指を立てるポーズで美咲さんは言う。
「良いも何も本当の事だったら信じるしかないでしょ。
事実を信じないなんて、単なる妄想よ♪」
「…はぁ」
(信じてくれたの素直に嬉しいけれど…いいのかなぁ)
うちの家って、住み込み弟子までお人好しだと思う。
もしかしたら、こう、床下から『お人好し電波』とか出ているのでは無かろうか。
それとも、単に私がこの7年間で汚れてしまっただけかも知れない。
「それで、お礼に泊まりに来ませんか?って言っていたわ」
「泊まりに?…電話で行って貰った場所って、雪山でしたよね」
「そうよ。
あのオーナー夫妻のペンション近くにもスキー場が有るんだって」
だからおもて成しをするので、遊びに来ませんかとの事らしい。
(スキーか…滑れる自信が全く無いぞ、私)
【アーシア】では、雪山は越えるもので、決して遊びに良く場所ではない。
行ったのだって【氷竜】に会う為に行ったのが一度きりだし。
Drの下に居た時だって、宇宙戦争中だった。
有り得ない雪中戦シュミレートなんてやった事も無い…そもそもあったのかな、その辺りから疑問だ。
そんなこんな考えていると、美咲さんは話を進める。
「だから、2月の頭の木曜日が試験日でしょう?
それで次の日が合格発表日だから、合格のお祝いを兼ねてその日の夕方から行きましょ♪」
そういう事に決まった。
美咲さんも案外強引だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから1週間後の試験日
そしてその翌日の合格発表日
この一週間の間にも色々あたけれど、それは別に語ろうと思う。
結果だけ言えば、私達3人は無事合格した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
静謐な空気に満たされる龍宮流空手道場。
壁際には門下生達が並び座り、道場の中央を一動たりとも見逃すまいと、凝視していた。
今日のこの時間、門下生は腕に自信を持つ者ばかりであり、中には機動隊の隊員等も居た。
彼らは非番の貴重な時間を割いて出稽古に来ているのであった。
その彼らが、自らの修練の手を休め座視していたのは、中央で立ち向かい会っている男二人が、見るに値する者達であったからだ。
一人は大津山省吾。
高校、大学時代から数々の大会で優勝を重ね、昨年も全国警察空手道選手権大会で優勝を果たした男。
その腕前は空手だけで無く、警察官必須である柔道でも一目置かれている。
一人は龍宮樹
この道場の道場主であり、華々しい経歴とは無縁なれど、その実力は門下生であれば知っている。
その二人が、立ち会うのであった。
タイマーのブザー音が道場に鳴り響いた。
その音と同時に両者は互いに間合いを外し、礼を行う。
限り無い技の演舞が、たった今終ったのだ。
寸止めも防具も無し、互いに相手を破壊する技を撃ち、互いに受け、かわす。
実戦空手とはこういうものだと知らされた仕合だった。
二人が道場から下がると、壁際の男達は先程迄の興奮を抑えきれずに修練を始める。
あの仕合のイメージが抜け切らないうちに、今観た技の数々を身体に染込ませる為だ。
ただその中に、指導者役でもある住込み弟子が始めてみた男も何人か混じっていた。
しかし、そもそも近隣の空手家が出稽古に訪れる形式の為、基本的には参加者記録帳に来た際に必要事項を記せば誰でも参加出来る。
確かあの男は職業に警察署の名が記入されていたから、きっと大津山氏の関係者であろうと、勝手に考えた。
その頃、日の良く当たる縁側に於いて、樹と大津山が談笑していた。
会話の内容は、先程行われた仕合形式の模範演技の礼、そして昔話の数々である。
10分程度話した後に、大津山は午後から行かねば為らない場所があるからと、席を辞した。
樹は門の外まで大津山を見送り、そして母屋に戻っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大津山が帰った後、樹は自室にて彼からの報告を吟味していた。
但しこの報告は、縁側で為されたものでは無い。
元旦の藤崎よりの報告から樹は、家の周囲も警戒している。
大津山の刑事としての守秘義務の事も当然あるが、その事以上に外部の組織を警戒していた。
だから道場での仕合の後は、縁側という外から見えやすい場所で会話をした。
覗いている連中に会話内容を聞かせる為である。
だからこの会話内容を――読唇術も含めて――分析しても、何も出てこない。
それでは、何時報告を大津山から受けたのかと言えば、試合中である。
勿論試合中に会話をした訳ではない。
【木霊】は、仕合中の様に目まぐるしく立ち位置が変わる状況では、隠密性が失われるからだ。
では何を以て行ったかと言うと、各種の技である。
正拳、鉤突き、肘撃ち、掌打、鉄槌、抜き手、裏拳等の手技。
前蹴り、回し蹴り、踵落し、掛け蹴り、足刀等の足技。
それだけでは無く、技を受けるか避けるか、立ち位置は間合いの外か内か、更には技を繰り出す際の指の状態まで、その全てが技単体では意味を成さず、流れの中でのみ意思の疎通が出来る、龍宮流の裏の技法【葛城】である。
これは当然、大津山も龍宮の裏に属する人間である事を示す。
どのような手段を用いてまで受けた報告は、やはり不安を裏付けるものでしか無かった。
「(噂に聞く史料編纂課か……)」
大津山の報告に有ったのは、公安警察の中でも外事課と並ぶ詳細不明な部門が動いているとあった。
国内の不穏分子の中にあって外国に属する者達を相手にする外事課、そしてその他の常識外の全てを扱う資料編纂課。
資料=死霊の語呂合わせから呪術師を操っているとか、宇宙人とコンタクトを取っている、超能力者を監視している、との噂まである。
そのような方面には伝手を持たない龍宮では、その真偽を確認の仕様が無い。
そして資料編纂課の動きと連動している思われるのが、【服】の件である。
先ず、科捜研が捜査資料を紛失したとの噂は事実であった。
そしてその中に【服】――瑞希が発見時に着ていた材質不明な物体――が含まれていたのである。
解析不能と噂に為っていたと言う証拠物が紛失しているのにも関わらず、噂段階に情報が抑えられている。
「(…やはり情報操作が行われているな…)」
ならば、【服】は一体どこへ誰の手に渡ったのか。
史料編纂課なのか、それとも史料編纂課が監視している組織なのか。
【ハム】――公安調査庁――の情報も、【軍】――自衛隊――の情報も入ってこない現状では、樹にとって判断材料が少な過ぎた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2月の第一金曜日の夕方、龍宮の家を出発する1台の車が有った。
愛用の4WDを運転する香坂美咲と、龍宮家年少組――瑞希、亜希、沙希――の4人を乗せた車である。
これから、合格祝いを兼ねた2泊3日のスキー旅行に出発するのであった。
あの日、ペンションのオーナー夫妻が美咲にお礼に伺った際に、その余りの厚情に遠慮しきれなくなった美咲は、替りに一つの事をお願いした。
それは、もう直ぐこの家の、自分の妹弟の様な子達が高校受験をする。
もしよろしければ、3人の合格のお祝いをオーナー夫妻のペンションで行いたい。
合格祝いにスキー旅行があるとなれば、更に励みになるだろうから、と。
その命の恩人の申し出に、オーナー夫妻は二つ返事で頷いたのであった。
「(でも、絶対にアレってプレッシャーだったよね…)」
「(誰か落ちたらと考えただけで胃が痛くなったな)」
「(合格出来て、本当に良かった~…)」
異口同音に同じ事を考えた瑞希、亜希、沙希の三人。
結果オーライとは言え、美咲の好意は三人にとって完全に逆効果であった。
「あれ?
お姉ちゃん、あの人達なんだろ?」
「ん?
どれどれ?」
ナビが示すには、もうすぐペンションに到着しそうな頃の事である。
沙希が窓の向うを指差しながら瑞希に尋ねてきた。
瑞希も示された方を見る。
そこには、夜の雪道に灯りを持った人々が集まっていた。
「猟師…じゃないよな」
助手席の亜希も同じ場所を見て呟く。
夜の雪山の恐ろしさは、藤崎から教わっている亜希である。
自ら口にしながらも、真っ先に猟師の線は否定する。
「う~ん…何だろうね…」
後方に消えてゆく人々の持つ灯りを見ながら、瑞希は呟いていた。
それから10分程で、四人は目的のペンションに辿り着いた。
ロッジ風の洒落た感じのするペンションである。
二階の建ての屋根の上からの煙突から白い煙が棚引いているところをみると、暖炉があるのかもしれない。
自分の荷物を其々が手に持ち玄関から建物に入ると、外の寒さが嘘の様な暖かい空気に包まれた。
「ようこそいらっしゃしました、香坂さん」
車の到着した音で気付いたのか、入って直ぐに歓迎ので出迎えを受ける四人。
出迎えてくれたのは、先週龍宮家を訪れたこのペンションの主人であった。
そして直ぐに奥さんもスリッパを鳴らしながら、駆けつけてきた。
「さぁ外は寒かったでしょう、どうぞこちらへ」
「本日はお招き頂きまして、ありがとうございます」
「いえいえ、この程度の事で気になさらないで下さい」
宿帳の記入も済まない内から暖炉の前案内を始める主人に、美咲は足を止めて深々とお礼をする。
その後ろでも龍宮家の3人が同様にお辞儀をするが、主人はそれを押し止めた。
「それよりも無事到着されて良かったですよ。
山では日の沈みも早いですしな」
「…主人ったら先日の事故以来、誰であろうと夜の運転に対してやたら心配性になってしまいまして」
「いえ、あんな事故に遭われましたら無理も無いですから」
ペンションの主人が軽いトラウマになっているのは、勿論美咲が瑞希の連絡により発見した事故の事だ。
確かに車ごと崖下に転落したのだからトラウマの一つや二つ無理は無い。
むしろ美咲の早期発見が有ったとは言え、五体満足である事は行幸と言えるだろう。
最悪、死に至っていたのは間違いないのだから。
暖炉の前で軽く温まった4人は、主人の案内で各部屋に案内された。
客室はペンションの二階部分にあり、室内にはベットと簡易テーブル、クローゼットとテレビまで用意されていた。
エアコンや暖房器具が無く、噴出し口から暖かい空気が流れているところから集中管理システムなのだろう。
若しかしたら暖炉の煙も暖房設備として活用しているのかもしれない。
4人は荷物を部屋に置き――2泊3日なのでクローゼットには仕舞わなかった――、1階に下りると良い匂いが漂ってきた。
匂いに釣られて発生元に向かうと、そこは食堂だった。
それは、これから食べる食事の期待を否が応にも高めていた。
「美味しかったね~」
「ああ、確かに美味かったな」
食後の温かいコーヒー――沙希はカフェオレだった――を美味しく頂く4人。
実際、料理は質・量共に満足のいくものであった。
兎肉のシチューは地元の猟師が獲った兎に地元野菜の滋味が溢れており
鴨肉を使ったサラダは、主人自らが燻製にした鴨肉だという。
その他には地元の郷土料理が並びパンも焼きたて。
まさにご馳走というに相応しいものだった。
「いや~、皆さん食べっぷりには感動しましたよ」
「いえ、本当に美味しかったもので」
「ありがとうございます。
明日も精一杯頑張りますので、スキーで思いっきりお腹を減らしておいて下さい。
そうそう、好き嫌いが無いのも感動しましたな」
楽しみにしています、と返そうとしていた美咲に変った事を言う主人。
「こう言っては何ですが、今日お出しした兎のシチュー。
あれは私の得意とするジビエ料理なのですよ。
ただ、お嬢様方には兎と聞いただけで拒絶する方もいらっしゃいましてね」
「…成る程、そういう事ですか…」
美咲の隣で珈琲を飲んでいた――座席は美咲・亜希、その向かいに瑞希・沙希で着いていた――亜希が頷く。
どうやら亜希も主人の変ったセリフに疑問を感じていたらしく、理解の旨を呟いた。
美咲は自分達の知り合いに猟師――藤崎の事だ――が居て、狩猟期には色々と獲物を持ってきてくれる事を主人に説明すると、慣れていらっしゃるんですなと笑って答えた。
その時、インターホンが鳴り響いた。
奥さんが玄関に向かい、扉を開くとそこには警察官が立っていた。
警察官であった事を主人に告げる。
「少々失礼します」
と、主人は四人に告げ警察官の元へと向かう。
夫妻と警察官は暫く話しこみ、そして警察官は帰っていった。
「あの…何か、あったのですか?」
戻ってきた主人に問う美咲。
「いや、近くの別のペンションに泊まっていた女性客の一人が、スキーに出掛けたまま戻っていないそうなんですよ。
それで地元青年団が夕方から捜索していたそうなのですが、一応念の為に警察官が警備と情報提供の呼びかけで回っているそうです」
ですから今晩は出歩かないで下さいね、と話を閉めた主人に四人は頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
山の方から風に乗ってちらほらと雪が舞い散り、その雪に陽光が反射する。
そんな幻想的な風景を覗かせるゲレンデでは
「お、お姉ちゃん、どいて~」
「無理、無理、無理~っ!」
「「きゃ~~~~~!!!」」
瑞希と沙希の悲鳴が響き渡っていた。
そして同じ頃、別な場所では…
「はい、そこの彼女達、二人っきり?」
「俺らも二人なんだけど、一緒に滑らない?」
「見た感じお姉さんは大学生で…妹さんは中学生?」
「二人ともこのゲレンデで群を抜いて可愛いよね~」
美咲と亜希がライトブルーのウェアとライムグリーンのウェアを身に着けた二人組のナンパ男に捕まっていた。
だが、ナンパ男が大嫌いな亜希に、女の子と勘違いして声を掛けたのが二人組の運の尽き。
「ぐふっ!」
「ごはっ!?」
当然の結末として、亜希の手による制裁が発生する
そう、こちらでも別の悲鳴が響き渡っていた。
「ほら、亜希君も怒らない怒らない」
「そうだよ、亜希。
そのウェアじゃ体型が判らないんだから仕方ないって♪」
「…お姉ちゃん、それってフォローになってないよ」
「……俺は怒ってなど居ない」
お昼の食事時、『リフト乗り場の近くにあるホテルの1階レストランがスキー客に解放されているので如何ですか』とペンションの主人より割引チケットを頂いていた四人は、折角なのでそのレストランで食事を摂っていた。
そこで出た話題が、先程有ったと言う亜希の大立ち回りの件である。
この話題は当然、亜希にとっては面白い話題では無く、亜希はめっきり無口になってしまっていた。
亜希を慰める美咲と瑞希。
沙希は兄のご機嫌を回復する為、兄の好物であるブラック珈琲を注文しようと店員を捜す為、周囲を見渡した。
「…えっ!?」
「ん、どうしたの沙希ちゃん」
「う、ううん。
何でも無いの。
店員さ~ん、注文お願いしまーす」
沙希の驚きの声に反応した美咲だったが、沙希が直ぐに否定し注文を始めた為、亜希と瑞希の方へ意識を戻した。
一方で珈琲の注文で誤魔化した沙希であったが、先程自分が見たものをもう一度思い返した。
それは見渡した際に一瞬だけ見えただけで、直ぐに柱の向こうへと消えてしまったが…
「(…祠堂先輩…だった)」
このスキー場には相応しくない、巫女服姿の祠堂霞であった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その男達は雪山を歩いていた。
ライトブルーのウェアを着た男とライムグリーンのウェアを着た男。
そう、つい先程美咲と亜希にナンパを仕掛け、決して傷跡の残らない制裁を受けた二人組みである。
あの後二人は、傷跡という証拠も無く、女の子にやられたと誰にも言えず、仕方なく人気が無い休む場所を探していた。
しかし、今の状態は明らかに異常であった。
スキーやスノーモービル等で固められた雪道では無く、膝まで積もっている雪を足で掻き分けながら歩き進む。
そしてその歩き方も、歩きにくいスキー靴である事を無視した歩き方だった。
本来、スキー靴でこの様な歩き方をしていては足が痛み10分も持たないであろう。
しかし男達は黙々と歩き続ける。
視線を定めないままで。
暫く歩いたその先で、ライトブルーのウェアの男が何かに躓き、顔から雪面に倒れた。
そして彼の斜め後ろを歩いていたライムグリーンのウェアの男も別なものに躓き、同様に倒れる。
そこで男達は目覚めた。
「ぶはっ!
何だよ、いった……?」
最初の男が悪態をつこうとしたが、その言葉は途中で止まる。
周囲の異様な匂いと景色に気付いたからだ。
この鉄の錆びた様な臭いは、一体何なのか?
そして、この散らばるくすんだ黒い色の臓物は何なのか?
「ゲホゲホゲホッ!」
その臭気に耐え切れなくなった男が咳き込む。
男達の周囲には、数多の死骸が散らばっていた。
左右どちらを向いても転がっている死骸の群れ。
そして全ての死骸が腹部が吹き飛んでおり、そこから腸が飛び出している。
鳥があった。
兎があった。
狐があった。
猪があった。
鹿があった。
そして周囲を呆然と見渡していた男達は、自らが躓いたものが何であるか知った。
一つは恐怖が顔に貼り付いた女性の、胸から上の上半身。
もう一つは、その彼女の一部であっただろう、腰から下の下半身。
そして当然彼女の上半身と下半身の間には……彼女であったであろうと思われる腸が……散らばっていた。
「…ひっ…」
「…あ、あ、あ…」
吐くよりも何よりも、その異様さに腰を抜かす二人。
しかし腰を抜かそうとなんであろうと、この場から逃げようと両腕だけでもがきだす二人。
しかし、二人とも新たな違和感に気付いた。
――腹に力が入らない。
二人は揃って自分の腹部を見下ろした。
そして違和感の正体を知った。
自分の腹部が膨らんでいる。
それは、腹が出ている程度の状態から、二人が見ている間にも出産間直の妊婦程度まで膨らんでゆく。
既にウェアは裂けている。
自らの腹の脹らみにウェアが耐え切れなくなったからだ。
普通それだけの状況ならば、布や金具が身体に食い込みみ、途方も無い痛みが襲うはず。
なのに、それすら無い。
更に膨らんでゆく自らの腹、その余りの非現実的な光景からくる恐怖に、二人は意識を手放した。
それはこの不幸な二人にとって、人生最後の細やか幸運であっただろう。
自らの腹が弾け飛び、内臓が飛び散るその光景を見ないで済んだのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「え?
瑞希さん、呼んだ?」
「ん?
私、呼んでないよ?
美咲さん」
四人がスキー場から返ってきてから暫くして、初めて美咲が自らを呼ぶ声に気付いたのは、お風呂の最中だった。
最初は一緒に入っている瑞希かと思った。
だから彼女に訊いてみた。
しかし、違っていた。
お風呂から出て、他の人にも訊いてみたが違っていた。
だから美咲はただの空耳だと思い、その声を忘れた。
次は布団の中でだった。
こちらはべランダの格子で風が鳴り、人の声のように聞えるだけだと考えた。
「(…でも、違う…)」
これは外から自分を呼ぶ声だと、理解した。
何故か疑問と思わずに。
そして美咲は防寒着に着替え、ベランダの階段を通って敷地の外に出る。
雪のちらつく曇り空は、月の光りさせ差し込まない真っ暗闇であるにも拘らず、美咲は真っ直ぐ進んで行った。
呼ばれるままに。
何ら疑問を持たず。
ただ、ただ、雪降る夜の林の中を進んで行った。
その彼女の瞳は、虚ろだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
突如、沙希は目を覚ました。
「え…何…?」
悪夢を見た訳でも無い。
昔、大好きな姉が失踪してから2年間は、良く見た。
だが姉が帰って来てからこの3ヶ月ちょいの間、見る事は無かった。
しかし、今は違う。
悪夢ではない、何か。
それが沙希を刺激し目を覚まさしていた。
勘に導かれ、廊下に出る沙希。
その時だった。
誰かが階段を駆け上がり、廊下に飛び出してきたのだ。
それはペンションの主人だった。
その音と同時に部屋から出てくる瑞希と亜希。
二人とも沙希の廊下に出る気配と、階下から微かに聞えてきた警告音に目覚めたのであった。
廊下に出た途端に三人に迎えられた事に驚いた主人。
「何かあったんですか?」
と瑞希に問われた主人。
「香坂さんの部屋の温度が急激に下がっているんです!」
と答え、美咲の部屋の扉を叩き始める。
ドンドンドンッと、扉を叩く音が2階の廊下に響く。
「香坂さん、香坂さん、どうしましたか!」
ドアを叩いた後、ドアノブを回す主人。
しかし鍵が掛かっているのか、ドアは開かなかった。
慌てているのか、ドアに体当たりを始める主人。
しかし、ペンションの構造を思い出した亜希と瑞希は、揃って隣の沙希の部屋に飛び込みベランダに飛び出した。
「こっちだ、姉さんっ」
「うんっ!」
「(…確かベランダで繋がっていたはず!)」
カーテンを避け鍵を開けて吐き出し窓からベランダに出る二人。
そしてベランダを飛び出した二人が見たもの。
それは、吐き出し窓から飛び出し風に揺れるカーテンと、ベランダの端の階段へと続いてゆく美咲の足跡だった。
それからペンションは大騒ぎだった。
夕食中も、男性客二人が戻ってきていないと、二人の宿泊先のホテルから警察に連絡が入り、その事で警察も青年団も消防も走り回っていたのだ。
そこへペンションのオーナーから警察に連絡が入った。
客の一人がスキーから戻らないのでは無く、夜間に失踪したとの連絡が。
オーナーが警察に連絡を入れている間に、瑞希と亜希は荷物から発煙筒や発信機等を取り出した。
そして沙希へ受信機を預けると、足跡が消えないうちにと飛び出していった。
沙希は受信機を受け取ると、部屋に戻った。
ペンションの主人には、二人の事は伝えていない。
二次遭難の危険があると止められるのは判っていたからだ。
二人が持って行った発信機は携帯電話電波や通常無線を利用しているのではなく、衛星電波を利用したものだと聞いている。
だから5分に一度の発信とエマージェンシーコールしか使えないとも聞いていた。
であれば、自分の行う事はむやみやたらに騒ぎを広める事ではない。
二人からの連絡を待つ事だ。
だから沙希は部屋に閉じ篭り、二人からの連絡が有るのを待つ。
また同時に、自分の荷物のチェックをする事も忘れない。
自分が何を持っていて、何が出来るかを把握しておく為だ。
その時だった、荷物から零れ落ちた封筒に気付いたのは。
沙希は今日で1ヶ月が経過した事を思い出し、手紙を開いた。
瑞希、詩織、美加と的中し続けた占いの結果に、何か役に立つ事が書いてあると期待して。
『今すぐ祠堂霞に連絡するように』
手紙にはこの様な簡潔な文が、書かれているのみであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
雪上の足跡を追い、駆けてゆく瑞希と亜希。
だが二人はスキー板を履いていない。
クロスカントリー用の道具も持っていなければ、経験も無い二人である。
通常であれば、膝まである雪の中を駆ける事なんて出来ない。
ならばどの様にして駆けているのか。
それは瑞希の力である【竜魔術】
これを用いざるを得なかったのであった。
少し前の事だ。
「姉さん、このままだと…」
「拙いね」
二人がペンションの敷地から外に出たばかりの事である。
美咲の足跡は、転々とでは無く、足を引きずるかのような線の形で残っていた。
その跡を追いかけて行く二人であったが、その余りの雪の深さと、高輝度灯でも照らしきれない闇に悪戦苦闘していた。
「…亜希。
私はこれから、1ヶ月前に見せたあの力…ううん、あの時より以上の力を使う。
はっきり言って、亜希には私が化け物に見えるかもしれない。
でもそれは一先ず棚上げしておいて欲しい。
美咲さんを無事に連れ戻せたら、私をどれだけ罵っても良いから」
「姉さん、俺は…」
亜希が瑞希の言葉に意を唱えようとした途端、瑞希の口から咆哮が毀れ始めた。
『おおぉぉぉうぅぅぅあぁぁぁおぉぉぉぉ……』
到底人の咽喉から発し得なさそうな音が、瑞希を中心に雪山に響き渡ってゆく。
そして亜希は黙って、姉を見ていた。
すると、瑞希の黒髪が根元から徐々に淡い水色に変わってゆく事に気付いた。
そして髪の先端までもが同じ色に変わったとき、異音は止む。
振り向いた姉は、瞳も髪も淡い水色に染まっていた。
「本気を出すとそれが表に出る……はは、化け物みたいでしょ。
本やテレビの中には居ても現実には有り得ないよね、こんな姿。
…でも…これで進めるっ!」
瑞希は足跡の方へ一歩踏み出す。
すると瑞希の踏み出す一歩に合わせて、雪が裂けた。
また一歩踏み出す、それに合わせてまた雪も同様に裂ける。
瑞希が、裂けた雪の下に現れた地面を踏み締め、足跡の残る方へ駆け出して行く。
すると同じ速度で雪も裂けて、道が出来ていった。
薄い水色の髪を揺らし、淡い燐光に包まれ亜希の前を駆ける瑞希。
「(…まるでヘブライ人を逃がす為に海を割ったモーゼのよう…
いや、雪を支配下に置く、雪の精霊か…)」
瑞希の後ろを追いかけながら、亜希は前を駆ける姉の姿を、美しいと思った。
瑞希は、後ろに亜希がついて来ているのを確認しながら駆ける。
「(とりあえず、化け物との言葉は言わずにいてくれているみたい…ありがと、亜希)」
口には出さず呟く瑞希。
まさか弟が自分を化け物なんて思わず、雪の精霊のようだなんて考えていたなんて思いも寄らない瑞希であった。
しかしこのとき、亜希が考えている事が半分正解だとは本人も知らない。
瑞希が用いた竜魔術は【氷竜】。
――氷と雪の絶対的支配者である竜を――
この力の解析はDrのところでも行っていない。
ただ解る事は、この術を用いれば氷雪…いや、水分子を監視及び操作する事が出来ると言う事だ。
勿論、範囲は地上の全てと言うわけにはいかない。
竜であれば可能かもしれないが、人間の処理能力では限界点を直ぐに迎える為だ。
だから今行っているのは、自分の処理能力の限界が来るのが早いか、美咲を見つけるのが早いかの、時間勝負であった。
「見つけた!」
前方に、人影が見える。
氷雪のレーダーから得られる情報から、背格好を把握する。
身長や体型、そして雪の加圧情報から美咲と断定する瑞希。
追いついた二人は、更に前へ進もうとする美咲を二人で引き戻そうとする。
その時、瑞希は気付いた。
状況の異常さに。
雪の上に幾つも散らばっている物体。
美咲の時と同様に輪郭と加圧重量から測定する。
その結果は、鳥、兎、猪、鹿…重量が軽いが、輪郭からしてそれは間違い無いと思った。
「(…しかしこれは何?)」
輪郭から判断する限り、人間の上半身が3つ、下半身が3つ存在していた。
瑞希は【アーシア】の戦場で、上下真っ二つになった遺体も見た事あるから、勘違いをする事は無い。
「(だけどここは、剣と魔法の世界【アーシア】じゃ無い。
そんな遺体がある事が異常事態!)」
そんな事を考えていた瑞希は、気付くのが遅れた。
瑞希の支配下に有った氷雪の支配が奪われ始めていた事に。
その支配力は、瑞希達の方へ面で侵食するのではなく、触手を伸ばすかのように瑞希達へ向かった行った。
瑞希がその事に気付いたとき、その支配力は美咲へ届こうとしていた。
「あぶないっ!!」
咄嗟に両手其々で、美咲と亜希を突き飛ばす瑞希。
そのお陰で二人は雪の上に突き飛ばされる形で無事だった。
だがしかし、支配領域の一端に触れてしまった瑞希の左腕に、潜り込もうとしているものが有った。
雪である。
雪の結晶一つ一つが微細な針のように変化し、服を通過して体内に入り込もうとする。
そして体内に入った雪は、水素原子と酸素原子に分解し、それぞれが分子化して内部から吹き飛ばそうとする。
そう、これが動物や三人の男女の腹部を吹き飛ばした正体であった。
瑞希は、そうはさせまいと体内の【氷竜】を更に強化する。
何とか体内及び薄皮一枚分の支配を取り戻すが、少々遅かった。
瑞希の肌と服の間で水素爆発が発生し、袖が弾け飛んだのだ。
化学繊維の焦げる臭いと、肌の焼ける臭いが広がる。
だが、それだけの怪我と引き換えに瑞希も相手の一端を知った。
それは食欲…捕食の意思だった。
そうであれば、相手は美咲だけでは無く、亜希や自分も狙ってくる可能性が高いと瑞希は考えた。
「亜希っ!
美咲さんを連れて逃げなさいっ!!」
「姉さんっ!?」
「この虐殺現場を作り、美咲さんを浚い、私の服の袖を吹き飛ばしたナニか。
まぁ仮に【犯人】って言って置くけれど、コイツは見境が無い。
このままこの場に居れば、亜希も狙われるっ」
「それなら、姉さんだって同じだろっ」
「私は大丈夫。
よっと!」
言った途端に、この【犯人】と名付けられた存在は、亜希と美咲の両方へ、支配領域の腕を伸ばしてくる。
二人の前に駆け寄った瑞希は、左腕を押さえていた右手を、掌打を打つ形で前方に放つ。
すると瑞希の目には、支配下に置いた厚さ一ミリも無い氷雪が、【犯人】の支配領域を断ち切った。
「さっきはちょっと油断しちゃったけどね…でも二人を護りきるだけの余力が無いのも事実なの。
この虐殺現場の犯人は私が抑えておくから…だから美咲さんを安全な場所へ!」
瑞希は自らも、遺体の下へ支配領域の腕を伸ばす。
そして今度は謳うように咆哮を紡いだ。
すると、遺体から赤い血が伸びて行き…瑞希の左腕の怪我から滲んでいた血と空中で交じり合う。
その血の塊は形を変えながら空中を移動し、亜希の肩の上で『紅い小鳥』と姿を成した。
『亜希…聞こえる?』
「姉さん?」
2メートル程前に立って背を向けている姉からではなく、亜希の肩の小鳥から瑞希の声が聞こえた。
『これは…分かり易く言うと、通信機…生態型のね』
「通信機?」
『そっ。
これに話した内容は私に伝わるし、私が話したい事はその小鳥が囀る
だから離れていても大丈夫だから…早くっ』
「…わかった。
執り合えず美咲さんを安全な場所へ連れて行ったら戻ってくる、それまでは無理するなよ!」
亜希は瑞希に――肩の小鳥にでは無く直接大声で――話すと、美咲を背負い彼女の重さを感じさせない足取りで、雪が避けた後の大地の上を駆けていった。
「さて、こっちは撤退戦だね…」
瑞希としてもこの【犯人】の正体は気にはなるが、一先ず全員が無事帰還する事が一番大事だ。
だから亜希から無事脱出したと連絡があり次第、撤退する。
「(…そして何かしらの対抗手段の準備を終えてからが、本番にしたいよね…)」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
駆けながら、発信機のエマージェンシースイッチを押す亜希。
携帯型発信機――本来は通信機――に於ける衛星通信に要する電力消費、その対応策としてこれを5分に一度の位置送信にすることで、形態性優先のデメリットである電池容量の縮小に対応したている。
このエマージェンシースイッチは、その制限を回避し送受信可能とするものだ。
但し、相応に通信時間の低下を招いてしまう緊急処置でもある。
亜希は沙希に連絡を取り、人なり車なりを回してもらうつもりで居た。
「………」
然しながら繋がらない。
何が原因であるのかは、判らない。
しかしこの場で焦って電池を使い切るのは得策では無いと判断した亜希は計画を変更し、肩の紅い小鳥に状況を伝えた後に再び走り出した。
「(例え電波が通らなくとも、自分が到着すれば問題無い)」
だがこの時亜希は、未だ気付いていなかった。
いや、亜希だけでなく【犯人】への対抗手段を持った瑞希も、亜希の二度目の報告があるまで気付けなかった。
既に、自分達が広義で囚われていると言う事に。
そしてそれは、瑞希の撤退戦が一方的な消耗戦と化す事を意味していた。
平均3日ペースの更新予定でしたが、公開が遅れてしまい申し訳ありませんでした。
お陰様で400ユニークを無事超えました、ありがとうございます。
本来は前話・今話・次話で1話構成でしたが、文字数規定を超えてしまう為に3作に分けさせていただきました。次話も間も無く公開予定です。
それでは今後とも宜しくお願い致します。