15-(2) 傷跡の街で
兄達が旅立った翌日であっても、セカイは変わらず朝を届けてくれる。
瞼の裏に陽の光がそっと差し、アルスは沈んだ意識の海から引き揚げられていた。
「……ふぁ」
眠気のまとわり付く身体を起こし、しょぼしょぼする目を何度か擦る。
カーテン越しにセカイが伝える何度目とも知らない朝の訪れ。
自分たち兄弟の出生の秘密が明らかになっても、皆の住む街に魔獣の大群が襲い掛かって
来ても、そして兄がまた遠くに旅立ってしまっても……セカイはそう簡単には変わってくれ
ない。ただ自然の営みが繰り返される。
「エトナ~。朝だよ、起きて~?」
「うぅん……? ふぁ~い……」
仕方がない。何て事はない。ただ僕もやるべきことを成すだけで。
アルスは寝惚けて浮かんでいるままの相棒を軽く揺さ振って起こしてやると梯子を降り、
いそいそと身支度を始める。
「──おはようございま~す」
鞄を肩に引っ掛け、酒場(食堂)へ。
そこでは今日もまたいつものように団員の皆が、そして間仕切りの向こうにちらほらと酒
場の客達が席に着き思い思いの時間を過ごしていた。一見すると平時とそう変わらぬ朝の風
景が広がっている。
「おはようアルス君。はい、今日の朝ご飯」
「あ、はい。ありがとうございます」
そしてカウンターの傍を通ると、ハロルドが微笑と共にトレイに載せて用意してくれてい
た朝食を差し出してくれる。
更に見てみれば、そのトレイの片隅には弁当包みが一つ。
「あれ? これは……」
「見ての通りだよ。ミアちゃんもレナと一緒に皇国に行ってしまったからね。少なくとも
その間くらいは私が代わりに用意させて貰うよ。彼女のものとは味付けが違ってしまっている
かもしれないが」
「いいえ。そんな事は。有り難く頂きますね」
トレイを両手でしっかりと支えて持ち上げつつ、アルスはそう微笑みを返す。
しかし、内心では改めて兄達の旅立ちを再確認せざるを得ず、抑え難く疼くかのような寂
しさを覚えていた。
兄さんは、リュカ先生は、ミアさんは……皆は、今頃どうしているのだろう?
できる限り平穏無事で帰って来てくれれば嬉しいのだけど、きっとそうもいかない。
「はぁ~……」「ぬふぅ……」
そしてそんな心配や寂寥感といったものは、遠かれ近かれ、仲間達も同じ思いであるらし
かった。
さて、何処に座ろうか?
そうアルスが辺りを見渡していると、ふと数名の団員らがぐてっとテーブルに突っ伏して
いる席があるのを見つけたのである。
「……どうかしたんですか?」
「ん? ああ……アルスか」
「はー、おはようさん」
「は、はい。おはようございます……」
何だか放っておけず、アルスは彼らの席に近付いて声を掛けていた。
そして空いている席に腰掛けると、団員らはむくりと顔を起こして挨拶を。しかしその声
色はどうにも覇気が、元気がないように思えて。
「元気、ないですね」
「ああ……」
「当ったり前じゃんよ~。俺達の天使が昨夜から遠くに行っちまったんだからよぉ」
「て、天使……?」
寂寥感という程のことでもなかったのか。だが彼らは皆、特段ふざけている訳でもなさそ
うで。アルスはもしゃりとサラダで包んだパンを咀嚼し飲み込んでから、傍らでジト目を向
けていたエトナと顔を見合わせる。
「だってさ~、可愛いじゃん? レナちゃんもミアちゃんも」
「この業界って野郎率が高いからさー。だからあの子達がいてくれるだけでもう」
「ああ。心の清涼剤なわけ。最近はステラちゃんも顔を出してくれてるし、サフレが面子に
加わってからはマルタちゃんっていうニューカマーもいるしさ。だけど……」
「なるほど。四人ともジーク達について行ったもんね~」
──そうなんだよぉ!
エトナがフッとジト目で哂いながら付け足すように呟くと、この団員らは殆ど脊髄反射的
にそうむさ苦しい叫びやら嗚咽(?)を漏らし始めた。
確かに……少なくとも、このクランにおける女性比率はそう多くない。
自分は冒険者という訳ではないので、業界全体の男女比などは流石に把握してはいないが、
華があるのは精神的にも支えになるのかもしれない。
アルスはそんな彼らを苦笑で見遣りながらぼ~っと思考を巡らせつつ、ちみちみと目の前
の朝食を片付けてゆく。
「でもそんな事を言ったら、このクランのリーダーも──イセルナさんも女性ですよ?」
そして、そんな観点でアルスは何の気無しにそう言ったのだが。
「ばっ、馬鹿! いくらなんでも団長は例外だっての!」
「そーだよ。そりゃああの人も美人の部類だけど、あの人にそんな眼を遣ったら──」
「へぇ……? 私が、何?」
『うひゃぁっ!?』
何故か一斉に彼らは怯えるようにアルスに詰め寄ってそう言いかけ、次の瞬間にはまるで
始めから聞き耳を立てていたが如く、イセルナがその背後にサッと姿を見せてくる。
「だ、団長ぅ!?」
「あぅぁ。いえ、これはですね……」
団員らはあたふたと動揺していた。
対するイセルナは至極ニコニコとしている──ように見えたが、醸し出す気配は何となく
怖いようにも思える。
「美人と言われるのは光栄だけど、時と場合を考えましょうね? レナちゃん達を愛でる事
自体に文句は言わないわ。でも、今はクランもジーク達も大変な局面よ。浮付いた気持ちで
臨んで貰っては困るわ」
「……はい」「す、すみません……」
そう窘める彼女の言葉は真剣だった。そして何よりも仲間──クランという家族に対する
愛情に溢れている。そうアルスには思えた。
しゅんと頭を垂れる彼らには悪いと思ったが、アルスは内心嬉しかった。
良かった。この居場所で。ちゃんと兄さんや皆の事を想ってくれる人達がここにはいるん
だと思えて。
「アルス君」
そうしてもきゅもきゅと朝食を採りながら彼女達のやり取りを眺めていると、ふとイセル
ナがこちらに視線と話題を向けてきた。既に気付いていたことだが、先程から静かにその傍
らには身支度を整え終わったシフォンの姿もあった。
「今日から学院の授業も再開するけれど、これからはシフォンが貴方の護衛に付くわ。でき
る限り勉強の邪魔にならないようにするつもりだけど、自分でも頭に留めておいて?」
「はい……。宜しくお願いしますっ」
「ふふ。そんなに畏まらなくてもいいさ。友の弟を護る、それだけだからね。……宜しく」
イセルナとシフォンの各々に、アルスは席に着いたままながらぺこりと頭を下げていた。
事前に兄が彼に自分をよろしく頼むと言っていたのは覚えているが、やはりこうして実際
に護衛を付けて貰うとなると、緊張する。
兄としての心配と、一国の皇子という血筋故と。
多分兄自身の中では前者が大半を占めているのだろうが、アルスは改めて気を引き締めざ
るを得ない心地になっていた。
「──それじゃあ、行ってきます」
そして朝食を平らげ、シフォンと共にホームを後にし学院へ。
酒場から皆の「行ってらっしゃい」の送り出す声が合唱になって返ってくる。
鞄を揺らして微笑みを一つ。
僕らは……独りじゃない。皆がいる。だから、兄さんもきっと無事に……。
兄の親友、大切な仲間の一人である妖精族の護衛を伴い、アルスは小走りに朝の街へと
駆け出してゆく。
「……」
そんな皆やアルスの後ろ姿をその肩に顕現した相棒と共に見送りながらも、はたと顕れた
下級精霊らの声で静かに眉根を寄せた、イセルナの変化に気付くことなく。
学院に着いたアルスが最初に向かったのは、中央講義棟のエントランスホールだった。
直接被害があった訳ではないらしいが、先日の“結社”襲撃を受け、今日まで学院が臨時
休校になっていたためだ。
アルス達は入口すぐに詰める職員の前を一礼して通り過ぎると、端末がずらりと並ぶ間仕
切りで仕切られたスペースへと移動する。
「えっと、補講情報は……」
端末の一つの前に座って操作し、画面上にずらりと並んだ講義の情報を確認する。
臨時休校とはいえ、講義の予定は必ず何処かに振り替わっている。故に先ずは自分の受講
しているそれらの振替先の日時を把握しておかなければならない。
それは他の学生達も重々分かっているようで、周りの端末にも少なからぬ学生らがじっと
画面と睨めっこし、メモを取り直している様子が垣間見れる。
「こういうのを見ると、改めてあの一件があったんだなぁって思うね……」
「……そうだね。でも良かったよ、これが犠牲者リストなどではなくて」
「ぇっ?」
エトナがしみじみとする横で、そうシフォンが何気にさらりと薄ら寒い台詞を呟いたり。
そんな背後の二人のやり取りに思わず苦笑しながら、アルスは自分の取っている講義の振
替え日時をメモし直していく。
「お、いたいた。ア~ルス~!」
ちょうどそうして大方のメモを取り直した頃だった。
「……? あ。フィデロ君、ルイス君」
少し離れた場所から届いてくる、聞き慣れた声。
アルス達が振り向いてみると、端末スペースの入口で学友達──ルイスとフィデロが歩い
て来ているのが見えた。
久しぶり。そうフィデロはこちらに向かって手を振っているが、少々声が大きい。
周りの学生らが眉根を寄せたり、意識を切り替えて再び端末に向き合う様を見遣り、そん
な相方をルイスはぐいとちょっと無理やりに頭を下げさせて黙らせ、アルス達一同にやけに
清々しい笑顔を向けてくる。
アルスは残りのメモを控え終えると、エトナとシフォンを伴い、二人の下へと駆け寄って
行った。
襲撃の一件以来の顔合わせ。アルスは内心ほっこり嬉しくなる。
端末スペースに居座っては迷惑になる(既にフィデロがやらかした後だが)ので、面々は
そのまま正面口を挟んで向かい側のロビーに移動する事にした。
「久っしぶり。ゴタゴタしてたが、何とか学院も再始動だな」
「そうだね。大事にならなくてよかったよ……」
「同感。だけど誰かさんのお蔭で僕らの街は守られた訳だし。……ね?」
フィデロがついと出してきた拳をこつんと打ち合い、再会の挨拶と代えて。
アルスは暫し学友二人と談笑をした。
エトナは勿論、シフォンも既に面識があるので、二人には軽く紹介と護衛に付いてくれて
いるんだというざっくりとした説明だけを済ませておく。
「あ、はは。もしかして……知ってる、の?」
「勿論。君が学院長達と一緒に魔獣の群れと戦ったことはもう大抵の学院生は知っているん
じゃないかな?」
「それと、お兄さんの説教文句もな。何で街全体に配信されるようになってたかは知らねぇ
けど、スカッとしたぜ。流石だよな~、領主相手にあそこまで堂々と言い切れるなんてさ」
「あはは……」
だからか、自然と話題は先日の襲撃騒ぎに移る。
少しからかい気味に、及びグッと心底楽しそうに語る二人の話からして、既に街の人々に
は大分自分達兄弟のことは知れ渡ってしまっているらしかった。
「シフォンさんが護衛、というのはそういう事なんだろう? 相手は“結社”だ。いつまた
君自身に報復が向けられるか分からない」
「……うん」
アルスは思わず苦笑してごまかそうとしたが、同時にルイスがすっと目を細めてそう確認
するように訊ねてくる。
ちらりと傍らで涼しげに立っているシフォンを一瞥して、アルスは苦笑の色を濃くしなが
らも弱々しく頷いていた。
何だか嬉しそうなフィデロ君はともかく、ルイス君の洞察力には気を付けておかないと。
「そうだわなぁ。しっかし護衛かあ……。なんかアルスも貴族みたいになってるよなー」
「えっ!? あ……うん。そう、なのかな……?」
「……」
勿論、二人が悪い人ではない事は入学以来の付き合いの中で確信している。
だからこそ、できうる限り自分達の事情に巻き込みたくなかった。
この学び舎で出来た、大切な──友達だから。
「見つけましたわ。アルス・レノヴィン」
「……?」『げっ』
そしてアルスの下にまた新たに人が集まってくる。
またも聞き慣れた、負けん気の強い少女の声。現れたシンシア・エイルフィードとそのお
付き役の二人組。
アルスは頭に疑問符を浮かべて振り向いた後、知った顔だと微笑んで会釈をした。
エトナとフィデロは未だに演習場での模擬戦の件があるのか警戒気味で。
そんな何かとお騒がせな主に付き従うゲドとキースは、シフォンと互いに挨拶を交わす。
「な、何だよ? 休校明け早々」
「まさか……。またアルスに喧嘩を吹っ掛けようって気じゃないでしょうね?」
「……。何をいきなり喧嘩腰ですの? 決着は、ついたではありませんの」
「うむっ、然り!」
「まぁ仕方ないッスよお嬢。今まで散々難癖つけてアピーるぐぉぁ!?」
フィデロとエトナがむむっと身構えるのを見て、今日のシンシアは何処か嘆息気味であし
らっていた。
従者二人組もそんな彼らの反応にそれとなく一定の理解を示してくれた──のだが、少々
饒舌過ぎたが故に、キースはシンシアに靴の踵で思いっきり足を踏まれてその科白を強制的
に中断させられる。
「……今日は仕切り直しなのですわ。それと、謝罪も」
「しゃ、ざい?」
すると突然、シンシアは控えめにだが、確かにアルスに頭を下げてきたのである。
アルスが、エトナが、従者二人を除くその場の面々が目を見開いていた。
一体何故? あれだけプライドの高い筈の彼女がどうして。
ぱちくりと目を瞬かせているアルス達にそっと顔を上げ、ややって彼女は呟き始める。
「先日の襲撃騒ぎ、私も聞き及んでいます。貴方が身を挺して街を守ろうと奮闘した事も、
あの野蛮剣士──いえ、貴方のお兄様も領主の怠慢へ叱責をぶつけたことも」
「……う。すみませ」
「だから謝っているのは私の方だと言ってるでしょう? ……私も、私なりに思う所はあり
ましてよ。あの日は、私はゲドやキース、屋敷の者達を避難させるので手一杯で加勢に向か
うこともできなかった。いえ……しなかった。貴族だという奢りが私達を逃げに走らせたの
ですわ」
つい謝りかけるアルス。
しかしそれを押し止めたシンシアの声色は、面持ちはいつになく真剣だった。
「なのに、周りの貴族連中はもう痛みを忘れたかのようにケロッとしている。忘れようとし
ている。貴方達冒険者がいなければ、間違いなく被害はこんなものじゃ済まなかったという
のに」
「シンシアさん……」
細めた真っ直ぐな眼で語る、身分の胡坐をかいてきた奢り。冒険者という者達への偏見。
それらが彼女自身の中で氷解していった、そのプロセスの告白。
「有爵位者を代表して、礼を申し上げますわ。ありがとう。それと、今まで貴方達を小汚く
扱ってきてごめんなさい。貴方のお兄様にも、外見ばかりで邪険に扱ってすまなかったと伝
えて欲しいのですわ。先日、人を遣って確認させた貰ったのですけど、今はどうやら遠出を
しているみたいですし……」
思わずアルスは内心慌ててシフォンやエトナと顔を見合わせていた。
どうやら皇国へ旅立った事まではバレてはいないらしいが、ヒヤッとする。
「……。わざわざありがとうございます。兄さんが帰ったら伝えておきますね。……でも、
被害を抑えられたのは冒険者の皆さんの力だけじゃないですよ。最終的に領主さまが軍を動
かしてくれて、あの大群を囲い攻めてくれたお蔭で、何とか追い払えたんです。僕らがやっ
た事は、正直足止めだった筈ですから」
だからこそ、アルスは繕うように、そして次の瞬間には本心からそう答えていた。
シンシアがぼうっとそんな彼の微笑を──照れ隠しの笑みを見つめていた。
程なくしてほうっと、彼女の頬が赤く染まり出す。
それでもアルス当人は気付かず、からかい気味に肘で小突いてくるフィデロや微笑み掛け
てくれるルイス、満面の笑顔で「いい子だなぁ~アルスは」と髪を撫で回してくるエトナと
そんな皆を静かに見守り、真っ赤になった主の左右でニコニコヘラヘラとしている従者二人
組とちらと視線を交換し合うシフォンらといった面々に囲まれ、弄られている。
(守れて……よかった)
ちょっと揉みくちゃにされながらも、アルスは何だかほこほこと心の芯が温かくなる思い
を感じていた。
この感触の為に、という訳ではないけれど。
やはり僕は少しでも誰かの、皆のことを守れるようになりたい。だから僕は──。
「……?」
そして、そんな最中だった。
ふわりとアルス達の方へ一体の精霊が姿を顕し、こちらへ近付いて来るのが見えた。
それまでの弄り合いはここで一旦止めにして。
皆から一歩二歩と踏み出し、アルスはまるで導かれたようにその精霊の下に歩いていく。
するとふわふわと漂い輝きながら、精霊は人語ならざる精霊の言の葉を伝えてくる。
「アルス~何だ? 誰からの伝言だよ~?」
少しの間、その言葉に耳を傾けていたアルスが彼の者と別れて戻ってくるのを待って、皆
を代表するようにフィデロが問うた。
ふわりと、ややあって顕現を解いてセカイへと戻っていくこの精霊を背後にして。
「ブレア先生からだよ。今日のゼミは第三演習場でやるぞ~だって」
アルスは、そう優しい微笑みと共に仲間達に答えた。