2-(1) 団長の指針
「──ッ!!」
強烈に蘇って来たあの日の映像。
ジークは弾かれたようにベッドから飛び起きていた。
じわりと肌を伝う嫌な汗。
その一方で、カーテンの隙間から差し込む朝の光は穏やかだ。眠気の中にある人々をそっ
と撫でるように照らす光である。
(……夢、か)
ガシガシとバサついた髪を掻きながら、ジークはむくりと身をよじって薄布団を払った。
(久しぶりにアルス達と会ったせいか……?)
ベッドの脇に腰掛けて足を伸ばし、そんな事を考える。
だがそんな思考が過ぎるのを自戒するかのように、ジークはぶんぶんと首を横に振る。
もう戻れない日なのだ。彼らはもう、戻って来ない……。
ジークはすくっと立ち上がると身を返し、すぐ横の梯子に足を掛けて二段ベッドの上を覗
き込んだ。
「……すぅ」
「う~ん。もう食べられな……Zzz」
そこにはジークの新たなルームメイトとなったアルス達が眠気の中にいた。
ほんわかとゆるい表情で寝転がっているアルスと、その上を身を丸めてふよふよと浮かん
だまま眠りこけているエトナ。
穏やかな寝顔。
(そういえば、二人のこういう顔を見るのも久しぶりなんだよな……)
ジークは暫しそんな事を思いながらその寝姿を眺めていたが、ややあってはたと自身の頬
が緩んでいることに気付く。
いけない……気を引き締めないと。ぱちんと軽く両手で頬を叩く。
雑念を眠気と共に払い、ジークはアルスを軽めに揺さ振りながら声を掛けた。
「お~い。アルス、エトナ。朝だぞ起きろ~」
「うぅん……? あぁ、おはよう。兄さん……」
「うにゃ。あ、あと五分……」
「おう。早いとこ起きろよ? さっさと支度して酒場の方に行くぞ。まぁ一応お前らは正式
なクランメンバーって訳じゃないが、かといって朝飯の手間をかけちまうもなんだしな」
「そうだね。ほら、エトナも起きて起きて」
「ふぁ~い……」
寝惚け眼を擦って身体を起こすアルスが、まだ半分夢の中のエトナを促す。
それを見遣ってから、ジークはすとんと梯子を降りた。
寝巻き代わりの古着を蓋付きの洗濯物用の籠の中へ脱ぎ捨てると、引き出しとクローゼッ
トから何時もの半袖シャツと長ズボン、そして腰近くまでをカバーする上着を取り出して手
早く着替えを済ませる。バサついた長髪を、大雑把に紐で括って尻尾のように散らす。
何時もの格好。ジークは同じく梯子を降りてくるアルス達に振り返って言った。
「先ずは手洗い場だ。歯ブラシとコップ、持って来いよ」
三人は着替えを済ませて一旦部屋を出た。
ジークを先頭に向かったのは、左右に延びる廊下の中ほどにある手洗い場だ。
そこには同じく、既に起きた他の団員達が隣接するトイレに入っていたり、横並びに水で
顔を洗っていたりとわらわらとした朝の身支度の光景があった。
「おう。三人ともおはよ~」
「おはようさん。アルス君もエトナちゃんも」
「おはようッス」
「あ、はい。おはようございます」「おっはよ~♪」
そしてその中にジーク達も混じり、早速冷えた水を蛇口から捻り出して顔を洗い始める。
冷たい刺激が眠気の残る体に心地よい。
数度、顔全体をその冷やっこさで洗ってから、すぐ頭上に取り付けられた戸棚の下からぶ
ら下がっている棒に引っ掛けられているタオルの一つを取って顔を拭く。
宿舎は基本的にクラン一つの共同生活だ。
設備も自室の備品を除けは、大概はこうして皆で使い回している事が多い。
「おい。歯磨き粉寄越してくれ」
タオルを棒に引っ掛け直し、ジークが言った。
すると何処からか「あいよ~」という声と一緒に歯磨き粉のチューブが投げ込まれれる。
ジークは「ありがとよ」と受け取ってから蓋を開け、戸棚の中に置いていた自分のコップと
歯ブラシを取り出す。
「アルス。お前も今日以降はこっちに置いておけよ。一々持ってくるの面倒だしな」
「うん。分かった」
歯磨き粉を分けて貰いながら、アルスが同じくコップと歯ブラシを手にこくんと頷く。
二人は揃ってもごもごと歯を磨き始め、その後ろをエトナが様子を観察するようにして浮
かんでいる。ちらと彼女が目を遣ってみると、左右にはずらりと同じように顔を洗ったり歯
を磨いたり或いはトイレの順番を待つ団員達がそこかしこにいるのが確認できた。
(何だかむさいなぁ……。いや、まぁイセルナさんとか、女の人も居はするけど……)
改めてとエトナは内心苦笑する。
だがそれは自身にとって大きな問題ではない。相棒が行くのなら、何処にだって自分はつ
いてゆく。それが持ち霊というものだ。
「あ、トイレ空いたみたい。行ってくる」
「おう。分かってると思うが、他の奴をあんまり待たせるなよ?」
口をゆすいで歯磨きを終えて、はたとアルスが空いたトイレへと駆けて行った。
ジークは「分かってるよ」と微笑むその後ろ姿を見送りながら、自身と弟のコップと歯ブ
ラシを軽く水洗いし、戸棚の中へと隣り合うように保管する。
「……そういやジーク、お前聞いてるか?」
そうしていると、ふと仲間の団員の一人がそう話し掛けてきた。
「何を?」
「いやな? 何か団長が皆に話があるんだってよ。朝飯食い終わっても暫くは酒場に残って
てくれってさ」
「団長が? 何だろ……」
「さぁ? ま、そういう事だからもし伝わってない奴がいたら伝えておいてくれ」
「あぁ……。分かった」
言うとその団員は身支度を終えたのかスタスタと立ち去ってしまった。
(何か俺達、団長が注意するようなヘマしたっけか……?)
少々慌しい、しかしもう見慣れた朝の身支度風景。アルスはまだトイレの中にいる。
ジークは手洗い場の漕に軽く背を預けながら、弟が戻ってくるのを待った。
酒場に足場を運ぶと、やはり既に少なからぬ団員達が朝食を摂っている最中だった。
ざっと店内を見渡すとカウンター内にはハロルド、席にはイセルナとリンファ、テーブル
席の一角にはマーフィ父娘。
「やぁ。おはよう、三人とも」
そしてシフォンと、主要メンバーも揃っている。
ジーク達は彼に姿を認められ、手招きを受けた。
三人は各々に挨拶をすると、彼の着くテーブル席に腰掛ける。アルスはこういった人気や
忙しなさが珍しいのか、時折ちらちらと周囲を見渡していた。
「手洗い場もそうだったけど、やっぱり皆忙しそうだね。これだけ人がいると朝ご飯を食べ
るだけでも大事になるんだろうなぁ……」
「まぁな。飯の用意とか、裏方は基本的に支援班──ハロルドさんやレナと所属連中がやっ
てるんだよ。とはいっても、俺も含めて他の団員も輪番で手伝ってはいるんだがな」
「ふぅん……。そっかぁ」
「えぇ、でも皆さんの健康管理も私達の役割ですから。おはようございます。ジークさん、
アルス君、エトナさん。はいどうぞ、今日の朝食です」
するとジーク達の姿を認めて、今度はトレイに朝食を載せたレナがやって来た。
皆への奉仕が楽しい。そう全身で語っているかのように嬉々として、彼女は慣れた手付き
で二人分(精霊であるエトナは物質的な食事を必要としない)の料理を配膳すると、コクリ
と丁寧にお辞儀をして再びカウンターの中へと戻ってゆく。
ジークとアルスはその後ろ姿を見送ってから、ポンと手を合わせた。
「じゃあ、早速……」
「いっただっきま~す」
今朝のメニューはパンに牛乳、厚切りベーコンやレタス、トマトを和えたサラダ、そして
玉子のスープ。朝の胃腸にも優しい、あっさりとしながらもそれでいて量もしっかり確保し
てあるラインナップである。
一足早く摂り始めていたシフォンに続き、ジークとアルスは暫し咀嚼した食べ物という名
のエネルギーをもきゅもきゅと空腹の身体に取り込んでゆく。
(ん……。美味い)
副業とはいえ、酒場を営んでいるハロルド(と手伝うレナ)の料理の腕は中々のものだ。
身体が資本の冒険者にとっては絶好の食環境だと言えるだろう。
ジークはパンを一口二口と齧りながら周囲をちらりと見渡していた。
同じく食事中の団員達も少なくないが、その一方で食べ終えたと見える団員達が居残って
まったりとしている姿も確認できる。
先刻聞かされた、例のイセルナからの話とやらを待っているのだろう。
(……? ステラ?)
そんな皆の様子をステラがこっそりと物陰から覗いているのに気付いたのは、ちょうどそ
んな折だった。
ちらと向けたジークの視線に、ややあって彼女も気付いたらしい。
銀髪をふぁさっと静かに揺らして物陰に掛ける手に力を込めている。
やっぱり、まだ出てくるには勇気がいるのか。
ジークは内心の“罪悪感”と共に、彼女の視線の先──サラダを口に運んでいるアルスの
顔をそっと見遣る。十中八九新しい宿舎の住人となったアルス達を警戒しているのだろう。
(またレナに訊いておくか。それか暇を見て、俺が直接様子を見に行くか……だな)
くいと牛乳を口に含んで喉を潤し、ジークはそんな思案を巡らせる。
「……どうかした、兄さん? 何か考え込んでるみたいだけど」
「ん? あ、いや……何でもねぇよ。と、ところでお前、今日はどうする? 俺らはまたギ
ルドに顔を出しに行くと思うが」
なので急にアルスがそう訊ねてきてジークは内心ドキリとした。
だがアルス自身はステラに気付いているようではないらしい。ジークは一瞬跳ねた動揺を
抑えながら、そこはかとなく話題を変えようと試みる。
「う~ん、そうだね……。街を散策してみようかな? 受験の時は追い込みを掛けていたか
らあまりじっくり見て回れなかったし」
「そっか。でもお前、エトナと二人で大丈夫かよ?」
「なら僕が同行しよう。ギルドに顔を出すにしても、何も全員で行く訳でもないからね」
「まぁそうだが……。悪いな、助かるぜシフォン」
アルスの応えたその予定に、シフォンがそう追随してきた。
そしてフッと微笑むこの友は、片肘を椅子の背に乗せながら周りに振り向く。
「……という訳だけど、他に誰か来ないかい? 僕一人よりも何人かいれば、色々と案内で
きると思うのだけど」
「ふむ。では私も行こうか」
「あ。じゃ、じゃあボクも……」
次いで彼の呼び掛けに応えたのは、リンファとミア。
コクと頷くイセルナを、何処か微笑ましく見遣っているレナと少々怪訝な様子のダンを、
二人はそれぞれに目を遣ってからシフォンの首肯を確認する。
「はい。じゃ、じゃあよろしくお願いします」
「……ならさっさと食っちまわないとな。お前、この量食い切れるか? 小食にはちょいと
辛い量じゃねぇか?」
少し恐縮と言わんばかりに苦笑いを浮かべてコクリと頭を下げるアルス。
ジークはその横顔を見遣りつつ朝食の残りを喉に通してから、元よりさほど頑丈とは言え
ない弟を半ば無意識の内に気遣っている。
「ううん、大丈夫。ちゃんと頂くよ」
それでもアルスは頑張ろうとした。言って、もきゅっとパンの残りを齧り出す。
「……。無茶はするなよ」
そんな弟に、本心から、少し照れ隠し気味にそう最後にぼそっと付け加えて。
ジークはベーコンで包んだパンの欠片を口の中に放り込む。
「ふぅ。食った食った……」
それからややあって。
朝食を平らげたジーク達のテーブルの上には三人分の空になった皿が鎮座していた。
腹回りを軽く撫でつつまったりとするジーク。アルスはお冷の残りをくいっと飲み干すと
その皿をざっと見渡して訊ねる。
「ねぇ兄さん。普段の後片付けとかはどうしてるの?」
「ん? あぁ……俺たち団員は客って訳じゃねぇから、食い終わったらカウンターに出して
おくんだよ。後は厨房の面子が洗っておいてくれる」
「そっか。じゃあ、僕が出してくるね」
言ってアルスは皆の皿を重ねると、両手に抱えてカウンターの方へと持って行った。
カウンターの内側から迎えたレナに受け取って貰う。
「すみません、誰か手伝ってくれませんか? 皿洗いの人手が足りないのですが」
すると仕切りを隔てた厨房の方から、ひょこっとハロルドが顔を出してそんな事を皆に呼
び掛けてきた。
「あ、はい。僕でよろしければ手伝います~」
アルスは優等生よろしく、その頼みに逸早く応えていた。
レナにカウンターの中へと通して貰い、そのまま同じくやって来た数人の団員らと共に厨
房の方へと消えてゆく。
朝は特に皆が入れ代わり立ち代りで飯を食いに来るからな……。
ジークはぼんやりとその後ろ姿を見送っていたが、
「──皆。ちょっといいかしら?」
ちょうどその時、まるでこのタイミングを待っていたかのように、カウンター席に座って
いたイセルナが不意に立ち上がったかと思うと身を翻し、場の面々に向かってそう呼び掛け
たのである。
「今朝の内に伝令はしたのだけど……。もしここにいない子には後で言っておいてね」
もしかしなくても、例の皆への話だろうか。
団員一同が一斉に彼女へ視線を向ける中、ジークもまた同じくそんな事を思いながらこの
涼しげな容貌をした女団長を見遣る。
「これからの私達の活動方針についてなのだけど……。魔獣討伐といった『傭兵畑』以外の
依頼──『便利屋畑』の依頼の受注を増やしていこうと思うの」
少なからず団員達は顔を見合わせ、怪訝の声を漏らした。
それでもイセルナにとってはその反応は予め想定内だったらしく、
「皆は、本当によくやってくれている。昨日の魔獣討伐も犠牲者を出さずに完遂することが
できたわ。でもね? 知っての通り、今回も怪我人は出てる。だから臆病になったという訳
ではないけれど、貴方達のことを考えれば、もっとローリスクな仕事の割合を増やしてもい
いんじゃないかって思ったの。……昨夜、ダン達とも話し合ってのことよ」
団員達はどう応えていいか分からないといった様子だった。
見てみるとダンも、リンファも、シフォンも彼女の発言を追認するように各々が小さく頷
いている。
「……団長。それはもしかして、アルスがうちに来たからってんじゃないっすよね?」
しかしその中にあって、ジークだけは少々違う反応を見せていた。
イセルナをじっと半ば睨むようにして、眉間に皺を寄せた不機嫌面。
その問い掛けに彼女は答えなかったが、その沈黙は肯定に等しかった。
テーブルの上で握った拳にギュッと力を込めて、ジークは自身何とか感情を押し留めてい
るかのように続ける。
「……見くびらないで下さいよ。俺達はまだまだやれる。この手の依頼がハイリスク・ハイ
リターンだって事くらい、皆分かっててやってる筈だ」
見れば団員達もちらほらと頷いていた。冒険者としての、傭兵畑の戦士としての矜持がそ
うさせているのだろう。
そんな反応に、イセルナは少々苦笑気味に笑って応える。
「そういうつもりで言っているんじゃないわ。ただ、今までよりも業種の配分を考え直さな
いかって言っているの」
「でもだからってそれで魔獣がいなくなる訳じゃないでしょう? 俺達がやらなきゃ誰が」
「落ち着けよ。勇気と蛮勇は別物だぜ」
身を乗り出しそうになって、食い下がるジーク。
だがその彼を、副団長たるダンが止めた。娘のミアがきょとんとする程に、そこに何時も
の荒っぽい気質はなく、ただ一人の先輩冒険者としての冷静な眼がジークを捉えている。
「……すんません」
その眼差しに抑え込まれるようにして、ジークはそっと席に座り直した。
「確かに、アルス君がうちの下宿人になったからというのもあるわ。むしろ私達が話し合う
切欠になったわけだし……。でもね? だからこそ貴方達には無駄に命を危険に晒して欲し
くないの。魔獣を間引かなければ誰かが犠牲になる。それは確かよ。でも、その討伐の為に
貴方達が犠牲になってしまえば、悲しむ人がいるんだってことも……忘れないで?」
改めてイセルナは言った。それは懇願するように、まるで家族を想う母のように。
皆は押し黙っていた。それだけ彼女の心遣いが身に染みるように思えたから。ダンの発し
たその言葉で、自分達のややもして無鉄砲な“武勇”を内省し始めたから。
「…………分かり、ました」
やがてたっぷりの間を経て、神妙に黙する皆を代表するように。
「団長が、そう言うのなら……」
眉間に皺を寄せ目を合わせられないまま、ジークはそうぼそりと呟いたのだった。