8-(2) 研究室の風景
「……その話、本当ですの?」
場所は昼下がりのユーディ研究室。
シンシアはゼミが始まるまでの時間を待つ中で聞かされたその話に、思わず眉根を寄せる
と、ずいっと身を乗り出して問い返していた。
「うん。何せアルス君本人から聞いた話だし」
にこにことした表情そう答えたのはルイスだった。二人は同じラボの所属なのだ。
「そうですの……」
他のゼミメンバーらが、少々びくつきながらテーブル越しにこちらを見遣っている。
シンシアはじっと彼らに無言の睨みを投げてから、ゆっくりと座り直した。
(私の誘いを無視して、一体何様のつもりですの……? アルス・レノヴィン)
アルスが所属ラボを決めたらしい。
今日ゼミの為にラボへとやって来たシンシアの耳に飛び込んできたのは、そんなニュース
だった。その輪の中心にいたルイスに詰め寄るとあっさり肯定。彼がアルスと仲良くしてい
る事は前々から聞き及んでいたので、嘘ではないのだろう。
正直言って、驚きだった。いやショックだったと言うべきか。
決着がつかなかったもやもやを、勝負けしかけたのに何一つ咎めてこない能天気ぶりにど
うにも拍子抜けしながらも、自分の中では意地を捨てて好敵手として切磋琢磨しようと同じ
ラボにと呼び掛けたのに……。
彼はあろう事か、無視した。別の場所へとそっぽを向いた。
「……」
ぎゅっと、テーブルに置いた拳を強く握る。
怒りのような悔しさのような──寂しさのような。綯い交ぜになったこの感情。
だからこそ何だか許せなかった。こんな気持ちにする彼を、なってしまう自分自身を。
「では彼は一体どのラボへ入ったんですの? ここ以上のランクはこの学院にはないと思う
のですけれど」
「……それは人それぞれだと思うけどね。確か、レイハウンド研究室だそうだよ」
「レイ、ハウンド……?」
若干心持ち窘める声色になったルイスのその返答に、シンシアは勿論他のメンバーもが首
を傾げた。
一様に見せたその反応は「何処そこ?」という不知。
ルイスが一丁前に反抗的な意見を述べてきたらしい以上に、シンシアはその聞き覚えのな
い教官の名に眉を顰めていた。
此処ユーディ研究室の主、エマ・ユーディ女史は学院長補佐も勤める学院きっての切れ者
として知られている。その専門は魔導解析学。魔導の構築式を分析し、より効果的な術式を
追求する分野だ。いわば全ての領域の魔導を底上げすることのできる指揮官的なポジション
──花形分野の最たるものなのである。
魔導の有爵位家の家柄から考えれば、これほど自分に相応しい専攻はないと思っていた。
なのに、アルス・レノヴィンは一体何故そんな知名度のないラボを……?
「ブレア・レイハウンド先生。専門は魔流力学、魔獣学です」
するとそんな彼女達のやり取りを聞いていたのか、背後の入口のドアを開けるとエマ当人
が姿を見せて言った。
ハッと振り返ったシンシア達。
だがその集まった視線にも動じることなく、彼女は眼鏡のレンズ越しに怜悧な眼差しを教
え子達に返す。
「ストリーム力学? 何でそんなマイナーな分野を……?」
「私に訊かれても困ります。確かに彼のラボはあまり人がいないのは事実ですが」
あくまで事務的に、淡々と。
エマは魔導書数冊を小脇に抱えたままシンシアらの傍を通ると、自身のデスクに着いた。
キュッと背もたれ付きの黒革椅子を回して振り返ると、机上にそれら書物を置いて言う。
「エイルフィードさん。当アカデミーは、生徒がどのラボに所属するかについても個々人の
意思を最大限尊重しています。私のゼミこそが至高という考えは、少々高慢に思えますね」
「うっ……。し、失礼しましたわ……」
以前の私闘の件もあり、正直シンシアは未だに内心エマを苦手としていた。
シラバスで見た時には悩んだが、そんな事でへこたれている場合ではないと自身を鼓舞さ
せて所属すると決めた。だが、この鋭さを伴った怜悧な眼はそう簡単には慣れそうにない。
しょんぼりと小さくなるシンシア。そして安堵のような、少々複雑な感情を垣間見せてい
るルイス。
エマはそんな教え子らを見遣りながら、
「……これは私の憶測ですが、レノヴィン君がレイハウンド先生のラボを選んだのは冒険者
をしている彼のお兄さんの影響があるのかもしれませんね。先生の専門は、冒険者──魔獣
退治と組み合わせれば大きな効果となりますから」
今度は半ば独り言のような言い方でそう呟き出す。
「兄? ああ、あの野蛮剣士ですわね」
「……エイルフィードさん?」
「な、何ですの? ヴェルホーク」
「……」
「わ、分かりましたわよ。い、言い方が悪ぅございましたわ……」
「うん。分かってくれればいいんだ。……前に僕も会ったのだけど、弟想いのいい人だった
よ? 確かにちょっと荒っぽい感じではあったけど、それは冒険者自体にそういう部分があ
るからなんじゃないかな?」
「……そうかも、しれませんわね」
顔は笑っている癖に、侮れませんわ──。
シンシアは笑顔の威圧を向けてくるルイスに気圧され、折れていた。
友人の兄を悪く言ったのがそんなに癪に障ったのか。何だかこの学院に来てから、自分の
調子を崩される事が多くなったような気がする。
(……いいえ。今はそれ所ではありませんわよね)
本人は推測と言っていたが、あの日アルス・レノヴィンが兄に見せていた満面の笑みを思
えば、ユーディ先生の見当はあながち間違っていないかもしれないとシンシアは思った。
兄の助けになりたいのだろうか? つまり自分ではなく、他の誰かの為……。
「……」
そんな思考が脳裏を過ぎり、何だかまた一つもどかしい思いに、悔しい思いに駆られた。
自分は魔導の有爵位家の跡取りとして──いや、自身のプライドの為に魔導師を目指して
いる節がある。なのに、彼はそんなものとはまるで無縁のように思えて。
(……おもしろくありませんわ。これじゃあ、私だけが必死なようではありませんの……)
熱持った歯痒さが、レールを切り替えたような気がした。
いいですわ。だったら、私はとことん高みを目指して貴方を──。
そんな時だった。
学び舎全体にチャイムの音が響いていた。昼休みの終わりを告げる合図だった。
その音にシンシアも、ルイスら他のメンバーらも頭を切り替えて鞄から教材などを取り出
して準備を整える。
「ではゼミを始めましょうか。テキストの六十五頁を開いて下さい」
そしてエマも椅子から立ち上がると、テキストの魔導書を片手に、きびきびとした歩みで
シンシアらのテーブルの上座に着き、そう静かに仕切り直した。
一方レイハウンド研究室では、紙を捲る音とペンが走る音が繰り返されていた。
テーブルを挟んで向き合っている格好のブレアとアルス(及びエトナ)。
二人が唇を結んでじっと見守っている中、ブレアはびっしりと解答の埋まった用紙の採点
を続けていた。
「……ふむ」
それがどれだけ続いた頃だったろうか。
ペン先が最後の丸印を描いたのとほぼ同時に、ブレアは小さく呟きを漏らした。
「あ、あの。どうでしたか?」
ごくりと唾を呑んで。アルスは恐る恐るとそんな自身の教官に訊ねてみる。
「そんなにビビるなって。流石は主席クンって所か。ほぼ満点だ」
「……ほぼ?」
「ここと、それにここ。誤字が二箇所ある。なんで、九十八点だな」
「あっ。しまった……」
「何、そう気にするな。構築式も解答の意図も俺には分かったし間違っちゃいねぇ。実質は
満点みたいなもんだろうよ」
ぴらりと解答用紙を掲げて見せてそんな事を言われ、アルスは「恐縮です」と苦笑いを混
じらせたはにかみを見せた。ブレアはそんな教え子の謙虚さに自身も小さく口元に孤を描く
と、片眉を上げて呟く。
「にしてもこの問題、ちょっと意地悪して二回生修了レベルとか三回生前期レベルとかも混
ぜてみたんだぜ? なのにお前、普通に解いてやがる。正直驚いた」
「えっ」「むぅ……。意地悪なんてしてたんだ」
「まぁまぁ、そんなにむくれるなっての。これでも褒めてるんだぜ? 試しにどれだけ理解
があるのかを診てみるつもりだったんだが……こいつは予想以上だよ。どうやってここまで
勉強したんだ?」
「えと。故郷の教練場の先生が元魔導師でして。その人に基礎基本から教わっていました。
あとは魔導書を取り寄せて自分なりに読み解いて、先生に合わせて貰ったり……」
「ほう……。いい師匠を持ったんだな」
アルスは小さく頷くと、ほんのりと照れたように頬を染めて頷いていた。エトナもその傍
らに浮かんで、我が事のように「でしょでしょ?」と胸を張っている。
「まぁこれで大体のお前の力量は診れたと思う。少なくとも今の学年にしちゃ、座学に関し
ては申し分ない」
もう一度、アルスが解答したほぼ満点の用紙にざっと目を落として。
ブレアは時折思考の間を挟みながら言った。
「アルス。お前にこれから必要になってくるのは、実践だ」
「実践……ですか」
「ああ。それにお前はもっと“悪意”を知るべきだ。この俺らの分野を志そうってならな」
アルスはその言葉に目を瞬かせ、頭に小さな疑問符を浮かべていた。
悪意──それはどういう事なのだろう? つまりは魔獣や瘴気に対する人々の忌避感情を
言っているのだろうか。しかし彼の言葉は、もっと大きなことを言ってるような気がする。
「……今までのやり取りで思うんだが、お前は“優等生タイプ”だろ? 言っちまえば綺麗
なセカイの中で生きてきた訳だ。だが魔獣や瘴気ってのは──そういうものに対する世間の
連中ってのは、ある意味そういう綺麗さとは真逆のベクトルにあるんだよ」
「は、はい……」
「あ~、いや今すぐ理解しろってのも無理か。まぁ俺個人の呟きとして聞いててくれりゃそ
れでいい。お前はまだ若いんだ。これから自分なりに手探りしてけばいいさ」
「……はい」
ブレアは気安い感じでそう言っていたが、当のアルスは引っ掛かっていた。
全てを知っていると思うような高慢さが自分にあるつもりはないが、遠回しに自分の未熟
さを指摘されているらしい、そう思えたから。
そんな複雑な表情を見遣ると、ブレアはふっと頬を緩めて笑っていた。
そのまますっくと席から立ち上がると、おもむろに文献の詰まった本棚をぐるりと物色し
始める。アルスが、エトナが何となくそんな様子に視線を向けるのを背に受けながら、ブレ
アは言った。
「さっきも言ったが、お前には実践が必要なんだよ。演習場を借りられればそれでもいいん
だが、一番効果的なのは冒険者に交じって実際に魔獣やら瘴気やらと向き合う事なんだよな。
まぁ学院の生徒を見学よろしく受け入れてくれるお人好しがどれだけいるかは、正直言っ
て怪しい所なんだが」
「……冒険者、ですか」
アルスはそのフレーズに、思わずエトナと顔を見合わせた。
幸い、自分達は冒険者クランに下宿している身だ。環境だけを考えれば、事情を話せば協
力してくれるかもしれない。
(でも、兄さんは反対するだろうな……)
しかし、一見ぶっきらぼうだが、根っこは優しい兄がそれを許すようには思えなかった。
何よりも……何故自分が魔導師を目指しているのか、その本当の理由を自分は未だに兄ら
に話せてすらいないのだから。
「よっと……」
だがそんな思考は、不意に目の前に置かれた魔導書の山によって遮られていた。
内心驚いてアルスらが顔を上げる。
そこにはその魔導書の山を撫で、再確認をしているブレアの姿があった。
「ま、その辺は俺が何とかする。事務方に許可申請しねぇといけねぇんだろうけど、何なら
俺が外に実習としてお前らを連れ出すってのもアリだ。……ただ、それと併行してお前にも
やってもらわねぇといけねぇものもあるわな」
「それがこの魔導書、ですか?」
「ああ。浄化系魔導関連の文献を幾つかリストアップしてみた。先ずはこいつらを精読する
事から始めようか。ま、ここでのゼミ用テキストだな」
「……はい。分かりました」
ざっと数えて二十冊近い。
アルスはこくと真面目に頷くと、その山から一冊を抜き取り試しにページを捲ってみる。
後ろからエトナがそれを覗き込んでいる中、次いでブレアは席に着き直しながら言った。
「あ~それと。お前、今受けてる講義はどんなもんだ?」
「え? あ、はい。えっと……こんな状況です」
訊かれてアルスは鞄の中から手帳を取り出すと、現在の講義スケジュールを示した。
暫く、ブレアは顎に手を当てそれらにざっと目を通してから言う。
「……ふむ。お前なりに浄化系魔導に関係する講義を選んでるみたいだな。あとは個人的に
興味のあるものが幾つか、か」
「……いけませんでしたでしょうか?」
「いや。そこまで縛る気はねぇよ。ただお前だって関係性の薄いのを取るのは徒労だろ?
だから俺の眼で見直してみようかと思ってさ」
「そう、ですね……。宜しくお願いします」
座ったままこくりと頭を下げるアルス。
その教え子の姿に、ブレアはふっと笑った。受け取った手帳にもう一度目を落としてから
自身も彼に寄り添うように、心持ち身を乗り出す。
「おう。じゃ、早速カリキュラム編成といきますか」




