55-(1) 犠牲の遺伝子
気付いた時、僕はそこにいて、見ていた。
決して広くない部屋の中に所狭しと本棚に本が並んでおり、それでも足りないと言わんば
かりに床のあちこちにも積み上げられている。
見覚えがあった。これは村の、僕の部屋だ。そしてその窓際の机で黙々と魔導書を読み
込んでいる小さな男の子は……他ならぬ幼い頃の僕自身だと知る。
そうだ。あの頃僕は、魔導を学び始めていた。
村の周りに広がる森とそこに住む精霊達──何よりのちに持ち霊となってくれたエトナ。
僕の視えていたセカイが、嘘っぱちの偽物じゃないだって分かった事もあって、凄く嬉し
かったのを覚えている。リュカ先生にも、たくさん手ほどきを受けた。
でも……それだけじゃない。
理由はもっと深くて大きなところ。僕たち兄弟の、忘れられない記憶。
だから寝食すら惜しむことも珍しくなかった。少しでも、少しでも早く力を手に入れなけ
ればと自分を追い込んでいたのかもしれない。
『もう、無茶をして……』
倒れていた。当時小さな子供でしかなかった僕はそう長くはもたずに体調を崩し、苦笑を
零す母の膝の上で撫でられるがままになっていた。
『勉強熱心なのは母さんとしてはありがたいけど……そのアルスが倒れちゃったら元も子も
ないでしょう?』
なでりこ。温かい。穏やかに苦笑する母さんの手は、とても優しかった。
ごめんなさい。思っていたのに中々口には出なくって、ただ頭は膝の上。そんな僕を、同
じく当時まだ幼かった兄さんがちょっとむくれた様子で覗いている。
『……ごめんなさい』
ぽつり。絞り出すように僕は言う。
それは無茶をして倒れたことだけじゃない。子供ながらに知っていたからだ。
母さんはいつも優しく微笑ってくれる。だけど僕らは知っているんだ。
忘れている訳がない。あの日、村の人達がたくさん傷付いた。
哀しくない訳がない。あの日、父さんがいなくなった。
きっと心の中では泣いていた筈だ。きっと毎日のように哀しんでいた筈だ。子供心にでも
二人はとても仲睦まじかった。優しい両親だった。……それを僕らが、あの日引き裂いてし
まったんだ。
(守れなかった。死なせたんだ。僕らの、僕の、せいで)
だから学び始めた。僕はリュカ先生から魔導を、兄さんはクラウスさんから剣を。
何処かでもう元には戻らないのだと解っていても、ただ泣き暮らすのは嫌だった。せめて
同じ悲しみを背負う誰かを、救いたい。生み出さないようにしたい。
父さん、マーロウおじさん、自警団の皆。それが僕ら兄弟にとっての贖罪になる筈だと信
じていたから。
マモレナカッタ。僕の我が侭で、思慮に欠けた行動で、皆……皆。
『分かっているならいいわ。ジークは強い子、貴方は賢い子。どっちも私の誇りよ。だから
貴方達には幸せになって欲しいの』
今度は傍にいた兄さんも一緒に。母さんはふわっと僕らを抱き寄せて囁く。温かい感触が
全身を包み、意識がまたゆっくりと眠りの中に落ちていく。
『だから……今はゆっくりお休みなさい』
弱く頷く。分かってる。だけど、多分そうすぐには変われないんだろうな。
実際未来の僕は、迷惑を掛けてばっかりだよ。足りない力なのにしゃしゃり出て……皆を
何度も巻き込んできたんだ。
だけどね? 取り戻せたものも、あるんだよ?
母さん。僕らはこの前、貴女が誰よりも愛した人を──。
「母さ……」
アルスはゆっくりと手を伸ばしていた。
僅かな月明かりの下、誰かが自分を覗き込むような格好になっている。
懐かしい気分だった。優しい、温かい何か……。
「ッ!?」
しかし次の瞬間、その誰かはにわかに全身を緊張させて身じろいだようにみえた。
ぼやっとした視界が少しずつクリアになっていく。
全身を包んでいるのは、柔らかいタオルケットとマットレス。どうやら自分はベッドで眠
っていたらしい。
あれ? 何で寝てるんだっけ?
そうだ。あの時僕は急に目の前が暗くなって倒れてしまって、それで……。
「ア、アルス……?」
はたと我に返る。傍らに居てくれたのはミアだった。
先程こそ何故か身じろいでいた彼女だったが、気付けばもうそれはなく、おずおずっと心
配そうにこちらを覗き込んで来ている。
アルスは二度三度目を瞬き、ようやく理解が追いついてきた。
そうか。自分はあの後、介抱されたのか……。
「大丈夫?」
「……はい。まだだるさはありますけど、平気です。皆さんには心配を、掛けたみたいで」
「ううん、そんなこと。当然の事をしたまでだから。ちょっと待って」
言ってミアは少しごそごそと、何やら傍らに置かれた小さな台を探っていた。
そうして差し出されたのは蒸しタオル。アルスは受け取り、彼女に支えられながら軽く背
を起こし、ごしごしと顔を拭いた。外はもうすっかり暗くなっている。差してくる月明かり
だけがこの部屋の灯りだ。耳を澄ませば、見張りをしてくれているのか、ひそひそと団員ら
の控え目な会話が聞こえてくる。頭上を見た。相棒が、宙に座ったままうとうとと舟を漕い
でいる。
「喉渇いてない? 水、要る?」
「あ、ありがとうございます。貰います」
あくまで物静かに、ミアの続いての訊ねにアルスは小さく頷いた。蒸しタオルを返し、代
わりにボトルから注がれたお冷を一つ、受け取る。ただの水の筈だ。だけどどれくらいか分
からないほど眠っていた自分にしてみれば、実に潤う気分がする。
「侍従のお医者さんの話では、過労、だって」
それからアルスは、ミアから自分の身に何が起こったのかを聞いた。
曰く心労の末のダウン。命の別状はなく、とにかく休養が必要とのこと。既にイヨらが当
面の公務を全てキャンセルする方向で調整に入っているという。
「そうですか……。また迷惑、掛けちゃったなぁ」
「気に病む必要はない。公務なんかより、アルスの身体の方が何万倍も大事」
あはは。アルスはつい苦笑していた。あくまで淡々と語るミアだったが、この時ばかりは
何処かむきになっている気がしたのだ。
ちょっとばかりの、当てつけ。
でもそれは、それだけ彼女達が自分のことを心配してくれているからこその言い方なのだ
ろうと思う。
「そういえば……この下のベッドは兄さんのなんですけど、兄さんは?」
「それも気にしなくていい。ロビーのソファにでも寝るって、本人が言ってた」
だから、今は遠慮しないでゆっくり休んで──。
ずいっと、少なからず言い聞かせるように彼女は言った。
多分予想しているのだろう。自分はまた「申し訳ない」などと言うだろう、思うだろう。
そんな事はない。そうやって気を遣ってばかりだから、倒れたんだよ……?
アルスは苦笑するしかなかった。それなりの付き合いになったからとはいえ、自分はこう
も分かり易い訳か。
どちらにしても、迷惑を心配を、掛けてばかりなんだな……。
「……」
蒸しタオルと、空になったコップを受け取って、ミアはそっとアルスから離れた。
もそもそと台にそれらを置き、しかし彼女は肩越しにこちらを窺っている。アルスはぱち
くりと目を瞬いた。頭にははて? と怪訝もとい疑問符が浮かぶ。
「ねぇ、アルス。アルスのお母さんって……どんな人?」
「え?」
かと思えば、彼女から向けられたのはそんな質問。自分の母、他ならぬシノ・スメラギの
こと。アルスは何だろうと思った。皇国内乱の件でも大都でも、皆々顔を合わせる機会は何度
もあった筈だ。初対面ではなかろうに。
「……優しい人、ですよ。でも正直を言うと心配です。確かに父さんは戻って来て、もう哀
しむことはなくなったけれど、皇になった今はもっと違った形で大変さの中にあると思いま
すから」
だからアルスは答えた。先程の記憶にあった母の顔が過ぎる。彼女が何を意図して改めて
訊ねてきたのは分からないが、お見通しである以上、特に隠し立てすることもない。
「そうだね。でも……それって“悪い”こと?」
「──えっ?」
不意に意識の隙間を突かれた心地だった。じわっと目を丸くするアルスに、ミアは真っ直
ぐにこちらに向き合い直して、言う。
「誰かの為に頑張れるって、凄いことだと思う。それが王様を務めるってことなら、尚更。
たとえその誰かの為という言葉で、自分“だけ”を磨耗させることを正当化するものでも」
「……」
彼女の目がじっと細められていた。そうだ。これは自分に向けられている言葉だ。
多分、怒っているのだろう。倒れるまで疲れを溜め込んだ、自分に対して。
「その誰かに幸せになって欲しいって思うのは分かる。でもね? きっとアルスのその相手
も、貴方に幸せになって欲しいって思ってると思う。ボク達だってそうだよ。だって、家族
同然だもん。ボクに限れば、お父さんとお母さんが上手くいかなかったし」
「ミアさん……」
くしゃ。アルスは唇を噛み締め、泣きそうになった。
嗚呼、僕は馬鹿だ。皆を守るんだ、幸せにするんだと思い願うばかりで、その皆が自分を
どう思ってくれているのかを忘れかけていた。
ミアさんに至っては、多分重ねている。
以前聞いた、ダンさんの離婚話。
彼女は、一度交わりきれなかった人達の辛さを知っているから、尚の事自分の痛みのよう
に感じるし、もどかしく思ってくれるんだ。
「僕、は」
「いい。分かってる」
声が震えてしまっていた。なのに彼女は、何とか応答を紡ごうとする自分の唇をそっと指
先で押さえ、黙らせてしまう。
「ちょっとボクも押し付け過ぎたかもしれない。ごめん。でも……覚えておいて。気負わな
いで。貴方は一人じゃない。ボク達が、ついてる」
それはまるで魔法のようで、彼の全身から要らぬ力を優しく解く。
アルスは何も言えないでいた。ぐらりと、瞳が水気を帯びて揺らいでいた。
そっと、そのまま彼は再びベッドに寝かされる。彼女の手が温かい。母のそれと、重なっ
ているような気がした。
(……ほほう?)
再び相棒が眠りにつく。
そうウトウトと舟を漕いでいた筈のエトナは、そんな二人のやり取りを背中越しに聞きな
がら、さりとて邪魔をする訳でもなく、ただそっと目を閉じるのだった。