52-(5) 家族が揃う日
見上げた中空は、最早誰の目にも明らかなほど不気味にひび割れだらけになり、何度も何
度も軋み続けていた。
第三隔壁外周、そこから更に距離を取り直して事態を見つめる人々。
バトナスらも去り、混乱を乗り越えて、各正規軍や冒険者達は既に王や市民達の避難を完
了させていた。
その更に外側には、ぐるり散在とマスコミ各社の取材クルー。
しかし彼らの映像機のレンズこそ向けられど、場の空気は繰り返された緊張で張り詰め切
っていた。ごくり。固唾を呑んで只々、彼らは待つことしかできない。
「……」
そんな中に、シノはいた。レジーナやエリウッド、イヨら数人の臣下らにそっと寄り添わ
れながらじっと、彼女は組んだ両手を胸に当てて空を仰いでいる。
──それは、残りの避難が粗方済もうとしている時のことだった。
ファルケン王と四魔長が脱出してきたのだ。
あの、渦巻く窪みを作るような風穴が不意に空き、彼ら五人が出てくる所を自分達は見た。
当然ながら、ヴァルドー王国や万魔連合の臣下・部下達が大慌てで五人の下へ駆け寄って
いた。彼らとて自分と同じように──立場は逆になってしまうけれど──大切な人達が心配
で心配でしょうがなかった筈だ。
息子達は……? 自分は半ば無意識に見渡していた。他に出てきた者はいないのか。
するとどうだろう。ファルケン王達は、無事脱出できたのに何故か浮かない顔をしていた
彼らは、こちらの姿を認めると足早に近付いて来て……告げたのだ。
“ジーク・レノヴィンとその仲間達は今、黒騎士と戦っている”
結界内での一部始終を聞かされた。最初、王達が何を言っているのか、身体が理解してく
れなかった。
曰く、最上層で引き摺り落すことに成功した彼を、息子達が救い出そうとしていると。
理解した。あの鎧には……私の愛した人が囚われているから。
そもそもあの子がトナンを飛び出して行ったのは、彼を“結社”から取り戻す為だ。故に
詳しい事は分からないが、今こそそのチャンスだと判断したのだろう。
でも……危険過ぎる。この状況が分かっていない筈はない。
王達の話から、結界が内部から崩壊を始めていることが明らかになった。それはややあっ
て次々に脱出してきた、レヴェンガート長官や団員さん、他諸々の兵達の話を総合しても間
違いない。
なのにあの子達は立ち向かっている。崩壊の時が迫る空間結界の中で、あの人を取り戻そ
うと必死になっている。
こっちが、壊れそうになった。
お願い……無茶だけはしないで。貴方達に死なれたら、私は……。
夫、息子達、戦友に、信頼のおける大切な皆さん。
自分が不甲斐ないばっかりに、もしものことになったら……。
(──ジーク、アルス、皆……)
そうして、シノが文字通り祈るような気持ちで見つめていた、そんな時だった。隔壁の内
側で広がる中空のひび割れが、それまでに無く激しく膨張し始めたのだ。
「お、おい」
「やばいぞ……。壊れる……!」
「皆、急いで逃げろーッ! できるだけ遠くへっ!」
ドンッ、ドンッ。まるで内側から何者かに叩き付けられるように、見上げる空間が衝撃を
放ちながら揺れていた。兵や冒険者達が大慌てで、皆に更なる退避を呼び掛ける。流石に目
の前に迫る危険のさまに怯えたのか、人々もそれを拒むものは誰一人としていない。
『ひっ──!?』
次の瞬間だった。まさに限界を迎えたかのように、広く空間が震えを解き放った。
広がったのは、同心円状に伝わる衝撃波。視界が霞むほどの揺れ。
一目散に逃げていく人々を追い越すように、それらは奔る。それら目に見えない力に押さ
れるようにして、彼らは大きく吹き飛ばされる。
大きく土埃が舞った。人々が転がった。
幸い怪我人が出るという類のものではなかったらしい。だが放たれたそのエネルギーは、
間違いなくヒトの都合など構わぬ、理の則った現象であった。
「お、おい。大丈夫か……?」
「何とか、な。そっちは?」
「ちょっと擦りむいたけど平気だ。それより」
人々は慌てて、あちこちで身体を起こし、見上げた。
第三隔壁。そこには濛々と、全貌を隠す大量の土埃が立ち込めている。
「…………お、おい! あれ!」
だが程なくして皆は目撃することになる。誰とも知れぬ兵が逸早く、その変化に気付いて
土埃の向こうを指差していた。
徐々に晴れていく土埃。面々はそのさまに驚愕する。
現していたのだ。少なからずひび割れ、損壊を受けていたものの、隔壁の向こうには皆の
記憶にある、大都の街並みがそっくりずらりといつの間にか姿を現していたのだから。
「大都……?」
「どういう事だ? これって、空間結界が解けたってことで、いいんだよな……?」
「……こうしてはいられないぞ。皆、捜すんだ! 生存者を──皇子達を!」
暫し皆は唖然としていた。誰も親切に状況を説明してくれる者などいないのだから。
それでもややあって指示を飛ばす者がいた。ダグラスだ。彼もまた暫し開いた口が塞がら
ないでいたが、復旧してきた思考が急速回転を始めると、そう今自分達が今最もやらなけれ
ばならないであろうことを導き出し、叫ぶ。
ばたばた。兵という兵が戸惑い、しかし互いに顔を見合わせると一斉に駆け出していた。
隔壁の向こうへ。閉ざされていた大都の中へ。
この動きにヨゼフは部下達に協力するよう指示を出し、一方でヒュウガらサーディス三兄
妹は、静かに戦塵を掃いながらこれを遠巻きに傍観している。
「……イヨ」
「ええ。私達も参りましょう」
“結社”らの姿は無かった。やはり話の通り撤収した後なのか。
ダグラスら各上官達の指揮の下、兵達は人海戦術で、損壊した街並みとあちこちに散らば
る瓦礫の山を掻き分けながらその者達を捜し始めた。
シノもこの後をついて行く。イヨら周囲の者達も同じく心配で、もうその伺いを拒むこと
すらしない。途中で自国の兵らを連れてきたファルケン王や四魔長、やや遅れてロミリアら
とも合流した。ガチャゴト……。暫し辺りに多くの人と物の音が入り混じる。
「──いたぞーッ! こっちだ!」
そしてそれから、一体どれだけの時間が流れたのだろう?
半大刻か数大刻か、定かではない。短いようでとても長い不安の中にいるようにシノ達には
感じられた。
場所は第二隔壁と第一隔壁の中間辺りだった。手分けして捜していた兵らが遂に、求めて
いたその姿を見つけたのである。
他の面々、勿論シノ達も急いでその場に駆けつけた。
激しく息切れするほどに身体に鞭を打つ。それでも尚、もどかしいとすら感じた。
「ぁ……」
いた。とある大通りから少し入った先にある瓦礫だらけの一角に、ジーク達はいたのだ。
先ず目に映ったのは、透き通る翠色をした半球状のドーム。ジーク達はその中に包まれ、
守られるようにして各々、ぐったりとしていたのだった。
その中心にジークがいる。その手には抜いた脇差──結界の六華・緑柳が握られており、
剥き出しになった何かの基礎だったものに体重を預け、静かに乱れた呼吸をしている。
シノが、皆が息を呑んだ。加えてそこには寝かされていたからだ。
すっかり疲弊したアルスやエトナ、リンファにセド、サウル。
仲間達に囲まれ、そして介抱されながら眠る一人の男性。
その身体は長年の酷使にやつれ、周囲には狂化霊装だった、もう欠片も自己修復しない
装甲の残骸が無数に転がっていたが……その寝顔、横顔ですぐに分かる。
コーダス・レノヴィン。
彼女、シノ・スメラギが愛した、息子達が命懸けで救い出してくれた……最愛の人。
「──ッ!!」
次の瞬間には駆け出していた。イヨらも最早止めない。レジーナとエリウッドも、そっと
お互いに肩を寄せ合い、駆け出す彼女の背中に穏やかな眼差しを向けている。
そんな母の姿をみてようやく安堵したのだろう。ジークはぼうっと虚ろな眼になりながら
もフッと微笑い、そしてその手から緑柳を滑り落した。
がしり。強く強く、だけど優しい抱擁。
シノが彼の下に飛び込んでいった時、結界もほぼ同時に消えていた。
アルス達もまた彼女を見遣る。嗚呼よかったと、心底安堵した様子で微笑う。
ぼろぼろと大粒の涙を零していた。抱き締め、何度も何度も彼女は紡いでいた。
「ありがとう……ごめんなさい。貴方達が無事で、本当によかった……」
勢いよく抱き締められたまま、ジークは声に出すことなくそっとその身体を抱き返した。
存外に華奢であった。
それは母が母なりに、これまで重ねてきた苦労が加速度的に脳裏を過ぎっていく
かのようで、ジークもまた静かにつぅっと頬に涙を伝わせる。
「……。ただいま」
とても小さな声でジークが言う。アルス達も、よろよろとした足取りながら、程なくして
彼女の下へ集まり直そうとする。
それはきっと、十数年越しという歳月の。
欠けたままの家族の肖像が、今ようやく揃ったのだった。