51-(0) 咽返る記憶
意識が青く暗い底へと沈んでいったその先は、暴力的までに照らされた一面の赤だった。
眩さ。だけども目を細めることも何故かできない。
代わりに彼は思い出していた。そうだ。これは……かつての記憶。
詳しい経緯など知らない。知る術もない。
ただ間違いないのは、あの時代戦争があったという事だけだ。
国と国がその仲を決裂し、互いにその我を通そうとし、武力で以ってこれを実現させよう
としていた。或いはそれらから領民を守ると謳い、戦った。
そんな上辺は知らない。今となってはどちらでもいい。大地に満ち満ちていた。
記憶が蘇る。覚えているのは、火の海に包まれた故郷と逃げ惑う人々。なのに互いに尚も
戦い続けている両国の軍勢達。
駆け抜けていった、蹂躙された。
ごろり。あの時の記憶がまた傷を疼かせる。この身になったことで、実際の怪我はとうに
消えてしまった筈なのに。
記憶が見せる。再び感じさせている。
時を経て移り変わっていく──戦線が移動して捨て去れていく戦場。そこに残っていたの
は只々死臭だった。亡骸だった。あちこちで燻る炎だった。ぐったりと焼け跡に倒れ、立ち
ぼうけたままの同胞達であり、黒く濁った空だった。
後々になって分かったことだが、これが瘴気だった。
どうやら両軍が大量に魔導を撃ち合ったことで、一気に周辺のマナが瘴気化するまで汚れ
てしまったらしい。尤も、それは何もこの戦場だけに限った話ではなかったのだが……。
死んだ者。死にかけている者。まだ生きている者。
彼は煤だらけの、傷だらけの身体を引きずって歩いた。暴力本体は去ったが、人々に刻ま
れた痛みはそう簡単に消える筈もない。
ぼうっとして、クリアに物を考えることはできなかった。目の前で死が続いている。戦火
に呑まれた者は言わずもがな、今度は残された瘴気によって人々が中てられ始めていたから
である。
彼は皆は逃げ惑った。そのまま朽ち果てた者が大半ではあったが、中には魔獣として再誕
を遂げ、暴れ始める者らが出たのだ。
……奴らが戻ってきた。国軍、或いは傭兵畑や賞金稼ぎの冒険者達だった。
皆を守ると言った。言いながら、彼らは魔獣と化したかつての領民を“処分”して回って
いく。断末魔が聞こえた。そんな武力の連鎖を聞きながら、彼は自らもまた瘴気に侵され始
めていることに気付いてしまった。
焼け跡の故郷から、生き残って身を寄せ合う人々から、彼は人知れず離れた。
もしかしたら皆を巻き込んでしまうかもしれない。そんな思考と、せめて醜態を晒さずに
終わりたいという我欲が彼にはあった。
何処だったか。本来の場所も分からぬ廃屋の奥で、彼はじっと耐えた。
瘴気に中てられた身体が、内側からメキメキと壊されていくのが分かる。
独り。感覚をただそれだけに注いだ。
だが──そもそもこれは、本当に“破壊”なのだろうか?
色彩を失った瞳で、屋根の役割も満足に果たせない天井を見る。仰向けの身体からふと力
を抜く。
身を焦がしているのは……単なる痛みか?
いや、違う。怒りだ。この世界に対する怒りが、相まって己の身体を痛めているのだ。
理不尽だった。
自分にはそう学がある訳でもないから、国同士のあれこれはよく分からない。それでも、
少なくともこんな事で解決するとは、彼にはとても思えなかった。
……嗚呼、そうか。
この怒りは奴らに向いたものだけじゃない。暴力と……何よりもそれらに抗えない自身の
弱さを恨んでいたのだ。
焼き付いた記憶が、次々と乱暴に切り替わりながら脳裏を過ぎる。
友人、村の皆、家族、妹──。皆みんな、死んでいった。苦しんでいった。一人また一人
と動かなくなった。
……嗚呼、こん畜生。
彼は手を伸ばす。瘴気が黒ずみ蝕む身体に痛みに耐え、息を切らし、それでも彼は朽ちた
廃屋から覗く汚れた空に手を伸ばす。
力が、欲しい。
こんなクソどものいる世界なんて、俺が──。
「──ス、バトナス!」
はたっと、突然半ば強引なまでに意識が引き戻された。
彼は、バトナスは、空に手を伸ばそうとしたままの格好でハッと我に返る。
黒くはなかった。仰向けに倒れている自分が見ている空は無機質な灰色で、すぐに自分は
任務の途中で、ここはリュウゼンの、大都一帯に張った空間結界の中なのだと再認識する。
「お、おい! 大丈夫か? お前何で一体、落っこちて来たんだよ……」
「というかバトっち。召集かけられた時、いなかったよね?」
そして、大量の瓦礫に埋もれつつ倒れていた自分を覗き込んでいたのは、同じ“結社”の
使徒であるヘイトとアヴリルだった。
尤も既に一戦交えたのか、何故か前者は、顔や服など全身が血の跡やら土埃やらで大層汚
れてしまっていたのだが……。
「……」
しかしバトナスは、すぐには返事もろくに出来なかった。
ゆっくりと、半ば無意識の内に空に伸ばしていたその手を下ろし、彼は存外に昂ぶった内
心の鼓動を、今はただ鎮めることしかできなくて──。