45-(4) 赤が舞う、白が哂う
石の摩天楼たちは酷く冷たい。
ただその至る所でじわじわと、そして確実に戦いの音が染み渡り始めている。
「ここから先は……通さん!」
彼らもそうだった。
リュウゼンの迷宮中層、その一角。獲物を見つけたある“結社”の信徒達の一団は、威嚇
するようにこの人物の周りを取り囲んでいた。
「そう言われてもな。これも一応、仕事だからさ」
ヒュウガ・サーディスだった。
正義の剣長官、元七星、そして魔人。そんな大物がのこのこと、たった一人で遥かに
延びるこの石廊を歩いてきたのだ。
「“赤雨”のヒュウガだな?」
「こ、ここで討ち取れば幹部昇格も……!」
虎系獣人の大男をリーダー格に、覆面の下っ端やオートマタ兵らがぐるりと得物を構えて
いる。その数五十以上。一見すれば危機であるようにしか見えない。
「……止めておけ。お前達は魔人じゃない。と、いうことは良くて中級クラスだろう? そこ
の虎クンがそうかな」
だが、当のヒュウガは憎たらしいほど落ち着き払っていた。
彼はただちらと獣人の男──信徒を見上げるように一度視線を遣っただけで、腰に下げた
その長剣の柄にも触れようとしない。
「それにさ。俺が剣を抜いたら、お前達……死ぬよ?」
「じゃかましい!」
とうとう獣人の信徒が叫んだ。全身に力を込め、握り締めた大槌を振り下ろす。
しかしヒュウガはその一撃を軽く半身を捌くことでかわしていた。めり込んだ鎚と大きく
陥没した石畳。にも拘わらず涼やかな視線が、目の隈をひくつかせる彼と交錯する。
殺気。そして次の瞬間には他の“結社”達も一斉に襲い掛かってくる。
『──』
まさに一瞬のことだった。
彼らが剣や斧、銃を振り下ろし引き金をひくよりも速く、ヒュウガは抜刀した姿勢でこの
包囲から抜け出していたのだ。
数拍、場の空気が圧縮されたように緊張する。
解けたのは彼らの反応だった。長剣の刀身がぎらりとヒュウガの表情を映したその瞬間、
獣人の信徒を始めとした“結社”の兵らが次々に鮮血を噴き出して倒れたのである。
「ぐっ……。ま、まだだ……」
ざっくりと、獣人の信徒は鋼の胸当てごと斬り裂かれた身体を庇いながら起き上がった。
膝が悲鳴を上げている。ほんの一撃だったのに凄まじいダメージだ。彼は彼らは今更なが
ら、相手にしている者の次元を知るようで冷や汗が止まらない。
「……あれ? 言わなかったっけ」
「む?」
「俺が抜いたら、死ぬよって」
だがこの一撃すら、この男にとっては“準備”でしかなかったことを、彼らは程なくして
知ることになる。……文字通り、自らの身を犠牲にして。
ゆっくりと向き直り、ヒュウガはその剣を頭上に掲げた。
何を……? 思わずつられて視線を上げた信徒達だったが、ややあってその瞳は一様に驚
愕のそれで激しく揺るがされる。
「血──」
赤い奔流が生まれていた。
いや、血だ。今し方自分達が斬られ、飛び散った血が、まるで吸い寄せられるようにして
ヒュウガの掲げる剣へと流れ、大きな渦を作っている。
「……雨ってのはさ、循環するんだよ」
ぽつり。ヒュウガは言った。
「降り注ぎ、地上にある者達に溜まり、やがては空に昇って……また注ぐ」
信徒達はもう震えていた。戦慄していた。
間違いない。詠唱でも魔導具でもないのであれば、これはこの男のそれだ。
色。自分たち信徒クラスですら、そのごく一部しか習得していない錬氣の──。
『──!』
振り下ろした剣先を合図に、渦巻いた血が一斉に彼らへと降り注いだ。
故に“雨”。
だがそれは身を清める水といった生易しいものではなく、その一粒一粒が分厚い鎧すらも
撃ち抜く弾丸の如く。
暫し地獄がそこに在った。血の雨霰が信徒らを激しく撃ち抜き、そこから噴き出した血が
再びこの魔力の雨へと加わっていく。
打ちつける度、激しくなった。打ちつける度、赤くなった。
時間にして数分とかからなかったろう。そこには血塗れと銃創塗れで息絶えた信徒らの骸
が転がっていた。
「……」
ふっとヒュウガは笑う。血の滴った刀身を数度薙いで拭い、ゆっくりと鞘に収める。
カチンと小気味良い金属音がした。だがそれを聞く者はもうこの場にはいない。ただ彼の
足元には、自身の血で殺戮された者達が真っ赤に転がっているのみである。
「さて」
踏みしめ越えて、尚も涼しく飄々と。
“正義の剣”はまるで何事もなかったかのようにその先を進む。
「ぐぅ……っ!」
剣と槍が、何度目とも知れぬ衝突を迎え、大きく場の空間を揺らしていた。
一方は槍を突き出した“正義の盾”の長官・ダグラス、一方は“結社”に属する白髪の
剣士・使徒ジーヴァである。
二人は激しくぶつかっていた。しかしそれは傍目からのもので、苦しげに顔を顰めている
のはダグラスだけである。つんざくような金属音と共に火花が散る中、対するジーヴァは全
くと言っていいほど変わらぬ無表情で彼の突きを受け止めている。
(……見誤った。使徒というのは、これほどまでに強力な存在なのか)
そもそも、両者がぶつかったのは少し前に遡る。
迷宮上層部の爆発を目撃し、王達がそこにいると直感したダグラスらは、散り散りになっ
た部下達に伝言を残して石廊を登り始めていた。
そんな最中、彼らは出会ってしまったのである。
突如どす黒い靄が前方に現れたかと思うと、姿を見せた──空間転移をしてきたのはこの
使徒ジーヴァ、そして同じくヴァハロ。
トナン内乱における情報、及びこれまで拘束した“結社”関係者から聞きだした情報から
するに彼らは同組織における幹部クラス・使徒とみて間違いなかった。
加えてダグラスの記憶ははっきりと訴えていた。
あの白髪の剣士は──前皇アズサを死に至らしめた男だと。
だからこそ、元より“結社”の手の者である以上、ダグラス達は彼らを見逃したり無視し
ようとは考えなかった。
正直兵力は心許ない。だがここで討ち漏らせば、きっとより大きな災いになる……。
「──ッ!?」
ダグラスの剛槍、その切っ先を剣の刃一点で支えてたジーヴァがゆらりと動いた。
あたかも一ミリの無駄もないような流れる動き。互いの得物の接触点を巧みにずらし、彼
は槍の向きと逆に、スライドするようにこちらへ斬撃を放ってきたのである。
殆ど直感、身体が反応するままに対応していた。
斬撃が届くぎりぎりの間合い。ダグラスは強く握り締めていた槍を一度フッと離すと、そ
の石突を切っ先と交換するように押し出し、ジーヴァの顔面へ反撃を試みていたのである。
だがジーヴァは、尚も表情一つ変えずにこれをかわしてみせた。
やはり流れるように身体を後ろに反らして石突を回避、続いてすくい上げるようにやって
くる槍先を逆手に持ち替えた刀身で防ぐと、再び順手に持ち替えてダグラス諸共中空へ引き
ずり返す。
それから、斬撃と防御、突きと防御、薙ぎと回避といった攻防が繰り返し続いた。
「……っ」
じわり。汗がにじむ。ダグラスの脳裏に後悔の文字が大きく踊る。
足元には変わり果てた部下達の亡骸があった。この使徒二人と激突した際、彼らのその初
撃の下に沈められてしまったのだ。
(すまない、皆……。私が、正義感を発揮したばかりに……)
そんな思考を、自虐的な雑念を追い払うように、ダグラスは強く地面を踏んだ。
するとどうだろう。錬氣を纏った彼のそれは、まるで合図となるように周囲の地面を突然
隆起させ、巨大な石柱群となってジーヴァへと襲い掛からせた。
だが彼はやはり冷静だった。
その瞬間こそ捉えたかと思ったこの大地の援護。
しかし次の瞬間にはこれらは一閃の下に斬り裂かれ、その隙間からは彼の射抜くような冷
たい瞳が覗く。
(やはりこの程度では通じないか……。言わば此処は敵の力場内。本物の大地でない以上、
私の“形質”も充分な力を発揮できないという訳か……)
ガラガラと石柱が崩れていく。ジーヴァがその中で佇み、ぶらりと剣を提げている。
両者は改めて距離を取っていた。勝負がつかないでいた。
少なくともダグラスの側は、彼に勝てる気がどうにもしない。
「ふむ……。我も加勢しようか?」
「……要らん。それよりも自分の心配をしたらどうだ?」
そんなやり取りを、ヴァハロは少し離れた位置で見物していた。
にべもなく振り向きもせずジーヴァが言う。ほほ、と彼は笑いかけたが、すぐにこの同僚
兼好敵手が言わんとしていることに気付く。
「貴方の相手は──私です!」
ダグラスの副官・エレンツァだった。彼女は上司と同じく真面目な、淑やかさを一枚脱ぎ
捨てた表情をみせ、自身の周りに大量のマナを滾らせる。
「む……?」
それは、やがて雲に為った。
黒雲という表現があるのなら、これは紫雲。それらは主である彼女に操られると真っ直ぐ
にヴァハロへと伸び、彼を上下左右から包み隠してしまう。
「……ほう。これは中々面──」
言いかけた、次の瞬間だった。
呑気にこの紫雲を見上げた彼に向かって、雲から轟きと雷撃が降り注いだのである。
ダグラスとジーヴァが、それぞれにちらと目を遣った。辛うじて生き残っていた部下達が
互いに介抱し合い、遠巻きに見守りながら「やった!」と小さなガッツポーズをする。
「……はは。これは中々面白い技を使いおるわ」
だが、ヴァハロはそんな攻撃を受けても笑っていた。
いや……厳密には喰らってすらいない。
刹那、彼を覆っていた紫雲が弾かれるように破られる。そして次に姿を見せた彼は、竜の
翼と尾を生やした姿──竜人態へと為っていた。どうやら先の雷撃もこの巨大で堅牢な翼で
以って防いだらしい。
呵々と彼は快活に笑った。エレンツァや兵達が驚き、絶望を含めて顔を顰める。
「女、我らと来ぬか? その実力であれば使徒の座も狙えるぞ?」
「寝言は寝て言ってください。誇り高き竜の身でありながら……恥を知りなさい!」
再び紫雲がヴァハロを捉えようとした。だがもう同じ手は通じないのか、すぐに彼は竜の
翼で軽々と吹き払ってしまう。
暗く濃くなった雲。今度はそこから大粒の尖った雹が降るが、これもまた握る手斧・手槍
と共に嬉々として叩き砕かれていく。
「……お前達は、正義の盾なのだったな」
暫し唖然と見遣っている。
するとそんなダグラスや兵達に、ぽつりとジーヴァが言った。
ハッとなって再び槍を構え直す。ボロボロになった身体で後退る。だが当の彼はそう口を
開くだけで斬りかかって来ることはなく、ただじっと返答を待っているかのようにその場で
佇んでいる。
「……そうだ。私が現在の長官、ダグラス・レヴェンガートだ」
「レヴェンガート……やはりそうか。その槍の技、やはりタニアから受け継いだものか」
ダグラスは次の瞬間、酷く目を丸くした。ぐらぐらと両の瞳を揺らしていた。
何故それを? 何故彼女の名前を、お前が?
我が一族の歴史ならともかく、あたかもその言い草は──。
「……そんなに驚くことでもないだろう。同じ帝国将校のことぐらい、今でもちゃんと覚え
ている」
「同、僚……? まさか貴様、ゴルガニア時代からの……?」
「魔人だからな。それに、年季ならヴァハロの方が上だ」
ダグラスは槍を握るその手が震えているのを自覚していた。
ただでさえあまり胸を張れない歴史であるのに、あまつさえ目の前の敵にそのことを熟知
されているなど……。
「……千年か。お前達は未だに、あの頃の勝ち負けの“償い”をしているのか……」
「黙れっ! 貴様に、我々の何が分かるッ!?」
感情的になれば負けだとは思った。だがダグラスはそう叫ばずにはいられなかった。
ゴルガニア帝国本軍五番隊隊長。それが我が祖、タニア・レヴェンガートを語る上で必要
不可欠なフレーズだ。
故に、自分達は辛酸を嘗め続けてきた。帝国に与し続けた将の一族。信頼できぬ輩──。
今こうして統務院に身を置き、自らの心身を賭して王達を護っているのは他でもない、そ
んな歴史があったからだ。
やっとここまで来た。
父から子へ、子から孫へ。自分達は償い続けてきた。自身で言えば「槍聖」などと大層な
号まで贈られて。
お前の言い分はある意味で正しいのだろう。長い長い時の中では瑣末な事かもしれない。
だが……聞き逃す訳にはいかない。
積み上げたものが崩れ去った後の苦しみ、取り戻すまでに費やした者達の人生。
貴様は、それを「無意味」だと哂うのか──。
『……』
ダグラスはジーヴァは、そうして暫く互いを睨み合っていた。じっと動かず無言の感情を
ぶつけ合っていた。
「──」
しかしそんな思いは袖にされた。先についっと視線を逸らしたのはジーヴァだった。
「ヴァハロ、行くぞ」
「むん? よいのか? そこの武人と交えておったのではなかったのか」
「……刃を向けてきたから応戦したまでだ。無駄な足止めを喰らった。取り戻すぞ」
「ふむ……。よかろう」
ハッと我に返った時にはもう遅かった。ダグラスが顔を上げる。エレンツァが消耗して肩
で息をしている。その間にこの二人は竜の翼で舞い上がり、その尾を掴み、瞬く間に空高く
飛んで行ってしまったのである。
「くっ……、待てッ!」
「お、落ち着いてください長官! 皆……満身創痍です」
ダグラスは怒りに抗え切れずに叫んでいた。
逃げるのか? そうやって何もかも「つまらない」と切り捨ててまた世界を壊しに行くと
いうのか?
だがそんな激情はすぐに冷まされた。いつもと様子が違うのを即座に察知したエレンツァ
の一言により、彼は背後の部下達を振り返って青褪めたからだ。
「……。すまない」
兵らはふるふると首を横に振っていた。
全員ではなかろうが、聞き及んではいるのだろう。自分の家柄、その歴史。それでも彼ら
はダグラスを上官として信頼し、付き従っている──。
「彼らは、一体何処へ行くつもりなのでしょう?」
「分からない。だが少なくとも“結社”の魔人──使徒達が何かしらアクションを起こし始
めたということは間違いなさそうだな」
決して浅からずに傷付いた部下達に歩み寄りながら、ダグラスはゆっくりと頭を振った。
意識を切り替えよう。今成すべきことは何だ?
自身にもずしんと戦闘の疲労とダメージが横たわる。だが自分が倒れてしまう訳にはいか
なかった。
自分には彼らを、彼女を、率いる責任がある。
「……先を急ごう。王達にも何かあったのかもしれない」
とはいえ皆の傷を考えれば、行軍速度はかなり落ちてしまうのだろうが……。