40-(4) 宴前(うたげまえ)
成績表を受け取り研究棟を出た後、アルスは構内を歩いていた。
足取りは……決して軽くない。だが相棒やリンファが一緒である手前、そうした内心は
漏らしてしまってはいけないと思った。
『……お前が一番やるべきことはお前がよく生きることだ。お前だけじゃない。俺もエトナ
も、皆そうだ。誰かをよくするってことは、その一環じゃねぇのか?』
『もっと足元を生きろよ。ただでさえお前は、色々と面倒な役回りがあるんだからさ』
師の言葉を思い出す。神妙な、諭すような面持ちと声色だった。
おそらく──ほぼ間違いなく、彼は自分達の進むこの道の先が暗いものであると言いたか
ったのだろう。
……正直、気付いていない訳ではない。ある種この目標は、その理由は、囚われているもの
なのだろうと思う。
過去の後悔、その贖罪の為と銘打った動機。
彼が足元を生きろと言ったのは、過去じゃなく現在・未来のために生きて欲しいと願われ
たからなのだと思う。
(……ごめんなさい、先生。それでも、僕は……)
だけども、解っていても、諦めるつもりはなかった。
何故ならもう、それ「だけ」ではなくなっているから。
贖罪──エゴだけじゃなくて、自分を見守り支えてくれる人達に報いたいと思っている。
皆に、笑っていて欲しいと思うから……。
「アルス~!」
そんな時だった。はたと遠めに聞き覚えのある声が聞こえてくる。
振り向けば、案の定フィデロがいた。ルイスがいた。向こうもこちらが気付いたのを見て
手を振り、二人して近付いてくる。
「二人とも登校してたんだね」
「ああ。今日は殆どあってないような講義だったけどな」
「そっちは……成績表?」
「うん。あれ? でも何で分かって──」
「……難しい表情をしていたからね。君のことだから、もっともっとと思って気を引き締め
ていたんだろうと思って」
「あ、はは……」
快活と冷静と。友人二人との挨拶の中でアルスは思わず苦笑いを零していた。
ルイス君は本当、何でもお見通しだ……。
或いはまだまだ自分がポーカーフェイスに為れないでいるからか。
そうだ、あまり気に病まないでおこう。
せめて友人、仲間、大切な人達と一緒にいる時くらいは、その一時一時を大切にしよう。
笑っていて欲しいのに、自分がしかめっ面をしていたんじゃ……説得力も無い。
「んでさぁ、アルス。今日お前暇か?」
「え? うん。特に予定は無いけど……」
そうしていると、不意にフィデロがそんなことを訊いてきた。アルスは小首を傾げつつも
正直に答える。
二人の故郷に遊びに行く話だろうか? しかしそれはもう暫く先の話だった筈だ。
念の為にちらりとリンファを見上げて確認してみるが、彼女もこちらを見返してくるだけ
で、おそらく似たようなことを考えているらしい。
「よかった。実は今夜、皆で学期終わりの打ち上げをしようかって話になってんだよ。他の
講義で知り合った奴とか、あとエイルフィードにも声を掛けてある」
「よければ、アルス君もどうかなと思ってね」
それを聞いて、アルスはぱあっと表情を明るくした。エトナも彼と顔を見合わせて喜色を
浮かべている。
「……すまないが、それは何処で開くつもりだい?」
だがそれも束の間、このやり取りを聞いていたリンファがそう口を挟んできた。
きょとんとするフィデロと、あくまで冷静に彼女を見据えるルイス。
アルスとエトナが彼女に振り返っている中で、フィデロが後頭部の髪をぽりぽりと掻きな
がら答える。
「それはまだちっと調整中ッス。いくつか飯屋の目星はつけてるんですけど、人数が確定し
てからにしようと思ってて」
「そうか。すまないが、侍従としてすぐに容認する訳にはいかないな。アルス様のご身分が
ある。それだと警備上の都合を図れる時間が取れないように思うんだが」
「ぁ……」
フィデロが、そして当のアルスがぽかんと口を開けていた。
学院にいる間は基本そうなのだが、リンファは間違いなく「護衛モード」に為っていた。
指摘される詰めの甘さ。あからさまに指弾する訳ではないにせよ、そこには一定の厳格さ
が漂っている。
「……やっぱりな。だからフィデロ、もっと早くに話を通しておくべきだと言ったんだ」
「そ、そんなこと言われれもよぉ……。面子がはっきりしないままだと開くかどうかも分か
らねえじゃんか。そんな状態でアルスを煩わせる訳にもいかねぇし……」
ルイスとフィデロがそうぶつぶつと言い合っている。
どちらも間違ってはない。ただ今回は、フィデロのその気遣いが宜しくない方向に流れて
しまったのだろう。
「……。あの、リンファさん」
すると、そんな中で何か思いついたようにリンファに口を開いたのは、アルスだった。
何でしょう? 臣下の礼を漂わせて耳を傾けてくる彼女に、アルスは「うーん」と口元に
指先を当ててから提案する。
「なら、蒼染の鳥でやればいいんじゃないですかね? 皆がいるから警備の都合はつき
ますし。……まぁ皆さんがオッケーしてくれれば、ですけど」
フィデロとエトナが、再び喜色を浮かべて頷いていた。
アルスを含めた四人の視線がリンファに向けられる。数度目を瞬き、思考。ややあって彼
女もゆっくりと頷き返してくれる。
「……そういう事なら。分かりました、ホームに連絡を取りましょう。……えっと、導話の
呼び出しは……」
「あ、ここですよ。番号を押して受話筒のマーク。それか連絡帳ツールから──」
「──ああ、そういう事なら構わないさ。その友人達名義で今夜の予約を取ってくれれば」
まだ携行端末に慣れないリンファを手伝って導話をかけたアルス達に、酒場のカウンター
にいたハロルドが受話筒越しに承諾を伝えた。
導話の向こうで彼らがにわかに喜ぶさまが聞こえる。
ではよろしく頼む。そうリンファが最後に一言を残し、ハロルドは受話筒をチリンッと本
体に収め直した。
「何だったんです?」
「リンさん……みたいですけど」
「ああ。アルス君達の打ち上げパーティに、うちを使わせてやってくれないかと連絡があっ
たんだよ。警備の関係上、他の店でやられるよりも安心だろうとね」
なるほどー。
ちょうど酒場にたまっていた団員らが話を聞き、頷いていた。
「ってことは今日は宴か?」
「いや……違うだろ。あくまで学院生達の打ち上げであって、俺達の飲み食いじゃねぇぞ」
「まぁでも一緒にやったって構わねぇよな。アルスの学院のダチって、シンシア嬢以外に会
ったことねぇし」
だよなー。
少々早とちりだったり、冷静だったり。団員達がその一言に笑った。そしてその内の何人
かが、この宴会を伝えるべく宿舎の方へと席を外していく。
「……でもいいんですか、ハロルドさん? サミットの準備──荷造り、まだ途中なのに」
「そうだね……。でも出発までまだ日があるし、そう支障にはならないと思うよ? それに
今の内に羽目を外せる機会を設けておくのも、悪くはないんじゃないかな?」
団員の一人が、そうハロルドに問い掛けていた。
然り。グラスを磨いていたハロルドは、そう認めつつも、フッと眼鏡の奥で微笑を零す。
「今回のサミットが終われば、世界の風景は間違いなく変わっているだろうからね……」
「──それでは、やはり陛下がお一人で……?」
『ああ。私達も随分驚かされたものだよ』
クラン宿舎内、侍従衆の部屋。
室内に設置された端末を通じて、イヨはトナン本国と連絡を取っていた。
導話の相手は皇国近衛隊長サジ・キサラギ。
二人はしみじみと思い出すように、先日式典で起きたある出来事について話をしていた。
──トナン皇国の共和政構想。
先の内乱の原因は、王位を巡る争いに端を発した。
だからこそ、治める者は特定の者・取り巻きではなく領民自身。彼らが信頼を授けた者達
によって執られるようになれば悲劇は繰り返されないのではと、我らが皇は語ったのだ。
「……」
しかし、ヘッドセット越しにサジの苦笑い──楽観的な声色を聞くイヨは、少なくとも同
じ気分にはなれないでいた。
陛下の御心は分かる。サンフェルノ村での穏やかな日々があの方にとって大きなものであ
ろうことは、人伝に聞いた身とはいえ想像できない訳ではない。だが……。
『それで、そちらはどうだ? アルス様はお元気でやっておられるだろうか』
「あ、はい。それはご心配なく。良きご学友にも恵まれておりますし、魔導や様々な学びに
も勤しんでおられます。惜しむらくは、私どもが公務のスケジュールを入れてお時間を縛っ
てしまうことですが……。ですが今日で前期日程が終わりますし、明日からは幾分それにも
余裕を持たせることができるかと」
『そうか。こちらも心配は要らない。陛下の発言で動揺こそあったが、昨日今日でやろうと
いう話でもない。今はとにかく復興の為にあくせくしているよ』
いや……今は職務に集中しよう。
イヨはそう思い直し、彼への報告を続けた。
学院でのアルスは、厳密にはリンファの方が直に見守っていてよくは知っているだろう。
だがそれはそれ、これはこれだ。
形式上、侍従衆の代表は自分……相変わらずプレッシャーを感じる日々だが、最近はその
事務にも慣れてきたように思う。だからこそ、あまり雑念を入れるのは宜しくない。
『ではそろそろ失礼するよ。次の大型公務はサミットの出席だが……』
「はい。打ち合わせ通り、こちらも準備を進めてあります。先程ブルートバードの皆さんも
人員編成を済ませたようなので、近い内に資料として送付致します」
『ああ、頼んだよ』
やがて一通りの報告と今後の健闘を添え合い、通信は終了した。
ディスプレイに映し出されていたサジと王宮内の映像が消えると、イヨはそのままぐてっ
と椅子の背に身体を預けて大きく大きく息を吐く。
「──イヨさ~ん、いますか?」
「ひゃうぁ!?」
と、そんな最中にドアがノックされたかと思うと、ひょこりイセルナが姿を見せてきた。
彼女に応じてドアを開いたのは他の侍従だったのが、イヨにとっては完全に気を抜いた瞬
間であったため、ついそんな素っ頓狂な声を出してしまう。
「だ、大丈夫ですか?」
「あ……はは。だ、大丈夫です。お見苦しい所を」
「構わぬさ。我らもそういうお主の方が見慣れている」
「は、ははは……」
イセルナの肩には顕現したブルートがそっと乗っていた。
そんな、青い半透明の梟型精霊の糞真面目な慰め(?)にイヨが半笑いを浮かべてそれと
なく居住まいを正す中、二人はゆたりと淡青を散らして室内に入ってくる。
「それは……皇国と連絡を?」
「あ、はい。定期連絡と、諸々で」
次いでヘッドセットを外して机の上に置くと、イヨは先程よりは穏やかな笑みを浮かべて
いた。他の侍従らも最初こそこちらを見ていたが、やがていつもの事ねとそれぞれの職務に
戻っていく。
「そ、それで。何か御用でしょうか?」
「ええ、それなのですけど。少し前にリンから酒場の方に導話が入りましてね、アルス君が
お友達とうちで打ち上げパーティーをやりたいと言っているんです。今日で学院の前期日程
がお終いですからね。余所のお店でやるよりは警備も都合がつくだろうって」
「そうですか……。ええ、皆さんがよろしいのであれば構いませんよ。リンがそう判断した
のなら間違いはないでしょうし」
訊ねられたイセルナからの返答に、イヨはふっと胸奥が優しく明るい陽で揉み解されるよ
うな気がしていた。
そっか、アルス様が……。
報告で自分も学院生活を満喫しているとの旨を伝えたばかりだが、実際にそうらしいよう
で安堵したのだ。彼の快適な留学生活をサポートする──陛下より託されたその任は、何と
か実を結んでいるらしい。
「……本当に、イヨさんはアルス君を大事に思っているんですね。いいお供を持ててきっと
彼も救われていますよ」
「ふわっ!? そ、そんな。私はただ、祖国の役に立ちたいと……」
それも束の間、イヨはそんな母性を感じさせるイセルナの眼差しと言葉で茹で蛸のように
顔を真っ赤にしていた。
思わず口を衝いて出た言葉。
だが皮肉も、その「国」というフレーズが、彼女に再び先の不安を蘇らせてしまう。
「……。イセルナさん、ブルートさん」
「はい?」「うん?」
「貴女達は、どう思っていますか? あの時、陛下が語った共和政構想について」
「……あの時というと」「戴冠式での就任挨拶ですね」
はい。確認してくる二人に、イヨはこくんと小さく頷いていた。
再びそっと、それとなく他の侍従達もこの上司の様子を窺っている。
彼女達の顔色も、総じて明るいものではなかった。
それは皆同じ思いであったのか、或いはイヨの影響でそうなっただけなのか、定かではな
かったのだが。
「……正直申しますと、私は不安なのです。流石に性急ではないかと。陛下の御心は理解し
ているつもりです。でも私には、共和政が必ずしも善だとは思えない……」
それは間違いなく個人的感情であった。或いは元司書としての知識がそうさせるのか。
侍従達の何人かも、ざわと戸惑いをみせている。
確かにイセルナ達のことは信頼している。しかし、だからといって私情を漏らしてしまっ
ていいものなのか……?
「ご存知かもしれませんが、ゴルガニア帝国という“悪の王”から解放された現在の世界に
あっても尚、王政が多くの国々で生き残っているのには理由があります。帝国が滅んだ後、
長らく人々がその圧政にも負けないほどの混乱に苦しめられたからです」
それは、帝国崩壊から王貴統務院という秩序に至るまでの記憶だ。
多くの史料にも残されている。
人々は失ったのだ──ゴルガニア帝国という“共通の敵”を。故に争いが終わることは無
かった。今度はそれぞれの利害がぶつかり合った。打倒帝国で纏まっていた人々は……かく
も容易に瓦解した。
「治める人間が多くなれば、衝突も大きくなる。そう学んだ人々は再び王を望みました。で
もそれは以前のような“絶対者”ではなく“責任者”──国が乱れた時、真っ先に捧げられ
る鎮静剤……。人々の辟易と、既存の王達が抱いていた放逐への恐怖──今の秩序は、妥協
によって生まれたのです」
イセルナは、その表情を一つ変えず黙っていた。
ブルートも、淡青の輝きを纏いながら佇んでいる。
「私は……怖くて堪りません。また、繰り返されるのではないか? 対立する者同士が平等
に権力に登ることで、また争いが表面化するのではないか? 私はもう、慕う人々を失いた
くないのに……」
俯いた前髪と黒縁眼鏡で、ふいっとその表情が隠れた。
決して恵まれていない体格が、身体の線が震える。侍従らも言葉なく表情を曇らせる。
「──イヨさん」
だが、それでもイセルナはそっとそんなイヨの手を優しく取っていた。
ブルートが肩から飛び立ち、物音静かに机の上、彼女の横に着地し二人で囲む格好。イセ
ルナはそっと、何度も彼女の握られた手を擦ってから、言う。
「貴女は、考えたことはありますか? 何故シノさんが内乱の後、当時“敵”側だった人々
全てを赦してまで家臣団に加えたのか」
「……?」
ゆっくりと、イヨが顔を上げた。その表情は何処となくきょとんとしている。
「分け隔てない慈愛? 人材が足りなかったから? それもあるとは思うけど……私はきっ
とそれが彼女の“覚悟”だと思っているんです」
思考を先回りされたのだろう。イヨが浮かべた疑問符が殊更大きくなった。
つまり彼女は、理由が陛下の博愛主義だけではないと言いたいと……。
「キサラギ副隊長もそう。特に武人。普通に考えれば、一度は刃を向けていた相手を懐に抱
え直すなんてリスク無視も甚だしいですよね? だけど彼女はそれを実行した。もしかして
それは“いざとなれば斬られてもいい”と暗に示しているからじゃないかしら?」
「……っ!?」
イヨの、侍従達の目が、大きく円くなっていた。
斬られてもいい覚悟。それはつまり、自分が先程語ったような“生贄”的な王と被りはし
ないだろうか。
切れる女性──。戴冠式で彼女が呟いていたのは、そういう理解だったのだ。
「……シノさんは強い人だと思います。あんなに苦労しても、敵を憎むことをしなかった。
それは単なる優しさだけじゃなくて意志の強さ、覚悟だと思います。だから……一緒に支え
ましょう? 私達の戦いは、その為の闘いなんですから」
「……。はいっ」
ずれた眼鏡の隙間から指先を挿れ、イヨは自ずと湧いてくる涙を拭っていた。
大舞台は近い。
結束を──強めなければ。