5-(1) ざわめく街
「……んぅ?」
瞼の裏に陽の光が差し込んできた。眠りの海の中に沈み込んでいた身体がおもむろに引き
揚げられるような錯覚を覚える。
アルスは、ぼんやりと寝惚け眼のまま天井を見ていた。
相応の年季の入ったクランの宿舎。そこには点々と広がったシミがこちらを窺うように静
止しているかのように見える。
「アルス……?」
そうしていると、フッと視界を遮って覗き込んでくるエトナの顔が映った。
ふわふわと浮かび、緑色のオーラを漂わせた中に見せる不安げな顔。
語る事はしなかったが、やはり相棒もあの事が気になっているのだろう。もしかしたら自
分が眠っている内に魘されでもしていたのかもしれない。
「……おはよう。エトナ」
だからアルスは努め、フッと微笑んでいた。そしてもそりと身体を起こして目を擦ってま
だ纏わりつく眠気を宥める。
兄と共有している二段ベッドの上。
寝間着姿のまま、トンと梯子を降りて下を覗いてみると、そこにジークの姿はなかった。
「兄さん、もう起きてるみたいだね」
「うん。もしかしたらアレかなぁ?」
言って、ふよふよと壁をすり抜け(精霊なのでこういう芸当もできる)一人廊下へと出て
ゆくエトナ。その後ろ姿を一瞥して、アルスは着替えと身支度を始めた。
寝間着を畳んで衣装ケースの中に。次いでクローゼットから普段の服とローブを取り出し
て羽織る。机の横に引っ掛けておいた鞄の中の教材諸々を確認して準備完了。
「やっぱりそうだったよ~。ジーク、朝練してる」
「そっか。じゃあ僕らもご飯食べに行こうか」
そして廊下から外の様子を確認していたらしいエトナが再び壁をすり抜けて戻ってくるの
を待って、アルスは穏やかに言った。
廊下の途中の手洗い場で洗顔、歯磨き、そしてトイレを済まして宿舎を出る。
そして朝食を摂る為に酒場へ続く渡り廊下を歩いていると、その姿が目に入った。
「二九八六、二九八七、二九八八……」
宿舎と酒場の裏手に挟まれる敷地に設けられた中庭兼運動場。
その一角で、ジークが軽装の姿で一人朝稽古に勤しんでいた。
ぶつぶつと回数を呟きながら両手で何度も素振りしているのは、長い棍棒とその先に取り
付けられた巨大な錘。
大きさはアルス一人分を軽く越えていた。おそらくはダンベル上げの錘部分ではないかと
思われる。そんな巨大な錘を取り付けた棍棒を、ジークは剣に見立て、上下の動きは勿論、
横薙ぎや袈裟懸け、片手ずつの素振りなどを順繰りに繰り返している。
「朝から精が出るね」
アルスはそんな兄を少し遠巻きから見つめていたが、進行方向上にいた事もあってそっと
近付いていくとそう声を掛けていた。
「二九九九、三千──ん? あぁ、お前らか」
最後に振り下ろしを一発。ガコンと重量感満載の金属音を響かせて、ジークは額に汗を流
しつつ振り返った。どしりと、地面に訓練用の錘が降ろされる。
アルスとエトナは、相変わらずながらこの(相棒の)兄の身体能力に目を見張っていた。
ガシガシと首筋に引っ掛けていたタオルで汗を拭って、ジークは言う。
「ま、定期的にやっとかないと身体が鈍るからな」
「……鈍ってたらそんなでっかい物なんか持てないと思うけどねぇ」
「あはは……」
「別にこれくらい普通だぞ? 力だけで言えば副団長……ミアにも俺、敵わねぇままだし」
『えっ!?』
あくまでジークは冒険者基準で自身の力量を見ていた。
ダンさんはともかく、ミアさんが? アルスはむしろその事実に驚いていたが、何せあの
父娘は獣人族だ。潜在的な身体能力の高さは折り紙つきである。
アルスは改めて自分のような一般市民(学生)と兄ら冒険者達の、住む世界の違いに内心
圧倒されてしまっていた。
「そりゃあ種族としての身体の作りが違うのは分かってるけどな。だからって鍛錬をサボる
理由にはならねぇよ。努力すりゃあ、種族の差なんてものはきっと縮められる」
「……そう、だね」
しかしその言葉に、アルスはフッと表情を曇らせていた。見れば、エトナも同様だった。
だがジークは一瞬その変化に僅かに眉根を寄せていただけで、この場で突っ込んで訊ねる
事はしなかった。
ぐるりと肩を回したり、手首を曲げ伸ばししたりと運動後のストレッチを挟みながら、苦
笑が混じったため息をついて続ける。
「それにいつも剣を振れる仕事ってわけじゃねぇからなぁ。この前だってシフォンと受けた
のが『飼い犬が迷子になったから探してくれ』っていうのでさ……。結局シフォンが精霊に
聞き込みをして解決したから俺の出番はなし。丸っきり魔導が使えないってのも不便なもん
だよなぁ。こういうケースに出くわすとさ」
「……」「うん……」
「そういうわけだから、日頃から鍛えておかねぇと。せめて皆の足を引っ張らない程度には
力をキープしとかなくっちゃな」
そして再び軽々と錘付きの棍棒を拾い上げ、ジークはひょいと半身を返す。
見れば、弟は少し俯き加減で立っているように見えた。
だがそれよりも、
「……っと悪ぃ。まだ朝飯食ってないよな? 学院に遅れない内にさっさと食っちまえよ。
俺はコイツを片付けて、シャワー浴びて来てから食うからよ」
ジークは自身の愚痴を聞かせてしまった事を失態だったかもしれないと思っていた。
「う、うん……」
コクリと頷いたアルス。
ジークはそれを見て小さく笑み、中庭の奥の方にある用具倉庫の方へと歩いていった。
言葉少なげに宙に浮かんでいるエトナ。
アルスも暫しの間、その場でじっと黙してそんな兄の後ろ姿を見送る。
「……。ご飯、食べよっと」
そしてややあって、改めてアルスは鞄を片手に、ローブを翻して渡り廊下を歩いていく。
「おはようございます」
酒場に顔を出してきたアルスは、このクランに下宿を始めて以来の、いつもの穏やかな微
笑を湛えているように見えた。
「おう。おはようさん」
「今日も学校、頑張れよ」
最初こそ冒険者という、一般には荒くれ者の集まりと認識されている中に混じって暮らす
事に不安がない訳ではなかったが、自分が仲間の肉親だと知らされていた彼らの気安い態度
はそんな不安などすぐに吹き飛ばしてくれていた。
考えてみれば不思議ではないのだろう。
何よりもお互いの結束が、即ち戦時における軍団としての立ち回りに影響するのだから。
「おはよう、アルス君。すぐに用意するから適当に座っていてくれ」
「はい。お願いします」
アルスはすっかり打ち解けた団員らと挨拶を交わしながら、カウンターの中からそう言っ
てくるハロルドに頷き会釈をすると、近場のテーブル席に着いた。
店内のテーブル席には他にも団員らが疎らに座っており、カウンター席ではダンとミア、
中で調理や給仕をこなすハロルドとレナとが時折談笑を交えている様子が見て取れる。
「よぅ。アルス」
「今日はどんな授業受けるんだ?」
そうして席で待っていると、近場の団員が数人近寄ってきた。空いた他の席に座り直して
同じテーブルに着く。団員らの中には魔導を扱う者もおり、学院に通っている自分に対して
興味を持つ者も少なくないのだ。
アルスは「え~っとですね……」と懐からメモを取り出して確認しつつ答える。
「今日は一限目に魔導史概論、二限目に魔導操作論、四限と五限が解析魔導論ですね」
「……何言ってるかさっぱり分かんねぇ」
「あはは。そりゃお前は魔導使えないもんな。なぁアルス、教材ってどんなのなんだ?」
「教材、ですか……?」
アルスを中心に団員らがワイワイと喋っている。
その気安さの中で、アルスは鞄の中から今日使う教材を取り出すと、この団員(記憶が正
しければ魔導を使える人の筈だ)に手渡す。
「は~い、おまちどうさま」
「あ。どうも……」
ちょうどそんな時、レナが出来上がった朝食を持って来てくれた。
自分達の様子を優しく見守る彼女からそのトレイを受け取ると、アルスはカウンターの方
に戻っていくその背に小さく頭を下げてから早速朝食を摂り始める。
「うーん。やっぱ学院の専門書は違うなぁ。改めて奥深いって思うよ」
「学院というか一応市販なんですが……。でも魔導、使えるんですよね? 読んだ事ないん
ですか?」
「ないって訳じゃないがな。俺の場合、学校で体系立って学んだってクチじゃねぇからさ。
そもそもアカデミーに入って基礎基本からみっちり学ぶ連中自体、限られてくるんだよな」
「……そう、ですね」
もきゅとパンを齧って咀嚼し、小さく首肯。
確かに魔導を教わる、その一点に関して言えば必ずしもアカデミーのような公の機関に通
わなければならないという事はない。むしろ学院自体が各地に数があるとはいえ、総じて狭
き門なのだ。彼の言うように、半ば独学(ないし他の魔導師に教えを請う)で修得する事も
珍しくはないのだろう。
実際、自分もアカデミーに入る前はリュカという在野の師に就いて学んでいた一人だった
のだから。気持ち少し速めに朝食を口にしていきながら、アルスはぼんやりと思う。
自分はそんな狭き門をくぐった──他の受験生の不合格を足場にして、学院生という今の
身分を得たのだ。
だからこそ“中途半端な学び”は自身にも、彼らにも申し訳が立たない……。
「お~い、お前ら。あんまりアルスにまとわり付くなよ~?」
するとカウンター席から、ダンがゆたりとした様子で面々にそう声を掛けていた。
言われて「へ~い」と同じくゆたりとした声色で離れていく団員達。アルスは返された教
材を再び鞄の中にしまうと、黙々と残りの朝食を片付ける。
「……」
そんな彼を、エトナは先刻から何故かじっと不安げな眼差しで見下ろしていて。
「──ごちそうさまでした」
「はい。お粗末さま」
暫くして、朝食を平らげたアルスはトレイに載せた食器をカウンターに返却していた。
洗い物の手を一旦止め、ハロルドがそれを微笑と共に受け取ると、すぐに他の食器と同様
に洗い桶の中に投入されていく。
「アルス君」
その時だった。振り向くとカウンターからレナとミアが出てきてこちらを見ていた。
「ほらほら。ミアちゃん」
「……。アルス、これ」
「? これは……」
そしてミアがレナに促されるようにしておずおずと差し出してきたのは、弁当包み。
アルスは受け取る手が中途に止まり、思わず訊いてしまう。
その後ろでは、ダンがカウンター席に着いたまま無言の怪訝──いや驚愕を見せている。
「今日のお昼ご飯。アルス……いつも学食で食べてるみたいだったから。たまには、どうか
なと思って」
「ミアちゃんが作ったんだよ? ミアちゃんの、手作り弁当~」
「……ッ!? レ、レナ。言っちゃ駄目……」
「何で? 本当の事じゃない。食べて貰いたいんでしょ? せっかく朝早くから頑張ったん
だもの。手伝った私としても報われて欲しいし」
「~~ッ……」
どうやらミアが作ってくれた弁当らしい。
何故自分にという問いは無粋だと思いしなかった。仲間の厚意はありがたく受け取るもの
だろう。
「……そうですか。ありがとうございます。お昼、楽しみにしますね」
「ぅ、うん……」
アルスは弁当包みを受け取ると努めてそう言って笑った。
その言葉にミアは真っ赤になって俯いている。するとエトナがそんなやり取りを宙から見
下ろしつつ口を挟んでくる。
「アルス~? あんまりもたもたしてると遅れるよ~?」
「え。あ、もうこんな時間か……」
何処か拗ねたようなその口調に現実に引き戻され、アルスは懐中時計を取り出して時刻を
確認した。確かにそろそろ出た方がいい頃合だ。
「それじゃあ、そろそろ行ってきます。お弁当ありがとうございます」
鞄に大事に弁当包みをしまって、アルスはミアやレナ、団員らに挨拶して外に向けて足を
踏み出した。
行ってらっしゃい。
皆の、団員らの声が重なってアルスを送り出してくれる。
何処か不意に影の差した表情。だがそれも一瞬だった。
次の瞬間にはいつもの穏やかな微笑を見せると、とてとてと小走りでエトナと共に学院に
向けて出発していく。
「べ、弁当……? ミアの、手料理? お、俺だって食わせて貰った事、ないのに……」
「はいはい。ご愁傷様」
そんな中でダンだけは、ぶつぶつとそんな事を言いながらぐってりとして気落ちしている
ようだった。だがそんな戦友をハロルドはむしろ面白可笑しく見遣っている。
「……」
「あ。ジークさん、おはようございます」
「あぁ……おはよう」
すると何時の間にか、ジークが中庭側の戸口に立っていた。
その存在に逸早く気付いたレナがふんわりと笑って挨拶するが、ジークは何処か声色が静
かなようにも見えた。シャワーを浴びてまだ湿っている髪が結ばれずに垂れている。
(……気のせいか?)
何の気なしに、何時もの調子で。
朝の支度時に戻っていく団員達の中にあって。
(アルスもエトナも、何だかいつもより元気がなかったような……)
この兄だけは、一抹の違和感と共に一人、そんな怪訝を思う。
時を前後して。イセルナ達はギルドにいた。
何時ものように次の、或いはクランの当面の依頼の目星をつける為の吟味作業。
随行してきた団員らは各々に依頼書(やそのデータベース)に目を通し、冒険者として自
分達の力量などと照らし合わせて思案を重ねる。
その中にはシフォンやリンファも混じっており、窓口で職員や馴染みの同業者らと何やら
話し込んでいる姿も見えた。
「……どうかした、ブルート?」
そして当のイセルナは、ギルドの二階バルコニーの傍にいた。
眼下では柵で守られた吹き抜けが一階の皆の様子を切り取っており、がやがやと荒削りな
がらも活気のある様子が見て取れる。
イセルナは、そんな階下にじっと目を遣っている相棒にゆったりと声を掛けていた。
「いや……。少しぼんやりとしていただけだ」
「そう? 貴方がそんな風にするなんて珍しいわね」
ブルートは手すり部分に乗っかって。
イセルナは手すりに軽く寄り掛かって。
暫し二人は、ゆっくりとした時間の経過の中に身を任せる。
「随分と遠くまで来たものだ」
やがて、ぽつりと先にブルートが口を開く。
「同じ国内じゃない。まぁアトス連邦朝自体、世界有数の領土の広さだから仕方ないけど」
「そういう意味じゃない。……気持ち的な距離だ」
言って、イセルナが静かに小首を傾げて自分を見るのを認めて、ブルートはぽつぽつと続
ける。その眼差しは怜悧だが冷淡ではなく、感慨深さを湛えている。
「始めは、我ら二人だけの旅路だった。しかしダンと出会い、その後シフォン、ハロルド、
リンファと戦友が増えていった。何より今では我らは多くの団員を抱えるクランの長にまで
上り詰めた」
「そこまで大層なものじゃないわよ。皆が、力を貸してくれているおかげ」
「……謙虚だな。それが汝の美徳でもあるが……」
ブルートはふと身体を起こして手すりの上で半身を返すと、視線をギルドの外──アウル
ベルツの街並みへと移していた。
建ち並ぶ家屋。その隙間、通りの道から点々とし、時に大きなうねりと化している人々。
遥か遠くの自然まで覆わんとするようなその街の広がりに、ブルートは静かに目を細めて
静かにごちる。
「長く生きてきた我だが、汝らヒトの邁進ぶりには驚かされるばかりだ。精霊ではもっと緩
慢に過ごすであろう時間を世界の開拓に注ぎ込み、日々進歩しようとしている。
我らには中々真似のできぬ精神だ」
「……それは、ヒトに対する当てつけなのかしら?」
「いや。個人的には本当にそう思っているさ。だが実際はそういう反発も多いのだろう?」
「もしかして……この前バラクと飲んだ時の話を言っているの?」
「……。あぁ」
ややあってイセルナも手すりに預けていた身を起こし、ブルートと共に背後の窓際へと移
動した。二人の眼下に広がるアウルベルツの景色──ヒトによる開拓という営みの一部。
再度そんな街並みを見つめつつ、ブルートは言う。
「……。精霊達がざわついている」
「えっ?」
それは只事ではない。魔導を扱う者の一人として、イセルナもその事はよく分かっている
つもりだった。すぐに精神を集中させ、精霊達の気配を、声を探る。
「あまり慌てずとも良い。我ですら小規模に聞こえる程度だ。汝であっても、ヒトの身では
中々気付けぬだろう」
「……そう」
慰みのつもりなのか。ブルートは街を見下ろしたままそう言う。
静かに呟き、一度彼を横目で見遣ってから再びその視線に合わせるイセルナ。
「……我個人の意見では、世界を開拓すること自体に異を唱える気はない。むしろ心配なの
は、ヒト同士がその是非を巡って諍いを拡げてしまう事だ。ヒトは自分達の思っている以上
に世界に影響を及ぼす。その自覚に乏しいことの方が我としては心配だ。……尤も、こんな
考え方も汝らと旅路を共にしてきて感化されてしまっている故なのかもしれぬがな」
ブルートは珍しく笑っているように見えた。
しかしその言葉の文言通りに、彼の纏う雰囲気は心配の色を濃くしている。
「……精霊達がざわついているのも、何かその諍いがあるからじゃないかってこと?」
「或いは、起きようとしているからざわめいているか……だな」
「? それは……」
一体どういう──?
何処か含んだその言い方に、今度こそイセルナは眉根を上げて彼に向き直ろうとする。
「あ、いたいた。団長~」
「依頼書いくつか見繕ってきました。目通しお願いします」
だがちょうどそんな時、階下から団員らが駆け寄ってくるのが見えた。
目の前までやって来て差し出される、目星をつけた複数枚の依頼書。
「……ええ。分かったわ」
結局、その意図を聞き出す間を逃してしまいながら。
イセルナは団長としての自分に意識を切り替えて、差し出されたそれらを受け取った。