33-(0) 真を筆に、誠を胸に
どれだけ慌しくても、時の流れはヒトを待ってくれはしない。
その日はアルスにとって定期試験の初日だった。生徒によっては既に一つ二つ受けたかも
しれないが、今週から概ね全ての講義が試験モードに突入している。
「用紙は行き届いているか? 問題用紙三枚、解答用紙一枚の計四枚だ。足りない者はすぐ
に言うように」
奥に長い講義室に、若い男性教官の声が響いた。
最前列から後ろに回されて来た用紙は裏返しにされたままで、少なからず緊張した面持ち
で周りの生徒達は長机に着く互いの距離をそれとなく取っている。
アルスもそんな一人だった。……いや、むしろ自ら他の学院生達に気を遣ってぽつねんと
していたというべきか。
「……」
細めた目に机の木目が映る。渡された裏返しの試験用紙が置かれている。
今は違うものだと分かってはいる。だがこうしてピリピリした空気の中にいると、それが
自分に起因しているのではないかという錯覚に、アルスは襲われる。
思いがけず、自分や兄が皇国の皇子であることが分かったあの内乱。
諦めかけた、でも学びたい本心を見抜いて背中を押してくれた母、そして仲間達。
そんな仲間の一人──ミアさんが、自分の所為で倒れた。
そして彼女を一刻も早く助ける為に向かった忌避地で戦う羽目になった、大型の魔獣。
何よりも倒した後に全身が訴えた、あの猛烈な疲労と──撃ち貫くような虚無感。
自分は、一体何の為に此処にいるのだろう……?
フッと意識の全てを閉ざし、無に溶かそうとしてくるかのような闇色。
あの時も、今までも、これからも、自分はあの暗い恐怖と闘わねばならないというのか。
『お疲れさん。……どうだ? これが魔獣を殺すってことだ』
師があの時そっと肩を叩いてきたのも、自分がそんな奈落を見た心地を気取ったからなの
だろうと思う。
そして多分……彼自身もまた、かつて辿った道なのだと。
揺らぐ。言い聞かせていなければ、すぐに弱い自分が顔を出す。
村が魔獣に襲われたあの日、力もないのに精霊達の悲鳴に同調しなければ──。
皇国内乱の後、さっくりと学院を辞めて向こうで暮らす選択をしていれば──。
(……ッ)
でも、と心の中で強く首を横に振る。
そこで弱さに流れれば、暗さの中に自ら溶ければ、これまでの歩みは水の泡になる。
仮にそういった別の選択へとやり直したとしても“結社”が自分達を敵視しているという
現実は変えられないし、何より今の自分──進むと決めた意思を護ろうとしてくれてる皆に
申し訳が立たなくなる。
小刻みに震え始めた肩を、アルスはぎゅっと静かに押さえつけた。
怖い。言い聞かせても、やはり怖い。
もっと強くならなければ力をつけなければ、また誰かが傷付くのではないか。
いや──違う。そうじゃない。それだけじゃない。
もっと怖い、情けないのは、ややもすればそうやって仲間達の心を力を信じることを忘れ
てしまう自分自身なのだ。
結社の暴力に自分が屈してしまうことは、間違いなく皆が寄せてくれている──筈の信頼
を裏切ることでもある。それこそ、本当の“敗北”ではないか。
(“敵”か……)
実際、先に自分達に手を出してきたのは結社の方だ。
だがたとえどんな理由──主張を持っていようとも、それらを暴力で広めようとするのは
間違っている。
それでも……時々分からなくなるのだ。
自分達は知っている。“結社”を敵視したり無関係を貫きたい人々が多い一方、逆に彼ら
に共鳴する人々も少なからずまた存在していることを。
保守だとか革新だとか、イデオロギーの問題だろうと言えばそれだけ、ではある。
でもそうして単純な言葉で押し込めてしまえばしまうほど、その奥底で滾るエネルギーの
塊はどんどん暗く重くなっていく気がするのだ。
兄は、リュカ先生達と共にあの日旅立っていった。
あの場で自分は確かに聞いた。兄が明確に“結社”を“敵”だと表明したのを。
分かっている。奴らが今まで自分達にしていた仕打ち──加えて父までもが囚われている
と知って、憤らなかった訳ではない。
だけど……“それでいい”のだろうかと思ってしまう。
兄のように敵と味方、両者を峻別できるしてみせるという自信が、自分には持てない。
やはり怖いのだろう。そうやって線引きをすればするほど、自分の周りを争いに巻き込み
続けることになる。アウツベルツに帰還してから……厭というほどに経験していること。
「一小刻前──」
だが、そこで怖気づいて立ち止まってしまうのは、やはり仲間達を裏切ることになるのだ
ろうと思う。教官が腕時計に目を落としながら口上したのを合図に、アルスも周りの生徒達
も、目の前の試験用紙を凝視しながら身構えた。
──兄のような戦い方を、多分自分はできないのだろうなと思う。
だから、闘おう。兄や仲間達ができる事は彼らを信じ委ねて、自分は自分のできることを
全力で成せばいい。
「……」
ちらと窓の外に視線を遣る。そこには微笑で頷くエトナがいた。
入学試験の時もそうだったが、不正防止の為、持ち霊は筆記試験中は契約主の傍にいては
いけない決まりとなっている。
『大丈夫。アルスならきっとできるよ──』
そんなエールを送られた気がして、アルスはふっと微笑み返すとすぐに視線を戻した。
彼女もまた通じ合ったとみたのか、そのまま淡い翠の光を残しながら顕現を解いて一時そ
の姿を消してゆく。
出来ることを精一杯。寄せられる仲間達の真心に応える、今はそれだけを考えよう。
もっともっと強くなる。強くならなければならない。
だけどそれは、必ずしも武力という名のチカラだけではない筈だ。
皆が幸せになれるように、幸せにできるように。その為に自分は学びたい。探したい。
その為に、僕は──。
「では、始め!」
教官が時間きっかりに試験の開始を告げる。
剣ではなくペンを握り締めて、アルスは目の前の問題に立ち向かい始めた。