32-(7) 暗き風の如く
夜は更けてゆき、宴もたけなわを過ぎていく。
大人達はまだ散在として呑んでいたが、アルスは先に暇し風呂を頂くことにした。
宿舎での入浴は、他の雑事と同じく輪番制を採っている。
帰還当初は団員達とは独立したサイクルでもいいのではないかとの声も上がったが、他な
らぬアルス自身が辞退した。
一緒がよかった。皇子という事実は消せなくても、せめて可能な範囲ではその身分が故に
無闇な距離を作りたくなかった。
(ふぅ……。さっぱりした……)
結果、今もアルスは基本、他の同組な団員達と生活のサイクルを共にしている。
尤もその輪番で代わる代わるなメンバー編成は、水面下でクランや侍従衆らが計画を立て
る、それとない護衛の一環であるのだが。
「……ん?」
そうして風呂から上がり、一緒に入った団員数名と入口傍で合流したリンファを連れ、部
屋の並ぶ廊下まで戻ってきた時のことだった。
自室の前でおろおろと。イヨが落ち着かない様子でうろついていたのだ。
「イヨ?」
「あの……どうしたんですか?」
「! ああ、アルス様。その、ジーク様から導話が……」
見物している訳にもいかないので、近付いて声を掛けてやる。
するとホッと、ようやく手渡せたといった感じで答える彼女の言葉に、アルスは内心胸が
ざわめくのを覚えながら急いで差し出された携行端末を受け取った。
「もしもし? 兄さん?」
『おう。悪ぃな、風呂入ってたのか』
「ううん、大丈夫。今上がった所だから。こっちこそ待たせてごめんね」
イヨやリンファ、団員達がアルスを囲むように四方から聞き耳を立てていた。頭上ではそ
れまで(入浴中ということで)顕現を解いていたエトナもほうっと姿を現し、月明かりの廊
下にそっと淡い翠が混じる。
「それで……どうしたの? 何かそっちで変わったことがあった?」
『ん……。まぁあるにはあるが。それよかお前の方だよ。ニュース見てたぜ。確か今日だっ
たろ、選考会の初日』
アルスはわっと胸奥からこみ上げる想い──心配を矢継ぎ早に紡いだが、対するジークの
方は少し言い淀んだ風にも聞こえた。逆にこちらの様子を訊ねられる格好になる。
「う、うん。思ってたよりもたくさんの人が来たよ。ダンさんは功名目当ての輩が大半だっ
て言ってたけど、今日だけでもいっぱい仲間が増えたし」
苦笑して、でもすぐにほっこりと微笑んで。アルスは話して聞かせた。
グノーシュのことクレアのこと、そして先刻共闘することになったリカルド達のこと。
自分のために申し訳ないなと思いつつも、クランが賑やかになっていくのが嬉しいという
自身の本心も。
『……副団長の元相棒にシフォンの従妹、ハロルドさんの弟で史の騎士団、ねぇ。なんつー
か一気に大所帯になったなあ。大丈夫なのか、そんなペースで? まぁ俺やサフレは名義を
外してるし、どうこう言える立場じゃねぇんだけど』
「そんな事ないよ。僕だって皆だって、兄さん達が帰ってくるのを待ってるんだから」
暫く話に耳を傾けて、ジークがぽつと自嘲めいて呟く。
そんな言の葉をアルスは聞き逃さなかった。ムッと心なし本気になって──事実本気で願
うその言葉をぶつけ返す。
ジークは気圧されたのか、導話の向こうで気まずそうに押し黙ったようだった。
ややあって、力弱く「……そうだな」というフレーズだけが返ってくる。
『……ま、それだけ元気がありゃ充分だろ。お前の事だからここまで大事になって気に病ん
でるんじゃないかと思ってさ。それだけだ』
言って、ジークが導話を切ろうとする気配があった。
アルスが小さく声を漏らす。だが代わりに端末を取り、その切断を留めたのは、あくせく
と使命感と忠義に動かされたイヨだった。
「ジーク様? せ、せめて今何処におられるのかを教えては頂けませんか? 私どもは心配
で心配で……」
『あー……。やっぱり言わなきゃ駄目か?』
「はい。お願いします」
「僕からもお願い。一方的に心配されるなんて、ずるいよ」
再びイヨと交替したアルスが、そう静かに懇願していた。
導話の向こうでジークが躊躇っているのが分かった。しかしこのまま切り逃げても掛け直
されるだけだと観念出したのだろう、彼はぽりぽりと頬を掻きながら言う。
『……風都だ』
「エギルフィア……?」
アルス達は顔を見合わせていた。
妙だ。これまでの定期連絡、その時々の現在地を頭の中で地図化していくと、今回はやけ
にそのルートが急カーブの線になっている。
「随分とハイペースだね。方針を変えたの? それとも一旦大都市に入ってから行き先を絞
るってこと?」
『あ、ああ……。まぁ、そんなとこだ』
一応ジークは肯定したようだった。
だがその歯切れの悪さに、じとっとアルスの目が半眼になる。
「……怪しい。兄さん、何か隠してるでしょ?」
『な、何の事だ? 俺はいつも通り──』
「じゃあ何で最初そっちのことを教えてくれなかったの? それにさっきからリュカ先生や
サフレさんマルタさんが出てこないもの。いつもはリュカ先生に難しい話を任せてるのに」
『う……っ』
ジークが文字通りぐうの音も出ずに間を作っていた。
兄さん。アルスは間違いないと思い──兄弟だからこそ、心配だからこそ──問い質す。
『分かった、分かったよ。その……何日か前に“結社”とドンパチがあってな。で、そこに
割って入ってきた“万装”に連れられて、今俺達は風都のどっか屋敷みてぇなとこ……多分
あいつのアジトか何かに軟禁されてるんだよ』
「なっ……!? 何でそんな大事なことをすぐに言ってくれなかったのっ!?」
そして、予想以上の兄達の状況に、アルスの怒声交じりの叫び声が響く。
イヨ達周りの面々もざわついていた。ジークも、普段穏やかな分、その弟をお冠にしてし
まってたじたじになっている。
『わ、悪い……。向こうが向こうだし俺の立場が立場だし、下手にそっちに助けを呼んでも
事態が拗れるって、もっと自由になったら連絡しようってリュカ姉がさ……。それにこの端
末自体、つい前まで連中に取り上げられてたんだよ。リュカ姉とサフレがこっそり金を渡し
て取り戻して……で、本人達が寝てる間に……こっそり……』
「…………」
ぼそぼそと、最後の辺りは小声にトーンが下がって。
だがアルスはそんな兄の声色を聞いてようやく落ち着きを取り戻していた。
心配してくれていたのだ。リュカの目を盗んでも早く自分の声が聞きたくて、兄は導話を
してくれた。
「……そうだったの。分かった。でもリュカ先生達にはちゃんと話して謝るんだよ?」
『はい……』
兄弟の逆転現象よろしく。一旦二人はそうお説教する側とされる側になっていた。
イヨ達も少々(アルスの放った怒声を中心に)呆気に取られて、その様子をぱちくりと見
つめている。
「……こっちの助け、要る?」
『いや……まだいい。さっきも言ったけどそっちに負担は掛けらんねぇよ。話の出来ない相
手じゃねぇし、会って何の腹積もりか問い質してやるさ。……悪いな、迷惑ばっか掛けちま
って。歓迎会で襲われて今度は選考会で……。お前をここまで巻き込みたくなかったのに』
「その気持ちだけで充分だよ。兄さん達こそ、いくら父さんを捜す為だからって無茶はしな
いで」
『で、でも、狙いをこっちに向けるようにしたのは俺の──』
「無茶は、しないで」
二度目の言葉に、ジークはハッと押し黙っていた。
導話の向こうの弟が……泣きそうな声になっている。
だからこそ、ジークは「すまん」と一言だけを返した。
一方的に心配されるなんてずるい──。弟が語った優しさと過分な思慕が胸奥をくすぐっ
て言葉が頭の中で形を成さなくなる。
兄弟は暫し黙っていた。イヨ達が見守る中、月明かりとアクセントの翠だけが夜の暗さを
静かに照らす。
『……そういやアルス』
「うん?」
『そのさ、端末を使って他人を操るってのは、誰でもできるもんなのか?』
「端末で……操る? どういうこと?」
『あー……そのな。やり合った結社の中に、端末を使って村の人間を丸々操り人形にして
きた奴がいたんだ。もしかしたらそっちにも似たようなことでスパイとかができるんじゃねえか
と思ってさ。リュカ姉の話じゃあ洗脳魔導の一種だとか言ってたが……』
「そういう事。そうだね……それって多分、端末の魔流を利用した洗脳の術式だと思う。
うん、理論的にはかなり強力になる筈だよ。息を吸って肉体が潤うのと同じで、マナを取り
込むことは精神を潤すことだから。ストリーム──マナの束に術式を貼り付けられるなら、
きっともの凄くダイレクトな精神干渉になる……」
『ふーむ……そっか。分かったような、分からんような……』
「はは。流石に難しいかもね。僕だって実際を見てみないと確かなことは言えないし」
兄弟はそんな話題を交え、暫し語らっていた。
兄は弟を慮り、弟は兄を慮る。
それは優しくも、共に“己を手放しながら”の歪でもある……。
「──もしもし。そろそろ掛かってくる頃だと思っていたわ」
その頃、サムトリアン・クーフ大統領公邸の一室。
首長ロゼッタが横目で見遣っている中、“黒姫”ロミリアはベルを鳴らした目の前の導話
器に素早く優雅に応じていた。
『やあ“黒姫”。その予知能力は相変わらずだね』
相手は、同じ七星が一人“万装”のセロだった。
彼女はこちらも相変わらずの飄々とした言葉遣いをさらりと受け流し、静かに笑う。
「予知という言い方はあまり好きじゃないわ。私はただ星々の瞬きを観ているだけ」
『それを人は予知だの何だのと云うのだけどね』
一見して優雅、しかし本質は火花に限りなく近く。
二人は開口早々にそんな会話を交わしていた。妙な威圧感が頭をもたげ、離れソファに腰
掛けていたロゼの表情はすぐれない。
「それで? 用件は何?」
『まぁどうせ分かってるんだろうけどねぇ。……ジーク・レノヴィン及び同行者三名を確保
した。今風都の僕のアジトで“待機”して貰っている。そこで君には、こっちの事が済むま
での間、保守タカ派を抑えていて欲しいんだ。そこにいるロゼ大統領の助力も期待したい』
「なるほどね。いいわよ。お互い利害は一致している訳だし、そもそも貴方のことだから仮
に断ろうとしても二重三重にそうさせないように意趣返しを用意しているんだろうし」
セロはその言葉に直接返答はしなかったが、導話の向こう、夜闇の中ぽつんと灯った明か
りの中で静かに微笑んでいる。スリットから伸びる脚を組み直して、ロミリアは言った。
「……一番の厄介者は保守同盟でしょうね。そこは大統領の出番かしら」
言われて、ロゼは片眉を上げていた。
彼女もまた、この二人──に関わる権謀をよく知る一人である。
『ああ、頼むよ。お互いの為に……ね』
暗き闇の中に点々と光が見える。風が吹いている。あれが風都の文明の灯だ。
「おーい、ヘイトっちー。早く行こうよー。任務はまだずっと向こうだよー?」
「分かってるよ。すぐに終わるから」
そんな空を街を、人知れず見下ろしている者達がいた。
ヘイト、アヴリル、クロムにヴァハロ。ジーク達が小村で対峙した“使徒”達である。
離れた──それもかなり高所の塔先にひょいひょいと立つ中で、一人ヘイトは自身の携行
端末に目を落として弄っていた。
画面からの照明。その小さな光に照らされた横顔は、幼さ若さが故の残忍さを思わせる。
カチカチとディスプレイ上のキーを連打し、素早く文字列を打つ。
開かれているのは通称・掲示板。導信網上で人々が情報──特に生の声をやり取りする
ページだ。そこにヘイトは、以下のような一文を書き込み、煽り立てる。
“ジーク・レノヴィンは今、風都にいる。
真なる摂理の徒らよ。立ち上がれ!”
『……』『──』
送信ボタンを押した瞬間、マギネット上の“保守派”がディスプレイと閉ざされた部屋の
明暗の中で次々に目を光らせていた。中にはそっと真っ白な仮面を手に取り、己が顔に装着
する者もいる。
“災いがやって来た”“除かねばならない”
書き込みは書き込みを呼び、ストリームを介したアンダーグラウンドは沸々とした怨憎の
大合唱に染まってゆく。
「……あの村じゃ“万装”に邪魔されたけど、それで大人しく引き下がる僕じゃない」
ククッと、ヘイトは嗜虐的に哂っていた。じわじわと瞳が高揚で血色の紅に染まり、彼を
魔人だと知らしめる。
「レノヴィン──この僕に泥を塗った罰だ。精々、掻き乱されろ」
紅い眼と白の発光。
止む事を知らない災厄は、尚も闇より迫っていた。