32-(1) 背負うものは
頭の上から雨のように水量が落ちてくる。
蛇口を捻って調節してやると、裸体を伝う温度はようやくほんのりと熱を帯び始めた。
アウルベルツの一角にある教会。リカルド率いる『史の騎士団』の一個小隊はここを当面
の滞在先としていた。
時刻はまだ夜も明けきらない明朝。リカルドは眠気覚ましも兼ね、一人風呂場でシャワー
を浴びている。
「……」
ぬるま湯が肌を伝い落ちるのを感じながら、リカルドはスッと上げていた顎を引き、黙し
て俯き加減になった。
濡れた体表面。そこには──背中を中心にびっしりと刺青が彫られていた。
それもただの刺青ではない。見る者が見れば、すぐにそれらが身体中の至る所に刻まれた
呪文の群れであると知れる。
これこそが、彼の力の秘密だった。
調刻霊装──本来は時の流れに干渉し、自身の速さを何倍にも高めることの出来る高位の
刻魔導具である。
しかしリカルドは、その術式群を道具にではなく己の身体に刻んでいた。
故に、彼の操る刻魔導は限りなくノンウェイト──無詠唱で発動が出来る。魔導具という
詠唱省略の特性に加え、発動媒体が自分自身なため、マナ注入のプロセスすらも大幅に短縮
が可能だからだ。
しかしそんな強い力は、同時に彼にとって大きなリスクでもある。
元より魔導具を道具としているのは、魔導の力を全てヒトの身で受けることを避けると
いう目的もある。
要は“器”の問題なのだ。
ヒトの身体は一朝一夕で変えられるものではないが、モノならばより高度に練磨した代物
を媒体にすればいい。
にも拘わらず、彼はそのリスクを背負う選択をしている。
言い換えれば、彼はそんなリスクを負ってでも力を得なければならなかったのだ。
(兄貴……)
記憶が再生される。リカルドの脳裏には、夜の病院でダン・マーフィに“結社”に関する
推測を語る兄ハロルドの姿が映っていた。
昔から、あまり感情を表に出さない──しかし優秀な兄ではあった。
しかしそんな兄が、両親も誇りとしていた兄が、あの日突然聖都を出て行くと言い出した。
勿論、両親は止めた。教団関係者というステータスを捨てるなどとんでもないと。
だが兄は聞く耳を持たなかった。レナちゃん──成り行きから引き取った養女を連れ、彼
はそのまま一族と半ば絶縁する形で出奔してしまったのだ。
あれから……十年。
自分達は随分と変わった。
次代の担い手を失った両親は親戚は、大いに戸惑い怒り狂った。
そしてそんな時になって、ようやく自分は何故兄があそこまで教団から離れることに拘っ
たのか分かったような気がした。
『なぁ、リカルド。私達の祈りは……本当に人々の助けになっているのだろうか?』
いつだったか、珍しく兄はそんな事を自分の隣で呟いていたっけ。
その時は「神官がそれ言っちゃあ駄目だろ」と苦笑して受け流していたが、もしかしなく
とも、兄は既にあの頃から教団という組織に疑問を持っていたのかもしれない。
──教団は人々の救いの為ではなく、自分達の利益の為の組織に為り下がっている。
きっと、そういうことを言いたかったんだと思う。
皮肉にも兄という存在が欠けた事で、自分は気付かされた。
両親や親類は兄を誇っていたのではない。ただ教団司祭の一族というステータスに酔って
いただけなのだ。
だが……それが分かったとして、兄の“穴”は放置できなかった。
やがて後継に弟である自分が、半ば強制的に選ばれ、今ここにいる。
教団本部直属アーティファクト保護機関・史の騎士団の部隊長として。
因果なものだなと、自分でも思う。
「隊長」
そうしていると、はたと扉の外から隊士の声が聞こえてきた。
「……どうした?」
リカルドは遠くの記憶に足を伸ばしていた意識を現実に手繰り寄せ、キュッと蛇口を締め
てシャワーを一旦止めると、声色も心身も改めて引き締めて言う。
「本部より通信が入っております。教皇様直々のようですので、謁見の準備を」
「分かった。すぐに行く」
手早く濡れた身体を拭って黒法衣の制服に袖を通すと、リカルドは部下達と共に教会内の
一室に足を運んだ。
教会の人間も広義には教団の傘下にあるとはいえ、部外者だ。
既に彼らは部下達によって別室へと人払いされている。
『入浴中でしたか。少々間が悪かったでしょうか』
「いえ。ただの眠気覚ましに浴びていただけです。お気遣いなく」
その部屋の中央には、ほうっと魔導の光球が浮かんでいた。
遠視の魔導。そこにストリームを繋いで通信の機能も付け加えてある。原理的には導話と
同じだ。
光球の映像には、美麗な装飾が施された玉座に座る、鳥翼族の女性が映っている。
エイテル・フォン・ティアナ三世。現在のクリシェンヌ教団のトップ──教皇である。
純白の法衣と静かにアクセントを加える金の刺繍。ふんわりとした亜麻色の長髪と大きな
コウノトリ系の翼。齢はまだ三十にも満たないながら、五年前新たな教皇に就任したうら若
きリーダーだ。
開口一番、エイテルはそう穏やかに切り出していた。
しかしリカルドは部下と共に片膝をつき、頭を垂れた最敬礼を崩さず応えるのみだ。
映像の向こうには教皇の取り巻き──年季の入った枢機卿達の姿もある。断じて和やかな
談笑をしている場合ではないし、そんな余裕も端から存在しない。
『報告は受け取っています。予想はしていましたが、本当に刺客が放たれるとは……』
そんな内心を知ってか知らずか、それでもエイテルの声色は終始穏やかだった。リカルド
の寡黙さに心持ち居住まいを正すと、彼女はごく自然に話題を本筋へと戻していく。
『そして随分と勝手な真似をしてくれたそうだな?』
『報告では、君自身の手で“結社”の一人を撃ち殺したとある』
控えめにだがはっきりと、言葉を継いでそう苦言を呈してきたのは枢機卿達だった。
とはいえ、リカルドにとっては想定の範囲である。彼は頭を下げたまま、
「はい。アルス皇子の──護皇六華の手掛かりを失う訳にはいきませんでしたので」
予め用意していた返答を紡ぐ。
『それは報告書で読んだ。分かっているのか? 君達は我々教団の──』
『およしなさい。彼の判断は間違ってはいませんよ』
枢機卿の一人が苦々しい表情と声色で追求しようとした。だがその言葉を、他ならぬ
エイテルが制止する。
ピタッと止む声。そしてじりっと小さく頭を垂れて引き下がる彼を横目に認めながら、彼
女は若干トーンを落とし気味に続ける。
『……任命時に話した通り、昨今の“結社”の動きは看過できないものがあります。もし彼
らの目的が単に政治闘争であれば、我々も中立の立場を変えなかったでしょう』
はい。リカルドは小さく呟いていた。
そもそも教団はその歴史が長く、故に総じて保守的である。
これまで多くの国際的懸案が現れても、組織としての教団はあくまで“博愛の精神”で以
って「遺憾の意」を示し、結局は傍観者であることが殆どだったと言っていい。
だが今回、こうして自分達神官騎士が派遣された──教団が事態の介入に舵を切り始めた
のには相応の理由がある。
『聖女様は仰いました。真実を集め、災いに備えよと。祈りとは閉じるのではなく拓く為の
ものだと。……私達は知らなければなりません。聖女様の意図した“真実”を知った上で、
人々の安寧に資するのが我々の存在意義なのですから』
神に委ねよ、そう言わなかったことこそが聖女の真骨頂なのだとリカルドは思っていた。
おそらく彼女は当時から知っていたのだろう。
神々──神格種達もまた、セカイの枠に囚われたに過ぎない“不完全な者”であることを。
だからこそ彼らに頼るばかりでなく、己の眼で足で前へ進めと云ったのだ。
天上層・地上層・地底層──三界間の往来が一般的になったのは大戦よりずっと後の事だ
から、我らが開祖は相当な先見の眼の持ち主だった筈だ。全くもって恐れ入る。
『楽園の眼は“世界を在るべき姿に戻す”ことを標榜しています。それに加え、トナンでの
一件を始めとして聖浄器を──世界中のアーティファクトを強奪している……。もしかした
ら、彼らは何か我々の知らない“真実”を知っているのかもしれません』
「……」
そう、焦りだ。
教団を──その只中にいる権威を借る者達を駆り立てるのは、出し抜かれることへの惧れ
なのである。
表向きはアーティファクトの保護や歴史研究と銘打っているが、実際の所は組織の威信の
ためだ。成り行きとはいえ、神官騎士としてのキャリアを積む中でこの機関に配属されるよ
うになって、いつか兄が呟いていたことは当たっていたのだと今では思っている。
『その為にも、今クラン・ブルートバード──レノヴィン兄弟との接点は何としても維持し
なさい。彼らは間違いなく、今日最も“結社”や聖女様の憂いた何かに近い者達です。そし
てまた一歩、彼らは大きく動き出そうとしています』
「先日の新団員募集の件ですね」
『ええ。今回通信を繋いだのは他でもありません。──教皇エイテル・フォン・ティアナが
命じます。神官騎士リカルド・エルリッシュ以下小隊は今後、クラン・ブルートバードと共
闘関係を結びなさい。彼らに力を貸しながら、救いの為の“真実”を集めるのです』
リカルドは思わずちらと顔を上げていた。
最初は護皇六華を回収すればよかった筈だが、知らぬ間に随分と大きな役回りを押し付け
られたらしい。
命じるエイテルの反面、枢機卿達の表情は浮かない様子だった。
当然だろう。これは最早中立ではない。
何より自分は、教団にとって“裏切り者”の弟なのだから。
(いや……だからこそ、か……)
しかしふと思い直して静かに眉を顰める。
見方さえ変えれば、ブルートバード──兄との接点を確保するのに自分ほど態の良い駒は
いない。少なくとも教皇自身にとっては織り込み済の人選だった訳だ。
『宜しいですね? 件の兄弟とその周囲は今後も様々な変化があるでしょう。報告はこまめ
に、怠らないように』
……いいだろう。引き受けてやろうではないか。
祈りだけでは救われない。力だけでも、きっと救えない。
どんなものかは知らないが、突きつけてやろう。求めて止まぬ“真実”とやらを。
元より自分は──遊び人だった時期もあり──それほど信心を持ち合わせてはいない。委
ね過ぎないことは、両親・親類の背中を横顔を観て学んできたつもりだ。
「……はい。確かに承りました」
再び顎を引いて俯き加減に。片膝をついたままの最敬礼で。
部下達と共に、リカルドはこの組織の長らへ深々と恭順のポーズを取ってみせていた。