31-(6) 終わりと始まりと
始めは、身体のあちこちが錆び付くように動かなくなる感覚だった。
だがそれよりも恐ろしく思えたのは、そんな四方八方からの違和感の波を追ってくるよう
にやって来た、暗い暗い黒塗りの闇だった。
これが……死の気配なのか。
漠然とだが、そう思った。だが不思議と泣き叫ぶような事はしなかった。
もうその時には、声も含めて身体の自由が効かなかったからなのかもしれない。
『ど、どうしたんですか!? しっかりして下さい! ミアさん、ミアさんっ!!』
でも、多分違う。きっと自分はホッとしていたんだろう。
助けられて、よかった。
彼を、護れたんだって──。
「…………んっ」
ふと身体が軽くなった。温かい何かが心身の錆び付きを解いてくれたかのように。
ミアは一度眉間に皺を寄せ、ゆっくりと目を覚ましていた。
あの時とは逆に、身体中から錆び付く感触が撤退してゆくのが分かる。感覚全てを覆い隠
さんとしていた暗闇も、今は瞳にそっと差してくる月明かりが照らし、祓う。
(……。此処は……)
背に敷かれた布団が丸められ、ちょっとしたリクライニング状態になっていた。
ぼんやりとした意識の中、ミアはゆっくりと手元を確認する。
鼻をつく消毒液の臭い、やけに静かな室内、そして何よりも腕から伝う点滴の感触とその
さま。どうやらここは病室であるらしい。
自分は助かったのか?
そうミアは何気なく視線を横にズラし……。
「──!?」
そこに、すやすやと眠るアルスの姿を見た。
「……ッ!? ッ!?」
瞬間、ぼんやりとしていた意識が沸騰したように覚醒する。
何故なら彼は、ベッドの布団越しとはいえ自分の膝の上に両腕と顔を預けて──身を寄せ
て、静かな寝息を立てていたのだから。
……か、可愛い。あ、いや、そんな場合じゃ……!?
想い人のあまりに無防備な寝顔。
ぐるぐると、ミアの思考はほんの数秒の内にあちこちへぶつかるかのような混乱に陥って
しまう。
「やっほ。目、覚めたみたいだね」
すると不意に聞き慣れた声がした。
視線を上げる。月明かりの差す夜闇の中でも、淡く輝く翠色の精霊──エトナだ。
そうだった。アルスがいるのだから、彼女だって当然の如くこの場にいる訳で……。
見ればエトナは、少なからずニヤニヤした表情でこちらを窺っていた。ミアはぐらぐらと
する瞳のままその視線に向き合う。ボッと、頬は既に真っ赤になって熱を帯びているほどだ。
……間違いなく、先程の起き掛けの自分のリアクションは、全て彼女に見られてしまって
いるのだろう。
「ああ、目を覚ましたか。よかった……」
そしてもう一人、ミアの目覚めに安堵の表情を浮かべてくれる者がいた。凛と、窓辺から
外の月夜を眺めていたリンファである。
彼女とエトナの二人は、そっとアルスの左右に陣取るように近付いてきて、浮かんで、改
めてベッドの中に座っているミアと向き合う。
「……ボクは、どうなったの?」
「うん。それなんだけど」
「覚えていないか? アルス様を庇って負傷して……。実はその刃に毒が塗られていてね」
ミアに、二人は順を追ってこれまでの経過を話してくれた。
“結社”からの襲撃の中、ミアがアルスを身を挺して守ったこと。その際受けた毒によっ
て昏睡状態に陥ったこと。故にアルスは酷く気を病み、心配し、自ら解毒剤の材料を採取す
る為に忌避地に赴き──完成・投与されて今に至ること。
「アルス様もホッとされたのだろうな。見ての通り、疲れて眠ってしまった」
「大変だったんだよ? 途中ででっかい魔獣を起こしちゃったもんだから……」
代わる代わるに語ってくれる二人。
だがミアは、途中からその話も何処かぼんやりと遠くのものに感じられていた。
(アルスが……ボクの為に……)
彼女にとって、何よりもその事実がドクンッと胸奥を突いて疼き始めていた。
優しい彼のことだ、きっと罪悪感からの行動だったのだろう。だけど……それでも、自分
はこんなにも嬉しく思う。頬が、胸奥が熱い。心臓の鼓動がドクドクと強く脈打っている。
「そっか……」
何と言えばいいのか分からず、結局ミアはただそう呟くことしかできなかった。
ちらと疲れて眠ったままのアルスを見る。ほうっと、また頬が赤く熱を持つのがはっきり
と感じられる。
「……さて。少し待っていてくれ、ダンを呼んでくるよ。ちょっと前にハロルドが来て何や
ら話していたようだが……」
エトナがニヤニヤと笑い、リンファが穏やかな微笑みを向けてくる。
すると彼女はすっと身を返し、そう言って早速父親を探しに部屋を出て行った。
ドアがそっと開く。だが気のせいか、出て行く寸前にあらぬ方向を見ていたような──。
「……」
そうミアが小さく怪訝を見せたのとほぼ同時、リンファと入れ替わるように病室に姿を見
せたのは、シンシアとゲドだった。
入ってすぐに彼女は彼に「外で待っていなさい」と小声を。彼は相変わらず豪快というか
保護者然とした笑みで頷き、そっと身を退いてまた姿が見えなくなる。
「目が覚めたみたいね。ミア・マーフィ」
「……シンシア・エイルフィード」
今度は緊迫気味のような。
シンシアとミアは、互いに姿を認めるとその名を呼び合って暫し視線をぶつけていた。
「そんな眼で見ないで下さる? む、むしろ感謝なさい。解毒剤を実際に作ったのはうちの
キースなんですから」
だが今夜は、シンシアは別段火花を散らす為に訪れた訳ではないらしい。
ミアがぱちくりと目を瞬き、確認するようにエトナを見遣る。
「うん、そうだよ。取り寄せてる時間が惜しいってアルスが忌避地に行ったのも、元々は
キースが解毒剤の作り方を知ってたからだし」
補足説明を受け、ミアもまた乙女の警戒を解いたようだ。
改めてシンシアを見遣り直す中、今度はエトナが問う。
「で、そのキースはどうしたの?」
「薬事課に残ってますわ。調合後の後片付けとか、あと病院のスタッフ達と話し込んでいる
みたいで。私には専門外だからよく分かりませんけど」
「ふぅん……」
暫し、三人は会話が途切れて黙ってしまっていた。
その間も月明かりは静かに病室を淡く照らしている。聞こえるのは外の虫の音や、未だに
起きる気配のないアルスの寝息ぐらいだ。
「……これで、今回の件はノーサイドですわよ?」
やがてシンシアがそう、視線を逸らし気味に口篭る。
ミアも、軽く眉根を寄せて彼女を見る。
「私……負けませんから」
ぽつっと疑問符。しかしすぐに氷解、理解。
「……うん。ボクだって」
ミアもまた、そんな彼女の意図──恋の鞘当の再開に頷き、きゅっと唇を結ぶ。
(やれやれ……。寝てる場合? まったく、兄弟揃ってニブチンなんだから……)
そしてそんな彼女達を、エトナは傍観者的に眺め、未だにむにゃむにゃと眠りの中で安堵
するアルスを見下ろしては穏やかに苦笑する。
「──くちゅん!」
誰かに哂われたような気がして、レナは不意にくしゃみをしていた。
時は夜更け、処はホームの酒場内。
レナはステラや当番の団員ら数名と共に、ひっそりとした夜の厨房で後片付けをしている
最中だった。
「大丈夫、レナ?」
「う、うん。平気……」
皿を拭いていたステラがきょとんとしてこちらに振り向いてくる。レナは苦笑を返して平
常心を装い、ひらひらと手を振る。傍の蛇口を捻って水を出し、そそくさと掌を洗い直す。
普段は夜遅くまで酒盛りをする団員達(主にダンだが)で賑やかなこの『蒼染の鳥』も、
今夜に限っては皆口を閉ざしがちだった。
自分も含め、ミアが心配で仕方ないからというのは言うまでもないだろう。目覚め祝いに
と用意された酒も結局未解封のままである。
それは庇われたアルス当人も同じ──いやむしろ深刻で、少しでも早く解毒剤を作る為に
わざわざ危険を顧みずに郊外の忌避地に潜ったと聞く。
紆余曲折を経て肝心の解毒剤はキースによって完成し、早速ミアに投与されたそうだ。
これで彼女の体内に居座る毒が消えれば、やがては目を覚ますだろう。
今夜は父親であるダンや、アルス・リンファらが夜を徹して看病に行っている。そういえ
ば犯人捜索から戻ってきたシフォンと話していた父が、ふと出掛けて行ったようだが……。
(好きな人が付きっきり、かあ……)
先刻に聞かされた襲撃者達の末路が脳内映像であまりにもグロテスクで、レナは不謹慎だ
とは思いながらも、自身の思考を別の方面へと切り替えてみる。
毒に魘されているとはいえ、今友人は想い人に看病されている状況なのだ。
やっぱり不謹慎だけど──解毒剤を投与されたという安堵材料が今あるからにしても──
ちょっぴり……羨ましい。
(ジークさんだったら、どうなるんだろう?)
ふと、そんな妄想が羽を広げ始めた。
今は遠く南方まで行ってしまった彼だけど、もし自分に何かあったら駆け付けてくれるの
だろうか。あ、でも何だかんだで照れ屋さんだから、アルス君みたいなストレートな優しさ
は発揮してくれないかもしれない……。
「……」「……」
ほうっと頬が赤くなり、ふるふると首を横に振る。
すると不意にステラと目が合った。女の勘だが、彼女も何だかそわそわとして頬も赤い。
もしかしなくても、似た事を考えていたのか。……互いに打ち明けたことこそないが、自
分達は想い人を共有している間柄でもある。
(うぅ。私達って大変な人を好きになっちゃったんだなあ……)
(はぁ……。私達が好きな人って何でこんなにも難儀なんだろ……)
想いを呑み込みつつ、それでも同時に吐き出されたのは、そんな嘆息。
計らずも寸分違わぬタイミングでその動作をしたレナとステラは、互いに顔を見合わせて
驚き、そして何とも可笑しくって苦笑する。
「皆っ!」
酒場の裏手──宿舎の方からシフォンと数名の団員が飛び込んで来たのは、ちょうどそん
な時だった。
「ダンから連絡があった。ミアちゃんが目を覚ましたよ!」
瞬間、場の面々が上げる歓声が重なる。厨房のレナとステラも、それは同じだった。
パチンと互いの手を合わせ「やった!」と歓喜。アルス達が必死になって作ってくれた解
毒剤は、友に降りた災いを確かに振り払ったのである。
「良かった……無事で……」
「シフォンさん、で? で、ミアちゃんは今……?」
「うん。目を覚ましてリンファやエトナと話してるみたい。ダンからの導話は今イセルナが
受けている最中だよ」
「──そう、良かった……。お疲れさま、ダン」
『……ありがとよ。まぁ俺は看てただけで何もしてねぇんだがな。礼を言わなきゃいけない
のはむしろ俺の方だよ。護るべき相手なのに、結局そのアルスに負担を掛けちまった』
団員達が歓喜と安堵に包まれているその一方、自室にいたイセルナは病院から掛かってき
たダンからの導話に応じ、事の顛末を聞き終えた所だった。
声色はいつも通り落ち着いているが、内心は酷くホッとしていた。
かつては一度本気で刃を交えた副団長。その愛娘は、今や自分にとっても家族同然である。
だからこそ、その父当人が乾いた笑いを零すのを、イセルナは他人事ならざる想いで聴い
ていた。
「そう自分を責めないで。皆にも言っていたじゃない、それぞれが自分の役割を果たしてい
るだけだって」
言ってはみたものの、それがダンの本心ではないことはとうに分かっていた。
あくまで毅然と、クランの副団長として一介の戦士として、皆に表立った動揺を見せる訳
にはいかないと気を張っていたのだと思う。
導話の向こうのダンは、またフッと自嘲的に笑っていた。
これが子を想う親心か……。イセルナは思い、それ以上の無闇な慰めを封じる事にした。
カーテンの僅かな隙間から月明かりが漏れている。
二人は導話越しに、暫く黙り込んでいた。
神妙な面持ち。思考が故の沈黙。ゆらゆらとその間も変遷する夜闇と灯り。
『……イセルナ』
やがて最初に口を開いたのは、ダンだった。
『やっぱさ、このままじゃいけねぇよ。今のままじゃあアルスを、皆を護り切れねぇ』
「奇遇ね。私も……そのことを考えていた所よ」
イセルナは静かに同意していた。先刻、執政館を襲った“結社”の末路を知り、彼女もま
たハロルドと同様に敵の強大さに気付いていたからだ。
「こちらも、動かないといけないわ」
導話の向こうでダンが黙っている。コクと頷く様子が、震えた空気で察せた気がした。
「改革しましょう。このクランを──もっと強く、大きく」
今一度、深呼吸を一つ。
数秒、スッと瞑った目を開き、次の瞬間イセルナはそう静かに言ったのだった。