31-(0) 刑する魔手
転移先に登録していた郊外のあばら屋は、既に守備隊らに捉えられつつあった。
皇子アルスの抹殺に失敗したゲイスとムドウは、そのまま殆ど転がり出るようにして追撃
の軍靴から逃げ続けていた。
夜の闇は深い。森の木々は我先にと枝葉を伸ばし、頭上にある筈の月明かりすらも虫食い
のように遮っている。
「……っ、はぁ……!」
ゲイスの脚が悲鳴を上げていた。もうどれだけ走ったのだろう。なのに自分達を覆わんと
する闇は、相変わらず周囲に沈殿したかのままだ。
「急げ、早くしないと追いつかれるぞ!」
焦りと疲労は一歩先を往くムドウも同じだった。
しかし歩を緩める訳にはいかない。アウルベルツからの追跡者の数は、時間を経るごとに
増している。おそらくは周辺諸候も動き出したのだろう。一刻も早くこの地域から一時離脱
する必要がある。
「儂のバフォメットも、自己修復が終わるまでは使い物にならん。人形達も殆どやられた。
今連中に捉えられれば犬死にするだけじゃ」
「……」
焦燥に駆られ、思わず衝いて出た彼の言葉。
するとそれを聞いた瞬間、俯き加減のまま肩で息をしていたゲイスが、ふと動きを止めて
ギロリとこちらを睨み付けてくる。
「犬死に? やっぱりてめぇは、キリヲを見捨てたのかッ!?」
「? 何を──」
眉間に皺を。
だが疑問符が口に出るよりも早く、次の瞬間ムドウはその胸倉をゲイスに掴まれていた。
身長差からも見下ろされる格好。ゲイスは普段の戦闘狂とはまた違う、泣き腫らすような
真っ赤に充血した目でムドウに詰め寄り、叫ぶ。
「あいつは……キリヲとは、昔っからの相棒なんだよ。一緒に伸し上がって、この糞ったれ
な世界を変えようぜって……。あいつはバカだけど、気の置けない奴だった……。それをよ
りにもよって犬死にだ? ジジイ、てめぇはあいつを捨て駒にして逃げてるんだぞ、分かっ
て言ってるのか、あァァ!?」
「ぬっぐ……。お、落ち着けゲイス! あの一瞬で儂らにキリヲを救えたか? 発動の瞬間
は見えなんだが、あれはおそらく刻魔導の一種じゃろう。仮に割って入れたとしても、こち
らの犠牲が増えただけじゃ」
ムドウは咳き込みつつ、何とかゲイスを振り解いていた。
老いた身体が若者の激情に晒され、ギシギシと悲鳴を上げている。それでも長年の相棒を
失う結果となった彼は、尚もやり場を見出せない怒りを自分にぶつけようとしている。
「……教団の神官騎士が入り込んでいるとは想定外じゃった。おそらく当日にやって来たの
じゃろうな。……儂の、ミスじゃ」
夜闇を見上げて、ムドウは大きく息を吐いた。
自分達が世間から“敵”とされていることは重々承知の筈だった。しかしどちらに大義が
あるにせよ、こうして憎悪は連鎖していくのだろう──そんな思考がフッと脳裏に過ぎって
は霧のように消えてゆく。
「耐えろ、ゲイス。今はとにかく退くしかない。別の大陸まで退いて、もう一度体勢を立て
直せば──」
「その必要はないよ」
ちょうど、その時だった。
それまで二人しかいなかった筈の闇から声が聞こえてきたのだ。
思わず弾かれたように振り返る。するとそこには、どす黒い靄と共に空間転移してくる三
人の人影が姿をみせようとしていた。
「随分と大きく出たみたいね。信徒ムドウ、信徒ゲイス」
夜闇から歩を踏み出してきたのは“使徒”達だった。
気障なマント青年フェイアンとその姉フェニリア、そして面倒臭そうに初っ端から睨みを
効かせている大男バトナス。
彼ら三人の姿を認めて、ムドウとゲイスは反射的に低頭のポーズを取っていた。
“結社”の下っ端──「信者」らを取り纏める自分達「信徒」が中級の構成員なら、彼ら
は更にその上、教主直属の幹部級なのだ。
フェニリアの妖艶かつ指弾するような眼に、ムドウは内心慄きながらも返答する。
「も、申し訳ありません。どうやら教団からの伏兵が混じっていたようで……想定以上にこ
ちらの包囲網が早く破られてしまったのです」
「……キリヲが、相棒がそいつに殺られました」
「で、ですが戦力は把握しました。今度こそは……!」
平身低頭。ムドウは何とかこの使徒らの機嫌を取ろうと必死だった。
だが当の彼らは最初、黙ったままだった。
恐る恐ると、ムドウはゲイスは顔を上げて彼らを見てみる。
バトナスは両手を組んだままの仁王立ち。フェイアンは姉と顔を見合わせてから、相変わ
らず飄々とした──しかし確実に腹の底にどす黒いものを抱えたまま、微笑う。
「おかしいなあ。さっき『その必要はないよ』って言ったよね?」
ムドウの顔から血の気が引いた。
やはり彼らは咎めに来たのだ。今回のレノヴィン抹殺の失敗を。
「……一応言っとくが、俺達はトチったからシメに来たんじゃねぇぞ? いくら片割れだけ
だっつっても、信徒級が仕留められるなんざ思ってねえし」
バトナスが発言を繋ぐように言った。
ゲイスとちらと顔を見合わせ、ムドウは戦慄の表情の中に少なからぬ疑問符を含ませる。
ならば何故、わざわざ使徒クラスの彼らがやって来たのだろう? まさか教主様より直々
のお言葉でもあるのだろうか……。
「私達は、貴方達に“罰”を与えに来たの。大命より己の功名を優先した。何より……信徒
ムドウ、貴方は決してしてはならないミスを犯した」
「えっ?」
「……てめぇ、自分が口上の時何て言ったか覚えてるか?」
一瞬間、間の抜けた返事。
だがスッと眼光を鋭くしたバトナスの一言に、ムドウらの精神は再びおぞましい戦慄に支
配されることになる。
『教主様が大命の下、貴様らを処刑する。摂理への反逆、その命で以って贖って貰おう!』
確か、そんな台詞。
犯してはならないミス──ムドウはゲイスが目を見開いて固まったのを横目で見ながら、
ようやく自分達が置かれている状況を悟った。
「きょ……教主、様……」
「正解。愉悦にかまけて貴方は禁則を破った。決して外部に漏らしてはいけないあの方の名
を、貴方はレノヴィン達の前で口にした」
「そーいう訳だ。もう二度目はねぇ、ここで消えろ。それがあの方からの命だ」
どちらからともなく、二人は後退り始めていた。
闇の中に身体が沈んでゆく、ザザッと足元の茂みが擦れた音を立てる。
殺される──!! 二人は次の瞬間、彼らに背を向けて逃げ出そうとしていた。
だが……足が動かなかった。無残に大きく顔面から地面に倒れてしまう。
「誰が逃げていいって言った?」
フェイアンが嗜虐的な微笑を湛えていた。かざした掌からは薄らと冷気が漏れている。
ぶつ切りに喉から漏れる二人の悲鳴。その足元は、彼が放った魔力の氷でびっちりと固め
られてしまった後だった。
「手間取らせるなって。ただでさえ余計な仕事増やしやがってよぉ……」
「大丈夫、すぐに終わるわ。すぐに……ね」
動けない二人に、バトナスとフェニリアがゆっくりと近付いてくる。
メキメキッと肉を裂く音と共に彼の片腕が魔獣のそれに変じ、月明かりが照らす影を文字
通りの異形に変える。歩を進める度に彼女の回りには焔の悪魔が姿を現し、ぐるぐると宙を
闊歩しながら闇色を紅く染める。
「ひぃ……ッ!」「た、助け……」
二人は威勢も何もかも削がれ、掠れた悲鳴を上げる事しかできなかった。
それでも、処罰の為に訪れた使徒らは歩みを止めない。
振り上げられた魔性の腕、命を宿して蠢く焔の使い魔達。
──次の瞬間、二人分の短い悲鳴が夜闇の森に残響した。