29-(6) 牙を剥く闇
「皇子達が……消えた?」
一方で、ルシアンら空間結界の範囲外に逃れた者達は唖然としていた。
彼らの目に映った光景は、広間に走った藍の魔法陣と逃げろと叫んだアルスの姿、そして
次の瞬間ごっそりと取り除かれたように姿を消してしまったその当人達。
「あ、アルス様……リン達も……。どど、どうしたら……っ!?」
突然の事にざわめきながら立ち尽くす諸侯やその他出席者達。
その中にはイヨら侍従衆達もいた。ルシアンが眉間に皺を寄せている傍で、彼女は仕える
べき主や友らの消失模様に分かりやすいほど狼狽している。
「落ち着いて下さい、侍従長。今当家の魔導師達を召集しています。先程の現象は……おそ
らく空間結界でしょう」
そんな彼女に、ルシアンは同時併行的に屋敷の者達に指示を飛ばし始めながら言った。
「空間……。ではアルス様達は」
「ええ。今頃、結界内に閉じ込められているのではと思われます。難しいですが、何とか外
から術式の解除を──」
「止めときな」
だが、そんな彼の方針を止める者がいた。
言い掛けた言葉を遮られ、ルシアンがイヨが、駆け出そうとしたスタッフ達が思わず振り
向き、足を止める。
「空門の魔導はデリケートだ。外から力ずくで壊そうとすれば、中にいる皇子や諸侯がその
まま二度と出て来れなく──文字通り消えて無くなる危険性がある」
近付いてきたのは、黒法衣の集団・史の騎士団。その一部隊を率いるリカルドだった。
それは駄目だ……! ルシアンはギリッと奥歯を噛み、苦渋の表情でアルス達が消えた空
間を見遣った。そんな視線をそっと追い、辺りを見渡すようにしてから彼は続ける。
「それよりもすぐに屋敷の中を隅から隅まで探す事です。この場に術者の姿は無い……とな
れば、結界を維持しているのは外部的なツールになる。魔導具がこの屋敷の中の何処かに仕
込まれている筈だ」
「仕込まれている……? そんな、警備には万全を──」
「だったらこんな事にはなってないと思いますがね? まぁ相手が“結社”ともなれば無理
もない話かもしれませんが」
「や、やはり彼らなのですか? 嗚呼、アルス様……リン……皆さん……」
「……さっきの発動の様子からして、一つや二つじゃない。もっと沢山ある筈だ。結界を外
から解くには、それらを片っ端から見つけて潰す他ない。術式へ供給されているマナが途絶
えれば、結界は自ずと維持できなくなる」
「わ、分かりました……すぐに探索を始めましょう。助言、感謝します。……おい!」
三柱円架の法衣、教団からの来賓とすぐに認められたこともあり、ルシアンはすぐにリカ
ルドの言葉通りに指示を出し始めた。
集まってきたのは、伯爵付きの魔導師達。
彼らを中心に編成された人員は大急ぎで散開、屋敷中へと散らばってゆく。
「隊長」
そんなににわかに慌しくなる周囲の中で、そっと黒法衣らがリカルドに声を掛けていた。
サッと振り返ってくる神妙な表情。
そんな彼の視線に、一糸乱れぬ整列で以って。
「……教義典『聖戦』九条二項を以ってリカルド・エルリッシュが命じる。これより本隊は
戦闘体勢に入る。総員は速やかに皇子らの救出、及び闖入者構成員の捕獲を開始しろ」
『──了解!』
次の瞬間、彼らはその放たれた言葉を拝承する。
傀儡兵達が鉤爪を引っ下げて突撃してくる。
アルスらを囲もうとするかのように左右に交差しながら駆け、両サイドからの強襲を。
それらを、前面に出たリンファとイセルナの長太刀とサーベルが必死に防ぎ、何度となく
火花を散らす。
「アルス様、下がってください! ……イセルナ!」
「ええ。ブルート、お願い!」
「うむっ、出し惜しみは無しだ」
後方のアルスを肩越しに一瞥し、リンファが叫んだ。
イセルナも、顕現してきた持ち霊・ブルートと共に飛翔態と為り、冷気の鎧と翼で一まと
めに傀儡兵達を吹き飛ばす。
「カルヴィン、ゲド、キース! 私達も応戦しますわ! 礼節を弁えないゲストはお呼びで
なくってよ」
「べきにもあらず! あの時の再戦と往こうではないか!」
「ガチ戦闘は専門じゃねぇんだがな……。ホーさん、フォロー頼む!」
「うむ。任せておけぃ!」
次いでそんな二人にカルヴィンを伴ったシンシア、ゲトとキースも続く。
鈍色の焔と散弾銃よろしくばら撒かれる銕魔導、鮮やかな短剣のいなしとその隙を突いた
大槌の衝撃が傀儡兵達を薙ぎ払う。
(拙いな……)
仲間達と“結社”の刺客達、その前線がぶつかったのを見ながらアルスは思った。
空間結界に閉じ込められたという状況。それ自体はトナン王宮での決戦と同じケースかも
しれない。
だが今回は圧倒的にこちら側の兵力が足りないのだ。
邪魔者を排除する以上に、こちらの戦力・加勢を分断する意図があるのは明らかだった。
故に尚の事この場に留まれば留まるほど、自分達は不利一辺倒になる。
「エトナ、術者の気配はする?」
「ううん……。ザッと見る限りそれらしい奴はいないよ。これはやっぱり」
「うん。外に別の術者、だね」
相棒ともやり取りを交わし、アルスはそう小さく呟いた。
魔導師らしき男なら、黒衣の兵士らの向こう側にいる。
だが結界が張られた後、この内部に侵入してきた──少なくとも術式発動の瞬間、大広間
にいなかった時点で彼が術者である可能性は限りなくゼロに等しい。結界系術式は術者が外
に居て制御するのがセオリーだからだ。折角張った結界に、わざわざ緩め直してまで自身が
進入するなど、その運用上デメリットが多過ぎる。
「……いや。もしヒトなら、屋敷の警備網に掛かっている筈……」
彼女が続けようとした言葉を、アルスは引継ぎ呟いてちらと空を仰ぐ。
淀んだ灰色とルーンの羅列。きっとこの向こう側でも、今頃イヨ達やアウルベ伯、諸侯ら
はてんやわんやになっている筈だ。
「……。魔導具か」
解を得たのとタイミングを同じくして、傀儡兵らの一部がアルスの方へと流れようとして
いた。迎撃する為、相棒と共に呪文の用意をする。
「アルス君に──」
「手出しは、させないッ!」
だがその両隣から飛び出していったのは、必殺拳・三猫必殺のオーラを振りかぶったミア
とレナの魔導具・征天使だった。
ぶわっとアルスの髪を服を撫でて、牙を剥いた猫型のマナの塊と巨大な鎧天使の使い魔が
襲い掛かろうとしていた傀儡兵らを吹き飛ばす。
「私もその見解に同意だね。道具を仕込むだけなら、間諜を放てば不可能じゃない」
「……ええ。外の誰かが気付いてくれればここを突破できるかもしれないんですけど……」
更にハロルドも、障壁と掌に集めた光弾を交互に使い分けながら傀儡兵らを退けるとそう
アルスの呟きに同調した。
結界系術式──空門の魔導は繊細だ。内からも外からも、無理に壊そうとすれば自分達が
が即ジエンドとなりかねない。
「……だろうね。とにかく、下がって」
それでも何処かハロルドの横顔は、フッと小さく笑っていた気がした。
一刹那の怪訝。ぐわんと少しだけ遠くゆっくりになった気がした衝突の音。
だがそんなアルスの彼とのやり取りも、次の瞬間、地面を蹴った襲撃者の内の二人によっ
て遮られる格好となる。
「ヒャッハー!!」
「邪魔者は消す、のかー?」
一人は大小二本の斧を振り回す、粗野な風貌の戦士だった。
一人は何処か気だるげな、マイペースな印象の剣士だった。
前者はイセルナに、後者はリンファに。
それぞれ傀儡兵が落とされていくのを見て頃合を悟ったのか、彼らはほぼ同時に顔を
見合わせ地面を蹴ると、猛然と彼女達に襲い掛かっていた。
イセルナ達の冷気が成す氷の障害を、戦士風の男は豪快に叩き壊しながら突き進み、何度
も彼女と刃を交える。
一見すると機敏さに欠ける佇まいだったが、剣士風の青年はリンファ以上に多くの手数を
以ってその剣を振るい、彼女と激しい剣戟を闘わせる。
(あの斧……私達の氷を溶かしてる……?)
(そうか。こいつには“殺気”が乏しいんだ。だから動きが予測し難い……)
太い刃から、時折つぅっと滴る黒紫の液。
ゆらりと、しなるような身体と剣の捌き。
何度目かの打ち合いを経て、イセルナとリンファは一旦間合いを取り直していた。
双斧と長剣。二人の刺客の得物がゆっくりと持ち上がり、両者は改めて互いの隙を窺う。
「ゲイス、キリヲ、何を遊んでおる? 標的はレノヴィンじゃぞ!」
するとそんな交戦の様子を見て、残るもう一人の襲撃者──先刻の老魔導師が叫んだ。
傀儡兵らに守られるようにして立ち、少なからず苛立つように張り上げる声。
「分かってるよ……。ならムドウ、てめぇも援護しやがれ」
「急いで始末するのかー?」
「……元よりそのつもりだ。構えろ」
彼にそう急かすように窘められ、戦士風の男・ゲイスと剣士風の青年・キリヲはぐっと両
脚に力を込めていた。
守備に回っていた傀儡兵らも動き出し、老魔導師・ムドウは彼らに向けて詠唱を始める。
「盟約の下、我に示せ──偽装の怪霧」
ややあって、ゲイス達の足元をカバーするように灰色の魔法陣が出現した。
そこから吹き出す濃い霧。数秒、アルス達の視界から彼らの姿が見えなくなる。
『なっ──!?』
そして霧が四散した次の瞬間、ゲイス達は“増えて”いた。
同じ顔のゲイス、キリヲ、傀儡兵達。
彼らは静かに目を見開いたイセルナ達に不敵な笑みを零すと、一斉に得物を振りかざして
襲い掛かってくる。
「つぅ……! これは……分身か!?」
「撹乱系の虚魔導です! 本人以外は全部フェイクの筈です、惑わされないで!」
「んな事言ったって……。見分けなんざつかねぇよ!」
前衛のリンファ達が総出になって、大幅に数を増した彼らの一撃に耐えようとする。
アルスが叫んだ。しかし理屈は分かっていても、発動の瞬間に本体の位置が見えない形で
ある以上、一見する限りの見分けは付かない。
冷静に個々のマナの流れを見極めれば、或いは……。
だがそんな集中を許すほど、仕掛けてきた相手も馬鹿ではない。
「リン、一度下がって! まとめて攻撃するわ!」
しつこく襲い掛かってくる数の力を、イセルナは冷気の大剣で薙ぎ払いながら叫んだ。
肩越しに目を遣り、頷いて飛び退くリンファ。その彼女の応答を確認してから、イセルナ
は冷気と力を刀身へと集中させる。同じくゲドやシンシア、カルヴィンもやや遅れてその行
動に倣う。
地面に突き刺した剣を中心に地面が凍り付き、その上を鈍色の焔と鉱石の角錐が飛んだ。
足元から襲い掛かってくる氷の刃、焔と銕の魔導。
更にゲドが振り降ろし叩き付けた大槌の衝撃波が時間差を伴い、数で押してくるフェイク
の群れが掻き消されてゆく。だが、
「はんっ、掛かったな! キリヲ!」
「ん……。風撫の剣ぉ!」
ゲイスは待ってましたと言わんばかりに叫んでいた。彼の合図で、その隣へ飛び退いてい
た本物のキリヲが自身の長剣型魔導具を発動させる。
白銀の刀身が、にわかに白く光り始めた。
そして彼がその得物をイセルナ達に振り向けた瞬間、無数の風の刃が期せずして一まとま
りになっていた彼女達を取り囲むように襲う。
『ぐっ……!?』
「皆ッ!」
イセルナとカルヴィンが、咄嗟に障壁を張っていた。
だが急ごしらえの防御では完全には間に合わず、彼女達に走るのは無数の切り傷。アルスら後衛の
面々が思わず叫ぶ中、仲間達はぐらりと苦痛の表情で仰け反っていく。
「今じゃ! レノヴィン共々、一気に叩き潰せぃ!」
ムドウの気勢を上げた叫びに、再びわぁっと突撃を始めるゲイス達。
傀儡兵を率い、双斧を振りかぶって、好戦的な笑みを。
再び風刃の剣にマナを込め、じりっと狙いを定めて。
──光が差したのは、まさにそんな瞬間だった。
『うおぉぉぉーーッ!!』
突如起きた変化は二つ。
一つはまるで鱗を剥がすように崩れ、消え去り始めた淀んだ灰色の空。
もう一つはゲイス達の側方から押し寄せてきた、アウルベ守備隊と黒法衣の一団。
完全に虚を衝かれた格好だった。今まさにイセルナ達に追撃を加えようとしていた傀儡兵
らは、横殴りに守備隊らの果敢な突撃によって陣形を崩される。
ゲイスもキリヲも、そしてムドウも、思わず攻撃の手を止めて余所見になっていた。
「──調刻霊装・二重速」
その隙を誰よりも見逃さなかった者がいた。守備隊と共に突入してきた黒法衣達──史の
騎士団の部隊を率いるリカルドである。
彼がその視界に先ず捉えたのは、ダメージによろめくイセルナ達とその背後で叫び、次に
驚きへと表情を変え始めていたアルスらだった。
視線の一直線上。その間に、魔導具の剣を振り出そうとしたキリヲがいる。
ぼそっと、彼がそう呟いた瞬間、異変が起きていた。
セカイがモノクロに為り、あらゆる者の動きがスローモーションの如くコマ送りになって
いる。その中で、リカルドただ一人だけが紺色の残像を伴いながら駆け、その中空からの跳
び蹴りがキリヲの得物へと吸い込まれていく。
先ずこの蹴りで、風刃の剣が弾き飛ばされていた。
他の全ての物らと同じく、剣はコマ送りをしながら宙を舞い、ゆっくりと両者の頭上を越
えて大きな放物線を描く。
次に、リカルドの手は腰──黒法衣の裾の中へと伸びていた。
残像を描きながら半身を捻って着地、それと同時に取り出した回転拳銃の
銃口がピタリとキリヲの眉間に密着する。
「──へ?」
この間、現実にして僅か三秒。
モノクロのセカイが色彩を取り戻した瞬間、キリヲが“何時の間にか銃口が突き付けられ
ている”と認識した瞬間、リカルドは容赦なく引き金を引いていた。
響き渡る重い銃声。撃ち抜かれた脳天から噴き出す大量の血肉。
即死だった。
何が起きたかも分からないまま目を見開いた状態で床に倒れ込むと、キリヲは自らが成し
た赤い池の中で二度と起きない眠りに落ちる。
「キリヲ……ッ!?」
ゲイスが、これまでにない程の絶叫を放っていた。
掛け値なしの沸き立つ殺気。だがそんな彼の情動を双斧を、他の黒法衣や守備隊員らが死
に物狂いで押さえに掛かってくる。
「馬鹿な……。突破されるにしても早過ぎる……!」
「ほう? 一応予測はしてたんだな。だがまぁ、もうちっと綿密に動いた方がいいぜ?」
ムドウが傀儡兵らを囮にしながら後退り、呟いていた。
「世の中“完全無欠”なんてものは存在しねぇんだからさ」
そんな彼にリカルドは、硝煙を上げている銃を向け直して言う。
守備隊の兵達が、彼の部下達が、ムドウら“結社”を捉えようと躍起になっていた。
アルス達も、ダメージを負ったイセルナらを介抱しながらこの加勢に感謝しつつ、そして
同時に驚きを隠せずに目を見開いている。
「くぅ……! 拙い……」
数の利は既に覆っていた。
相手の増援を遮断する為の空間結界も──屋敷中に仕掛けた発動コアを見つけられ、破壊
でもされ──止められてしまった以上、自分達は敵陣のど真ん中に放り出されたに等しい。
ムドウは着実に討たれ減らされていく傀儡兵達を見ながら、焦った。
キリヲが死に、ゲイスも守備隊らに取り囲まれて必死にもがいている。このままでは押し
切られる。
「ま、まだだ……。まだ負けではない!」
それでも、彼の老練であるという自負心は速やかな退却を許さなかった。
傍目から見れば半ばの自棄。だが彼は左腕に下げていたブレスレット型の魔導具をギュッ
と握り締めると、叫ぶ。
「来い、魔崇の偶像!!」
次の瞬間、彼の正面に紫色の魔法陣が拡がるとそこから巨大な使い魔が姿を現した。
元より天井を高く作ってあるこの大広間。しかしその高さすら破って、見上げるほどの巨
躯を持つ山羊頭の悪魔が一同を見下ろしたのだ。
牙だらけの口を開け、解体用包丁よろしくの幅広な大剣を片手に。
この使い魔はムドウの狂った高笑いと共に咆哮する。
「さぁバフォメット! もう構わん、全員まとめて叩き潰──」
「領域選定」
だがその初撃は、眼下の面々に届くことはなかった。
彼が命令を下したのとほぼ同時、この使い魔の周囲を分厚い結界が覆ったからである。
ギィンと大剣が障壁に弾かれ、その巨体がよろめく。驚愕によってその表情が歪む。
『……』
使い魔当人とムドウ、そして皆の視線が遣られた先。
そこには橙色の魔法陣の上で、相棒と共に無数のマナの糸を操るアルスの姿があった。
「ヒトじゃなくて使い魔が相手なら……僕達だって戦える!」
「私達が押さえるよ。合図をしたら一気に畳み掛けて!」
面々が頷くのと、アルス達がマナの糸を繰り始めたのはほぼ同時だった。
「準備、完了。施術開始!」
アルスの指先から伸びた無数のマナの糸。それらは複雑に緻密に織り込まれ、複数の巨大
なメスと鉗子の形成している。
そんな魔導の施術道具を、アルスはまるで手足のように操ってみせた。
使い魔に流れ込む力の流れ──ストリーム。それらを彼と彼女は互いに協力し、補完し合
いながら掴んでは切り離してゆく。
「これは……中和結界、だと? 馬鹿な。こんな形式、見たことが……」
施術は極めて迅速に執り行なわれていた。
繋がっているストリームを捉え、断つ。その度に山羊頭の使い魔は徐々に弱り始め、つい
にはガクリと大きく膝を突いてしまうまでになる。
「くっ……! 何をしている、起きろ! 動け、バフォメット!!」
「……無駄だよ。使い魔だって魔導の一つなんだ。マナの供給が途絶えれば、力も姿も維持
できなくなる。これだけ巨大なら尚更ね」
ムドウは大いに焦り、何とか魔導具を握り締めて使い魔を動かそうとする。
だがもうそれは叶わなかった。アルスが施術を続けながら呟く通り、バフォメットは片膝
や剣を突くだけでなく、その身体自体をも少しずつ消滅させ始めていた。
チリチリと燻る火が燃え続けるように、この巨躯の至る所から紫の光が蒸発していっては
静かにあるべき無へと還ってゆく。
「今です!」「やっちゃって!」
その変化を見逃さず、アルスとエトナが叫んだ。
最初に動いたのはハロルドとレナ、エルリッシュ父娘だった。彼らは聖魔導と鎧天使の使
い魔を駆り、頭上と正面からの一撃を叩き込もうとする。
「盟約の下、我に示せ──光条の雨!」
「お願い、征天使!」
ハロルドの詠唱でバフォメットの頭上に金色の魔法陣が現れた。
それを見て、アルス達が彼の者包んでいた障壁を消す。
魔法陣から無数の光線が降り注いだのは、その瞬間のことだった。
バフォメットの全身を貫く、質量ある光の雨。身体中を射抜かれ激しく咆哮して一層地面
に倒れ込みかけるバフォメット。
「────ガァッ!?」
そしてとどめは、征天使が翼を広げて駆け抜け、すれ違いざまに放った横薙ぎの一閃だった。
胴体ど真ん中。バックリと斬り裂かれた傷口から溢れ出す紫の炎。
そしてこの山羊頭の使い魔は、次の瞬間断末魔の叫び声を上げながら、その膨大なエネル
ギーと共に爆散する。
「……」
濛々と辺りに土埃が舞い、視界を遮っていた。
アルスとエトナ、そして仲間達はその中にあって息を呑み、敵の様子をじっと窺う。
「こんの──」
強襲は、そんなアルスの背後からだった。
「クソガキがぁぁぁ!!」
土煙の中から飛び出してきたのは、血走った目のゲイス。
彼は両手二本の斧を大上段に振りかざすとそのまま床を蹴って跳躍、完全に虚を突かれた
格好のアルスへと襲い掛かろうとする。
「──ッ」
だが彼の二重な一撃は空振り、床をざっくりと抉るだけだった。
同時にアルスが全身に感じたのは、温もり。押し倒されたのだという後追いの認識。
「邪魔すんじゃねぇよ……。このアマぁ!!」
「……」
咄嗟に庇ってくれたのは、ミアだった。
スレンダーで引き締まった、しかしちゃんと少女の身体。
そんな彼女に抱き寄せられたままで、アルスは無言で睨み返している彼女と共に猛烈な敵
意の眼を向けてくるゲイスを見る。
「ゲ、ゲイス……!」
すると今度は土煙の中、ようやく立ち上がったらしいムドウが心なしボロボロになって彼
に呼び掛けた。ローブの懐に手を伸ばしたその表情は、恥辱の苦痛に満ちている。
「ここは一旦退くぞ、体勢を立て直す!」
「ば、馬鹿いうな! このまま逃げたら……キリヲは……っ!」
最初、対するゲイスは拒絶に近い難色を示していた。
ザッと視線を向けた先は、血だまりの中で動かなくなったキリヲの亡骸。
「分かっとる! だがここで全滅しては元も子もないじゃろうが!」
だがムドウは急げと言わんばかりに彼に怒鳴った。
チッと、ゲイスが強く舌打ちをして歯を噛み締める。そして彼も含め、二人が懐から取り
出したのは──掌サイズの藍色の結晶だった。
「転移石……!」
「くそっ、逃がすか!」
その消耗品を目にし、面々が慌てて押さえ込もうとした。
だが彼らが飛び掛るよりも一歩早く、二人はそれぞれに掌の中のそれにマナを込めると、
藍色の魔法陣と光に包まれ一瞬にして消失──空間転移してしまう。
ぽつねんと。急に場が静かになった。
沸いていた傀儡兵は全て皆で協力して全滅、襲撃者の内の一人もリカルドの一発によって
既に事切れている。
「終わった、のか……?」
「そうみたいだな。結局生け捕りは出来ず、か……」
戦いは終わったかに見えた。
排すべき敵が逃げ去ったと分かり、一同はとりあえずホッと胸を撫で下ろす。
それでも、このまま奴らを見逃す訳ではない。
すっかり怯え切った諸侯や出席者達を宥め誘導し、屋敷のスタッフらが動き出していた。
イヨらと共に駆け寄って来たアウルベ伯もすぐに守備隊に先の二人の追跡を命じ、兵らは
拝命の意をみせてから大広間を走り去ってゆく。
「アルス様、皆さん、ご無事ですか!?」
「本当、無茶をなさる……。しかしありがとうございます。助かりました」
「……いいえ。僕達だって、皆の役に立ちたいから」
ともかく、一旦奴らの追撃は守備隊に任せることにしよう。
そんな中でアルス達クランの仲間らは改めて集合し、互いの安否確認とハロルド・レナの
治療に身を任せ始めていた。
「……。あの、ミアさん? さっきからずっと僕のこと抱き締めてますけど、もう──」
だが災いは──まだ終わった訳ではなかったのだ。
「ミア……さん?」
そこでようやく、アルスはハッと気付いた。
ミアの様子がおかしい。先程からずっと自分に身体を預けたままじっと──いや、ぐった
りとしている事に。
「ミ、ミアさん!? ど、どうしたんですか!? しっかりして下さい!」
その狼狽ぶりに、仲間達もやや遅れてこの異変を知る。
彼が叫ぶのを中心に、面々は輪になってミアを囲むと皆で彼女を仰向けに抱き起こした。
彼女は酷く脂汗をかき、静かに息を荒げていた。
なのにずっと黙り込んでいたのは余裕がなかったからなのか、それともアルスを心配させ
たくなかったからなのか。
仲間達が次々に彼女の名を呼び、揺さぶり出す。
するとその様子をじっと見ていたハロルドが、不意に彼女の右肩を取って呟いた。
「……傷があるね。これは、あの斧戦士から庇った時に受けたものか」
「おいおい、こいつはヤバいぞ? この皮膚の反応……毒だ」
更にキースが放ったその言葉によって、仲間達はにわかに騒然となる。
「毒って……。大変! すぐに解毒を──」
「まさか。あの斧には毒が塗ってあったというの? 道理で私達の氷も……」
「でしょうね。団長さんも見たでしょう? あの野郎の斧、液体が滴ってましたし」
友が必死になって涙目になって、寝かされたミアの傷口に聖魔導を掛けていた。
だがそれでも彼女が目を覚ます様子は見られず、変わらず苦しそうに魘されている。
「伯爵、すぐに病院へ搬送をお願いします! ハロルドはすぐにダン達に連絡して!」
「あ、ああ……」
「……。了解した」
イセルナが深刻な表情で叫んでいた。
その気迫に思わずたじろぎつつも、ルシアンはすぐにスタッフに指示を飛ばす。
ややあって担架が運び込まれミアが乗せられた。仲間達が付き添い声を掛ける中、緊急搬
送は慌しく始まろうとする。
「──の、……で……」
「?」
皆深刻であり、心配なのは言うまでもなかった。
だが、それ以上に。
「僕のせいで……ミアさんが……、大切な……仲間が……」
「……アルス」
一番打ちひしがれていたのは、彼女が身を挺して守った皇子アルス、その人で。
『──緊急速報です! アウルベ公邸内に襲撃者が現れました!』
『今夜はアウルベ伯主催の晩餐会が行われており、アルス皇子の留学を歓迎する催しとなっ
ていましたが……』
『襲撃者は、まだ不確定情報ですが“楽園の眼”の一派と思われます。現在襲撃犯は守備隊
によって撃退され、その追跡が始まろうと──あっ、今出てきました!』
この夜の出来事は、瞬く間に世界中に配信されていた。
元より、世間の注目が集まるレノヴィン兄弟の公の場への出席だったのだ。
入館を許可されずとも、マスコミ記者らは夜闇の中にあってじっとスクープは無いかと目
を耳を凝らしていたのである。
濛々と、館の天井を突き破った土煙が夜闇に流れては消えてゆく。
神妙な面持ちで出撃してゆく守備隊の列に、情報に飢えた記者達が纏わり付こうとする。
「……。大変なことになったわね」
「そうですね。よりにもよって、あんな目立つ場で結社が攻めてくるなんて」
そんな情報は、遠く南方入りを果たしたジーク達にも届いていた。
リュカが操作する携行端末。そこに映し出された立体映像が届けるアウルベ公邸襲撃の速
報は、この夜小さな村に宿を取っていた一行に少なからぬ影を落とすものだった。
『……』
言葉にできぬ不安の表情でマルタが、リュカがサフレが、ちらりと肩越しに後ろを振り返
っていた。
そこにいたのは、ジーク。他ならぬレノヴィン兄弟の片割れであり、アルスの兄。
彼はリュカ達の輪には加わらず、ただじっと壁に背を預けて漏れてくる事件のニュースに
耳を傾けている。
「……。何でだよ」
すると、たっぷりと間を置いてからジークは呟いていた。
ぶらんと下げた片手。その拳を壊れんばかりにギリッと握り締め、
「何であいつが狙われるんだよ……。てめぇらの敵は、俺だろうが……!」
誰にともなく──もしかしたら自分自身に──、彼は嘆息めいた怒声を漏らす。
夜は闇を連れてくる。夜は来たる朝を待つ一時となる。
だが今夜ばかりはアルスらアウルベルツの住人達にとっても、ジークら“結社”追跡の旅
の面々にとっても、底知れぬ深淵を連想させるばかりだった。
「──ふふ。み~つけた」
試練は……終わらない。
ジーク達が宿を取る南方の小さな村。夜の眠りに従順な、何の変哲もない田舎町。
その仄かな灯りを見下ろし、四人八つの血色の瞳が、密かに闇の中でほくそ笑んでいた。