29-(4) 晩餐会の夜
昼間の忙しなさが「騒々しさ」なら、これから迎えようとしているのは「煌びやかさ」に
なるのだろうか。
アウルベ伯の屋敷に入ってから半日。終わる事を知らないかのようなマスコミの質問や集
まった人々の歓声の嵐を抜け、アルスはぼうっと宛がわれた控え室のソファに横になり一時
の休息を取っていた。
紐を解いて背もたれに掛けたヤクランの上着。
やたら弾力性を発揮してくるソファの高級な感触。
何よりも、平素に自分にはどうにも不釣合いに思えてならない──慣れずに落ち着かない
このだだっ広いVIPルーム。
(まだ夜の部があるっていうのに、大丈夫かな……)
もう一度……いや再三に渡る、半ば嘆息な深い吐息をついて。
アルスは尚も忙しなく動いてくれている侍従衆や屋敷のスタッフ達の気配・息遣いを五感
に捉えながら、もぞっとソファの上でその小柄な身体を捩らせる。
「アルス」
そうしていると、ふとミアの声が降ってきた。
薄ら瞑っていた目を開けると、彼女はやや屈み気味な体勢でこちらの顔色を窺っており、
その差し出した手にはオレンジ色の液体が入ったグラスを持っている。
「……大丈夫? 起きれる?」
「はい、平気です。……これは?」
「栄養ドリンク。ハロルドさんに作って貰った。アルス、疲れてるみたいだから……」
「そうですか。ありがとうございます。じゃあ……頂きますね?」
身体を起こし、彼女からグラスを受け取ってそっと口をつける。
甘い匂いだった。フルーツを使ったのだろうか。喉を通る食感もサラリとしており、適度
に冷えた温度が気持ちいい。
ちびちびと飲みながら、アルスは一度控え室内を見渡した。
室内には自分以外にもリンファ(勿論、護衛の為だ)を始めとした侍従の面々が何人か。
そんな皆にも、訊ねて来たミアとレナによってこのドリンクが差し入れされている。
「ふむ……美味いな。流石はハロルドお手製だな」
「はい。でも、この差し入れを言い出したのってミアちゃんなんですよ? 初めての社交会
だからきっとアルスは疲れるだろうって」
「れ、レナ、それは……」
「そうだったんですか……。何から何までありがとうございます。とても美味しいですよ」
「……うん」
リンファに給仕している途中だったレナが、ふっと肩越しに振り向いて言う。
その事実を聞いてアルスは改めてにこりと微笑んだのだが、何故か当のミアは顔を真っ赤
にして視線をあらぬ方向へうろうろ。そんな友人の様子をレナが、ついでにそれまでアルス
の近くを手持ち無沙汰に浮かんでいたエトナまでもが、くすくすニヤニヤと笑いながら眺め
ている。
(僕が疲れるだろうから、か……)
残るドリンクの甘いフルーツの味を喉にたっぷりと愉しませながら、アルスはぼんやりと
にわかに明るくなった室内の面々を見遣って思う。
初めての社交界。確かにそうだ。
だがそれは、何も自分だけの話ではない。侍従衆の皆はともかく、クランの仲間達は十中
八九同じように初めての経験である筈なのだ。
それになのに……自分だけが、気を遣われている。優しくされている。
自分が皇子だと公になり、配慮が成されるのは必要──仕方のない事なのかもしれない。
でもそれは正直ちょっぴり寂しくて、何より申し訳ないという気持ちが胸奥を過ぎった。
(いつまでも皆と一緒にっていうのは……甘えなのかな?)
そんな事を考え、ふるふると頭を横に振る。
そうじゃない。お互い大事な仲間だからこそ、だ。
大切な人だから、何かと気を遣おうとしてしまうし、時には自分自身を後回しにすらして
しまう。……それは自身の癖でもある。相棒にもしばしば言われることだ。
「アルス様、ホウ副長。おられますか?」
「晩餐会の時間が近付いています。そろそろ支度をお願いします」
だから僕は──今の僕を頑張ろう。
果たすべき責務を一つ一つ確実にこなすこと。それはきっと、仲間達に対する最大級の
報いにも為るだろうから。
「ああ、分かった」
「すぐに支度しますね。イヨさんやイセルナさん達にも宜しく伝えておいて下さい」
会場である催事用の大広間には、既に大勢の諸侯達が集まっていた。
商才や武功、或いは学術など。セカイ──実務上は本国と統務院からだが──に“名士”
たる者と認められた、その称号を誇りとして気高く生きる者達。
まさかその一員になるなど、一体どうやって予想できただろう?
しかも自分はその中でも最高位である「皇爵」の血筋だというのだから、人生というもの
は実に予想外だらけだ。
アルスは再びハガル・ヤクランを身に纏い、仲間達や案内役の公邸スタッフらと共に会場
入りする。
「お待たせしました。トナン皇国第二皇子アルス・レノヴィン様のご到着です!」
先ずは舞台の裾に通され、会場内で司会役がそう声を大にしてコールを。
ワァッと場の空気が変わるのが分かった。
表向きは華やかに。だが、彼らのその内面はきっと少なからぬ思惑で満ちている──。
ごくりと息を呑んだアルスに、スタッフが「どうぞ、皇子」と慇懃な表情で促してきた。
不安。戸惑い。……だけど仲間達がついている。
イヨやリンファ侍従衆、イセルナ達クランの面々に無言の励ましを受け、アルスはゆっく
りと足を踏み出していった。
一斉に向けられたのは多数の眼。それと事前に許可と審査を経たのだろう、礼装姿ながら
写姿器を手にしたマスコミ関係者らしき人影もある。
(……やっぱり、違うな)
漠然とだが、アルスはそう思った。
もっと噛み砕いて言えば……“遠慮がない”のだ。
大勢のマスコミや野次馬、領民らの眼があった昼間の部とは違い、この場は基本的に自分
達貴族階級の人間ばかりが集まっている。故にそれまで遠慮──抑えていた「こいつは我々
にとってプラスかマイナスか」といった値踏みの気色が漏れ出ているのだろう。
アルスはエトナとリンファ、相棒と護衛役を伴ってステージの中央に立っていた。
そこへ登ってきたのは、黒い礼装に身を包み直したアウルベ伯ルシアンの姿。
アルスは事前の打ち合わせの通り彼としっかり握手を交わすと、一斉に焚かれるストロボ
の光と諸侯達の拍手に、思わず苦笑いを交えてはにかむ。
「それでは、お二人それぞれ晩餐会を前に一言お願いします」
司会役が会場の小演壇でそう言った。
ちらっと、アルスはルシアンの方を見遣る。二人の間には既にスタンドマイクが整えられ
ていた。互いに眼で合図をし、最初にアルスがマイクを取る。
「……えっと。皆さん、今日はわざわざ僕の為に御足労下さり誠にありがとうございます」
第一声。少なからず点となる諸侯らの目。
この皇子は貴族の常識では何処までも控えめ──異例だった。
もっと偉ぶっても文句は言われないだろう。それは皇爵家の人間だからというより、今宵
の主役であるから。
「……ご存知の通り、僕達の故郷──皇国は長らく哀しい争いに明け暮れていました。出自
を知らなかったとはいえ、僕らは長い間そんな国の人々に手を差し伸べないまま暮らして
いたんです。だから……今更になって王族を名乗っても、いいのかなって」
だがそれでも、この小さくも優しい貴族の卵は言う。
「本当は母さんの傍にいて、一緒に償いをすべきなんじゃないかと思いました。だけどその
母さん本人が、戻っていいよと言ってくれました。この街に戻って、魔導師の勉強を続けて
欲しいと言ってくれました。人を救える魔導師になる──。それは僕の幼い頃からの夢で、
きっとこれから先、皆さんへの恩返しにもなるんじゃないかなと……そう思っています」
出席していた諸侯達は、一様に戸惑いの様子を色濃くしていた。
舞台裾にいたイヨも彼が紡ぐ“自分の言葉”に驚いていたようで、他の侍従らにあれこれ
と何やら訊ねていたが、イセルナはそんな彼女に「大丈夫」と言わんばかりに微笑みながら
ポンと肩に触れる。
「だから、今夜この場で改めてお礼を申し上げます。皇国の未来の為に力添えをしてくれる
皆さんの真心に、僭越ですが本国代表として感謝の意を伝えたいと思います」
つまりこれは、アルスなりの戦略だったのだ。
始めから私利私欲で以って擦り寄ってくるであろう諸侯らに逐一“真面目に対立する”の
ではなく、先んじて“真面目に礼を尽くす”ことでそんな動きを牽制しようという強かさ。
権謀術数に翻弄されたくない、したくない。だけど逃げてばかりはいられない……。
学院生としての自分と静かなる謀略の渦。
きっとこれが、そんな胸の内を彼なりに治めようとした結果なのだろう。
「今夜は皆さん、存分に楽しんで行って下さい。そしてこの場を設けてくれたアウルベ伯に
も最大級の賛辞を」
ぺこりと深く頭を下げた後の、そんな柔らかな微笑み。
一通り語り終えたアルスにマイクを手渡されるも、ステージ上のルシアンは他の諸侯らと
同様、唖然としたままだった。
「…………。し、失礼。お忙しい中出席頂けましたこと、私からも感謝申し上げます。これ
から皇子は内乱以前のように此処アウルベルツでの留学生活に戻られます。今後とも皆さん
にはご理解・ご協力のほどを願いたく……」
それでもややって我に返り、同じく若き領主は言った。
コホンと軽く咳払いをして取り繕い、妙な空気になっていた諸侯らを修正。既に傍らの小
円卓に用意されていたグラスに酒を注ぐと、彼は先んじてそれを掲げて宣言する。
「では、早速宴と参りましょう。皆さんグラスを。……皇子の帰還を祝し、乾杯!」
『乾杯~!』
その掛け声が合図だった。
伯爵からの所作に倣った諸侯ら出席者達は杯を高く掲げ、号令を以って互いにその小気味
良い音を会場のあちこちでかき鳴らせる。
晩餐会が、始まった。
ずらりと並んだ諸侯らの席に料理が運ばれ始め、アルスとルシアンも空いている上座の席
へと移動する。
ここから先は、完全に貴族達の社交の場となった。
エトナもそっと顕現を解いて気配だけを相棒の傍らに残し、リンファも他のスタッフに混
じって壁際へと退いていく。
「──び、びっくりしました……」
「まぁ用意してあったスピーチ原稿、全部ふっ飛ばしちゃいましたからね」
一方でイヨやイセルナ達は見守っていた舞台裾から出て、ぐるりと広間の横扉へと回って
いた。まだ動揺の心拍が落ち着かないのか、イヨはしきりに眼鏡のブリッジを触りながら、
今は白いテーブルクロスが眩しい席に着いた皇子の方を見遣っている。
「だけどNGワードは出してないよ? 個人的な感慨だけで、トナン本国の政治機密などに
は一切言及していない。……やはり頭のいい子だ」
「それは……そうですが。せめて事前に、ご自身の言葉で語られると仰ってくれれば……」
「多分あれはアドリブだよ。舞台に登った瞬間、アルス様は何やら考えを巡らせているよう
だったからな。諸侯達の眼を見て、上辺だけではいけない──そんなことを考えたんじゃな
いだろうか」
途中、既に壁際で待機していたリンファとも合流し、そんなやり取りを。
副長であり友の語る彼女の報告に、イヨは三度ため息をつきつつ呼吸を整える。
「アルス様、大丈夫かしら……」
「そう無闇に心配するな。晩餐自体は本国にいた頃も経験している。社交上の作法も侍従衆
で教授してある。物覚えは優れている方なのだから、私達は見守ろうじゃないか」
「うぅ……。リンみたいには、中々なれそうにないわね……」
侍従長であり友であるイヨの弱音に、リンファは片眉を持ち上げつつ苦笑していた。
イセルナ達クラン側の代表も同じく小さく笑いながら、遠巻きにアルスの緊張した様子を
窺っている。
「……あれ?」
「? レナ、どうしたの?」
そんな折だった。
ふとレナが何かに気付き、ミアもそんな友に小さく疑問符を浮かべる。
「うん……。あれって、リカルド叔父さん……だよね?」
ゆっくりとレナが指差したのは、別な壁際──広間の隅で佇んでいる黒法衣の一団。
周りで談笑し、或いは働き回っている他の出席者やスタッフ達。
その中にそれとなく混じりこの一団を率いていたのは、間違いなく先日クランを訪ねてき
たハロルドの弟・リカルドその人で……。
「あら本当。ハロルド、貴方は」
「いや……何も聞いてないよ。向こうも招待されたのか、或いは……」
眼鏡の奥の瞳を光らせ、心持ちハロルドは俯き加減に言葉を濁していた。
教団を抜けた兄と、異色部署の神官騎士たるその弟。
「……」
気のせいかもしれない。
それまでじっと上座上のアルスを観察していたその彼が、ふとほくそ笑むようにこちらに
視線を遣ってきたような気がした。