4-(1) 拾われの白鳥
「う~……。気持ち悪……」
その日の朝。ジークは少々体調が思わしくなかった。
何時もよりも遅めの起床。どよんとした表情で、重く感じる身体を引き摺りながらもふら
りと酒場へと顔を出してくる。
「きゃっ!?」
そうしてぼんやりと歩いていて注意力が欠けていたのだろう。
中庭の廊下から酒場の敷居をくぐった次の瞬間、中から出てきたレナと危うく衝突しそう
になった。
「……あ、ジークさん。すみません」
「そんなすぐに謝るなよ。悪ぃな、ぼ~っとしてて」
ふわっとした雰囲気を纏っているウィング・レイスの少女。
羽毛のような白い耳と背中の翼の物理的なふわふわ感も相まって柔らかな印象が増してい
るかのようだ。
本人の手前絶対に口には出せないが、よくもまぁこんな天使みたいな娘がこのむさ苦しい
連中の集まる集団の中にいるものだとジークは改めて思う。
「あの、どうかなさったんですか? 何だか具合が悪そうですけど……」
「ん? あぁ、昨夜の酔いがちょっとな。副団長に付き合わされてたからさ」
「あ~……」
そんな思考から現実に呼び戻してくれる、レナの気遣い。
ジークがその不調──まだ身体に残る酔いのダメージを抱えながら苦笑して応えてみせる
と、彼女もまた柔らかい苦笑いを返してくれる。ダンの酒豪ぶりは皆の知る所だ。
「大変でしたね。でしたら、お薬を」
「いや、いい。腹減ってるから先に飯を食うよ。お前も先に行く所があるんだろ?」
言って踵を返そうとしたレナだったが、それはジークがすぐに止めた。内心の過分な気遣
いへの申し訳なさと共に、ついっと彼女が先程からずっと両手に持っているもの──食事を
載せたトレイを顎で指し示す。
「なんつーか、すまねぇな。いつもステラの面倒見て貰って」
「いいえ。ミアちゃんも含めて、ステラちゃんは私達の大事なお友達ですから」
詫びたつもりなのに、レナはあくまで優しく微笑んでいた。
これが、奉仕の精神とやらなのかね……。
ジークは彼女のその笑顔を直視できず、若干目を逸らし気味にしてポリポリと頬を掻く。
「ありがとよ」
あいつは、俺の持ち込んできた種なのにな……。
短く言いながら、ジークは何だか居た堪れなくなって酒場の中へと歩いていってしまう。
「すんません、寝過ぎました。朝飯お願いします」
「了解。適当に座って待っていてくれ」
カウンターに控えていたエプロン姿のハロルドにそう一声掛け、ざっと店内を見渡す。
朝の支度時は過ぎていることもあり、団員らの姿はちらほらとしかなかった。
それでも、そのテーブルの一角に見知った姿を認めると、ジークはそれが何時もの流れで
あるかのように歩いていく。
「おはよう。中々グロッキーな顔だね」
「……満面の笑みで言うなっての。まぁ実際、酔いが残ってるわけだが」
そのテーブル席には、一人シフォンが食後の珈琲をすすりながらまったりとしていた。
微笑で話しかけてくる友にちょっとだけの悪態を返し、ジークは彼の向かい側に座る。
「つーか、お前も昨夜は一緒に飲んでたじゃねぇかよ……」
「僕はダンとはジーク以上の付き合いの長さだよ? 慣れというか覚えた距離感というか。
あの酒豪のペースに合わせて飲んでいたら僕だって身体が持たないさ」
「……そりゃそうだ。俺も慣れてくれればいいんだがなぁ」
微笑と苦笑と。友二人は互いに静かに笑い合う。
そうしていると「はい、お待ちどう」とハロルドがジークの朝食を持って来てくれた。
ゆったりと踵を返す彼に一礼を返すと、ジークは早速その献立を頬張り始める。
「そういえば、もう団長達は依頼に出たのか?」
「うん。ダンやミアちゃん達と一緒にね。確か街道整備工事の警護……だったかな。複合応
募式だったから他のクランやフリーの同業者もいるし、全員で出ることもない。今日の僕ら
は待機組さ」
「そっか……」
そういえば、庭でリンさんが皆に稽古をつけていたっけ。だからか。
パスタサラダを啜って咀嚼しながら、ジークは先刻渡り廊下から見かけた光景を思い出し
ていた。何だか、若干置いてけぼりにされている気分だった。
酔いがまだ身体を重くしているものの、かといって食事を抜けば出る元気も出ない。
(後でハロルドさんにでも言って薬を貰っておけば大丈夫……だよな)
そう思って、ジークはとりあえず若さの余力に任せて目の前の朝食を片付けてゆく。
「ねぇ、ジーク」
暫くそうして食事に専念していると、シフォンがふとカップをテーブルにそっと置いてか
ら言った。はたと手を止め、ジークも何用と視線を向ける。
「今日は何か依頼を入れているかい?」
「いやまだ何も。そっちこそどうなんだ?」
「僕もだよ。だから食べ終わったらギルドに顔を出さないかいと思ってさ」
勿論、その酔いを抜いてからだけどね。
シフォンはそうフッと微笑んで付け加えつつ言った。くいとお冷を喉に流し込んでから、
ジークは気安い感じで応える。
「おぅ、いいぜ。俺も酔い潰れて一日寝てるなんて性に合わねぇしな」
「決まりだね。まぁ二人だから便利屋系の何かにならざるを得ないだろうけど」
ニカッと笑ってジークは朝食の残りを掻き込んでいた。
最後にテーブルの上のサーバーからお冷を注ぎ足し、一気にあおって〆とする。
そして人心地をつけて、二人はカウンターのハロルドに食器をカップを返していた。同時
に一言言って、酔い覚ましの薬も出して貰う。
「……」
そんなジークらの一連の様子を、レナは戸口に立ったままじっと眺めていた。
食事の用意に加え、団員らの健康管理も担当するクランの支援隊のリーダーである父。
そうしてシフォンを含めた団員らと語らい、やり取りを交わすジークを見遣ってから、彼
女は密かに微笑むと、そっと身を翻して宿舎に続く渡り廊下へと進んでいく。
私は──両親の顔を知りません。
捨て子だったそうです。ある日、教会の軒先に置き去りにされていたらしいのです。
そんな赤ん坊の私を独断専行ながらも保護し、今日まで実の娘として育てくれたのがお父
さん……ハロルド・エルリッシュです。当時は“クリシェンヌ教”の神官でした。
古代の英雄の一人「聖女クリシェンヌ」様を神々の御遣いとして信仰する。それが今日に
おいて世界最大の信者を抱えるクリシェンヌ教──またの名を聖道教。
お父さんは、その教団に所属する司祭様だったのです。
でも……私が物心つくかどうかの頃、お父さんは教団を脱会しました。そして聖魔導を得
意とする冒険者として放浪の旅を始めたのです。
何故、それまでの安定した地位を捨てたのか? 確かな事は分かりません。
ただ私も大きくなるにつれて少しは物事が分かるようになると、お父さんが内心で苦悩し
ていたらしい事には気付いていました。
『人々を救う為に私達は祈る。だけど、それだけでは何も変わらない。変わってくれない。
何より教団という組織自体がもう人々の為ではなく、自分達の為の組織に成り下がっている
のだから──』
お父さんが優しく、だけど凄く辛そうな眼で私に答えてくれた一度きりの言葉。
あの時はまだ幼くて全部を飲み込めなかった。神様はちゃんと私達を助けてくれる。そう
頑ななまでに信じていたから。
でも、現実は悲しいけどそうじゃない。力を振るえる者が全てを奪い取っていく。
これは推測だけど……お父さんはきっと、自分の力で皆を助けたかったのだと思います。
だから冒険者という道を選んだ。たとえ人々に荒くれ者と呼ばれ、煙たがられようとも、
実際に誰かを助けることのできる道を選んだ。
イセルナさん達クランの初期メンバーの皆さんと出会ったのは、そんな旅路の最中の事で
した。そして共に旅をし、戦い、やがてこのクラン・ブルートバードが生まれたのです。
変わっていった私の周りの環境達。
でも、逃げ出したいとは思いませんでした。
お父さん以外に肉親がいなかった事もあるけれど、でもそれ以上に、たとえ荒っぽくても
私と仲良く、とても親切にしてくれるクランの皆が大好きで──。
「ほら、また脇が甘くなっているよ。型を崩さないこと。不要な動きは隙を作るだけだ」
『ういっス!』
レナが渡り廊下を歩いていると、中庭ではリンファが木刀片手に団員らに剣の指導をして
いるのが見えた。
ざっと見ても相手は十人以上。なのに彼女は息一つ切らさず、次々と向かってくる彼らの
攻撃を最低限の足運びで交わし、いなし、すれ違いざまに霞む速さで峰打ちを叩き込んで地
面に伏せさせていく。
力量差は言わずもがな圧倒的だ。
しかしそれでも団員らは挫けない。すぐに起き上がっては木刀を手に向かってゆく。
それだけ彼女の力を信頼し、慕っているからなのだろう。何よりさっぱりと凛としたその
言動は、同じ女性から見てもカッコイイと思う。
(……私はやっぱり、冒険者をずっと勘違いしていたんだよね)
トレイの上の朝食が鎮座している。
レナは父が仲間に、友に用意してくれたそれに目を落とすと静かにそう思った。
今でも冒険者と関わりの少ない人達にとっては、この業界はやはり荒くれ者の集まりだと
思われているのだろう。……正直な所を言えば、自分も始めの内は父のこの転職に疑問を
抱いていたのだから。
「大丈夫かい? 部屋で休んでおく? 依頼を見繕うなら僕だけでも」
「……いや、俺も行く。薬も飲んだんだ。軽く動いてる内に効いてくるって」
リンファとは違う中庭の一角、レナとは逆方向の渡り廊下を、ジークとシフォンが歩いて
いくのが見えた。
大方、支度の為に一度部屋に戻るのだろう。
ちなみに宿舎内は、男女で左右に分かれた部屋配分になっている(とはいっても、団長の
イセルナやリンファなどを除き、大半は男性なので実質は半々ではないのだが)。
(ジークさん……)
冒険者に対するイメージ。
それを大きく変えたのは父よりも、仲間達よりも、何よりも彼だった。
しかし、実はレナの中での第一印象は「何だか怖い人」──つまり決して良いものではな
かった。元々は教会という温室の中で育っていたのだから、根っからの荒っぽさに対して何
だかんだといって耐性が薄かったということもあるのかもしれない。
でも今は。レナは自信を持って言えた。
ジークさんは、皆は、そんなのじゃない……。
「……」
きゅっと。少しだけ、少しだけ苦しくなる胸にそっと片手を当てて。
レナは中庭に吹いてくる微風に身を委ねながら、静かにあの日の事を想う。