29-(0) 宴の支度を
休日の明朝にも拘わらず、屋敷の中は忙しなくも何処か清々しさで満ちている。
時はアルス皇子の歓迎会当日。
処は梟響の街アウルベ伯爵邸の中庭。
その館の主──この街の若き領主ルシアン・V・アウルベルは普段よりも大幅に早起きを
して朝食を済ませると、数名の従者と共に屋敷内のあちこちで進められている準備作業の
様子を見て回っていた。
「あ、伯爵。お早うございます」
「ああ、おはよう。どうだい? 準備のほどは」
「はい。見ての通り大きな設営は昨夜までに全部済んでます。今は細かい備品の最終点検を
通している所ですね」
「ご心配には及びません。開会予定までには間に合わせますんで」
「そうか。引き続き宜しく頼むよ」
お任せを! そう快活に笑って作業に戻ってゆく使用人らを見送り、ルシアンは朝の微風
に暫し身を任せて我が家の庭を見渡す。
こまめに手入れされた庭園。そこに設えられた演壇やテーブル席の群れ。
いつもとは毛色を変えた屋敷の様子が、今日という日の特別さを静かに物語るようだ。
「……」
今回のアルス皇子の歓迎会は、此処アウルベルツの執政館(現地の領主や派遣された大使
が詰める公邸の総称)がその会場となっている。
皇子当人や皇国サイドは勿論の事、招待予定の近隣諸侯らとの調整を済ませた後、自分達
はすぐさま準備を進めてきた。
(随分と、遠回りをしてしまったな……)
ルシアンは、目前に迫ったイベントを前にそんな思いを抱いていた。
以前この街を襲った“結社”の魔手。その圧力に屈し、レノヴィン兄弟を放逐する事で街
を守ろうとしたあの時の自分の判断──いや、側近達の思惑の代弁。
『偉いってのは単に金や肩書きがあるからじゃねぇだろ! ……救えるからだろ? その権
力ってもので人やモノを動かしてたくさんの人間を救える、その“力”があるからじゃねぇ
のかよ!?』
だがあの日、自分はそれまでの己の愚かさに、弱さに気付かされた。
ジーク・レノヴィン。あの時我が身可愛さ故に追い出そうとした兄弟の片割れ。その当人
から叫ばれた“高貴たる者の義務”に連なる言葉、想い。
長らく自分は──狭いセカイばかりを見ていた。
まだ二十歳になったばかりの頃、当時の領主であった父が隠居を宣言した。
曰く、自身の老齢と若い世代に対する変革の期待。
だがそんな父の期待に、自分はお世辞にも応えられぬ日々を過ごしていたように思う。
継ぎたくない訳ではなかった。次期領主として、必要な勉学にも真面目に取り組んできた
つもりだ。
だが……知識と経験はまるで違うと思い知らされた。
自身の耳にも届いていた。恥ずかしながら自覚はあった。
実質、自分が家臣達の傀儡でしかないという領民らの評を。
それでも自分は、彼らの言葉を中々無視できなかった。
長く父を支えてきた者達。そんな彼らの経験値は、形だけの領主たる自分よりもずっと優
れていたのだから。無能な善人と有能な悪人──何もできないよりも何かを成せる力こそ、
実務家には求められる筈だと思って。
しかしそれは、やはり所詮“逃げ”だったのだろう。
責任ある立場にありながら、肝心な事は彼らの言葉を右へ左へ流し通す。その無責任さ。
いつしか自分は領主であるその誇りよりも、父から受け継いだこの街を如何に“守る”か
に囚われてしまっていた。……実際は、それが家臣達の私利私欲を叶えるばかりになると何
処かで気付いていながらも。
……だからこそ、私はあの時あの言葉をぶつけられ、身に詰まされたのだと思う。
護りたかったものは、父から受け継いだものは、何も彼らの利権ではない。
生命だったのだ。尊厳だったのだ。
この街に息づく六万三千人の心と体の安寧を守護すること。それが領主たる自分の責務で
あり、我が身に託された想い──自ら身を引いてまで父が願ったものである筈だと。
故にあの一件の後、自分は街の被害補修を第一として動いた。
入り込んだ魔獣に荒らされた家屋があれば補助金を出し、荒らされた田畑があれば人足も
出してその建て直しを後押しした(この人足もまた別の住人の雇用に繋がる)。
当然、その際の支出は当初の予算に入っていない訳だが、その分は自分も含めた家臣達の
ポケットマネーによって賄った。ジーク皇子の言っていた『助ける為に力を持っているのが
貴族』という弁を現実のものにしたかった。
そんな支出要請が続いたからだろう。徐々に家臣達の中には自分と距離を置き──中には
暇を請う者が出てきている。
私財を擲つのを厭っている。そんな腹の底をもう私には隠せはしない。
だから辞めたいと進み出てきた者には、出て行って貰った。……もう自分はお前達の操り
人形じゃない。そう自他に示す意味合いも含めて。
それ故に手放してしまった人材も、少なくはない。
だがこの心は、それほど後悔の色には染まっていない。むしろホッとした感すらある。
襲撃事件の報告に隠居先を訪ねた時も、父は満足そうに微笑んでくれた。「やっとお前も
ホンモノの領主になれたらしいな」と言ってくれた。
勿論、これで一人前じゃない。むしろスタートラインに立っただけだろう。力ある悪意に
頼らずどれだけの事が自分に出来るのか? これからこそが本番だと言っていい筈だ。
御礼が言いたかった。あの兄弟──皇子達に感謝の思いを伝えたかった。
あの時自分に投げられた説教は、きっと皇爵という最上級爵位者としての発言ではない。
それは彼から叱咤された自分自身が一番よく知っている。
あれはきっと、ずっと彼らがこのセカイに生きる者の一人として抱いていた思いであり、
願いであったのだろう。
(私も、少しは彼らに恥じぬ領主に為れただろうか……?)
血筋には逆らえず、しかしてその運命に抗った彼ら。今や彼らは時の人となった。
故に自分達がこの街が、再びそんな彼らの帰る場所になるのであれば……自分はあの日々
の恩返しも込めて、全力でその力になろうと思う。
「──伯爵。こちらにおられましたか」
そう暫く庭先から大詰めの作業状況を眺めていると、ふと後方から声と足音がした。
振り返ったルシアン達に近付いて来たのは、執政館の別なスタッフが数人。
彼らはこの主人に胸に手を当てた一礼を寄越すと、告げる。
「ウィルマー卿より通信が来ています。今日の会に関して詰めたい話があるようでして」
「一度執務室にお戻り下さいますか?」
「ああ……多分あの事かな? 分かった。戻ろうか」
報せを受けて、ルシアンは小さく頷くと室内へと歩き始めていた。
かつては年配者の顔色を窺ってばかりだった若き領主も、今やその横顔は来たる日々への
意欲と志に満ちている。
サッと翻した礼装の衣。随行の者も呼びに来た者も、屋敷のスタッフらはそんな彼の歩み
に従い、やがて場から姿を消してゆく。
『…………』
しかしこの時、彼らは誰一人として気付いていなかった。
屋敷を彩る中庭、各ゲスト用の控え室、メイン会場となる社交用の広間。それら屋敷内で
着々と最終点検を進めている作業員達。
そんな、忙しなさの中に混じって。
「──全ては」
『摂理の名の下に』
怪しく密かに、備品の中へと複数の小箱を隠して回る者達の存在に。