28-(3) 学び舎に還る
「──ぁ」
アルスがその待ち人達に気付いたのは、用心の為に学務棟の裏口からの退出を計ろうとし
ていた最中のことだった。
人気の多い構内──整地された石畳とは違い、土の地面が広がる棟裏の空き地空間。
そこでアルス達を待ち構えるように立っていたのはフィデロとルイス、シンシアとその従
者コンビ、そしてスキンヘッドの偉丈夫・学院教員の一人バウロであった。
リンファとシフォンをすぐ後ろに、アルスは思わず短い声を漏らして、思わず裏口を出た
すぐその位置のままで立ち止まっていた。
つぅっと、背中に冷や汗が伝う感触。まさかこんなに早く……向こうからだなんて。
「アルス?」
「……」
学院への復帰が長引くと、自分は尚の事学院に居辛くなると思っていた。
それは何もブランクが邪魔をするからではない。……正直、怖かったのだ。
フィデロ・フィスター、ルイス・ヴェルホーク。
この学院に入学してからようやく出来た大切な学友。
怖かった。今の自分はもう一介の学生ではない。トナン皇国第二皇子という貴族身分を持
った人物であり、そう扱われる事が多くなった。
そうした情報は、間違いなく彼らの耳にも届いていることだろう。
不安だった。彼らはあの頃のように友達のままでいてくれるのか? それとも……。
「よう。久しぶり!」
だが──結果から言えば、アルスのそんな心配は杞憂だった。
エトナの怪訝にも第一声が出なかったアルスに、最初にそう気さくな声を掛けて駆け寄っ
て来たのはフィデロだった。そんな彼に場にいた残りの面々も続く。
「あ、うん……。えっと」
始め、アルスはもごもごとしていた。
友らと生で再会し、奥底にあった不安が一気に暗い水面から浮上してくる。
「その……ごめんなさい。今まで黙っていて」
だから、挨拶というよりは殆ど謝罪。アルスはぶんっと勢いをつけるようにしてフィデロ
達に頭を下げるとそう謝っていた。
「え? 何で謝るんだよ。別に怒ってなんか」
「フィデロ」
しかし対するフィデロは、まるでそんなアルスの不安など分かっていないようにみえた。
そしてそこでようやく、隣のルイスが彼の言葉を遮り、バウロやシンシアらともちらと顔を
見合わせて言う。
「……とりあえず顔を上げてくれないか? 最初に言っておくけど、僕達は君が誰であろう
とも掌を返すつもりはないから」
頭に疑問符を浮かべながら、アルスはゆっくりと顔を上げていた。
皇子だとは分かっている筈だ。だけども、彼らの接し方は……変わっていない。
「おう。そーゆー事。つーか何でお前の方が畏まってんだよ。何だか俺が悪いみたいな感じ
になっちゃうじゃねぇか」
フィデロは笑っていた。バシバシとアルスの肩を叩きながら、この少年は“友”へのそれ
であるようにぶれぬ振る舞いをみせる。
流石に「君は少し遠慮を持った方がいいと思うけどね」とルイスが静かに諌めていたが、
もうアルスの意識にその声は随分と遠くなり始めていた。
「僕の事、許してくれるの……?」
「あったりまえじゃん。つかお前、俺達に何か悪いことしたか? そりゃあ確かに皇子だっ
て知った時は俺もルイスもびっくりしたけどさぁ……」
フィデロがニカッと笑う。ルイスもそんな幼馴染の言葉に首肯する。
「でも皇子がダチなんて中々できない経験だろ? 俺、今すげーワクワクしてるんだぜ?」
「……まぁ、そういう事だよ。本当、君といると飽きないよ」
「ははっ、だよなぁ。だからさ、これからも宜しく。そんでもってお帰りなさいだ」
「フィデロ君……ルイス君……」
差し出された二人の手。静と動、二種類の笑顔。アルスの瞳にじわりと浮かぶ涙。
アルスはごしっと袖で涙を拭っていた。そしてコクッと頷き、その二人の手をしっかりと
握り返す。
「うんっ、ただいま。これからも……宜しく」
心配など要らなかったのだ。
自分が思っていた以上に、彼らもまた変わらず自分を思ってくれていたのだから。
ジェラシーのように、だけどそれを顔の出すまいとむすっとして腕を組んでいるシンシア
と、そんな彼女をにやにやと横目にしている従者コンビ。
強面はそのままに、だが満足したように同じく静かに小さく頷いているバウロ。
エトナら三人──アルス側の従者と相棒達も安堵の様子で互いの顔を見合わせていた。
……大丈夫。此処にはちゃんと理解者だっている。
復学に、大きな前進の一歩を踏み出せた。
そんな感触の中、バウロはアルス達三人が再会を果たしているさまの頃合を見て言う。
「この後は、やはりレイハウンドの研究室に行くのか?」
「あ、はい……そのつもりです。今日は殆ど挨拶回りになりそうですし……」
「そうか。なら、ここを東に──あそこの門を抜けて壁伝いに行けば、研究棟の裏口に出ら
れる。正面入口はもうマスコミが入り込んでいるようだからな」
「分かりました。ありがとうございます。では……。またね、フィデロ君、ルイス君」
「おうっ」「ああ。また後で」
最初の不安げな表情は消えうせていた。胸の奥の暗い水面も、水が抜け始めている。
アルスはバウロから裏ルートを教えて貰うと、ぺこりと頭を下げて礼を述べ、学友らに手
を振りながら早速歩き出していた。
再会を一段落させ、また復学の挨拶回りへ。
アルス達が立ち去り、やがて裏口の空き地にはバウロ達が残される格好となる。
「……マグダレン先生。どうして護皇六華のことを訊かなかったんですの? その為にわざ
わざヴェルホーク達に此処を教えて、一緒について来までなさったのでしょう?」
「ああ……。そうなのだがな」
ぽつねんと、シンシアがバウロに訊ねていた。
わざわざ待ち伏せた目的。だがそこに突っ込まなかった彼への疑問符。
しかし当のバウロは、強面な容貌に慣れぬ苦笑を浮かべて答える。
「訊けないさ。あんなに学生であることを嬉しそうにしている彼に、皇子としての質問をぶ
つけるのなど水を差す真似以外の何物でもないだろう?」
バウロの手助けはしっかりと功を奏してくれた。
担当教官達の研究室が集まる研究棟の前には、既に警備の合間を縫って学院内に入り込ん
だらしいマスコミ記者と、彼らを見咎め追い出そうとする警備係らとの押し問答が繰り広げ
られていた。
「バウロに聞いててよかったね」
「うん……。もし真正面から入ろうとしていたら、警備員さん達もっと大変だったろうね」
こっそりと裏口に辿り着いたアルス達は、ひそひそとそういったやり取りを交わしながら
物陰に隠れて彼らの様子を確認していた。
確か正門で警備の者達がマスコミの要らぬ進入を食い止めていた筈だが、彼らも情報を抜
き取るのが仕事だ。全員が全員、真正面から乗り込んでくる訳もないのだろう。
「行きましょう。アルス様」
「だね。長居して勘付かれたら、それこそ彼らに申し訳ない」
「はい」「分かってると思うけど、ブレアのラボは一階の一番奥だよ」
警備に奮闘してくれる彼らに密かな礼を送り、アルス達は裏口から研究棟に入った。
扉の前には二人組の警備員がいたが、先刻ミレーユから受け取った許可証──何よりアル
スの顔を見て、彼らは畏まりすぐに通してくれた。
棟内に入ってすぐ手前にあったのは階段。
階段はエントランス奥にもあるし、無骨な金属剥き出しである事からも、こちらは非常用
のものであるらしいと分かる。
「じゃあ、僕は扉の前に残るよ。念の為に外に誰かいた方がいいだろうから」
「あ、はい」「うむ。任せた」
ブレアの研究室は、その直線廊下を折れたすぐ右手側にあった。
ドア横に下がっているプレートには『在室中』の文字。
アルスはエトナとリンファ、二人と顔を見合わせて頷き、見張り役を買って出てくれたシ
フォンに後ろを任せてドアをノックする。
『また記者か? 取材ならお断りだぜ?』
「あ、あの。僕です、アルスです。ブレア先生、今大丈夫ですか?」
『おお。何だお前か。ちょっと待ってろ、すぐに開ける』
どうやら既に、彼の下にも──アルスの指導教官という事で──マスコミ攻勢が始まって
いるらしい。
カチャリと、控えめに空いたドアの隙間からブレアの顔が覗いた。
そして挨拶もそこそこに、そのまま小さく手招きが向けられる。
アルス達の後ろ、壁に背を預けているシフォンの姿を視認こそしていたが、それでも用心
を重ねているようだ。アルスは頷き、二人と一緒にドアの隙間へと身体を捻じ込んでいく。
「……あのエルフの兄ちゃんは、見張りか?」
「あ、はい。念の為、ですけど」
「そっか。まぁ用心するに越したこたぁねぇさ。適当に座っててくれ。こっちももうちょっ
とで終わるからよ」
アルス達が入室したのを見て、ブレアはしっかりと鍵を掛けて振り向くとそう言った。
頷き、相変わらず書物で埋もれた室内を跨ぎながらソファに腰を下ろす。
その一方でブレアは、ガタリと小さい脚立に乗り、室内の壁四方に何やら文様を書き込んだ
長布をピンで留めて回っていた。
「教官殿。それは……?」
「ああ、これ? マスコミ対策だよ。アルス、エトナ。お前らなら分かるだろ」
「え? ええっと……」
「この構築式は……。もしかして遮音魔導、ですか?」
「正解だ。一応警備員が近くを回ってるが、いつまたマスコミ連中がやって来て聞き耳を立
ててくるかも分かんねぇしな。お前だってそんな状態でゼミは嫌だろ?」
「そ、そうですね……」
アルスの苦笑に、ブレアはふっと口角を吊り上げていた。
そして脚立に座ったまま、彼は長布に掌を当てて数秒呪文を唱える。
するとどうだろう。それまでは何の変哲もなかった布地が淡い銀色の光を帯びた。
ブレアが触れていた部分を発端に、魔力を注がれた術式が発動、室内の四方を遮音の魔導
が瞬く間に包んでゆく。
「……ん。こんなもんかね」
閉じていた目を開き、ブレアはそのままストンと脚立から飛び降りた。
着地したその片足を引っ掛け、手馴れた様子で脚立を折り畳むと、彼はそのままそれを書
棚と壁の間の空きスペースへと収納する。
「わざわざ、お手数を掛けます」
「気にしなさんなって。皇子だろうが誰だろうが、一度受け持った以上は俺の生徒だ。やれ
る事があれば何でもするさ。学院長からも宜しく頼むって言われるしな」
チカラに屈することないさまは、教え子が皇子であると公になっても同じだった。
リンファが座ったまま小さく頭を下げる中、彼はニカッと笑いながら自身もまたソファの
対面にどかりと腰を下ろす。
「こっちこそ悪ぃと思ってるよ。こう連中が集ってくるのは分かってたんだ。ラボの場所も
本当ならもっと上の階に移したかったんだけどな……。学院長にも打診はしたんだが、肝心
の変わってくれる相手の調整がつかずじまいでさ」
そう“有名税”の悪癖に苦笑しつつも、語るブレアの顔色はむしろ喜色に思えた。
お気遣いなく。アルスもまた苦笑を返すが、内心は嬉しかった。
ルイスやフィデロも、そしてこの第二の師匠も、変わらずに自分と接してくれる。皇子と
いう身分に臆することない強さと優しさを惜しむことなく向けてくれる。
暫くの間、師弟は語り合った。
時折エトナやリンファも会話に加わったが、彼女達は見守る場面の方が多かった。
既にホームに帰って来て一夜の頃、アルスはブレアに通信により連絡を取っている。それ
でも中々話は尽きなかった。
皇国内乱の顛末と、公にされた自分達兄弟の正体。
ブレアも映像器で観ていたという、兄ジークの突然の出奔。
そして学院で学んだ中和結界が、まだまだ“結社”の魔人達を捉え切るには足りなかった
こと。
その悔しさ。もっと強くならなければというアルスの決意。
「……ったく、無茶しやがって」
流石に“結社”と交戦したという事実を聞いた時、ブレアは思わず目を見開き、そして嘆
息を漏らしていた。
「でもまぁ、よく帰って来た。それでこそ俺の生徒だ」
髪をガシガシ。だけども安堵の念はそれよりもずっと大きくて。
「だが今日からはまた、修行の再開だ。皇国にいた間のブランク、俺がみっちりとしごいて
埋めてやるからよ」
「あっ。そうでした。その事なんですけど……」
「?」
再びの不敵な笑み。相手が皇子であるとしても、あくまでブレアは教官として振舞う。
するとその言葉で思い出したように、アルスはふと傍らに置いていた鞄を弄り始めた。
ドスンと。ややあってテーブルの上に置かれたのは──付箋だらけな分厚い魔導書の山。
エトナを除く二人が、ぱちくりと目を瞬いていた。
まるで我が事であるかのように胸を張ってみせるエトナを背後に、アルスは苦笑する。
「いきなりですみませんが、先ずはこれを添削して頂けませんか? 実は皇国にいた間、
王宮の司書さん達に頼んでこっちで使っていたテキストを取り寄せて貰っていたんです。万全
とは言えないですけど、勉強を休んではいられませんから」
暫し二人は唖然とした様子で固まっていた。どうやら侍従であるリンファも与り知らぬ事
であったらしい。
それでもアルスの表情は、穏やかさから真剣神妙なそれに為っていた。
学び、練り上げて来た自分の魔導が“結社”に通用しなかった。まだまだ……足りない。
そんな実戦での悔しさの記憶が、彼を弛まぬ努力の継続へと突き動かしていたのだろう。
「…………は。ハハハッ!」
はたと、ブレアは大声で笑っていた。
片掌で己の顔を覆い、仰け反るように大きくソファに背を預けながら。
「こいつあ……参ったな。ホント、それでこそ俺の生徒ってもんだよ」
やがて反動をつけて、再びずいっと身を乗り出す。ブレアは笑っていた。
賛辞。その意図だったと気付くのに、アルスは目を瞬いたまま数秒の時間を要した。
ペン立てから赤色を一本。ブレアはそれを指の間でくるりと回す。リンファはそんな師弟
のさまを微笑ましく見守っている。
「その心意気、嫌いじゃねぇぜ? これも縁って奴だ。心配すんな。これからもとことん付
き合ってやっからよ」
「……はいっ」「お~っ!」
破顔と突き上げられた腕と。
アルスとエトナはそれぞれに頷き、この恩師に満面の笑みを返していた。