27-(5) 兆し刻む足音
久々に兄らと言葉を交わした興奮も覚めやらぬまま、すっかり日は沈み、アウルベルツに
も夜の帳の中が降り始めている。
「──……と、そういった感じで昨夜こちらに帰って来ました。本当ならすぐに連絡を取る
べきだと思っていたんですが……」
『気にすんなって。もうお前は皇子様なんだぜ? 俺みたいな一介の教員にそうヘコヘコし
てちゃ、他の連中に舐められちまうぞ?』
夕食と入浴を済ませた後、アルスはイセルナに頼んで彼女の部屋の端末を借りていた。
目的は、報告。兄ではなくこの街の学院に──指導教官であるブレアにである。
以前街を飛び出して行った際、精霊伝令によってブレアの住むアパートは分かっていた。
そこから学院側に問い合わせて連絡先を教えて貰い、今こうして映像越しに彼にこれまで
の経緯を話し、そして何よりも身勝手に出奔したことを詫びていたのだった。
「そ、そう言われましても……。正直まだ慣れてないんですよね。自分が王族だなんて」
さてどんな咎めが待っているかと、アルスはおっかなびっくりだったのだが、予想に反し
て彼からの叱責はそう多くは語られなかった。
もう皇子であると公にされた故の遠慮──ではないだろう。それはこうして話している間
も従来通りのざっくばらんである彼の口調から判断できる。
『お前がそう思ってても、周りはもう一介の生徒とは見てくれねぇぜ? それはこっちに帰
って来た時の“歓迎”ぶりで嫌ってほど味わってると思うんだがな』
ブレアの言葉に、アルスはただ苦笑していた。
そうなのだ。もう自分は、平凡な日常から手を引かれて遠退きつつある……。
『有名税って言えばそれまでだが、面倒臭いもんだよな。お前が皇国でどれだけ苦労したの
か、世間の連中は一割も理解しちゃいねぇだろうに」
「……そんなものですよ。むしろ皆が味わわなくて、いいことです。あんな……争いは」
アルスが言葉を時折詰まらせながら言い、ブレアもまたその乾いた笑いに黙っていた。
人々の“他人事”ぶりに嘆くのも、憤るのも、筋が違うとアルスは思っていた。
まだ彼らは、平和なのだと思う。
現実として今尚“結社”の影は各地でちらついているにしても、実際の火の粉を被ってい
ないのならそれに越した事はない筈だ。あの戦いを経験した自分が、そんな彼らに「私怨」
を理由にあのような危険へ一様に眼を向けろと強いるのは……違うと思う。
やっぱりお前は“甘い”よ──。
そう画面の向こうのブレアは、そっと視線を逸らしつつ呟いていた。
『……ま、お前がそう思ってるなら俺がどうこう言える立場じゃないな。だがその気負いで
修行に身が入らないってのは止めてくれよ?』
だがそんな小声と視線も一瞬のこと。次の瞬間には再び彼はアルスに向き直り、何処とな
く茶化すような言葉を掛けてくる。
アルスは「だ、大丈夫ですよ……」と苦笑い。
ブレアは「はん。本当かねぇ……?」と口角を吊り上げニマリと笑う。
そんな二人のやり取りを、アルスの頭上中空に浮かんでいたエトナが寝惚け眼のままぼう
っと眺めていた。
外はしんとしている。宿舎は通りから距離がある所為もあるのだろうが、四六時中マスコミ
などに騒がれれば自分も皆も参ってしまう。
誰しも、時には親しい誰かとの一時が必要なのだ。安心できる、閉じたセカイが。
『まぁ改めて月並みになるが……。お疲れさん』
そんな中で、ブレアは再度画面の向こうで居住まいを正して言葉を紡ぎ、
『また研究室で会おうや。皇子だからって手は抜かねぇぜ? 向こうに行ってた分の空きを
埋める為にも、またビシバシ鍛えてやっからよ』
「……はいっ、宜しくお願いします」
あくまでいち生徒として、アルスはその激励に微笑み、応える。
彼らがやって来たのは──そんな夜のことだった。
「はい。リンファさんも」
「お気遣いありがとうございます。頂きます」
ブレアとの通信を終えた後、アルスは端末を借りていたイセルナに礼を言って部屋を後に
した。その折、彼女と同じく自分を待ってくれていたリンファも一緒に。
最初はそのまま自室に戻って夜長を過ごそうかと思ったが、すぐに気が変わった。つい先
程まで話し込んでいた事もあり、ふっと喉の渇きを覚えたからだ。
宿舎の廊下で踵を返し、一旦中庭内の渡り廊下に出て酒場(食堂)へ。
居残り談笑していた団員らと会釈などを交わしながら、アルスは自分とリンファ、二人分
の茶を淹れて貰った。
コップを手渡すと、彼女はふっと穏やかに微笑んでいた。
アルスは彼女と二人、カウンターの前で暫しの一服を取ると、再び宿舎に戻ろうとする。
(……?)
変化を察知したのは、ちょうどその折だったのである。
酒場の裏口を出て、渡り廊下を行く途中。そこで何気なく中庭の向こうを見遣ったアルス
はそこ──クランの勝手口の門に灯りが点いているのを認めたのだ。
リンファともちらと顔を見合わせ、静かに怪訝の表情。
あそこは名の通り、ホームの正式な出入口ではない。路地裏から接続する勝手口は、団員
や関係者ではなければ普段そう利用されてはいない。
「誰だろう? こんな時間に」
「マスコミでしょうか。交替で団員が見張りをしている筈ですが……」
「うーん。じゃあ何でわざわざ灯りが? それに何か知らない人も来てるっぽいよ?」
「え?」
夜闇の中では中々目が利かないが、精霊には遠目でも充分、向こうで起きている変化を
確認できるらしい。
再びアルスとリンファは顔を見合わせた。
まさか、侵入者か? ならばすぐにでも加勢を……。
腰の太刀に手を掛け、ローブの裾を翻し、二人と一体はにわかに神妙な面持ちで足を踏み
出してゆく。
──勝手口に姿を見せたのは、一言で表現するなら「法衣の一団」だった。
胸元には、クリシェンヌ教徒であることを示す三柱円架型の止め具。
だが基本的に「純白」を基調とする同教の法衣とは対照的に、彼らは一様に漆黒の法衣を
身に纏っていた。
……いや法衣、という表現も似つかわしくない気がする。その佇まいは、あたかも教徒を
演出しつつもある種の攻撃性を秘めた、そんな厳しさにも似た印象を与えてくるからだ。
「よう。夜分に失礼するぜ」
そんな対面の中、戸惑う団員らに向かって、彼らのリーダー格とみられる男性は言った。
年格好は三十代半ばの金髪の人族。だがその雰囲気は“信仰者”にはあまり見えない、
明らかに冒険者に近いものだと面々は感じる。
「……久しぶりだな、兄貴。かれこれ十年近くになるか」
だがそれ以上に団員達が驚いたのは、次に発されたその言葉だった。
兄貴。彼にその呼び名を向けられた当人──アルス達よりも一足先に顔を出していたハロ
ルドに面々の視線が自然と集まる。
「……」
しかし当の彼は、眼鏡の奥の瞳を静かに光らせながらもじっと黙していた。
探り合っているらしかった。そんな二人の間に降りる沈黙に、何気なく一緒について来て
いたレナが、おろおろと不安そうに両者を見比べている。
「お、お父さんを兄貴って……。貴方は一体……?」
「ん? 何だ俺のこと覚えてないのか、レナちゃん? まぁ無理もないよなぁ……。兄貴に
連れられて出て行ったのは、まだ小さい頃だったし……」
レナは最初この男性が誰か分からないでいたが、彼がそうごくごく自然に自分の名を呼ん
できたことで、ようやく引き出しの奥にあった記憶を探し出すことができた。
「……まさか。リカルド、叔父さん?」
嗚呼、そうだ。まだ幼い頃、教団にいた頃、度々養父の元を訪れては仲間達と飲み食いを
していた風来坊さんなおじさんがいたっけ……。
おっかなびっくり。
そして、レナがやがて驚いたように声を漏らすと、
「ああ。久しぶり。暫く見ない内に随分とべっぴんさんになったじゃないか」
この黒法衣の男性──もといリカルド・エルリッシュは、それまでの厳しい表情をふっと
緩めると、そう懐かしそうに応えたのだった。