21-(5) 戦禍は置き去る
(──……んっ)
朝陽が瞼の裏を刺激するのを感じて、ジークはぼやっと眠りから覚めた。
深手を負った筈の身体は、粗末だがシーツの類は頑張って清潔を維持しているらしいと見
えるベッドの上。見渡してみる目に映るのは、質素以前の貧しさを隠せないあばら屋の室内
と、窓の外から覗くそれに似たり寄ったりな軒低い家々の密集しているさま。
「目が覚めたみたいだね。どうだい、具合は?」
「……ああ。見ての通り、何とか生きてるよ」
もぞっとベッドの中で身をよじった物音を聞き、薄い吊るしカーテンを引いてそう一人の
老婆が顔を出してくる。王宮から脱出した先──スラム街で取り囲まれたジーク達を助けて
くれたあの老婆だ。
まだ身体は満足に言う事を聞いてくれない。
それでも、日数の経過と治癒の進行は少しずつだが確かにある。
ジークは申し訳程度に身を起こして彼女に振り返ると、そう自嘲めいて返事をした。
──この老婆は、元は医者であったらしい。
それ故に、このスラムに身を置くようになった今でも、彼女は周囲の人々から「御婆」と
呼ばれてある種の信用を集めているようだった。
『余所者でも、怪我人を見捨てちゃあ医者の名折れさ。たとえ落ちぶれたってねぇ』
そう、ふんと何処か自身を哂いつつ言って。
あの後、彼女は自分達をこの自宅謙診療所に案内し、ジークに治療を施してくれている。
「それだけ軽口が叩ければもう峠は越えてるさね。おい」
「へいよ~。ほれ兄ちゃん、朝飯だ。食えるか?」
「おう。大丈夫……だよ。毎回悪ぃな」
カーテンの向こうへ御婆が呼び掛けると、助手なのか、如何にも荒くれといった風貌の青
年が顔を出し、既に用意してあったらしい朝食をベッド脇に佇むする木製のサイドテーブル
に置いた。
元よりスラム街。決して充分な量も質もない。
だが無いよりはマシだし、何よりも栄養をつけなければならない。
「……んむっ」
パサパサした歪な丸のパンを齧り、ミルクで流し込みながら、ジークは暫し食事という名
の治療に専念する。
あれから、何日が経っただろうか?
運び込まれたのが侠者の日(第八曜日)だったそうで、この前は聖女の休日(第一曜日)
を告げるクリシェンヌ教徒らのミサがあったと道行く人々の会話から耳にしていた。
という事は……少なくとも、脱出当日を含めて六日は経っている計算になる。
(正直、もう時間稼ぎの意味はなくなったよな……)
野菜をすり潰した小さな蒸し団子を頬張り、ジークは内心焦りばかりが募っていた。
すっかり足止めを喰らってしまった格好。
心はすぐにでも六華を取り戻し、この争いを何とかしたいと願うのに、身体はまだまだ完
治には遠いまま。それに一旦あの大立ち回りをした後で警備も強化されているだろう。普通
に考えて、再度王宮に潜入するには一層難しくなっている筈だ。
「……他の連中はどうしてるんだ? 俺と一緒にここに来た時の」
「バラバラに散らばってるみたいだぜ。俺達も御婆から大体の話は聞いてる。王宮から脱獄
してきたんだってな?」
「ああ。……兵隊に喋ったりしてねぇよな?」
「してねぇって。御婆にも全員が一通り釘刺されてるし」
「それにしてもすげぇよな。王宮からだろ? ははっ、どーかしてるぜ」
「今頃、お上連中は必死にあんたらを探し回ってるだろうよ」
気付けば、ふらふらと勝手に部屋に入ってきたり窓越しから顔を出してきたり、話し掛け
てくる相手が増えていた。
スラムという呼び名に反する人の良さなのか、或いは単に好奇心であるだけなのか。
ジークが「まぁな……」と曖昧に相槌を打つ中、彼らスラムの住人は粗末な身なりを別段
恥じることもなく、ジークを囲んで半ば井戸端会議のような状態になってゆく。
「でも、実際こっちに逃げてきて正解だったんじゃね?」
「だよなぁ。兵隊連中も『捜す』って言ってもここまでは嫌がって中々来ないしさ」
「……」
彼らは笑ってこそいたが、ジークはあまり笑えなかった。
それは、彼らが自ら自分達を貶めているように思えてならなくて。
「でも、だからってこのまま都を抜け出せるって訳でもないんだよなあ……。例の軍事行動
って奴からずっと都の出入口は警備が凄いらしいから」
「……そっか」
だからといって、ジークはその彼らの錆び付いた陰気を蒸し返す気にはなれなかった。
そしてその間にも続く彼らの雑談。老婆も部屋の片隅のテーブルで茶を啜りながら、こっ
そりと聞き耳を立てている。
脱出してきた面々も、きっと今頃スラム街──城下のあちこちに潜んでいるのだろう。
少なくとも「脱出」の手伝いはしてやれた筈だ。……そう思っておくことにする。
だからこそ、彼らが安心して都も脱出できるようにという意味でも、早くこのくだらない
内乱を終わらせねばと思う。焦ってしまう。
「……。なぁ」
そうしたもやもやが胸の奥で燻り始めていたからだったのか。
「あんたらは、アズサ皇が憎いか?」
ふと、ジークは次の瞬間、彼らに思わず訊ねてしまっていたのだった。
最初はきょとんと。しかしややあって、彼はそれまでジークが感じていた陰気への塞ぐ想
いを察したのか、敢えて彼らは弱々しく苦笑してみせる。
「憎いって感じじゃ、もうないなあ」
「先皇派とか現皇派とか、自分達にはあまり意味のない話だしな」
お互いに顔を見合わせて、ぽつりと確認するように漏らすその言の葉。
それはおそらく──いやほぼ間違いなく、諦観だった。貧民として追い遣られた先に自身
を位置づける、その過程で落ち着からせたのであろう、虚しさの距離感だった。
「まぁでも、昔の……先代の時の方が良かったのかもなあ。今みたいに競争競争って言うお
方じゃなかったし」
「それは思うな。そういう不満ですら今は『お前が頑張らなかったからだろう?』で済まさ
れちまうご時世な訳で」
「……そうさね。乗っかれた連中はともかく“強制された前進”はしんどいもんだよ」
彼らは在りし日を思い出していた。
しかし老婆がそっと言葉を挟むように呟いた通り、今この国ではそれすらも否とされてい
る節があるのだろう。
外育ちのジークでも知っている。今のトナンは新興の“開拓派”国の一つだ。
追いつけ追い越せ。より強く豊かになる。その欲望に忠実に。
そうした行動力が人々を高めるのだという一種の「信仰」がそこにはある。
「結局の所さ……。儲かるのは貴族とか元々の金持ちばっかりなんだよ」
「だよなあ。連中は庶民のことなんて考えてねぇんだもんよ」
「……」
ベッドの中に潜ませた手を、拳をぎゅっと握り、ジークは密かに自分でも何だと言えない
悔しさを噛み殺していた。
(……これが、王って奴なのかよ?)
きっと二種類あるのだろう。
一つは、民の苦しみを顧みずに突き進むアズサ皇に対して。
もう一つは、そんな治世に絶望──諦めを抱いてしまった彼ら国に生きる人々に対して。
悔しさやもどかしさ。
自分が“説得”した所で変わらないのかもしれない。
(王ってのは皆を幸せにする為にいるもんだろ? その為の“力”じゃねぇのかよ……?)
だけど……この両者の距離も、諦めて陰気と自嘲の中に閉じ篭る彼らも、ジークには不快
で悔しくてならなかったのである。
「──た、大変だ! 大変だよ御婆!」
変化が訪れたのは、ちょうどそんな時だった。
ふと景色の向こう側から走ってきた男らが数人、大慌てでこの老婆のあばら屋へと駆け込
んでくる。
「どうしたね。ぎゃあぎゃあと騒がしい……」
「そりゃあ騒ぎたくもなるさ!」
老婆は、ジーク達場の面々は、思わず眉根を寄せていた。
だがそれでも、彼らは慌てふためいた気色を変えることはなかった。
大きく肩で息をつきながら、彼らは伝えてくる。
「攻めて来たんだ! レジスタンスの生き残りが今ソサウ城砦に向かって来てるんだよ!
国軍の方も動き始めてる!」
『なっ……!?』
「何、だって……?」
それとほぼ同時なタイミングで、皇都全域にけたたましい警報が鳴り響いた。
ノイズ混じりのアナウンスから繰り返されるのは、緊急事態発生──皇都への襲撃者有り
の報と市民への退避命令。
しかし──スラム街の住民に、逃げ場など残されてはいなくて。
「……随分と思い切った、いえ無謀な手に打ってきたじゃない」
緊急の軍議が開かれる王の間で、玉座の上のアズサ皇は呟いた。
周囲では、迎撃態勢を整える国軍の上位将校らを中心としたメンバーが。忙しなく部下ら
から報告を受けては叫び気味に指示を飛ばしている。
その席の中央に映し出されているのは、魔導による遠隔映像。
光球の中に見えるのは、完全武装に身を固めて此処ソサウ城砦──皇都を目指して猛進し
てくるサジらレジスタンス、そしてダン達レノヴィン一行の軍勢の姿で。
「一体、どういうつもりなのでしょうか?」
「兵力差は明らかだ。まさか、ここに来て自棄にでもなったのか」
「……いいえ。そんな筈はないわ」
将校らの戸惑い。しかしアズサはそれでも冷静に事態の推理にエネルギーを割いていた。
単なる自棄とは到底思えない。
レジスタンスの指導者サジ・キサラギは、この十数年の間、自分の追撃から逃げ続けては
各地で反乱の戦を繰り返してきた男だ。そんな無策を実行するとは考え難い。
(アトスとレスズの援軍が到着するまでに、今の状況を変えようという魂胆……かしら?)
警戒に値することは間違いない。だが、このまま攻められるがままでいる筈もない。
アズサはすっと立ち上がると、一斉に視線を向けてきた将校らに力強く命じた。
「迎え撃ちなさい。何かを企んでいるとしても、その前に叩き潰すだけよ。……今日こそ、
あの忌まわしい反乱分子どもを根絶やしにするわよ!」
『──はっ!』
バサリと肩に引っ掛けていたヤクランが翻り、将校らの野太い返事が重なる。
何を企んでいるか、警戒は解かない。
だがそんな企みも全て……今度こそ纏めて滅ぼしてやるまで。
最も種族と繁栄に溢れる地・顕界。
そのとある東の国で、今まさに戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。
一方はかつての皇と緩やかな在りし日々を取り戻そうとする者達。
一方はそんな日々を怠慢とし、強く豊かな国を希求してきた者達。
そんな両者の中に在って、大切なものを奪われた者達は有無を言わさずに巻き込まれ、戸
惑う。或いは翻弄される荒波と知っても、大切なそれらの為に抗おうとする。
──災厄が、始まろうとしていた。