3-(1) 入学式
会場内は式の始まりを待つ人々のざわつきでごった返していた。
中央には幅広く新入生達の列。その両翼には在校生が、更にその外側、演壇の上座方向に
は来賓及び教職員らが陣取っている。
「……こりゃあ、思ってたより多いなぁ」
ざっと見て数百人規模。
ジークは二階の父兄席の一角から、ぼんやりとそんな人々の群れを眺めていた。
「ふふ。だって魔導学司直営の学校なんだもの。注目されて当然よ」
「しかしここからでは……アルスが何処にいるかは分からないな」
その傍らには、イセルナとリンファの二人が座っている。
今日はアカデミーの入学式。しかもアルスはその新入生主席としてスピーチを行う事にな
っている。まさに晴れ舞台と言っていいだろう。
「まぁこれだけの数ですからね。スピーチに備えて別の場所にいるかもしれないですし」
その晴れ姿を一目見ようと、いやむしろ兄として心配で堪らなくて。
ジークは普段着慣れない余所行きの服に身を包み、既にそわそわと何度も演壇の方を確認
していた。加えて、以前に手続きの付き添いで学院に訪れた際に守衛らに見咎められた件も
あり、正装なイセルナ達と同様、今日は刀も差して来ていない。
(……本当に大丈夫なんだろうな? あいつら……)
そうした普段とは違う場・装いなども相まって、現状ジークのそわそわした心持ちは中々
治まる気配を見せずにいたのである。
ややあって、不意にブザー音が会場内に響いた。次いで天井から下がる照明が落とされて
ゆき、辺りは適度な薄暗さになる。
式が始まった。
それまでざわついていた人々の声が徐々に静まっていく。
その様子を確認するように、進行役と思わしきスーツ姿の女性──エマがスポットライト
を浴びながらざっと会場内を見渡すと、宣言した。
「本日はお忙しい中、当アカデミー・アウルベルツ校第七十七期入学式典にご参加頂きあり
がとうございます。これより式典を開会致します。では、先ず始めに学院長よりご挨拶を頂
きます。……全校生、起立」
エマの淡々としたその言葉一つで新入生・在校生両者を含めた生徒達や教職員らが一斉に
立ち上がる。
同時に壇上へと登り姿を見せたのは、学院長・ミレーユだ。
そして彼女が演壇に着いたのを見計らい着席の号令が掛けられ、同じく一斉に一同が重な
る物音と共に席に着く。ミレーユはフッと満足気な微笑を見せてから口を開いた。
「新入生の皆さんは初めまして。在校生の皆さんは終業式以来ですね。私が当校の学院長を
務めています、ミレーユ・リフォグリフです。先ずは入学おめでとう。私達アカデミーの教
職員一同、そして生徒達は貴方達を歓迎します。……そして壇上からではありますが、来賓
の皆さんには本日多忙な中お越し頂き、この場を以ってお礼を申し上げます」
新入生達にそう微笑んでから、こくりと壇上から来賓席にを向いて会釈を一つ。
のんびりとした雰囲気ながらも、知的にまとめられた佇まい。
ジーク達には彼女がどれだけの間学院長というポストに就いているかは知る由もないが、
少なくとも彼女の様子からはこうした公の場における手際の良さと慣れを感じさせる。
「……さて。これから新入生の皆さんは五年間、基礎基本から応用に至るまでみっちりと魔
導のイロハを学んでいって貰います。履修など学院生活に関する細かい点は、合格通知と共
に送付したしおりをしっかり精読しておいて下さいね? それと分からない事があれば、私
達教職員だけでなく、先輩達も大いに利用して下さい。訊くは一時の恥かもしれませんが、
知らぬは一生の恥ですから」
会場内の面々は、しんと静かに彼女の紡ぐ言葉に耳を傾けていた。
それは時折茶目っ気を交えつつも、そこには教え子達への確かな愛情が見え隠れするから
なのだろう。
「──故に魔導とは人的要素を濃く持つ技術なのです。これからの皆さんが修めてゆく知識
や実技は勿論のこと、学院やその周辺での出会い、別れ、各々が取る選択……その全てがこ
れからの皆さんの一人一人の魔導を形作ってゆくのです。私達アカデミーは最大限、そのお
手伝いをしましょう。皆さんの形作る魔導が、これからの貴方に、他の誰かに、そしてこの
世界にとって良きものとなることを願います」
そうしてサラサラと流れるように、ミレーユの挨拶が終わった。
再びエマの合図による一同の起立・着席の波と共に、彼女は悠々と壇上から去ってゆく。
それから暫くは式は厳粛に、滞りなく進んだ。
来賓達の長ったらしい挨拶に始まり、在校生代表のスピーチやエマによるアカデミーの教
育システムの紹介など。時間の経過と共に粛々と予定の項目が消化されていく。
「──続いては新入生挨拶です。新入生代表、アルス・レノヴィン君」
「は、はいっ!」
そして……その時はやって来た。
進行役に戻っていたエマが次のプログラムを読み上げ、新入生席の一角──出て来やすい
ように前列端の席から、やや空回った声と共にアルスが弾かれるように立ち上がる。
「やっと出番のようだね」
「……随分緊張しているようだな」
「まぁ今朝もガッチガチだったしなぁ……。ホント、大丈夫なんだか……」
「ふふ。でもこれもアルス君にはいい勉強よ。私達も見守りましょう?」
その動きを、ジーク達もまたしかと確認していた。
ブルートが鳥の眼で皆の代わりにアルスの様子を伝え、三者三様の反応が返ってくる。
アルスは緊張に身体を強張らせつつも何とか壇上に登っていた。
ちらりとエマが無言のまま眼鏡の奥の目を光らせる。
新入生代表──即ち今年の受験生の頂点に立った人物。会場内の面々の視線が否応なしに
一斉にアルスに向けられる。
「……」
そしてごくりと大きく唾を呑んで。
「ご、ご紹介にあ、預かりました。新入生代表、アルス・レノヴィンですっ。こ、この度は
栄えある当アカデミーへの入学を許して頂き、私自身、身の引き締まるおみょひっ!?」
続けようとしたその言の葉が、突如として中断した。
他ならぬ──アルス自身によって。
『…………』
至って真面目に聴いていた一同が呆気に取られていた。
壇上では顔を俯けて言葉なくプルプルと震えているアルスの姿が見える。
「……もしかして、噛んじゃったのかしら?」
「あのバカッ! 早速やっちまいやがった……!」
「むぅ」「こ、これは流石に……」
紛れもなくアルスは舌を噛んでいた。緊張の余りに呂律が回り切らなかったのだろう。
唖然とするイセルナとブルート、愕然と頭を抱えるジークに、思わず苦笑を隠せないでい
るリンファ。父兄席からその一部始終を見ていたジーク達だけではない。どうやら壇上の彼
の様子がおかしいらしいと、出席者一同や教職員らが少しずつ戸惑い混じりに騒ぎ始める。
「ちょ、ちょっとアルス! しっかりして!」
だがそんなざわめきは、壇上の相棒の失態に慌てて姿を見せたエトナによってより一層大
きくなることとなった。
無理もない。現役で活動する者達ですら、持ち霊付きの魔導師の数は全体の半分に届くか
否かと言われている。にも拘わらず、この壇上に立つ魔導師の卵は既にその持ち霊を従えて
いるのである。
当のアルスとエトナはそれ所ではなかったが、彼女が姿を見せた事により、アルスの学年
主席としての実力の片鱗はしかと場の者達に示されることになった。
「……う。あ、ぁぁ……」
恐る恐ると顔を上げるアルス。だが当然ながら皆の視線は色んな意味で彼にこれでもかと
注がれている。
(ど、どど、どうしよう……!?)
手元に置いていたスピーチのメモの内容などすっかり吹き飛び、アルスの頭の中は瞬く間
に真っ白になっていく。
「お、落ち着いてアルス。ここでリタイアしちゃダメだよぉ。……ほら、ジークも言ってた
じゃない。今朝のアドバイス思い出して」
「今朝の……」
だがそうはさせまいとエトナは必死だった。
碧のオーラを纏いながらふよふよと漂い、そう相棒に語りかける。
『──で。結局今になってガチガチに緊張してるわけか』
それは今朝の身支度時、宿舎の部屋でのやり取りだった。
余所行きのローブに身を通したアルスの漏らした不安の声に、ジークが嘆息を混じらせた
表情でぼやいたのだ。
『だから言ったんだよ。さっさと断わっとけって。お前、大人数の場で熱弁とかキャラじゃ
ねぇじゃん』
『で、でも……学院長先生からの直々の頼みだし、主席の僕が断わったりしたら後味が悪く
なるかもしれないし……』
『そういう心理が分かっててあの学院長も言ったんだろうよ。まぁ、結局ここまで来ちまっ
たんだ。もうやるっきゃねぇんだろうけど』
『うぅ……。そうなんだけどさぁ』
もじもじと。アルスはローブの裾を握って煩悶していた。
とは言っても、こいつは元々内気な部類だ。そもそもこういう役割は合わねぇよな──。
そしてそんな弟を暫し眺め、ふとジークは一つの案を思いつく。
『……だったらよ。精霊だって思えばいいんじゃねぇか? 見知らぬ人間に見られるのが恥
ずかしいってんなら、そう思い込んでみた方がお前の場合、気が楽だろ。俺とは違って精霊
の姿は普段から見慣れてるし、話してたりするだろ?』
『……うん。確かにそうだけど。なるほど、精霊か……』
『ま、気休めみたいなもんだけどなぁ。ともかくだ。後はぶっつけ本番だ。せいぜい盛大に
当たって砕けて来い』
『く、砕けちゃ駄目なんだってば~!』
得心したり、また弱気になったり。
兄のそんな言動に弄ばれるようにして、アルスは半ば本気でツッコミを入れていた……。
「……精霊だと、思え」
今朝の一コマを思い起こし、アルスは俯き加減でそう小さく呟いていた。
こくんと頷くエトナ。周りでは相変わらずわざめきの声が聞こえてくる。
(精霊、精霊、精霊。僕を見てるのは人じゃなくて精霊。大丈夫、大丈夫、大丈夫……!)
次の瞬間、アルスは意を決したようにバッと顔を上げた。
瞳に映る無数の出席者達。その驚きや苦笑の顔一つ一つを、アルスは脳内で馴染み深い隣
人──精霊達へと置き換えてゆく。
「……こ、この度は栄えある当アカデミーへの入学を許して頂き、わ、私自身、身の引き締
まる思いです」
コホンと小さく咳払いをして、再び開かれ始めた口。
それが彼の軌道修正への試みだと皆が気付くのにさほど時間は掛からなかった。
ざわめいた声の重なりが、徐々に静けさの中に収まっていく。
「私も、そしてきっとこの時を同じくした新入生の皆さんも、それぞれに魔導師への憧れと
夢を持ってこ、この学び舎の門を叩いたのだと思います」
その後のアルスは、再び噛んでしまうというような事はなかった。
相変わらず緊張でたどたどしさを残してはいたが、時折手元のメモに視線を落としつつも
折り目正しい誓いの言葉を紡いでゆく。
背後でその様子を見守っていたエトナも「もう大丈夫だね」と言わんばかりに微笑み、や
がてフッと姿を消していた。
「──私達は、これより一人前の魔導師を目指して切磋琢磨することを誓います。先生方、
先輩方、学院関係者の皆様。まだまだ発展途上な私達に、是非ともご指導ご鞭撻を宜しくお
願い致します。そして来賓の皆様も、これからの私達の成長を温かく見守って頂ければ幸い
です。……まことに簡単ではありますが、これを以って新入生代表の挨拶と代えさせて頂き
たく思います。ご清聴、ありがとうございました」
ペコリと頭を下げてスピーチが終わる。
数拍の間があって、会場内にどっと拍手の合奏が響いた。
二階で一部始終を見ていたジーク達も、何とか形になったアルスの晴れ姿を見て一安心と
いったように頷き、顔を見合わせつつその拍手の中に加わる。
「……ありがとうございます」
もう一度頭を下げて、アルスは小さく呟いていた。
ちらとエマを見ると「やれやれ」といった苦笑が向けられている。アルスは彼女に苦笑を
返してその目での合図を受け取ると、ゆっくりと壇上から去ってゆく。
暫しの間、会場はアルスを──新しきルーキーを讃える拍手で満ちていた。
「…………くっ」
ただ一人、その中で密かに舌打ちをしていた者がいた事に気付くこともなく。
「ふぃ~、終わった終わった。やっぱこういう堅苦しいのは柄じゃねぇや」
かくして入学式は無事に終了した。
ジーク達は二階席から外へ、会場である学院の講堂の外廊下へ出ると、階下に下りて行く
人々の波の中に合流する。
「でも一息つくのはホームに戻ってからよ? 家に着くまでが、出席」
「しかし……一時はどうなることかと思ったな」
「えぇ……。全くですよ。エトナがフォローを入れて何とかなったみたいですけど」
リンファの呟きに苦笑して、ジークはちらりと周囲の人々を見遣ってみた。
父兄席からの人なので当然なのだが、その多くは子の親たる世代の男女(と子の兄弟と思
われる少年少女達)のようだ。
ざっと見た限りではアルスを悪く言っているような者は確認できなかったが、ジークは弟
のあのテンパり様を思い出し、はたと我が事のように恥ずかしくなって黙り込んでしまう。
(……ん?)
そんな折だった。
ふとジークの視界の先──階下の学院のキャンパス内に、何時の間にか多数の人々が集ま
り人ごみができていた。
少なくとも父兄ではない。多少の年格好の差はあるが、おそらく学院の生徒だろう。
よく見てみると彼らは皆、口々に何かを叫び、プラカードを掲げたり、通り掛かる人々に
ビラを配ったりしている。
「あれは研究室の勧誘だな」
「ラボ? それが学院と何か関係あるのか?」
そしてジークがぼんやりと目を遣っているのに気付いたのか、ふとブルートがそう言葉を
挟んでくる。聞き慣れない。ジークは少し眉根を上げて彼に振り返った。
「知らぬのか……。まぁいい。いいか? アカデミーとはそもそも魔導学司直営の魔導師養
成学校だ。アカデミア自体もそうだが、基本的に魔導師というのは学者の類でもあるのだ」
アカデミアにおいて、所属する魔導師は組織の研究者である。
そしてその実績を認められた者は自身の研究室を与えられ、他の魔導師らを部下としてよ
り一層の研究に勤しんでいる。
そしてそんな部局的な構造は、その下部機関でもあるアカデミーにおいても同じだ。
生徒達に魔導の指南を行う教師陣。彼らも元はアカデミア所属や在野からスカウトされた
魔導師であり、多くの場合同じくラボが割り当てられている。
所謂ホームクラスという概念がなく、基本的に自由に履修講義を選べるシステムである学
院の性質上、ラボとは生徒達にとっては所属先となり、その主が彼らの指導教官となる。
「ふーん……。でも何で所属してる連中が勧誘してんだ? 人数が増えたらその分、そこの
先公は教えるのが大変になるんじゃねぇの?」
「その面はある。だが基本的にラボへの予算配分は在籍人数に比例するからな。誰とて良好
な環境で学びたいと思うだろう? 故に新入生を引き込もうとする現象が起こる」
「とはいっても、それ以外にも教官自体の研究実績や研究分野によって必要な設備の違いも
あるから。一概に人数の多さがイコール予算の多さにはならないのだけどね」
「……なるほど」
ブルートが、そしてイセルナが捕捉して言う。
伊達に魔導の心得があるだけではないらしい。ジークは正直半分くらい頭に入っていない
ながらも頷いてみせ、再びその人だかり──新入生勧誘の様子を見下ろした。
「ふむ……。だとすれば、アルスは大変だな」
「えっ?」
すると、それまでイセルナらの説明を聞いていたリンファが真面目腐ったように呟いた。
少々間抜けな顔で振り向くジーク。そんな彼に、彼女は静かに破顔する。
「だってそうだろう? アルスは今年の新入生主席。しかも見習い段階で持ち霊付きという
レアケースだ。式でスピーチもしたのだし、先輩諸氏らが獲得に動かないとは思えない」
「あ~……。た、確かに」
言われてジークはようやくその意味を悟った。くしゃっと前髪を抱えて眉を寄せる。
どうするんだよ。あいつはただでさえ遠慮がちというか、内気な部分があるのに……。
「……。アルス、大丈夫かなぁ……?」
今も尚、現在進行中でざわめいている新人勧誘の人の波を見下ろして。
ジークはどよんと迫ってくる心配に気分を重くする。
一方時を前後して。
「レノヴィン君、是非うちのラボに!」
「いやいや、何とぞうちに!」
「何言ってるの。彼が入るのは私達のラボよ!」
アルスは大丈夫ではなかった。
その姿を認めた次の瞬間、殺到してきた先輩達。アルスは為す術もなく人ごみの渦中の人
となり、方々からのラブコールを受けつつ揉みくちゃにされていた。
「あばばば……」
アルスはその謙虚さ故、正直言って自分の置かれている状況を認識していなかったと言え
るだろう。式が終わり、新入生が居残って今後についてのガイダンスを受けた後も、アルス
はミレーユとエマから労いと苦言をそれぞれ受けていた。
だからこそ、そのやり取りも済ませた事でホッとし、油断していたのだ。
「す、すみません。僕はもう──」
アルスは揉みくちゃにされながらも何とか口を開こうとしていた。
だがラブコールを受ける当人といえどそんな控え目な声が彼らに届くわけがなく、次の瞬
間にはついにバランスを崩してその渦の中に転げ込んでしまう。
頭の上で、騒々しく自分を呼ぶ声が幾重にも重なっていた。
目の前に映るのは先輩達の脚、脚、脚。
しかしアルスは今しかないと思い立ち、時折彼らから無自覚に蹴られながらも、四つんば
いの体勢でこっそりと人ごみから顔を出すと、気付かれぬ内にその場を逃げ出す。
「……はぁ。ひ、酷い目に遭った……」
そしてその脚で暫し逃げ回った末に辿り着いたのは、種々の草花が生い茂る庭園らしき場
所だった。
「ふふん~? でもモテモテだったじゃない。流石はアルスだよ~」
「からかわないでよ……。エトナだって、僕の進路の事は分かってるくせにさ」
「……ま、そーだけどぉ」
まだ少し荒いままの息を整えながら、アルスはぼんやりとその周囲を見渡す。
人ごみから解放されてやっと姿を見せたエトナが冗談半分でからかってくるが、アルスは
あまり余裕はなかった。少し真面目腐ってそう言い、つーんと唇を尖らせる彼女の反応に対
して苦笑の顔色を漏らす。
学院の敷地内に間違いは無いのだが、辺りは静かだった。
見た印象では、校舎同士の狭間のスペースを利用した中庭といった所か。緑の放つ空気が
講堂内とは違う感触を味わわせる。
改めて大きく深呼吸をしてから、アルスはようやく人心地をついた。
「で、アルス。これからどうするの? ガイダンスじゃあもう今日からラボ見学が始まって
るって話だけど」
「うーん……どうしようかな。一応は講義目録から幾つかはピックアップしてきてはいるけど……」
先輩達の勧誘があれほどなのだ。自分がひょいっと気軽に顔を出してみても、あのように
騒がれてしまうのは何だか申し訳ない気がしてしまう。
アルスは暫し思案顔になった。その傍らでエトナはふよふよと浮かんでいる。
「……とりあえず、兄さん達に連絡は取っておこうか。僕は少しラボを回ってみるから、兄
さん達には先に帰っていいよって」
「うん。おっけー」
腰掛けていた花壇の端から立ち上がって、アルスはエトナを見上げて言った。
頷く彼女を確認すると、
「皆~、ちょっといいかな?」
アルスはエトナ──ではなく、周囲の中空に向けてそう呼び掛け始める。
するとその声に惹かれるように、ポウッとあちこちから光る毛玉だったり、羽の生えた半
透明な小人だったりといった下級精霊達が姿を現した。
まるで雛鳥が小さく鳴くように、ふわふわと漂いながら近寄ってくる彼らに、アルスは穏
やかな微笑みを返してお願いをする。
「えっとね。兄さん達に伝言を頼みたいんだ。僕らは少しラボを回ってから帰るから兄さん
達は先に帰っててって。……頼める?」
言うと、精霊達は言語にならない鳴き声を上げていた。
それは彼らの快諾の合図。アルスはにっこりと優しく微笑んだ。
兄さんは魔導が使えないから皆は見えないけれど、今日はイセルナさんやブルートさんも
一緒らしいから、伝え聞いて貰える筈──。
「じゃあ、よろしくね」
言ってアルスはふよふよと飛んでいく精霊達を見送った。
少しだけ寂しくなったような気がする庭園。アルスは暫し緑と灰色の絨毯から中空を見上
げると、エトナを伴い早速幾つかラボを回ってみようと歩み出そうとする。
「──見つけましたわ」
だが、その歩みはすぐに遮られることになった。
「……貴方は?」
そこに立っていたのは、一人の少女。年格好はアルスより少し上だろう。サラリと長い淡
い金髪を揺らし、いかにも勝気な瞳をアルスに向けている。
ふわりとエトナが黙したままアルスの傍らに並んだ。
少なくとも見覚えは無い。アルスはぱちくりと目を瞬かせて彼女を見る。
「アルス・レノヴィンで、間違いありませんわね?」
「あ、はい……。そうですけど」
だが対する彼女はそんな質問は無視していた。代わりに思わず肯定してしまうアルスの返
事を聞いて、彼女はふんっと口元により一層気の強い孤を描く。
そしてビシリと。その指を真っ直ぐにアルスに差して、
「私の名はシンシア・エイルフィード。アルス・レノヴィン、貴方に勝負を申し込みますわ!」
この少女、シンシアはそう高らかに宣言してきたのだった。