「式は中止だ。僕は愛人と逃げる」置き手紙をいただいたので、参列者から次の花婿を募って結婚式を続けます――橋梁技師の同僚が立候補しました
「式は中止だ。僕は愛人と逃げる。君なら仕事に戻れるだろう」
介添えの娘が差し出した置き手紙を、わたしは祭壇の前で、紙の端を押さえながら声に出して読んだ。橋の上では、報せは声にして、風と槌音の向こうまで通す。八年、そうして石を運ばせてきた癖が、晴れ着の袖より先に動いた。
この橋は、わたしが八年かけて架けた橋である。
参列の席から衣擦れが消え、祝い花の甘い匂いだけが、陽に温められて漂う。雇われの歌姫の立ち位置が空いていることに、わたしより先に誰かが気づいた。祭壇の脇では、布を掛けた石が一つ、口を閉ざしたまま立っている。
「愛人、ですって……」
「祝いの歌の、あの歌姫だわ」
「それでは、歌はどうなるの?」
「歌より先に、花婿の心配をなさいな」
娘は役目を終えたのに、まだそこに居る。伏せた顔の下で、浅い息だけが白い襟を揺らしている。
「花婿様の控えの間には、これだけが残されていて……」
「ありがとうございます。控えへ戻っていてください」
娘の指は、袖口の白い布まで細かく震わせている。わたしの指は震えていない。それを確かめてから、わたしは司祭へ向き直る。
「司祭様。祝福の鐘まで、あと、どれほどありますか?」
「――半刻でございます。泣かれるのでしたら、どうぞ、そのあいだに」
「泣くのは、工期の外へ回します」
「涙まで、工期の外へ回されるのでございますか?」
「はい。いまは、まだ工期の中です」
老いた司祭は、深い皺の奥からわたしを見つめ、やがて小さく頷く。
新しい橋の渡り初めは、その日に結ばれた夫婦が、河風を受けて先頭を歩く。夫婦が立たなければ、橋は次の吉日まで開かない。三月先だ。そのあいだ、対岸へ行く者は、渡し船の列へ並びつづける。
石の橋は三百年もつ。その最初の一日を、縁談の継ぎ目ひとつで三月遅らせるわけにはいかない。式次第には、祝福のあとに除幕が組まれている。袂では、工人たちが陽に目を細めながら、自分の名が刻まれた石を待っているのだ。
縁談は二年前、身寄りの無いわたしの後見人である王室橋梁院と、侯爵家とで決めたものだ。侯爵家は今日、当主が名代も立てず、嫡男と従者を寄越しただけ。わたしたちのあいだに積まれた石は、家名と書類ばかりで、手のぬくもりはなかった。だから、まぶたの裏が乾いたままなのだと、いま分かる。胸のどこにも、崩れる音がしない。石の橋と同じで、荷重の掛かっていない場所は、抜かれても揺れないのだ。
花婿は逃げても、橋は逃げない。
「承知しました。式は続けます。花婿だけ、ここで募り直します」
「募る……花婿を、ですか?」
乾いた問いは、侯爵家の客席から飛んだ。扇の陰で、何人もの目がこちらを量っている。
「祭壇も司祭様も、参列の皆様もそのままで結構です。替えるのは、花婿だけですから」
「……花婿を替える、と仰いますの?」
「石も、傷んだ一つだけを替えます。橋ごと架け直す工程は組みません」
「石と花婿を、同じ扱いになさるの?」
「はい。花婿のほうが、替えは利きます」
司祭が厚い記帳の頁を繰る。
「最後の祝福の前ならば、残られた側の同意で、お相手を替えて続けられます。――と、記帳の定めにございます」
「残られた側は、わたしです。お相手の変更に同意いたします」
「ご後見である院長様のご意向は、いかがでございますか?」
役人席の院長は、口を結んだまま、まっすぐわたしを見ている。
「決める当事者は、わたしですから」
「では、定めに従い、これは放棄の宣言といたします」
「お願いします。そのように綴じてください」
司祭は置き手紙を手に取り、記帳の綴じ糸をほどいて、丁寧に挟み込む。白い紙の角が糸の下に沈み、わたしの縁談は一枚の記録になる。ざわめきが席を渡り、やがて笑いへ変わりはじめる。
◇
「あなたは、わたしと、何を架けてくださいますか?」
参列の席と、袂に続く工人の列へ向かい、わたしは一度だけ訊く。河風が、結い上げた髪を一筋ほどき、頬へ冷たく触れる。
「あの方、ここで花婿を募っておられるのよ」
「まさか、本気なの?」
最初に手を挙げたのは、日に焼けた腕をした鐘楼の鐘つきだった。
「鐘楼なら架けられまさあ。あそこからなら、橋がよう見えますんで」
「では、正午の鐘を、刻限どおりにお願いします」
鐘つきは太い指で頭を掻き、肩をすぼめて袂の門塔の鐘楼へ戻っていく。工人の列が、左右へ道を開ける。
次は袂の老商人である。腹の前の揉み手だけが、忙しく擦れつづけている。
「それなら橋の通り賃を、ほんの少々いただきましてな。渡る客から、たんと儲けさせていただきます」
「王室の橋ですので、通行は無料です」
揉み手が、歯車を止めたようにぴたりと止まる。短い沈黙のあと、席の後ろで誰かが噴き出し、笑いが石の欄干に軽く跳ね返る。
三人目は、侯爵家の客席から勢いよく立った若い騎士だった。陽を返す剣の柄に手を掛け、外套を翻して片膝を突く。
「あなたの美しさに、この剣を捧げます! 我が身で橋を守るであります!」
「剣では、橋は架かりません。守る工程は、渡り初めのあとで結構です」
隣の席の婦人が、刺繍の袖を伸ばし、騎士の上着を強く引いて座らせる。
「もう、お座りなさい」
後ろの席から、扇で隠しきれないひそひそ声が重なる。
「あの方、橋をご覧にいらしたのではなかったの?」
「いいえ、花嫁をご覧にいらしたのよ」
席のあちこちで、笑いがさざ波のように漏れる。司祭は記帳に筆を走らせ、顔も上げずに言う。
「三人でございますね。いずれも記帳に留めておきましょう」
「記録に留めておいてください。三人とも、良い方ですので」
三人とも、悪い人ではない。冗談で手を挙げてくれる人が三人も居るなら、この式はまだ流れていない。ただ、誰も、架ける、で答えていないのだ。
◇
工人の列が、声もなく割れる。日に焼けた肩と石粉のついた上着のあいだに、祭壇までの道が伸びる。
手は挙がらない。ひとりの男が列を離れ、石粉の白い靴で祭壇まで歩いてくる。副主任のイサーク。八年、わたしの図面の下でこの橋を支え、言葉より先に縄と定規を差し出してきた男が、生まれて初めて、順番を待たずに前へ出た。
「この橋の、五十年後を。それから、上流に、もう一本」
「五十年も先、ですか?」
「継ぎ目が痩せます。継ぎ直す者が、要ります」
「架ける、と答えたのは、あなただけです」
イサークの手を、わたしは見る。指の節には縄の痕が白く残り、爪のきわには、祝いの日にも落としきれなかった朱墨が細く染みている。
「なぜ八年も、言わずにいたのですか?」
「三年前の増水の晩、あなたの隣で朝まで縄を持っていたのは、自分です」
あの晩のことを、わたしは誰にも話していない。橋脚の下で水位を測るたび、黒い水が長靴のすぐ下までせり上がり、腹の底まで響く音で石を揺らす。濡れた測り縄は腕を引き抜くほど重く、指を開けば、わたしまで流れへほどけそうになる。その隣で、同じ縄を握る男が居たことを覚えている。覚えていて、工程の数にしか入れていなかったのだ。
「あの晩、あなたは何ひとつ仰いませんでした」
「縄を離すわけには、いかなかった」
「あなたは八年ものあいだ、何を見ていたのですか?」
「橋と、あなたの手元。朱墨は、一度も切らしていない」
「わたしは、少しも気づきませんでした」
イサークは、靴の先を見ている。河風が黒い髪を揺らしても、目だけは上がらない。
「気づかれないように、していた」
わたしの図面の癖を、この人は知っている。荷重の矢印を朱で入れ、急ぐと右下がりになる癖まで。朱墨の壺が八年、机の同じ場所で空にならなかったのは、わたしが気づく前に、この人の手が満たしていたからだ。イサークが、初めて目を上げる。灰色の目は、増水が去った朝、雲の切れ間からのぞいた空の色をしている。
「順番を、待ちすぎました」
「承知しました。工期を組み直します」
「期限は、本日、正午まで」
「その工期に、間に合わせます」
袂の列から、抑えきれない声が上がる。胸の奥で、これまで空だった場所へ、静かに荷重が掛かる。細いきしみが、息を吸うたび胸の内側を走る。崩れる音ではない。空いていた継ぎ目へ石が収まり、重みを分け合って据わる音だ。
◇
そのとき、祭壇の裾の階段を、誰かが荒い靴音を立てて駆け上がってくる。濡れた靴底が石を打ち、祝いのざわめきを乱す。
ベルナール・エーレン。侯爵家の嫡男。逃げたはずの花婿である。撫でつけた金髪は風に崩れ、上等な上着の裾は川の水を吸って、磨いた靴へ重く張りついている。
橋は渡り初めまで誰も渡れない。渡し場は祭壇の真下の袂にあり、船を待つ列は、ここからでも川沿いに長く見える。
「歌姫様は、先の船で行ってしまわれました。若様は列にお並びのまま、上からの歓声をお聞きになって……」
息を切らした従者が、膝に手をつき、階段の下から言う。ベルナールは従者を振り返らず、祭壇のわたしへ、濡れた袖の両手を広げてみせた。
「冗談だったのだよ。君の器を試したのだ。婚約は、まだ有効だ」
「式は延ばせる、という判断ですか?」
「式など延ばせばよいのだよ。日を改めて僕が戻れば、それで済む」
「橋は、延ばせません」
彼の眉が、聞き慣れない工程を示されたように上がる。
「橋の話ではない。僕と君、二人の愛と運命を語っているのだよ」
「わたしは、橋の工程だけを話しております。船の列は、長うございましたか?」
「……君は、この僕を笑うのか?」
「いいえ。橋の下の列は、いつも長いのです」
司祭が、記帳の綴じ糸を指で示す。白い置き手紙は、細い糸の下へもう固く組み込まれている。
「置き手紙は、放棄の宣言として、記帳に綴じてございます。綴じた宣言は、覆りません」
「僕は侯爵家の嫡男なのだよ。定めなど、あとで書き直させればよい」
「記帳は、王のものにございます。費えと違約は、去ったお方のお家の負い。――と、これも定めにございます」
「司祭よ、君はいったい誰に雇われているのだ?」
「王に。――と、先ほど申し上げました」
侯爵家の客席から、今度は彼へ向けて笑いが起こる。彼が招いた同輩たちの声だ。ベルナールの頬から、色が引いていく。
◇
「起工の鍬は、僕が入れたのだよ。銘板には、僕の名も載るはずだ」
ベルナールは、祭壇の脇に据えた、布の掛かった石を指す。八年前の起工の日、侯爵家の嫡男として、彼が鍬を入れたのは確かである。固い地面へ刃を通したのではない。あらかじめほぐした土の表を、儀式のぶんだけ撫でたのだ。
「侯爵家は、この橋の後援なのだよ」
「後援は、記帳に記録されます。銘板には、載りません」
「石工の名など、いったい誰が読むというのだ?」
「石工が、自分たちの名を読みます」
式次第も工程のひとつだ。順なら、設計主任であるわたしが動かせる。
「除幕、いま。布を外して」
工人が二人、待っていたように駆け寄り、布を左右から引く。白布が風をはらんで鳴り、文字を刻んだ石が現れる。袂の列から、百十七の首がいっせいに伸びた。前の数人が石へ寄り、ざらつく面を目でたどる。誰かが刻みを指して、石粉の残る手で隣の男の肩を叩く。
「棟梁! 見てくれ、おれの名がここにある!」
「騒ぐな。おれの名も、ちゃんとある」
銘板には、こう刻まれている。設計主任、マレイナ・クレーフェルト。副主任、イサーク・ブラント。石工棟梁以下、百十七名。工人の名が一人ずつ、石の面いっぱいに並んでいる。彫りは、指の腹が沈むほど深い。雨に三百年打たれても、読める深さだ。
銘板のどこにも、ベルナールの名は無かった。
彼の目が、石の面を上から下まで二度なぞる。最後の行の、その下で止まった。石は、刻まれていないものを何ひとつ足さない。
「銘板に載る道は、ひとつだけございました。八年、橋の上においでになることです」
彼は口を開く。だが声は出ず、唇だけが乾いたまま閉じる。従者が、周りの笑いから隠すように袖を引く。
「若様、どうかお戻りを。船が出ます」
彼は肩を強く張ったまま階段を降りていく。濡れた裾から落ちる水が、石段に途切れた跡を残し、その跡だけが渡し場まで続いた。
◇
司祭が、置き手紙を綴じた頁を送り、記帳の新しい頁を開く。陽は高く、祭壇の影は足もとに小さく縮んでいる。
「鐘までは、まだ間がございます。急がれますか?」
「いいえ。刻限どおりで結構です」
「では、お二人とも。誓いの言葉を」
八年、朱墨の筆を握ってきた右手を、わたしは祭壇の石に置いて言う。指の節に残る薄い墨と、石を削る細かなざらつきが重なる。石は陽を吸って、掌の線へゆっくりぬるさを返してくる。
「この橋の続くかぎり、共に架け、共に渡ります」
イサークが、同じ文を、同じ速さで返す。あの晩、縄を持っていた手が、わたしの手の隣に置かれる。触れてはいない。石一つぶんの隙間を空けて並び、けれど、指のそばにある熱だけは分かる。石の下で、河の音が一つに聞こえる。
「この橋の続くかぎり、共に架け、共に渡ります」
「あなたの手が、震えています」
「自分の手です。橋は、震えない」
正午の鐘は、刻限どおりに鳴った。
「鐘とともに。王都の記帳へ記してございます。お二人へ、祝福を」
鐘楼の鐘つきが、約束を守ってくれたのである。重なる音は河の面を渡り、きらめく水を揺らして、誰も居ない対岸まで届く。司祭の声が終わるより先に、袂の列から帽子がいっせいに振られ、陽の下で濃い波をつくる。
◇
渡り初めは、その日に結ばれた夫婦が行う。
わたしたちは祭壇を降り、並んで橋へ踏み出す。百十七名の工人が両側に並び、石粉と日焼けの残る帽子を胸に当てる。八年、この石を運び、縄を引き、目地を埋めた手がひとつずつ、わたしたちを対岸へ送っていく。靴の裏に、石の固さと継ぎ目の浅いくぼみが順に返る。そのたび、足もとから細い音が上がる。継ぎ目の数を、わたしは全部知っている。けれど今日、そのひとつひとつが、図面にない重さをわたしへ渡してくる。
対岸に着く。水の匂いを含んだ河風が、火照った頬を冷たく撫でる。振り返れば、橋は陽の中で白く浮かび、両の縁には、人の列が黒い縫い目のように続いていた。
「あの晩、わたしは、怖かったのです」
声に出すのは、これが初めてだ。口から離れた言葉が河風にほどけると、三年前の水の音は、深い橋脚の向こうへ急に遠のいていく。あの晩から指に残っていた縄の冷たさまで、ようやく陽に温められる。
「知っている。隣で、自分も縄を持っていた」
イサークはゆっくり頷き、懐から一枚の図を出す。紙は手の熱を帯び、何度も開いた折り目が白く毛羽立っている。
「上流の川幅は、測ってあります」
「それは、いつ測ったのですか?」
「八年のあいだ。少しずつ」
「それも、隣でですか?」
「隣で。ずっと」
図の上の川は、太く、うねっている。両岸には細かな測点が並び、墨の線は、もう次の橋を受け取るように向かい合っていた。
「次は、長い橋になりますね」
「この橋より、もっと長く」
わたしは図を受け取り、風にさらわれないよう両手で押さえる。紙には、さきほどまで懐にあったぬくもりが残っている。朱墨の矢印が、少し右下がりに引かれている。わたしの癖を、この人はもう写し取り、まだ形のない橋へ先に架けているのだ。
「朱墨の手配は」
「多めに、もう仕入れてある」
「では、次の橋へ。――工期は、三百年で組みますので」




