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『いつかどこかできっとまた。』短編集

作者: 月乃もみじ
掲載日:2026/03/16

 『いつかどこかできっとまた。』


 「いつかどこかできっとまた」そういった彼は、もういない。

 「いつかどこかできっとまた」そういった彼は、私だけを置いて。

 「いつかどこかできっとまた」そういった彼は、行方をくらました。


  一

 あれは、冬の名残を見せた三月のこと。

 私は初めて失恋をした。原因は彼の浮気だった。人を信じて疑わない人生だった故に私はひどく落ちこんだ。

 別れ話をした帰り道は、足が鉛のように重く体が中々前に進んでくれなかった。おまけに今日は朝からのっぺりとした雲が重く空に漂っている。時折、舌打ちのような音と共に色々な人間が私を追い越していった。まるで私の人生のようだ。

 体が休憩を求めていたので、通りすがりの公園に立ち寄った。古ぼけたベンチに座ると、一筋の涙が頬をつたった。それをいいことに涙たちはしきりに私の目から流れ落ちていく。

 どうして泣くのだろう。別れを切り出したのは私なのに。この涙はなんなのだろうか。そう自分に問いかけてみたけれど、答えが返ってくることはなかった。

 彼は何度も引き留めてくれたのに。

 私は、りんりんと泣いた。

 すると、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。こんな時に雨だ。私の人生はこんな時に、の連続だ。

雨はだんだんと強くなっていき、あっという間に洋服をびしょびしょにした。下着まで濡れている。別れ話の切り出し方を考えて家をでたため天気予報を見るのをすっかりと忘れていた。

 でも、ちょうどいい。このまま感情までも綺麗さっぱり流してしまいたい。そうすれば私が涙を流す理由は何一つなくなるのだから。

 どれくらいそうしていただろう。しばらく雨に打たれていると、体が悪寒を訴えていることに気がついた。

 寒い・・・・

 両腕で体をこすってみても意味がなかった。

 「大丈夫、ですか?」

 その時、雨の音に消えてしまいそうな声が頭上からした。

 顔を上げると若い男性が浅葱色の傘をさして立っていた。

 透明でも、黒でもない。雨の日に浮いてしまいそうな。でも、やさしい色だった。

 「風邪ひきますよ?」

 柔和な声でそういうと、彼は私の隣に遠慮なく座った。

 「あのお尻濡れますよ?」

 私はようやくそれだけ口にした。

 「もう濡れてます」

 彼は私に微笑みかける。栗色の目が弧を描いた。

 「ぼく、雨が好きなんです」

 私が俯いたままだったので彼はつづけた。

 「雨の匂いとか雨の音とか。それから雨の日に家の中にいると、なんか家が秘密基地みたいな感覚になったりするところとか・・・」

 彼はそこで、はっとした顔になり、「変ですよね。初対面なのにごめんなさい。ぼくだけなのかな?」

 私は尻目で彼を見た。

 「いや、なんかわかります」

 「ほんとですか?なんか嬉しい」

 くしゃっと笑う彼が可愛くて、頬が緩んでしまった。

 気が付くと彼は私が濡れないように傘をさしつづけてくれていた。

 私の涙にも気がついているはずなのに、その理由を訊かずにただ他愛もない話で寄り添ってくれた。

 私に少し笑顔が戻ってきたタイミングで彼が傘を差し出してきた。

 「では、これを」

 「え?そんな、受け取れません。あなたが濡れちゃうじゃないですか。私は大丈夫ですから、どうぞお気になさらず」

 「ぼくは雨に打たれるのも好きなんです。ちょうど傘がいらなかったので」

 笑いながらいう彼はどこまでが本気でどこまでが冗談なのかわからない。

 彼は、私が困っている隙に傘を握らせ早々と腰を上げて歩きはじめてしまった。

 「あ、あの!」

 思わず立ち上がって後ろ姿に声をかけた。

 彼は顔だけを振り返らせ、優しい笑顔で、「いつかどこかできっとまた」と言って軽く手を振った。

 早足になることもなく、雨の中へゆっくりと消えていった。

 私の足はいつの間にか軽くなっていた。

 彼は錬金術師なのかもしれないなと、ぼんやり思った。


  ニ

 平日の昼過ぎの喫茶店は、いつも閑散としている。私はハイエース三台分ほどの広さの店内で一人、テイクアウト用の紙袋にシールを貼っていた。このお店は喫茶店のほかにプリンのテイクアウトも行っている。

 高校を卒業し、看護学校に進んだ私は、無事看護師になれたのだが一年たらずでやめてしまった。圧倒的な女社会、人の命を担う責任の重さ、その他残業や夜勤などが相まって耐えられなくなってしまった。そんな矢先にずっと支えてくれていた彼の浮気が発覚した。初めての彼氏だった。順風満々だったのに、私はどん底に突き落とされてしまった。

 私の細かい性格が気に入らなかったのだろうか。例えば、シールを貼る作業では文字が傾かないよう目を凝らして、少しでも文字が傾いていると張り直したい気持ちになるところとか。

 そんな風にシール貼りに没頭していると、誰もないはずの店内から自分以外の声がした。

 「こんにちは」

 突然の声に私は手をとめ、肩をはねらせた。振り返ると、カウンターの前に一人の青年が立っていた。

 作業に集中していたため来店のベルに気が付かなかったようだ。

 「・・・いらっしゃいませ」

 間延びした声が口から吐き出された。

 顔を見た瞬間、思わず息をのむ。

 あの時の・・・・

 雨の公園。傘と詩的な言葉だけを残して立ち去ったあの人だ。

 私の手元にはあの時の傘が、今も家にある。

 「プリンを一つください」

 その声は、あの日と同じで静かな響きだった。どこか淡々としていて、でも冷たくはない不思議な距離感。

 「えっと・・・この前はありがとうございました。あの、傘、ちゃんと洗って返したくて」

 「いえ、大丈夫ですよ。あげたつもりだったので」

 にこっと笑って、彼がいった。まるで私が言葉に詰まることを最初から知っていたような表情だ。

 「でも、返せるきっかけがあってよかったです」

 私はこのチャンスを逃したくなくて少し焦りながら言葉を紡いだ。

 「もしよかったら今度食事にでも・・・」

 「食事?」

 「はい!・・・その私は今日とかでも全然いいんですけど」

 彼が少し困ったように笑うので私は慌てて訂正に入る。

 「あっ、ごめんなさい。いきなりすぎて・・・迷惑ですよね」

 「あっ、いや、今日はピアノを弾かないといけなくて」

 「ピアノ?」

 「はい、夜のカフェで。こう見えてアマチュアピアニストなので」

 彼の栗色の目が細くなる。そして彼はつづけた。

 「もしよかったら、今度美術館に付き合ってくれません?」

 「え?」

 「ぼくの好きな画家の企画展、今ちょうどやってて」

 「はい、行きたいです!」

 私は食い気味にいった。

 「はっ。よかった。断られたらどうしようかと思った。あっ、ぼく五月女かえで、です」

 彼はぺこりと頭をさげる。

 「私は南青空(みなみ せいら)といいます」

 「次のお休みは?」

 「明後日の水曜日です」

 彼は一番人気のプリンを買い、あの時みたいにゆっくり遠ざかっていく。

 あの時と違ったことは去り際に、「いつかどこかできっとまた」とは言わなかった。代わりに、「じゃ、明後日のお昼に美術館前で」といった。

 扉が閉まった直後、この店の常連客で同い年のほのかが入れ違いで入ってきた。

 「やっほー青空。今誰かと話してた?」

 「あっうん。男の人。私たちより少し年下だと思うんだけど。お店の外ですれ違ってない?」

 「いや、お店周りは誰もいなかったと思うんやけど」

 ほのかの地元は熊本で、訛りのない埼玉人の私にとって方言は新鮮だった。

 最近やっと慣れてきたけれど、最初のころは何回も聞き返していた。

 それに最近、ほのかの方言が出会った頃より、和らいでいる。

 「え~。おかしいなぁ」

 「ちょっと、青空。お化けでも見てんじゃないの~。やだやだ。それよりいつものちょうだい!」

 「お化けとかやめてよ~。はいはい。アイスココアとプリンね」

 私の違和感は常連客の対応をすることですぐに霧散した。

 五月女かえで・・・

 名前すら詩的に思えた。


  三

 待ち合わせ場所に着いたのは予定より十分早かった。美術館の門の目には、紫陽花が咲いていて私はその花の色に目を奪われていた。

 「おまたせしてすみません」

 その声で振り返ると、かえでくんがまるで最初からそこにいたみたいに立っていた。

 「さっそく入りましょうか」

 かえでくんの合図で美術館に入った。

 駅から少し離れた路地に、それはひっそりと建っていた。看板も小さく、入り口も目立たない。『美術館』と名乗るにはあまりに控えめな佇まいだったけれど、その静けさはなぜか安心できた。

 扉を開けると、展示室はひとつだけ。声をひそめる必要もないくらい誰もいなかった。

 世界から少しだけ離れた場所のようだ。

 展示室の中は、まるで誰かの夢の中みたいだった。いくつかの油絵が壁にかかり、額の中で色だけが呼吸をしている。

 空調の風がふたりの間を通り抜けていった。壁に沿って並んだ絵画の前をゆっくり歩いた。ひとつひとつの絵に、かえでくんは特に反応を示さない。私も黙っていた。

 けれど、その沈黙は自然と心地よかった。

 私は、ある一枚の絵の前で立ち止まる。

 作品名は『不在のしょうめい』

 そんなタイトルの抽象画は、まだ途中のように見えた。色も形も曖昧で、答えが置かれていないみたいだ。

 「これ、何が描かれているんだろう」

 ぽつりと呟いたその声に、かえでくんが応える。

 「いないことを、確かめたいんだと思う」

 「・・・いないこと?」

 「うん。いるように見えるものって、どこかで不安になる。でも、最初からいないって思えたら、安心するんだ」

 言葉の意味を掴めないまま、だけど、それがどこか遠くの自分に向けられた言葉のように感じて、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 「あのね」

 かえでくんは絵の前で足を止めたまま、私に顔を向けた。

 「描いても、描いても、自分の思っている色にならないことがあるんだ」

 少し笑ってから、つづける。

 「それでも筆は止められない。余計こわくなるから。置いていかれているみたいで」

 私は言葉が出なかった。ただその声だけが、空気の中にやさしく響いていた。

 「・・・それでも描き続けるのが好きなんだけどね」

 私は控えめに笑って、「もしかして、この絵かえでくんが描いたの?」

 「さぁ~?」

 かえでくんも私に倣って笑ってみせた。

 出入り口近くに、ひっそりと絵葉書が不造作に並んでいる。私は記念に一枚とってポケットにしまった。

 美術館を出ると夏の始まりを感じさせる風が頬をなでた。

 歩き出した矢先、かえでくんが足を止めた。

 「あ」

 小さな美術館の隣に、それよりもっと小さなパン屋さんがあった。

 柔らかいクリーム色の壁、木の扉、そして看板に書かれた文字。

 『空のたね』

 「・・・たねって、蒔いたら何が咲くんだろう」

 ふいにそういった私に、かえでくんは微笑んで言った。

 「焼きたてのメロンパン・・・じゃない?」

 二人は笑って、メロンパンが咲くパン屋の扉をくぐった。

 扉を押すと、どこかで誰かがそっと鍵を巻いたように、オルゴールの音がふわりと鳴りはじめた。どこかで聞いたことのある、でも思い出せない旋律。

 「素敵なお店だね」

 かえでくんが足元を確かめるように歩きながら言った。

 かえでくんの提案でメロンパンを一つだけ購入する。

 お店を出て美術館の裏手にあった、テラスのベンチに腰掛けた。

 私は、膝に置いた紙袋からメロンパンを取り出して半分にちぎる。

 半分をかえでくんに渡す。

 かえでくんは、メロンパンをじっと見つめていた。

 なにかを確かめるように。あるいは愛でるように。

 「・・・かえでくんって、ひとりでいるの平気?」

 言葉が、呼吸のようにこぼれる。

 「うん、平気だよ。むしろ、ひとりって風の音がよく聞こえるんだ」

 かえでくんは空をみた。雲がゆっくりと、午後と夕方の間を渡っていく。

 「みんな、ちゃんと誰かといなきゃって思うんだよね。恋人とか。友達とか。それが正しい生き方みたいに言われてさ、ひとりだと間違ってる気がしてくる」と私は言った。

 「間違ってるって、誰が決めたんだろうね」とかえでくんが言った。

 私は咄嗟に、「社会、とか?」

 かえでくんは空に小さな雲が浮かんでいるのをじっと見ていた。

 「ぼくね、小さい頃、雲は誰かの忘れものだって思っていたんだ。あのふわふわで形の決まらないやつ。何者かになれなかったまま、空に漂ってるって」

 私は、黙ってかえでくんを見た。

 「でもね、それって悪いことじゃないんだよ。何者でもないから、何にでもなれるんだ。誰かの隣にいなくても、風に乗ってどこにだって行ける」

 「自由って・・・少しさびしいね」

 かえでくんは風の音みたいに笑った。

 「そうだね。でもさみしいってことは心があたたかい証拠だよ。冷たくなっていたら、きっと何も感じなくなるから」

 沈黙がふたりの間をゆっくり渡っていく。

 やがて、「青空さん。ぼくらは誰かに許されなくても生きていいんだよ。咲き方も。歩き方も。決めなくていい。ただ、生きているだけでちゃんと世界の一部なんだ」

 かえでくんは時計を見て、「そろそろ行かなきゃ。ピアノの時間だ」と言って立ち上がった。

 「いつか、どこかで、きっとまた」

 そう言って歩き出した背中は、夕方の茜色の光に溶けていく。

 ほんのすこし、雨の匂いがした気がした。


  四

 最近は季節通り、雨が降る日が多くなった。ふたりは、雨がやんだあとの道を歩く。

 川沿いの道。濡れたアスファルトが、うっすらと空を映していた。

 「湿気がまだ残ってる」

 私は雨あがりに木の葉が落とす雫のように言葉を空気中に置いた。

 「季節が息しているんだよ」

 風が抜ける。

 どこまでも続いていく道を、かえでくんは全身で自然を感じながら歩いているようだった。小さな橋の真ん中で、SLが通りすぎるのを待った。

 「どうして人は色んな事に悩むんだろう。人間関係や自分の容姿のこと、それから将来のこと」

 かえでくんがこちらに顔を向けたのが目尻でわかった。

 「それは、生きようとしているからだよ」

 「え?」

 「大抵の悩みは、明日地球が終わるってなったら解決するものばかりじゃない?だから悩むって生きることに真剣に向き合っている証拠だよ。それってとっても素晴らしいこと」

 ぼやける視界の先でSLが汽笛を鳴らしながら通り過ぎていく。

 やがて煙だけがそこに漂っている。

 「はぁ。色んな事が思い通りになったらいいのになぁ」

 かえでくんは声をひそめるように笑いながら、「真理だね。ぼくもそう思う」と言った。

 ふたりは来た道を戻ることにした。交差点までやってきたところで、かえでくんは足を止める。

 「今日はここまで。ピアノ弾きに行かなきゃだ」

 「うん、またね」

 手を振って、足音がすぐに雨の名残に溶けていった。

 ひとりになった私は、足を公園に向けた。濡れたベンチにハンカチを敷いて、腰かける。

 なにもない時間。でも何かが足りている気がした。

 そこへ、ふわりと白い影。サモエドが雲のかけらみたいに近づいてきた。

 「・・・こんにちは」

 話しかけてみると、ちょっと首を傾げておすわりをした。濡れた鼻が私の手の甲を少しだけ押した。

 あたたかい体温。あたたかい生き物の重さ。

 「・・・どこの子?」

 問いかけたとき、後ろから元気で優しい声がした。

 「その子、うちのなんですー!」

 振り向くと、屈託のない笑顔で立っている女の子がいた。髪に少しだけ寝癖があって、でもその無造作も似合っていた。

 「かわいいですよね!ハクって名前なんです!」

 「へー。素敵な名前ね」

 私とその女の子は笑顔でハクを撫でる。

 あたたかい午後がはじまった。

 

  五

 夕方になると風が少し冷たくなる。夏の終わりの気配が風の端っこにぶら下がっているようだった。私は今日の任務を終え、お店の外のベンチに座っていた。

 「動かないで」

 かえでくんがそういって、スケッチブックを取り出す。私はそれに従って、斜めの視線を夕日に向けた。かえでくんの絵を描く姿を見るのは初めてのことだ。その貴重な姿を凝視したい気持ちを抑えながらモデルに従事した。時折、風のいたずらで髪の毛が揺れる。鉛筆の芯が紙の上で走る音だけが、かすかに聞こえた。

 しばらく、沈黙がつづいたあと、私はひとり言のように呟いた。

 「最近、不思議な女の子と仲良くなったの」

 かえでくんは鉛筆を止めなった。そのままの動作で目だけを私の方に向ける。

 「その子、サモエドを飼ってて、おかしいんだけど寝癖が似合うんだよね」

 かえでくんは、色鉛筆で修飾する。

 「そっか」

 かえでくんの「そっか」は不思議な温度をしていた。喜んでいるような、少しだけ寂しそうな、でもどこか肯定しているような。

 描き終えたスケッチブックの右下に、かえでくんは手を添えた。

 ペンを取り出して、淡いインクで小さく文字を書く。

 Kaede‘s

 「それは?」

 「ぼくのサイン」

 少し間を置いて、かえでくんはつづけた。

 「青空さん。どこかに行くのは逃げるのとは違うよ。向かいたい方を選ぶっていうだけ。誰にも間違いなんて決められないよ」

 「うん」

 「だから大丈夫。青空さんがこれから出会うこともきっと大切な時間になる」

 その声は、静寂で幽玄だった。

 「じゃまたね」

 かえでくんはカバンを持ち上げて、「いつかどこかできっとまた」といい軽く手を振った。

 雨なんて降っていないのに、その後ろ姿は雨に打たれているようだった。

 一瞬、すごい風が横切った。

 目を開けると、そこには誰もいなかった。

 「いつかどこかできっとまた」

 それは別れの言葉だった。

 

  六

 ベッドの上に仰向けになって、天井をぼんたり見ていた。風がカーテンをそっと揺らしていたけれど、それは音もなく、まるで夢の続きみたいだった。

 枕元には、かえでくんが描いてくれた一枚の絵。

 夕日と横顔。

 すこし褪せて見える。

 今日はお休みで、夜には友達のほのかと食事の約束がある。

 私は意味もなく机の引き出しを開けた。すると以前訪れた美術館で、配られていた絵葉書が出てきた。

懐かしくて思わずに手にとり、ベッドに寝転がりながら、それを眺めた。

懐かしい風景。空の色、風の筆跡。その日の思い出が蘇る。

その片隅に小さな文字を見つけた。

 Kaede‘s

 目を凝らさないと見えない小ささだ。

 胸の奥がきゅうとなる。思わず体を起こして絵葉書を握ったまま部屋を飛び出した。

 その場所を見つけるのに、少し迷った。地図を頼りに歩いているはずが、なぜか風景が違って見えた。角を曲がるたびに、思い出が遠ざかっているような気がした。

 ようやく辿りついた先に美術館はなかった。そこには『焼きたてクレープと抹茶のお店』という、かわいらしい看板がぶら下がっていて、白いカーテンのかかった窓からは甘い匂いが流れていた。

 あのとき、かえでくんの絵が並んでいた白い壁も、陽だまりの差し込む廊下も、小さなパン屋さんも見当たらなかった。

 あれは夢だったのかなと私は思った。けれど、手の中にはたしかにあの日もらった一枚の絵葉書が残っている。

 「Kaede‘s」のサイン。

 あれだけは、たしかに現実だった。

 この世界には、ほんとうにあったのに、いつの間にかもう存在しないものがある。

 それは優しかった午後と、静かな目をした人と、名前を呼ぶ前に去ってしまうなにか。

 私は、いつの日かメロンパンが咲いていたお店の前で少しだけ立ち止まり、そのまま絵葉書をポケットにしまった。

 その夜、ほのかと待ち合わせていた小さなイタリアンのお店で、ふたり向いあってパスタを食べた。話題は仕事や昔の話、最近の出来事。

 私はワインを少し口に含んだあとで、ぽつりと言った。

 「最近まで、ちょっと不思議な人と過ごしていたんだ」

 ほのかはフォークをとめて、「不思議な人?」

 「ピアノを弾く人で絵を描いてて・・・あのね、最初は雨の日だった。傘を貸してくれたんだけど」

 間を置いて、「名前は、かえでくん」

 名前を言ってみると、急に彼の姿が遠くなったように感じた。ほのかはしばらく考えるような顔をしていたけど、やがてこう言った。

 「それって、青空自身なんじゃない?」

 「え?」

 「いや、なんていうか。誰かのようで自分自身みたいな存在。そういう人、いるでしょう?出会っているようで、心の中を歩いているような」

 ほのかは一度、ロゼのワインで唇を湿らせて再び口を開く。

 「かえでくんって、もしかしたら青空の心だったのかもしれないね。泣いてばかりの青空に、雨の日に傘を差し出してくれたのは青空自身だったのかもね」

 その夜、帰り道の風がやけに心地よくて、私は遠回りをした。通いなれた道のはずなのに、月の光が照らす影が少しだけ違って見えた。


  七

 夕暮れ時の公園は今日も小さな子どもたちの笑い声であふれていた。

 今日はいい天気だ。空は泣いていない。

 私だって泣いていない。

 ふと思いついてポケットから折りたたみ傘を取り出してみる。

 「・・・あの人の傘って、ちょっと重かったんだよね」私の声はすぐに子どもたちの声にかき消される。

 少しだけ、笑ってみる。ほんの少しだけ。

 『いつかどこかできっとまた』

 それは、さようならじゃなくて再会の約束だったと、私はようやく、そう思えるようになった。

 「ワン!」

 「青空さ~ん!」

 私は、寝ぐせが似合う女の子と毛並みの綺麗なかわいい犬に軽く手をふって応える。

 もう傘はいらない。

 きっとこれから素敵な人生が待っているはずだ。

 でもさ、また会えるよね。

 今日も街のどこかで詩的な言葉を並べながら絵を描いているんでしょう?

 最後に私から祈りをこめて。 

 『いつかどこかできっとまた』



『消えて、残って、揺れて。』


  一

生きるために食べよ、食べるために生きるな。

 とソクラテスは言った。

 なら私は生きない。生きる意味がどこにも見当たらないからだ。

 旅館の明かりはきれいだ。けれどその光は私の胸の穴を埋めてはくれない。

 都会での研修を終え、田舎の旅館に配属されて遮二無二働く日々が続いていた。

 最初はやる気に満ち溢れ、将来に不安を持つことなんて微塵もなかった。

 私はいつからこうなったのか。

 私はいつからソクラテスの言葉に牙をむくようになったのか。

 生きるために働いているのか、働くために生きているのか。

 そんなソクラテスの名言を揶揄やゆするような問いを胸に抱きながら、私は今日も笑顔を張り付けてお客様の対応を丁寧にやりすごす。

 「はぁ」

 「どうした?ほのか、最近疲れてるんじゃない?」

 無意識に出てしまったため息に、同期のしずが心配そうに声をかけてくれる。

 「ううん。へーきへーき!」

 しずは、私よりも仕事の飲み込みが早く機転もきく、できる女として評されている。

 「ちゃんと、休憩とりなよ?」

 「うん、ありがとう」

 私は、張り付けた笑顔をしずにみせて、畳んだタオルを持って、逃げるようにスタッフルームを後にした。

 閉まったドアの前でもう一度、ため息を吐いて、私は仕事に集中するため気を取り直す。

 生きるために働き、働くために生きる。

 そんな循環の意味に気づきたくもないのに、気づいてしまった。

 毎朝、同じ時間に目を覚まし、昨日と区別のつかない制服を着て、旅館の廊下を歩く。

 仕事を覚えたはずなのに、心は日に日にすり減っていく気がした。

 支配人の「なれたでしょ?」という言葉がまるで「これからもっと頑張れ」という命令のように聞こえてくる。

 できるようになればなるほど、できることが当然になっていく。

 それがなんとも、居心地悪い。

 私は、何を目指しているんだろう。

 二十二歳なのに、もう人生の地図を見失っているような気がした。

 「いらっしゃいませ~」

 いつもの声が旅館に響く。ラの音だ。学校で何度もそう言われてきた。

 接客はラの音を出せと。

 「はい、それではお部屋の方にご案内させていただきますね」

 新婚であろう男女二人が楽しそうに目を細め合いながら私の後ろをついてくる。

 「お部屋はこちらになります。窓からは山がよく見えますよ」

 口が自然に動く。

 何百回も繰り返した仕事用の声。

 でも、胸の内側は、湿った布みたいに重く沈んでいる。

 きっと、これから何億回と同じ接客用語を繰り返すのだろう。

 そんなことを繰り返して、私は一体何になれるのだろう。

 毎日、人の笑顔に触れておきながら、私の人生はどこに向かってる?

 働く意味ってなんだっけ?

 お金のため?

 生きる意味ってなんだっけ?

 迷惑をかけないため?

 社会人三年目になって、給料にも慣れて、怒られることにも慣れて、だけど生きている実感だけは、どうしても湧いてこない。

 「失礼いたしまーす。それではお茶の方だけ淹れさせていただきますね」

 客室の座卓に湯のみを並べて、お湯を落とす。

 急須から立ちのぼる湯気は、白く細く揺れていて、それだけ見ていると、私の心の中まで曇りを拭ってくれそうに感じる。

 もちろん、感じるだけ。

 実際のところ、胸の奥の重さはなんにも変わらない。

 「いい香り~」女性客が柔らかく言った。

 隣の彼と視線を交わしながら、その仕草にまた小さく笑いがこぼれる。

 「さっき、三峰神社に行ってきたんです」

 今度は男性客が思い出したように言った。

 「あ、そうでしたか」私は微笑む。

 「どうでした?自然は感じられましたか?」

 「ええ。すごかったです!空気がぜんぜん違っていて・・・。なんか、浄化されるっていうのかな?とにかく、ね。すごかったよね」

 ふたりは見合わせて頷き合う。

 「あっ、それに、お願い事もしてきたんです!やっぱり三峰神社って願いが叶うことで有名なんですか?」

 彼女の方が、すこし興奮気味に尋ねてきた。

 「はい。とっても有名でございますよ。どんなことをお願いされたんですか?」

 「お腹の子が、元気で生まれてきますようにって」

 自分のお腹をさすりながら、愛おしそうな目をして言った。

 「あら、そうでしたか。それは、とても素敵なお願いですね」

 彼女が頬を緩めた。

 「三峰神社は昔から願いが叶うって言われてますから」

 地元じゃないのに、我が物顔で言う。

 癖みたいなもの。

 噓八百を並べるのが接客だ。

 「だから、お二人の願いも届きますよ」私は落ち着いた声でつづけた。

 「だったらいいんですけど・・・」 

 彼女は再度お腹をさすりながら、心配そうに笑う。

 「大切な時期ですね。どうか、お身体お大事にされてください」

 お茶の湯気の向こう側で、二人微笑む。

 その湯気には、確かな距離があるようにみえた。

 近そうに見えるのに、実際に歩いていけば果てしなく遠いどこかの滝のような。


   ニ

 その日はなんとなく、遠回りして帰ることにした。

 いつもより、長く歩きたい気分だった。

 旅館の明かりが背後で小さくなっていくにつれて、胸の奥に沈んでいた重さが、ようやく呼吸できる場所へ浮かび上がってくるような気がした。

 角をひとつ曲がった先で、見慣れない提灯がゆらゆら揺れていた。

 「ラーメン」と手書きで書かれた白い提灯。

 こんなところに屋台のラーメン屋さんなんかあったんだ。

 まるで、今日だけぽつりと現れたみたいに、そこだけ時間が取り残されている。

 「今日は、ラーメンでいっか」

 白い息とともに呟く。

 仕事のあとに、自分のためだけに料理をするのは、思っているより骨が折れる。

 今日は簡単に済ませることにしよう。

 近づくと、湯気の奥から「いらっしゃい」と、低くて、優しい声がした。

 私は忌憚なく、五席あるうちの真ん中に座って、醤油ラーメンを注文した。

 亭主さんは無駄のない手つきで寸胴に向かい、湯気の向こうで黙々と鍋を扱っている。

 その動きを見て、懐かしい気持ちになった。

 おじいちゃんに、似ている。

 私が小学生のころ、九州の実家で、おじいちゃんは屋台でドーナツを売っていた。

 ふつふつと沸騰しはじめたお湯みたいに遠い記憶が呼び起された。

 学校終わりや、休みの日は、おじいちゃんの屋台をよく手伝ったものだ。

 懐かしい。

 後方で、油のはねる音を聞きながら、揚げたてのドーナツに砂糖を付けるのが私の仕事だった。

 おじいちゃんは主に、お会計とドーナツを揚げる係。

 思い出そうとしても、輪郭がぼやけて中々思い出せない。

 でも、匂いだけは今でもはっきりと残っている。

 「もう少しで、できるからねぇ」

 柔和な亭主さんの声で現実に戻される。

 私は、はっとして、慌てて笑顔を作って、「はい」とだけ言った。

 湯気が目の前でゆっくり揺れる。

 その揺れ方がドーナツ屋台の油の湯気と同じだった。

 思わず胸の奥がくすぐったくなり、そして少しだけ痛んだ。

 おじいちゃんは、私が小学五年生の冬に亡くなった。

 最後に編んだニット帽を渡そうと準備していたのに、間に合わなかった。

 その悔しさと、言えなかった「ありがとう」と「大好き」が、ずっと心のどこかで行き場を失っていた。

 「はい、おまちどう。熱いからね。気をつけてね」

 亭主さんが差しだしたラーメンは、手に取ると驚くほどあたたかった。

 熱くない。あたたかかったのだ。

 スープをひと口飲むと、胸の奥にしまい込んでいたものが、少しだけほどけたような気がした。

 とても優しい味。

 ラーメンを食べ終えて、私はそのまま家に帰った。

 部屋の灯りをつけて、何とはなしに箪笥を開ける。

 奥のほうから、くしゃりとした手触りが指に触れた。

 それは渡せなかったニット帽だった。

 地元を出るとき、なぜか一緒に持ってきたのだ。

 もう何年も広げることもなかった。

 懐かしさが、静かに胸に広がった。

 箪笥に戻すのは、なんだか気が引けて、私はそれを枕元に置いた。

 

 その夜から私はおじいちゃんの夢を見るようになった。


   三

 夢の中の私は、少し背が低かった。

 足元の冷たい地面と、油の匂いだけがやけにはっきりしている。

 落ち込んだ日や、うまくいかなかった日は、いつもおじいちゃんの屋台にいた。

 ドーナツを並べる時間は、嫌なことを全て忘れさせてくれる。

最初の夢は、体育の授業で私だけ逆上がりができなくて落ち込んだ日だった。

 同じことをさせられて、できないと寂しくなる。

 大したことでもないのに、重大事件みたいに心がざわつく。

 おじいちゃんは、油の様子をみながら、ちらりとこちらを見る。

 目を細めた、その笑い方がやさしい。

 「できんでも、よかたい。そう落ち込むな。誰かよりできるとか、できんとか、そげんことは人生の大ごとじゃなか」

 すこし間を置いて、もう一度。

 「焦らんでよか。ほのかは、ほのかができることを、一つでもええから見つけて一生懸命やればよかよ。それで十分たい」

 おじいちゃんは、そう笑いながら言うと、再び下を向いてドーナツを引き上げた。

 「ほれ、砂糖を頼む」

 そういって、揚げたてのドーナツを私に差し出した。

次の夢は、運動会だった。

 徒競走で、私はビリになってしまった。

 私が走り切る時には、ゴールテープは足元で風に吹かれていた。

 悔しさよりも先に、空っぽになる。

 その日の夕方も、おじいちゃんの屋台にいた。

 「どうしたんや?元気ないな?」

 砂糖をまぶす視界が揺れ始める。

 おじいちゃんはいつだって優しい。

 その声を聞くと、涙腺のネジが緩んでくるんだ。

 張りつめていたものが、音もなくほどけていく。

 私は、優しくされると泣きたくなる性分だった。

 ずっと力を入れて踏ん張っていたんだと、あとから分かる。

 私は小さな腕で目をこすって、ひくひくするのを全力で抑える。

 それでも、涙はあふれ出てきて処理できなくなった。

 「ほれほれ」

 突然泣きはじめた私を、おじいちゃんは目を細めながら、困ったように見つめていた。

 「どうしたんや、ほのか」

 「運動会のかけっこでビリになった」私はしゃっくりをあげながら、それだけ口にした。

 「そうか、そうか」

 おじいちゃんは、しばらく私を見てから、口を開いた。

 「一番とか、そげんことは気にせんでええんよ。ただ生きとる。それでええんよ。わかるかい?」

 「わからん!わからん、わからん、わからん、わからん!」

 私は駄々をこねるように何度も同じ言葉を繰り返した。

 「はっはっは。そりゃ困った。・・・そうじゃな、わからんでもよか。泣きたいときは、泣けばよか。涙も人生の味っちゃけん」

 それからも、回想に近い夢はつづいた。

 まるでおじいちゃんが置き忘れた言葉たちを拾い集めて、大人になった私にそっと手渡してくれているみたいだった。

 次の夢は、宿題をやってこなかった男の子が、教壇の前に立たされて先生に怒られた日だった。

 「宿題をやってこない子はいらない」

 「先生の言うことが聞けない子はいらない」

 先生はいつだって正しいと思っているのに、空から降ってきた疑問符に私は頭を傾けた。

 家に帰ると、私はランドセルを放り出して、おじいちゃんの屋台に走った。

 紙袋から砂糖をすくい、白い粒を容器に移している、おじいちゃんの前に立った。

 「先生って、えらいと?」

 「どうしたんや、そんな、はぁはぁして」

 おじいちゃんは紙袋の口を丸めながら、いつものように笑った。

 「今日、先生の言うことが聞けん人はいらんって、先生言っとたんや。なぁ、じいじ、先生って正かと?えらかと?」

 「えらか人も、おるばい。でもな、えらいふりをしとるだけの人もおる」

 私は少し呼吸を整えた。

 「先生の言うことは、聞かんといかん?」

 おじいちゃんは首を横に振った。

 「考えんで聞くのは、楽なんや。でも、考えながら聞くのが大事なんや」

 さらにつづけた。

 「今日の先生は間違いやな。いらん人なんて、この世にはおらんからな」

 その言葉を、当時の私は、半分も分かっていなかった。

 でも夢の中で、大人になった私は、はっきりと頷いていた。

 別の日の夢では、私は教室の掃除をしていた。

 男子がさぼっていたので、注意したら、「うるせー」や「いい子ちゃんかよ」と笑ってあしらい、「おでこ、ひろっ!」と言って、颯爽と私の前を通りすぎていった。

 その頃の私は、お気に入りのケロッピーのピン留めを毎日つけていた。

 初めて、自分の見た目が恥ずかしいと感じた日だった。

 男子側からしたら何気ない言葉だったのかもしれない。でも、私の胸には大きな鉛が落ちていくようで、ひどく落ちこんだ。

 「顔はな、使い道ば選べん。広かろうが、狭かろうが、生きとるのに何の支障もなか」

 それから、私の顔をみて、優しく付け足した。

 「そんなことより、笑う時の顔の方がずっと大事たい。安心しんしゃい。ほのかの笑顔は世界一やけん」

 

 私は、それから何度もその屋台に通うようになった。

 小学生の頃、誰にも教えなかった秘密基地みたいに。

 おじいちゃんの屋台と重ねて、用事がなくても、理由がなくても、そこに寄りたくなった。

 その日も、私はいつものようにラーメンをすすっていた。

 すると、ふと亭主さんが鍋を洗いながら言った。

 「そろそろ、ピリオドを打つ時期かもしれないなぁ」

 私は箸を止めて、亭主さんを見た。

 「どういう意味ですか?やめちゃうってことですか?」

 「うーん。そうねぇ。ちょっと癌になっちゃってね。まぁ随分前のことなんだけどね。無理言って続けてたんだけど、もう時期かな~」

 そう言って亭主さんは小さく笑った。

 「いつも来てくれてありがとうね」

 その笑顔はどこか遠かった。

 私は何も言えず、ただ少し冷めたスープを見ていた。

 おつりを渡すときも、亭主さんは終始笑顔で、「はい、四百円のおかえしね。ほんとにどうもありがとう。寒いからね、気をつけて帰ってねぇ」

 私は喉に何かがつっかえて上手く言葉が出てこなかった。

 ただ、亭主さんの優しさに涙しそうになった。

 優しくされると泣きたくなる。

 性分はきっと成長しても変わらない。

 帰り道、冷えた夜の中で、ふと三峰神社のことを思い出した。

 願い事が叶うという眉唾話。

 いつも笑って流すのに、その夜は胸の奥に残った。

 次の休日、気づけば三峰行きの電車に乗っていた。

 久しぶりの電車だ。

 山は、冬の顔を見せていて、境内は思ったより静かだった。

 私は藁をも縋る思いで、願いごとをした。

 おじいちゃんに会いたいです。

 目を開けて、冬の光が木々の間をすり抜けていた。

 せっかく来たのだから、と私は境内をゆっくり歩きはじめる。

 冷たい空気が頬に触れる旅、胸の奥まで澄んでいくようだった。

 踏みしめる砂利の音も、風のざわめきも、まるでこの場所だけの時間のように、ゆったりと流れていた。

 ふと見上げると、枝に残る雪がきらりと光り、小さな水の音がどこからか聞こえた。

 神社の空気に触れるたび、心の奥に静かな神秘が広がる。

 そのとき、不思議な気持ちが胸に生まれた。ここに来たこと、歩いたこと、それ自体が、何か大切なことの始まりのように思えた。

 そして、夜が訪れると、私は夢を見た。


 夢の中で目を開けると、屋台の灯りがぼんやり揺れていた。

 いつもの小学生の私ではなく、今の私の姿で立っている。

 そして、目の前にはおじいちゃん。

 編み目の少し歪んだ、あのニット帽をかぶっていた。

 亡くなったあの日、渡せなかった帽子を、今なぜか被っている。

 「ほのか。久しぶりやな」

 おじいちゃんは、私の名前を呼んで、いつもの穏やかな声で笑った。

 その笑顔は、子どもの頃の記憶と重なり、でもどこか現実感があった。

 帽子の編み目や湯気の匂いが、私の胸に不思議な確かさを残す。

 夢なのに、夢じゃない。

 あの日の空白が、今ここで、ほんの少し埋まるようだった。

 「ほのか、元気でやっとるか?」 

 おじいちゃんは、そう言って私を見た。

 責めるわけでもなく、確かめるでもない声だった。

 私は、うまく頷けなかった。

 喉の奥が詰まって、言葉が出てこない。

 気がつくと涙が落ちていた。

 理由ははっきりしない。

 ただ、その声があまりにも優しかった。

 「わからんくなった・・・」やっとそれだけ言えた。

 「生きる意味が、わからん」

 おじいちゃんはすぐには答えなかった。

 油の中のドーナツを覗くみたいに、少しだけ間を置いた。

 「意味がわからん日もある。それでも朝は来るけん、それだけで生きる価値はあるばい。例えばな。うまかもん食べて、空ば見上げて、それで十分生きる意味のひとつやけん」

 私は、袖で涙を拭いたけど、拭うほどに、また溢れてきた。

 「焦らんでええんよ。人生は自分のしたいことのためにあるけんね。他人のためやない。ほのかは少し優しすぎや。そんな悩まんでいいんよ。自分の生きたいように生きればええ」

 おじいちゃんは、そう言って笑った。

 ニット帽の影で、その目は優しく細まっていた。

 「もう・・・会えんの?」

 声が震えた。涙でぼやける視界の向こうに、おじいちゃんは静かに立っていた。

 「人は別れても、心の中では一緒におるけん。安心しんしゃい。別れは風と一緒たい。姿は消えても、匂いや温もりは残るけん」

 なおも下を向いたままの私に、おじいちゃんはつづけていった。

 「さようならは悲しいことやなか。次の物語を始める合図たい。さぁ、下ばっかり向いてないで、顔を上げ!」

 おじいちゃんの影がだんだん薄くなっていく。

 消えてしまうと思った。

 「おじいちゃん!待って!これだけは言わせて!おじいちゃん、いつも、どんな時でも、私の味方でいてくれてありがとう。優しく笑ってくれてありがとう。いっぱい、いっぱいありがとう。大好きだよ!」

 「ほのか、ありがとなぁ。おじいちゃんもほのかのことが大好きじゃい。ほのかから貰ったニット帽。めちゃくちゃ温かいけん。ありがとうな」

 待って!

 そう言って、手を伸ばしたけれど、届かなかった。

 おじいちゃんはいつもの優しい顔で笑って、何かを言おうとしたけれど、その声は、もう聞こえなかった。

 やがて、煙のように消えてしまった。

 気がつくと、私はベッドの上で泣いていた。

 目を開けて、反射的に枕元を見る。

 そこに置いたはずのニット帽は、もうなかった。

 胸の奥に、ジーンとおじいちゃんの温もりが残っていた。

 

   四

 退職届を握りしめ、私は旅館の受付に立った。

 指先が少し震えているのを感じながらも、深呼吸して書類を差し出す。

 これでいいんだよね・・・おじいちゃん。

 ああ、それでよか。スマイルじゃぞ!

 柔らかくて、力が抜けた声が聞こえた気がした。

 背中を押してくれるような、温かいエールだった。

 その声を聞いた瞬間、私は小さな屋台の灯りを思い出した。

 湯気の向こうで笑うおじいちゃんの顔も、はっきり浮かんだ。

 そして、私は静かに息をついた。

 屋台を継ぐ決意が、胸の奥で、しっかりと芽生えた。

 うん。おじいちゃん。

 そう言ってみたけど、少しだけ怖かった。

 それでも、足はちゃんと前を向いていた。


『星くず乙女のつれづれ日記。』


日常①(自己紹介)

 リリィという女の子がいる。

 みんなからそう呼ばれている。

 その由来は、名前が小林璃莉だからだ。名前を伸ばしただけの簡易的な、あだ名だ。

 リリィは地方の大学に通っている。通い方は電車。

 だいたい、片道一時間半となかなか遠い。

 しかし、リリィは退屈を知らない。

 退屈などリリィの人生にはない。常に頭の中はウキウキ状態なのだ。

 リリィの電車での過ごし方は様々ある。

 本を読んだり、音楽を聴いたり、電車の窓から外を眺めたり。一両目に乗った際には、運転席で作業する、車掌さんの仕事ぶりに見惚れたり。

 と、気分によって変わる。

 リリィは生粋の気分屋だ。そして、生粋の自由人。

 この二点に関しては、本人も納得している。

 リリィは、今年の春で大学三年になった。

 リリィは、数学が大の苦手だ。だから、もちろん大学は文系。

 学費が安く、授業も比較的、楽だ。

 そんなリリィの気分屋で、自由で、猫のような日常を少し覗いてみてよう。


日常②(大学での、とある一日)

 リリィの大学生活は月曜日から始まる。

 春学期は、一限のない時間割にしたため、朝はさほど早くない。

 起床。時刻は七時十三分。

 十三回目の携帯アラームを止めて、一階から「リリィ」という姉に似た、母の声により三回布団の中で、もごもごして起床した。

 部屋の隅で膝を抱えた、桃色のリュックサックを手に持ち、一階へ降りる。

 洗面所に赴き、冷たい水で顔をざっくり洗う。

 目を完全に覚ますためだ。

 次に、歯ブラシを手にとり、歯磨き粉を小指の爪くらいの大きさで出し、歯を磨く。

 口の中をすっきりさせるためだ。

 一通りのルーティンを終えてキッチンに足を運ぶ。

 家で朝食を食べている時間はないため、リリィ専用のコップにお湯を少し注ぐ。

 猫舌なため、そのお湯はすぐには飲まず、とりあえずキッチンに置いておく。

 そのまま、もう一度、洗面所に戻り寝癖を直すため、今度はお湯を出しそこに頭を突っ込む。

 ひとしきり頭髪を濡らしたら、レバーを下げてお湯を止める。

 びしょびしょの頭をタオルで拭き、ドライヤーで乾かす。髪の長さが短いため、寝癖がつきやすい。

 くしを駆使し、リリィは髪型をセットし始める。

 お気に入りの、グレープフルーツの香りがするヘアオイルを髪に馴染ませ、いい感じに髪型をセットする。

 うんうん、リリィは鏡の前で頷く。本人はいい仕上がりだと思っているらしい。けれど、ひょいっと頭の左側に寝癖がついているのは、いつものことだ。

 これ(髪型のセット)がおおよそ、十分。セットを終えると、時刻は七時三十分を少し過ぎたところだった。

 八時十一分の電車に乗らなければ二限の講義に間に合わない。

 そして、家から駅までリリィの徒歩で約十五分。ということは、あと二十分弱時間がある。

 とりあえず、キッチンに向かい少し冷めた、けれどリリィにとっては丁度良い温度のお湯をお腹に流し込む。

 「はぁ〜」

 無意識に出るため息も朝の大事なルーティンの一つだ。

 着替えるために、もう一度、自室に戻る。今日は暑くなると天気予報で確認済みなので、ジーパンにお気に入りのTシャツを着ていこう。

 お気に入りのTシャツとは、以前好きなバンドのライブに行った際に買ったものだ。

 猫がコーヒーを飲んでいるTシャツで、買う際にリリィはサイズを間違えてしまい、ワンサイズ大きいものを買ってしまった。

 だから、ぶかふがなのだ。本来は半袖なのだが、リリィの場合、七分袖になってしまっている。

 リリィは要領が良い時と悪い時の差が激しい。おっちょこちょいのくせに、機転が利いたり、とその時の気分でだいぶ変わる。

 着替えを済ませ、母親が作ってくれた、おにぎりをリュックサックにしまい家をでる。

 飼っているサモエドがお見送りするべく、玄関までやってきてくれたので、ほっぺたをむぎゅーっとして、そのあと、優しく頭を撫でてやる。

 サモエドは目を細めて、かわいく鳴いた。

 「いってくるね!」

 いつものスピードで駅までの道のりを歩く。

 リリィは歩くことが好きだ。

 休日は散歩することも珍しくない。

 春の朝の散歩、夏の夜の散歩、秋の夕暮れ時の散歩、冬の昼間の散歩と、季節によって散歩するベストタイミングがリリーの中で決まっている。

 駅へ向かう途中、リリィは急に立ち止まった。

 「ユリだ!」

 街路樹のそばに、白いテッポウユリが咲いている。

 「かわいい~。ラッパみたい~」

 ユリは、リリィがいちばん好きな花なのだ。

 リリィは嬉しくなって、口を尖らせて、スキップを始めた。

 ラッパを吹いている気分で、あーゆかい、ゆかい。

 リリィは今日もご機嫌だ。

 駅に着き、電車に乗り込む。この時間帯の電車は通勤、通学の人たちと被らないため比較的空いている。

 リリィは、あいている端っこの席を見つけて腰を下ろす。やはり、座る席の優先順位が最も高いのは端っこである。

 リリィは、リュックサックの中からウォークマンとイヤホンを取り出し、イヤホンのジャックをウォークマンにさす。どうやら今日の気分は音楽を聴くことらしい。

 リリィは、お気に入りの、しかし人気はそんなにないバンドのアルバムを選択し、一曲目を再生する。今聴いているバンドこそ今日着ているTシャツのそれである。もしかしたら、このTシャツを着ているから、音楽を聴く気分になったのかもしれない。

 流れる景色をぼーっと眺める。

 そして、終点の一駅前の駅で降り、反対側のホームへ移動する。大学まで電車の乗り換えが一回ある。

 これが厄介なのだ。また、端っこの席を見つけなければならない。

 間もなく、電車がホームに滑り込みリリィは乗り込む。

 運良く目につくところに端っこの席があいていたので、はやる気持ちを抑えつつ、静かに腰をおろす。一両目を選んで乗ったため、首を八十三度右に回せば運転席が見える。運転席のフロントガラスから線路の枕木が薄く見える。リリィはそれを眺め、運転している気分になりながら、お気に入りのバンドの曲も聴いた。三十分ほど揺られ、ようやくリリィの通う大学の最寄り駅に辿り着く。

 駅から大学までをまた歩く。心地よい春の風を頬で受けとめ、なるべく人通りの少ない道を選択する。

 人通りが少なくなった辺りで、リュックサックから、おにぎりをとり出した。ラップをおにぎりの上半分まで外し、かぶりつく。うーん。うまーい。やっぱり焼きおにぎりは最高だ。

 と、誰もいないことを確認しつつ目を細める。

 あっという間に、持参した焼きおにぎり二個を平らげた。

 喉の渇きを覚えたので、これまた持参した水筒のお茶で、それをやり過ごす。

 ふ〜まんぞく、まんぞく。朝ごはんを歩きながら済ませていると、見慣れた建物が現れた。

 二限の講義は社会学。

 履修者が多いため、それなりの広さの講義室で行われる。前日にしっかり、レジュメを印刷してきたリリィは、教室で適当な席に腰をおろし、今日の資料に軽く目を通す。

 今日は要領が良い日のようだ。

 ほどなく、一限終了のチャイムが鳴り、一限終わりの生徒が続々と教室にやってくる。

あっという間に席は、ほとんど埋まってしまった。

 あらかじめ、窓際の前から二番目の席を陣取っていたため、左隣には人がいるが、右側さ窓があるだけで人はいない。

 二限開始のチャイムと共に先生が教室の教壇に立った。

 そして、社会学の講義が始まった。

 社会学の講義内容をリリィはさっぱり理解していない。

 しかし、社会学の先生のトゲのない話し方が心地よく、耳だけは傾ける。

 右耳から心地よく入ってきたその声は、脳を一周して左耳へと流れていく。この動作をおおよそ六十周繰り返すと講義が終わる。

 今日も数えていないが、おおよそ六十回、先ほどの動作を繰り返し社会学の講義はお開きとなった。

 二限の講義が終わればお昼休みとなる。大学でのお昼ご飯のやり過ごし方は様々ある。

 大学近くのファミレスに行く日、路地裏にひっそり店を構えるラーメン屋さんに行く日、学食の日、お弁当を持参する日。といった具合に。今日のリリィは路地裏にひっそり店を構えるラーメン屋さんに行くようだ。

 よし!散歩がてら行こう!リリィは気合を入れて、のんびりラーメン屋さんを目指し歩き始めた。

 キャンパスを出て、路地裏を歩く。おおよそ五分歩くと暖簾が見えてきた。

 ドアを横にスライドし、いざ入店。

 「いらっしゃいませ〜」

 入店早々、いつもの挨拶が飛んできて、カウンターに座る。もちろん一番端。お客さんは、リリィの他に三十代半ばくらいのサラリーマン、それと六十代くらいの頭が真っ白なおじいさんの二人だけ。路地裏にあるからなのか、お店が狭いのが原因か、いつもお客さんはニ〜三人程度。

 リリィはこのお店をすごく気に入っている。お店の雰囲気をはじめ、お店の匂い、お店の広さ。また、老夫婦で切り盛りしており、店主さんも女将さんも物凄く優しい。

 「はい、お水。いつものでいいかい?」

 先ほどの社会学の先生に負けないくらいの優しい口調で女将さんがいう。

 「うん!いつもので!今日は大盛りにして!」

 「はいよ、醤油ラーメン大盛り〜」

 店主さんに女将さんがそう告げ「はいよ〜」とこれまた、優しい声が聞こえてきた。

 ラーメンが到着するまでの待ち時間は厨房を眺めて過ごす。

 まず、大きな鍋に麺を入れる。それを軽く混ぜる。

 次にスープ作りだ。違う鍋から美味しそうな醤油ラーメンの素であるスープを器に少量流し込む。麺が適当な柔らかさになったタイミングで引き上げ、先ほどのスープを注ぐ。

 最後に盛り付け。これは女将さんが行う。盛り付けといっても、ここのラーメンは盛り付けが至ってシンプルだ。

 メンマ、ナルト。たったこれだけ。

 しかし!これが最高に美味なのだ!

 「はい、お待ち」

 カウンター越しに醤油ラーメンの大盛りが差し出された。

 「ありがとうございます!」

 いつもタメ口なリリィもこの時だけは敬語になる。

 「いっただきまーす」

 元気よく食材と女将さん、店主さんに食べる宣言をする。

 うーん、うまーい。さっそく、リリィはラーメンに舌鼓を打つ。

 口に入れた手腕、麺とスープが舌を優しく包み込み、一口、また一口と噛むとその都度、味は顔を変化させてくる。飲み込むのが惜しくなるこの味の変化。

 と、食べながらリリーの頭の中で一人食レポ大会が開催される。大盛りであったラーメンは、いつの間にかスープだけになってしまっていた。

 リリィはスープも全部飲むタイプなのだ。

 スープも立派な商品であり、値段に換算されていると思うと残す気になれないらしい。

 スープを平らげ、醤油ラーメン大盛りで六百円という驚きの安さの値段を支払い、「ごちそうさまでした」と食材、女将さん、店主さんに告げ外に出る。

 「ふぅ〜、食べた食べた〜」

 少し膨れたお腹をさすりキャンパスは戻るため歩き出す。念のため次の授業の教室を確認するためにスマホを開く。

 確認していると、午後、一発目(三限目)である法学の授業が休講であることが記されていた。ラッキー、と心の中で呟き、ニヤリ顔とガッツポーズをする。ふと、顔を上げると黒猫がこちらを訝しげに見ていた。

 リリィはバツが悪くなり、ニヤリ顔とガッツポーズをひっこめた。

 きっとバレてる。べ、べつに授業がなくなって嬉しいわけじゃないから!という顔を猫に見せるが、きっと伝わっていない。

 その証拠に黒猫は顎が外れるくらい大きく口を開き、呑気にあくびをした。

 午後、一発目の授業(三限目)が休講になったということは今日の授業はもうない。

 リリィは顔を上げ、鼻歌を歌い、急遽空席となった午後の過ごし方を考えながら、また歩くのだった。

 日常③(休日)

 リリィにだって休日はある。

 またしても、リリィの休日の過ごし方はさまざまある。

紹介すると長くなるので、さっそくリリーの休日を覗いてみよう。

 リリィの休日は午後から始まる。午前中は、寝るというリリーにとって極めて重要な予定が入っているからだ。

 午後十二時三十分。起床。

 休日は目覚ましをかけないためストレスなく起きることができる。カーテンの隙間から差し込む太陽の欠片で目を覚ましたリリィは、大きく伸びをする。

 カーテンを開け、大きなあくびをする。

 洗面所はいき、顔を洗い、歯を磨く。いつものルーティンを終え、空腹を覚えたリリィは朝食作りに取り掛かる。

 いや、昼食作りに取り掛かる。

 リリィは悩んだ末、パンケーキを作ることにした。

 パンケーキなんてリリィにとってはお手のもの。てきぱきと慣れた手つきで、フライパンとフライ返しを操り、あっという間にパンケーキ三枚を完成させた。

 お皿に三枚のパンケーキを重ね、その上からハチミツを垂らす。お皿をリビングへ運び椅子に腰掛ける。

 リリィは背が小さいため、椅子に腰掛けると床に足がつかない。そんな落ち着かない足を、ゆらゆらさせながら右手にフォークとナイフを持ち、パンケーキを一口サイズに切っていく。

 リリィの一口は背に合わず大きい。パンケーキのおおよそ半分に相当するサイズを一口とする。それを口に頬張り、リスになるのが常だ。

 今日のリリィはアルバイトもなく、百パーセントくつろげるため、とりあえず先ほどパンケーキが載っていたお皿を丁寧に洗うため、キッチンへ赴く。丁寧に洗うといっても、お皿一枚のため、すぐに終わってしまう。

 リリィは鼻歌を歌いながら自室にこもる。

 リリィの休日も至って気まぐれである。

 本日のリリィは先週買った絵本を読むようだ。

 絵本の名前は『バムとケロ』

 先週、休講となった午後、リリィは大学付近のショッピングセンターへと足を運んだのだった。そこで、店内を巡回していると本屋を見つけ、なんとなく絵本コーナーを物色していると、『バムとケロ』シリーズを見つけ、あまりの懐かしさに即買いしてしまったそうだ。

 買ったはいいものの、中々じっくり読む時間が作れずにいた。

 そこで本日の休日を使い、じっくりと読もう!という思惑らしい。

 なにはともあれ、さっそくリリーはベッドに体をあずけ、靴下を足半分までずらし、いちごオレを片手に絵本の熟読を開始した。

 なんてことない、数十ページの絵本をリリーは二時間経っても、まだ読んでいた。

 途中ヘラヘラしたり、しかめっ面になったりと表情に忙しいリリィ。

 絵本の三分のニを過ぎたあたりで、勢いよくベッドから立ち上がり、机に腰掛けたりりー。机の横にある引き出しからスケッチブックと十二色入りのクレヨンを取り出した。

 どうやら絵が描きたくなったらしい。

 Å4サイズのスケッチブックに大きな線をたくさん引いていくリリィ。バムとケロの絵本を読んだことにより、絵が描きたくなったようだ。

 なんだか動物をモチーフとしたキャラクターを描いていく。オリジナルキャラクターを思いついたのだ。

 真っ白だったスケッチブックは、あっという間に色とりどりの線でいっぱいになった。なにやら犬のようなキャラクターと、なにやらクマのようなキャラクターが二匹。その上に大きな八色の虹が描かれている。虹は自由だ。

 リリィは完成した絵を持ち上げ、顔の前に持っていきニ、三度頷く。

 どうやら納得いく作品が描けたらしい。それを机の横の引き出しにしまい、窓から夕陽がこぼれていることに気がついたリリィは外へ出る用のジャージに着替えた。

 玄関へ赴き、お気に入りである黄色のスニーカーに足を入れる。小銭入れとウォークマンとイヤホンをポケットにしまい外に出る。

 外に出ると、空と見渡す限りの景色が、みかん色と化していた。

 暑くもない、寒くもない、そんな風薫る季節。

 リリィはそんな景観を噛みしめながら歩く。

 いつだって、人間は季節と在る。

 リリィの散歩にだって、季節と在る。

 そんな風薫る季節と今日は散歩している。

 しばらく歩くと公園がある。そこを今日の迂回ポイントとするため、そこまでのんびり歩くことにした。

 途中、おじいさんが連れた犬とすれ違ったり、道端には、もう紫陽花が咲いていることに気がついたりしながらリリィは歩く。

 そんなことをしているうちに、お目当ての公園が見えてきた。象さんの滑り台と、乗る部分が逆アーチ状になっているブランコと、これ砂場なのか?と疑問符が出てくるような小さい砂場がある公園。

 久しぶりだったので、ノスタルジーを感じつつ、リリィはブランコに腰掛ける。久方ぶりにブランコに乗ったリリィは、昔の動作を思い出しながらゆらゆらさせる。数十年ぶりではあるが、人間というのは面白いもので動かし方を体が覚えているのだ。

 ひとしきりブランコを動かした後、小学校高学年であろう女の子二人組が、公園に入ってきたのでお暇する。来た道をただ戻るだけでは面白くないので、少し遠回りをして帰ることにしよう。戻るのは一本道ではあるが、左に曲がり大通りにでる。

 少し騒がしくなったため、ポケットからイヤホンを取り出し耳にさす。

 ウォークマンで曲を選択する。

 んー今日の気分は・・・

 立ち止まり、数分悩んだ末、一曲を選択した。

 ボブ・マーリーの『ワン・ラブ』

 ウキウキな散歩と少し切ない夕暮れ時の景観がマッチした今の気分に最適な曲だ!

 リリィは人に迷惑にならないよう気をつけながら、スキップを開始。あまり激しいとイヤホンが揺れて曲に集中できないので軽めのスキップで。

このルートだと途中にセブン・イレブンがあるため、立ち寄ろうと頭の中で決める。

 セブン・イレブンの駐車場に足を踏み入れた段階で、イヤホンを耳から外し、入店する。アイスコーナーへ向かい、物色する。アイスが陳列されている部分を左から眺めていく。

 あっ!ちょうど真ん中辺りにお目当ての『パルム』を見つけ、手に取る。レジに向かいお金を支払い、お店をあとにする。夕陽は沈み、その上から群青色が這うように空を支配していた。

 よし、帰ろう。

 自宅まであと少し、パルムにかぶりつき、歩みを始める。

 ハイエース三台分ほどの喫茶店を横切って、屋台のラーメン屋さんを通り過ぎる。

リリィは一歩、また一歩と夕飯が待っている自宅へと帰るのだった。

 日常④(おまけ)

 リリィは、本当に気分屋である。

 気分屋で自由人である。

 ずいぶん長めになってしまった散歩から帰宅したリリィは、手洗いうがいを済ませる。

 キッチンに顔を出すと、カレーの匂いが鼻腔をくすぐった。

 夕飯はカレーライスだ!

 騒ぎ立てるお腹をなだめながらリリィは、さっそくお皿にお米を大盛りに載せ、カレーをお米の上からかける。福神漬けの代わりにキムチをトッピング。冷蔵庫からソースを取り出し、かける。

 完成させたリリィオリジナルカレーライスを、またもやスキップでリビングへと運ぶ。

 「いっただきまーす!」

 作ってくれた、姉に食材に食べることを告げる。

 カレー、米、ソース、キムチ、を上手にスプーンに載せ、口に運ぶ。

 足をバタつかせ美味しさを表現する。 

 「うま〜い!」

 「全く、大袈裟だなぁ〜」

 自分用のカレーライスを片手に姉がいう。

 リリィの対面に腰掛け、控えめに「いただきます」といった。

 姉は、リリィと違って女性の中では背が高く、椅子に腰掛けても床に足がつく。その上、手先が器用で、運動神経も抜群、頭も良く、中学時代は常に学年トップの成績を維持していた。

 おまけに字も絵もめちゃくちゃ上手い。

 ここまで差があると、さすがに両親を恨みたくなってくるが、当の本人はさほど気にしていない。

 のんびり生きていられる。それだけでリリィにとっては十分なのだ。

 それからリリィは姉と並んで、食器を洗った。

 今日の夜は何をしよう。

 読みかけの絵本を読もうか、新しいキャラクターを生み出そうか。久しぶりにストレッチでもしようか。

 そんなことを考えながらリリィは姉より先にお風呂に入るべくお風呂場に消えていった。

 リリィはこのあと、気まぐれに頭から湯船に浸かるかもしれない。

 気まぐれに、逆立ちをしながら歯を磨くかもしれない。

 夜中、ホットコーヒーが飲みたくなってコンビニに行くかもしれない。リリィの日常に意味なんてなく、ただ平凡で自由で気まぐれなのである。

 それがリリィの、満足、である。

 特別な才能なんていらないし、みんなを魅了する顔面もいらない。

 ただ健康で平凡な日常があればいい。

 リリィはそう思っている。

 リリィの日常はリリーが生きている限り続く。

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