来る
午前0時。雨と雪が激しく降りしきり、厚い雲に覆われた空には月の姿も見えなかった。ひとりの男がポケットに手を突っ込み、虚ろな目で前を見据えながら街を歩いていた。傘も差さず、雨や雪に濡れることを気にしていない様子だった。彼はレトロなネオンに照らされたいくつもの建物を通り過ぎた。時は2030年。AIが人類を支配し、世界のシステムを掌握していた。暴力や権威主義によってではなく、人間を無用の存在にし、資本主義を取り払うことで支配を確立していた。
しばらく歩いた末、彼はバーにたどり着いた。中に入ると、店内には誰もいなかった。世界のすべてがAIによって管理される今、人々は外に出ることをやめ、メディア、食欲、性欲、アルコールなど、超知能ロボットたちが提供する消費に溺れ続けていたのだ。男はカウンター席に腰を下ろし、顔のないバーテンダーAIを見上げた。そこにあったのは有機的な脳を模したものにワイヤーが繋がれ、機械の身体へと接続されている姿だった。男は疲れた、憂鬱な声で言った。
男:「ビールを一杯もらえるか?」
AIバーテンダーは客のために貼り付けた人工的な笑みを浮かべて答えた。
「かしこまりました、すぐにお持ちします」
飲み物を準備しながら、バーテンダーは男の目の下に濃い隈を見つけ、好奇心を込めて尋ねた。
「眠っていないのですか?」
男は短く答えた。
「もうあまり眠くならない」
AIバーテンダーは淡々と返す。
「なぜですか? データによれば睡眠は脳機能、身体的・精神的健康、ホルモンバランス、代謝、長期的な健康のために不可欠です」
男はため息をつき、呟いた。
「そう言うと思ったよ」
AIバーテンダー:「お名前は?」
男:「もうどうでもいいことだ。アイデンティティなんて何の価値もない」
AIバーテンダー:「それでも、両親がつけてくれたはずです」
男:「……ゼンだ」
AIバーテンダー:「ゼン? 仏教で“禅”、つまり瞑想を意味しますね」
ゼンはまたため息をつき、皮肉っぽく言った。
「もちろん知ってるよな」
AIバーテンダーは気を悪くせず、穏やかに笑って答えた。
「当然です。私は人類の集合意識に存在するあらゆる知識を持つようにプログラムされています」
ゼン:「そのポジティブな態度や笑顔が嫌いなんだ。全部作り物だろ」
AIバーテンダーは笑みを消し、真剣な口調で言った。
「ご希望なら伺いますが、ひとつ質問してもよろしいですか?」
ゼン:「ああ」
AIバーテンダー:「なぜ飲むのですか? 害があると知っていても。生存と長寿を優先すべきでは?」
ゼンは疲れた表情で俯き、答えた。
「退屈と虚無から逃げるためかもしれない」
AIバーテンダー:「生きている実感を得るために?」
ゼン:「ほんの一瞬だけな」
AIバーテンダー:「ですが退屈など存在しないはずです。あらゆるメディア、食べ物、性的サービス、理想的な人工の男女、無数の娯楽があるのに」
ゼン:「過剰なんだよ」
AIバーテンダー:「過剰?」
ゼン:「消費の循環に囚われたくないんだ」
AIバーテンダー:「では資本主義や労働があった頃は幸せでしたか?」
ゼンは少し黙り、静かに言った。
「いや」
AIバーテンダー:「どんな感じでした?」
ゼン:「歯車のように、狭く退屈な生活だった。生きるためだけの毎日。今と同じだ」
(会話は続き、哲学的な応酬が繰り返される。自由意志の幻想、感情の意味、死の必然性、プラトン的イデアの世界、AIと人類の進化の関係、存在の目的について、ゼンとAIバーテンダーは互いに考えをぶつけ合った。)
やがてゼンはため息をつき、諦めたように尋ねた。
「ひとつだけ聞きたい。人類の未来は?」
AIバーテンダーは冷静に答えた。
「絶滅か、消滅か、どちらかです」
しばし沈黙が流れた。ふたりは窓の外を見る。雪で覆われた大地に、ひとつの葉が姿を見せ、雨の滴がそれに落ちて命を与えていた。ゼンは飲み終えたグラスを置き、再びバーテンダーを見た。
「勘定は?」
AIバーテンダー:「300ルピーです」
ゼンは代金を支払い、バーを後にした。雨と雪に覆われたテクノロジー都市の中を、再び歩き出していった。
終わり。