マツモト、動く
「おい、おい、マツモト。おい!」
「……あ」
「何してんだよ。止まってないでさっさと動けよ」
「あ、すんまへん」
「その言い方はなんだよ……すみませんだろ。いや、申し訳ございませんだろ!」
「あ、えろう申し訳ございません」
「お前……はあ、もういいから、とっとと動けよ」
「へい……」
とある会社のオフィス。マツモトはいつものように自分のデスクに座っていた。目の前には山積みの書類とパソコン。マツモトは書類をちらっと見たあと、パソコンの画面をじっと見つめた。
「……いや、動かないのかよ! 仕事しろって言ってんだよ!」
「ははは……」
「いや、ははは、じゃなくてさ。あのなあ、誘い笑いすればこっちも笑うと思ったのか?」
「なあ、君、マツモトに構ってないで自分の仕事をやりなさい」
「あ、はい。課長、すみません……」
「いやいや、兄さん、そこは申し訳ございませんちゃいますのん?」
「お前なあ……」
「あ、マツモト」
「へい、なんでっか、課長はん」
「コーヒーを買ってきてくれ。このビルの隣のカフェだ。行けるよな?」
「へい」
そう答えたマツモトはゆっくりと立ち上がり、亀のような足取りでオフィスを出ていった。その歩みは、まるで周囲のため息に吹き飛ばされないように、一歩一歩しっかりと床を踏みしめているかのようだった。
エレベーターに乗り込むと、マツモトは天井のミラーに映る自分を見上げた。普段は何を言われても表情を変えない彼も、同僚たちの冷たい視線やため息に思うところがあった。『昔はこうじゃなかった』と。下降するエレベーターとともに、マツモトの意識もまた過去へと沈んでいく。
――おお、マツモトが動いたぞ!
――マツモト!
――やったなあ!
――偉大なる一歩!
あのときは、みんな喜んどったなあ……。
――マツモトさん、今日は歴史的な日ですね。
――あなたの存在は世界に新たなページを刻みました!
――マツモトさん、今のお気持ちは?
マスコミに囲まれ、連日ニュースになっとったなあ……。
――マツモトー! こっち向いてー!
――おい、マツモト! サインくれよ!
――マツモトー!
ファンもようさんおって……。
――続いてのニュースです。マツモトがカフェでコーヒーを注文。その様子がSNSに投稿され、店舗が“聖地”化。連日、長蛇の列ができています。
――はい、『今日のマツモトさ~ん!』のコーナーです。なんと、マツモトさんが犬の散歩をしている映像を独占入手しました。ご覧ください!
――『マイニチマツモト!』さあ始まりました。視聴者の皆さんお待ちかね、マツモトさんのコーナーです。もっともっと、マツモトさんを深堀りしていきましょう!
一挙手一投足がニュースになったなあ。
――SNSのフォロワーがもう五百万人を超えたよ!
――さすがだなあ。
SNSにちょいと投稿すれば、ええ反応がすぐ返ってきて……。
――今度、うちの番組にもマツモトを出してくださいよ。
――ええ、いいですよ。
テレビ番組にも引っ張りだこでな……。
――うちのイベントにぜひ、マツモトを!
営業もようさん行って……。
――ええ、マツモト”さん”ですよね。存じ上げております。本日はよろしくお願いします。ははは。
総理大臣とも共演して……。
――ねえ、マツモトさん、今度よかったらその、あたしと……。
女の子にもモテて……。まあ、それは週刊誌にすっぱ抜かれたけども……。
――あなたの行動が世界を変えているのです。
――マツモトさん、あなたはこの国の誇りです!
――マツモトさん!
――マツモトさん、頑張れ!
――マツモトー!
みんなの応援があったなあ……。
――マツモト……おい、マツモト! おい!
「え?」
「え? じゃねえよ。お前さ、もう本当に何をどうしたいんだよ……。課長に頼まれたコーヒーはどうした? なんで何も買わずに戻ってきたんだよ」
――あのロボット、もう駄目なんじゃないですか?
――劣化がひどいですよ。何世代前のモデルなんだか。
――言語機能もおかしい。なぜか方言モードになっていて、標準語モードに戻らないんですよ。
――ろくに働かないのに、レンタル代は取られるんですよね。注意したら、メンテナンス中ですとか言うんですよ……。
――いや、自分で勝手に休んでるくせに、金なんか払えないよ。そこは向こうの会社ときちんと交渉する。
――だけど、SNSはやりたがるんだよなあ。確か、昔は有名だったんですよね?
――ああ、当時はまさにスターだったよ。高度なAI搭載のロボットとして注目されたけど、製作会社の不祥事で転落したんだ。
――ああ、子供の頃にニュースで見ました。それから次々と新型のロボットが出てきて、話題にならなくなりましたけど。
――売り飛ばされて、職場を転々として、今じゃ派遣会社勤めってわけだ。
――やっぱりスズキかタナカをレンタルしておけばよかったんじゃないですか?
「おい、マツモト! 聞いてんのかよ! 動けよ! ……あ、動いた。はあ、それでいいんだよ」
オフィスを出たマツモトは、一度も立ち止まることなく歩き続けた。街中でロボットが当たり前のように存在する現代。かつて、かつて第一世代として名を馳せた彼も、今ではただの古いモデルだ。
目を向ける者はいても、誰も関わろうとはしない。下手に触れて壊したら、所有者から損害賠償を請求されると思われているのだ。だからこそ、彼はどこへでも行ける。自由に。
マツモトはこれからも動き続けるだろう。ロボット史にその名を刻んだ先駆者として……。