六話 夏が来る前に…
時は風のように、静かに、そして確実に過ぎ去っていく。昭和の日々は、懐かしい音色を持つ古びた写真のように、私たちの記憶の中で色あせることなく残り続けている。平成の時代はその躍動感に満ち、色とりどりの出来事が次々と繰り広げられ、私たちを引き込んだ。そして令和が幕を開け、私たちは新たな一歩を踏み出す喜びとともに、未知なる未来への期待に胸を膨らませている。昨日の面影はどこか遠く、今は新しい出来事が次々と目の前に現れる。昭和、平成、令和の三つの時代が、川の流れのように静かに過去を流し去り、私たちはその流れの中で今を生きている。
純次郎がギターを覚えたばかりの頃、いろりの前に座っている父、与三郎の目の前で、井上陽水の『人生が二度あれば』を弾き語りながら歌った。その暖かな火の光が、父の顔に刻まれた年月の痕跡を浮き立たせていた。父は63歳、仕事に追われながらも、ようやく少しだけ余裕ができた頃だった。黙って目を閉じ、静かに聴いていた父の姿。その時、父は何を思い、どんな感情を抱いていたのだろうか。あの日の父を思い出すたびに、今でも心の中で複雑な感情が渦を巻き、揺れ動く。
若いあの頃、私は高齢を迎えることなど考えたこともなかった。未来には希望が溢れ、夢を追い、挑戦の中で成長を実感し、日々の喜びに包まれていた。時は容赦なく進み、今、私はその現実に直面している。あの頃の私の心には、目の前の大きな未来が広がっていたが、今、振り返ってみると、確実に積み重ねてきた経験や喜びが、私を形作る深い足跡となり、人生の中で意味あるものとなっていると気づかされる。挑戦と失敗、成功と幸福、どれもが私に何かを教えてくれ、今の私を作り上げてきた。過去を振り返るたびに、ふと自問することがある。本当に大切にしてきたものは何だろうか。心に浮かぶ答えは、経験と知識が教えてくれるような気がしてならない。
遠い昔の思い出を蘇らせる古いアルバム。純連は窓辺に座り、押し入れの隅にしまってあった箱を取り出し、そっとアルバムを手に取った。「純連、何を見ているの?」彼女の優しい微笑みに誘われて、純次郎も隣に座り、一緒にアルバムをめくり始めた。窓から差し込む柔らかな光が、二人の周りに穏やかな明かりを投げかけ、心の中に温かな感情を満たしていった。
古いアルバムには、数々の楽しい思い出や大切な写真が収められている。その一枚を指でなぞりながら、純連は孫娘の成長を振り返り、やわらかな笑みを浮かべていた。何気ない一瞬一瞬が、時を超えて心に刻まれていく。それが、彼女にとっては何よりも宝物のような時間だった。
高校生だった唯は、大好きなおばあちゃん・純連の誕生日に歌を捧げることを決心した。そんな時、偶然目にしたのが「のど自慢」の応募案内だった。「これだ! これよ! この会場で誕生日の歌を捧げるんだ!」純連の誕生日に歌を届けたいという強い思いが、彼女を動かした。
「出場者を決める予選会を放送前日に行います。お名前、年齢、歌う曲名と歌手名を記入し、必要事項をご記入の上ご応募ください。その際、選曲理由も詳しくお書きください。応募の締め切りは4月18日です。観覧者も募集中です。」と書かれた要項に従い、唯は応募ハガキを送った。
のど自慢には、倍率7倍の厳しい選考を経て、200組の幅広い世代の出場者たちが予選会に集結した。書類選考を通過した約180組が予選に進み、放送局から通知が届いた。予選出場者たちは、収録日の前日に本番と同様の会場で行われる非公開の予選会に出場し、生バンドをバックにステージで歌を披露することになっていた。
唯はその最後の出場者だった。その間、緊張で胸がいっぱいになり、何度もその場から逃げ出したいと思った。しかし、今回は逃げることはできなかった。純連に聴かせて喜んでもらいたい、その一心で踏みとどまった。
イントロが流れた。しかし、緊張のせいで声が出ない。力を振り絞り声を出そうとすると、音程が大きく外れてしまった。会場からは大きな笑い声が湧き上がった。「はい、結構です。お疲れ様でした。」審査員の冷たい言葉が響く。
唯は悔しくて顔を上げることができなかった。涙が溢れ、床にポタポタと落ちていった。しかし、このままで引き下がるわけにはいかない。純連の前で歌いたい、その思いだけが心に強く響いた。そして、勇気を振り絞り、バックバンドなしで再び歌うことを決意した。
「えっ!なんだこの歌声は…」審査員たちが驚きの声を上げ、顔を見合わせた。バックバンドも歌に合わせて演奏を始めた。先ほどまで笑っていた参加者たちも、次々に驚きの声を上げていた。「アッ」「え~っ」「何?!」涙を流す者もいれば、驚きのあまり口を抑える者もいた。歌が終わると、しばらく会場に静寂が広がった。その後、審査員が我に返り、拍手を始めると、会場は一斉に拍手の渦に包まれた。
こうして唯は予選を勝ち抜き、県大会へと出場。そして見事優勝を果たし、全国大会への切符を手に入れることができた。全国大会の会場には、まるで別次元の雰囲気が漂っていた。照明、音響、テレビカメラ、そして何より会場のスケールが、予選とは比べ物にならないほど大きかった。
大舞台に立っていた唯は、すっかりナーバスになっていた。そんな彼女を取り巻くのは、熱い視線を向ける観客、そして厳しくも温かい審査員たち。全てが一瞬で彼女の身に降りかかり、緊張のあまり声すら出ない。会場は静まり返り、唯は震える手をどうしても抑えることができなかった。
一人の審査員が、少しでも彼女を楽にさせようと、軽い質問を投げかけた。「参加した動機はなんですか?歌は好きですか?」しかし、唯の頭の中は真っ白で、その言葉が耳に入ってこない。ただただ、体が固まってしまった。笑顔を作ろうとしても、口元が引きつり、目はいつもの倍以上に見開かれている。指先も震え、膝から力が抜けてしまった。
「負けるものか」と心の中で自分を奮い立たせようとするが、目に涙が滲んできて、溢れ出した。それが口の中に入るほどで、唯の心の中では混乱が広がっていた。その様子を見た審査員たちは、顔を見合わせ、低い声で話し始める。
「ダメかもしれませんね」
「そうですね、これ以上緊張させては彼女の体にも悪いし」
「じゃあ、ストップさせますか?」
「そうですね、そうしましょうか」
しかし、その中で唯は自分の中の一番深い思いを振り絞るように言った。「とっても緊張しています。歌えるかどうかもわからない。私は対人恐怖症で、引きこもりです。」
会場は一瞬、息を呑んで静まり返った。審査員たちも、その言葉に優しい眼差しを向け、心から彼女の気持ちを感じ取っているようだった。その雰囲気を乗り越えようと、唯は深呼吸をして再び口を開いた。
「大好きなおばあちゃんに、どうしても聞いてもらいたいんです。祝ってあげたいんです。」
言葉が途切れると、すぐに審査員の一人が優しく声をかけた。「おばあちゃんは元気なの?」
「はい、元気です。この会場に来ています。」
その瞬間、純連の顔には感動の涙が溢れ、震える手を純次郎がそっと撫でながら見守っていた。唯の告白を胸に、母親のような愛情で見守り続けていたのだ。
そして、ステージは静けさに包まれた。暗闇から一筋の光が現れ、舞台を照らし出す。その光は、孤独な旅人が求める希望の灯火のように、唯を包み込んだ。深く広がる音の波が、これから始まる物語の始まりを告げるように、ゆっくりと響き渡る。ピアノの旋律が会場に広がり、唯の歌声が静かな情熱を秘めながら響き渡った。
その歌声は、どんな言葉よりも多くを語りかけ、観客の心を震わせていた。舞台上には、演奏者たちと共に熱気と興奮が溢れ、ライトが煌めき、スポットライトが演奏者を照らし出す。瞬間、歓声と拍手が会場を埋め尽くし、すべての人々が一つになった。観客たちは歌に合わせて手を叩き、声を上げ、その瞬間に浸った。
そして、唯は見事に中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」を歌い上げた。その歌声は、会場に残る空気を震わせ、誰もが感動を胸に刻み込んだ。
唯の心の中で、大きな壁を乗り越えた瞬間だった。
唯の歌声が会場に響き渡り、終わりを迎えたとき、会場はまるでひとつの生き物のように息を呑んでいた。どれだけの拍手が送られたのだろうか、純連と純次郎は手のひらが赤く腫れ、血が滲むほどの拍手を送り続けていた。観客たちは、唯の歌声に心を打たれ、涙をこぼし、叫び声をあげるほどの感動を覚えた。それは、単なる「のど自慢」のレベルではなく、まさにライブ会場で起こるような熱狂的な瞬間だった。
歌が終わった瞬間、唯の心には温かな解放感が広がった。不安や緊張、恐怖は一瞬で消え去り、彼女は初めて自分の歌声に完全に身を委ねることができた。その解放された心が、会場の歓声と拍手によって満たされ、深い感動が溢れ出ていた。自分の歌声を、純連に捧げることができたという満足感と喜びが、彼女を包み込んだ。
唯は、対人恐怖症という壁を乗り越え、大きな一歩を踏み出したのだ。その一歩が、彼女に新たな強い自信を与え、心の中で一層の成長を促した。
そして、あの誕生日の贈り物は、ただの歌声のプレゼントではなく、純連にとっての勇気の源となり、新たな夢を追い求める力となった。純連は、唯の歌声を通して、かつて抱えていた不安や迷いを解き放ち、未来へと進んでいくエネルギーを手に入れたのだった。純次郎が微笑みながら言った。「感謝だね。」その言葉に純連は目を細め、「ありがたいわね。」と静かに答える。
その後、唯は日本メジャーデビューを果たし、その成功をきっかけに世界の舞台へと挑戦していった。野球や音楽、芸術、料理、どんな分野でも、その輝かしい頂点を目指す情熱は共通している。唯はその情熱を胸に、次々と新たな挑戦をしていった。
懐かしい夏の思い出が、蝉時雨の音とともに蘇るように、あの瞬間が彼女にとってどれほどの意味を持つものだったのかは、これからもずっと心の中で輝き続けるだろう。