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五話 家族の絆と喜びの旅路

 仕事は世の中にいくらでもある。

 でも、「妻」という存在は、人生でたったひとり──。


 野村克也元監督のその言葉に、私は幾度も胸を打たれてきた。

 それは、単なる名言ではなく、ひとりの男が人生の終わりに差しかかり、

 ようやく見つけた真実のようにも思える。


 人は皆、何かを得ようと懸命に生きている。

 名誉、成功、富──そのどれもが確かに人生を彩る光かもしれない。

 だが、それらがいかにきらびやかでも、

 愛する者との暮らしを失った後の孤独を、埋めることはできない。


 沙知代夫人を亡くした後の野村監督は、

 まるで灯の消えた部屋の中を、ひとり歩いているようだった。

 晩年の彼が語った「自分の鈍感さへの後悔」には、

 強さではなく、人としての弱さが滲んでいた。

 それがかえって、真実味を帯びて私の胸を締めつけた。


「沙知代は、いい死に方をした」

 そう語ったその背後には、自らの死への願いがあったのだろう。

 涙を見せず、ただ静かに別れを受け入れる──

 そんな境地に至るには、どれほどの孤独をくぐり抜けたのだろうか。


 八十歳を越えれば「大往生」と言われる。

 でも、私にとってその言葉は、慰めにならない。

 私は願っている。

 純連には、一日でも長く、生きていてほしいと。

 もし彼女を先に失うことがあれば、

 私はその喪失を乗り越える自信がない。


 人は、誰かを深く愛するほどに、

 別れの痛みに怯えるようになる。

 それでもなお、愛さずにはいられない。

 たったひとりの人を。


 純次郎は、毎日の何気ない瞬間の中で、純連をどれほど大切に思っているのか、心の奥底で感じていた。彼女が転ぶたびに、まるで自分がつまずいたかのように心が痛む。たとえ彼女が「そんなこと分かってるわ」と口にしても、彼の心は常に警戒している。それが愛だと彼は知っている。だからこそ、毎日の些細なことにも目を光らせていた。


「気をつけて、段差があるから」その一言が、実は彼のすべての思いを込めたものだと、純連には届いているのだろうか。何度も何度も繰り返す言葉の裏には、彼女を失いたくないという強い願いが隠れている。もし彼女が少しでも傷つくことがあれば、自分の世界が崩れ去ってしまうかのような恐怖が、心の中に渦巻いていた。自分を守るためではなく、純連を守りたい。その気持ちが何よりも強く、時に自分を犠牲にしてでも彼女のために生きていこうと心に誓っていた。


 だが、心の中には常に不安がつきまとう。それは、純連がどんな小さなことでも心配してくれることへの感謝の気持ちと、同時に「自分ができることはどこまでだろうか?」という後悔の念でもあった。彼女が笑顔で歩いているとき、彼は心の中で自分を問い続ける。「本当にこの道を歩んでいくのに、十分な支えができているのだろうか?」と。時間が足りなくて、言葉が足りなくて、何もかもが足りない気がする。その気持ちは、彼が純連を愛するがゆえに深まるばかりだ。


 純次郎の心には、彼女と過ごす時間がどうしても儚いものに感じられてならない。「いつか彼女がいなくなること」を考えるたびに、胸が締め付けられる。純連が笑っているその瞬間すら、いつまでも続くものではないことを彼は知っている。だからこそ、純連が元気なうちに、彼女を守るためにできるすべてをしたいと思っている。しかし、その無力さに時折打ちひしがれるのだ。


「もし彼女を守れなかったら、どうしよう…」その思いが、純次郎を夜も眠れない日々へと導くことがある。そんな自分が情けなくて、もどかしくて、ふとした瞬間に涙がこぼれることもある。それでも彼は、純連のために生きることを選んだ。そして、彼女がどれほど自分にとってかけがえのない存在であるかを、言葉にすることができないまま、日々の中でそれを大切にしている。


「純連が笑ってくれるなら、僕も嬉しい。どんなに小さなことでも、喜んでくれるならそれが僕の幸せだ」と心の中でつぶやきながらも、心の奥底で湧き上がる不安が消えることはない。毎日を過ごす中で、彼はふと考える。「自分は本当に純連に十分な愛を注げているのだろうか?」その問いに対する答えを見つけることはできない。ただ、毎日を大切にし、少しでも彼女にできることをしたいという思いが強くなるばかりだ。


 後悔を感じる瞬間があれば、純次郎はその後悔を愛に変えようと決めていた。無力さを感じる度に、それを力に変え、純連への愛をさらに深めていく。その先に、何が待っているのかはわからない。それでも、純次郎は今を全力で生きることを誓っている。彼女の笑顔が彼にとって、何よりの宝物なのだから。


 今日もまた、1日が静かに過ぎていく。窓の外から見える校舎が、夕焼けに染まり、時の流れが穏やかに感じられる。日常が流れ、曜日の感覚を忘れさせるほど穏やかな日々。純次郎は、70歳を過ぎ、現役時代の忙しさから解放されて、ひとときの平穏を楽しんでいる。もはや曜日を意識することは少なく、唯一、テレビ番組を録画する時だけがその目安となっている。それでも、「こんなのんびりとした生活ばかり送っていると、脳が鈍ってしまう」と、心の中でつぶやきながらも、少しでも生きがいを見つけようと努力している純次郎の姿は、時に切なく、時に微笑ましいものだ。


 その横で、純連もまた同じように過ごしている。彼女の静かな暮らしも、純次郎とともにあるだけで幸せだと感じている。しかし、心の中には、長い年月を共にした純次郎との間に育まれた深い愛情に包まれながらも、どこかで感じる寂しさや空虚さが時折顔を覗かせるのだった。


 そんな彼らの元に、麻美子が帰国した。彼女は学生時代に出会った英語教師と恋に落ち、できちゃった婚で結婚したが、彼女の人生もまた波乱に満ちていた。夫のギャンブル依存症が明るみに出たとき、麻美子は必死にその問題と向き合おうとしたが、家族の崩壊を防ぐことはできなかった。その後、息子の薬物依存症が発覚し、彼女はすべてを懸けて治療と支援を試みた。しかし、息子はその病魔に勝つことができず、早すぎる死を迎えることとなった。夫も、次第に追い詰められ、借金取りに追われて家を出て行った。麻美子はその絶望の中で生きる意味を見失いかけながらも、どうにか自らの道を歩き始める決意を固める。


 彼女は日本に戻ると、まず亡き母、奈々美の墓を訪れた。その前で静かに立ち止まり、心の中でささやいた。「お母さん、ごめんね。あの時、あなたを見送りできなかった。いろいろな事情があって、どうしても帰れなかった。でも、これからはいつも一緒にいるからね。私もこれからは、あなたを見守るよ。だから、見守っていてくださいね」と。墓前でのそのひとときが、麻美子の中で、母との絆を再確認する瞬間だった。


 夕焼けが空を染める中、麻美子は純次郎と純連に会いに行く決意をした。その心は、わずかな不安とともに、また一歩踏み出す強さを感じていた。純連に会うのは、彼女にとっても初めてのことだった。緊張しながら向かう先で、純連が温かい笑顔を浮かべて迎えてくれた瞬間、麻美子の心の中で何かが解けるような気がした。「ああ、この人は、私の母に似ている」と感じたその瞬間、麻美子の中の緊張は一気に溶け、自然に心が開かれた。


 しかし、純連の心の中には、長年抱えてきた痛みと憎しみの感情があった。彼女が思い出すのは、かつて麻美子が生まれたときの苦しみと、それがきっかけで夫婦が引き裂かれたことだ。「あなたが生まれなければ、こんなことにならなかった」と、何度も心の中で繰り返していた。しかし、麻美子と対面した瞬間、そんな思いは消え去り、代わりに不思議な感謝の気持ちが湧き上がった。彼女がいなければ、純次郎との生活は今のようにはなかっただろう。ふたりの間に存在するこの絆を、大切にしなければならないと強く思った。心から微笑みながら、純連は言った。「麻美子さん、今の幸せがあるのは、あの時、あなたが生まれてくれたからですよ。ありがとうございます」


 麻美子は、純連の言葉を胸に、再び家族の一員としての役割を感じながら生活を始めることとなった。スープの冷めない距離にアパートを借り、日々の生活を営みながらも、心の中で何かが静かに癒されていくのを感じていた。マイアミで過ごした日々の中で彼女は多くのことを学び、家族や絆の大切さを再認識していた。そのことが、再び日本の地での生活に深い意味を与え、彼女は心の中で「もう一度やり直せる」と感じていた。


 そして、純次郎と純連は、麻美子と再び繋がることで、自分たちの人生が、まだまだ続いていくことを実感していた。過去の傷が癒え、新たな絆が生まれた瞬間だった。


 マイアミで暮らしていた時、ジャパンTVで温泉シリーズが放映されるとその晩は必ずと言っていいほど夢を見る。自分が温泉に浸かって美味しいものを食べているそんな光景だった。日本に戻ると、その夢をやっと叶えるかのように、温泉巡り、食べ歩きグルメ、クルーズ船での日本一周、そして当てのない気ままな列車旅を楽しんでいた。時には3人で、時には1人旅である。そんな旅先で思うのは、日本に生まれてきてよかった。日本人で良かった。と、心の底から思っていた。


「人生は楽しむためにあるのよ」と純連が笑顔で送り出してくれる。

「人生は幸せになるためにあるんだから、楽しんでこい」と純次郎が暖かい声援をかけてくれる。

「じゃあ行ってくるね。留守の間の植木の水やりお願いね」

「大丈夫よ、気にしないで楽しんできてね」

「で、今度は何日間の旅なんだ」

「それは誰にもわからないわ。知っているのは風だけよ」

「何を車寅次郎のようなことを言っているんだ」

「旅先で恋に落ちたら二人で帰ってくるかもよ」

「二人でも三人でもいい。その時は連れて来い。会ってやるから。じゃあ、楽しんな」

「二人にお土産買ってくるからね」

 喜び勇んで出かける麻美子の後ろ姿が見えなくなるまで二人は手を振っている。


「疲れが抜けないよ」と、旅から戻った麻美子が手土産を持って遊びにやって来た。

「それはそうだ。毎晩赤ワインボトル1本も飲んでればそうなる」

「ストレスが寿命を縮めるのよ。そのうち飲めなくなるし、食べられなくなるから」

「そうよね、健康、健康と気にしてばかりで、飲まない食べないのは寂しいわね」

「ああ、そうだとも。この歳になると、食べる量も飲む量も減って、食べる量も減っている。それに旅をしたいとも思わない。温泉に浸かりたいとも思わない。家から出たいとも思わない。欲しいものなんてない。お金は減らないし溜まる一方だ」

「心配しないで、お金の方は私が減らしてあげるから」と、麻美子は笑っている。


 夏の空が過ぎて秋の空になった。新たな旅に出ようとした時だった。病院から麻美子へ精密検査の通知が届いた。血糖値が高いとか、コレステロールが多いとか、そんな注意勧告だろうと軽く考えていた。それはそうである。日本の食べ物は美味しいといって、とんこつラーメン、焼肉、白米、それに日本酒である。毎日のように腹一杯食べていた。それを自覚していたし、当然注意されると思っていた。

 数値が高ければ「その時は薬を飲めば良いのよ。そのため薬があるんだから。今食べなければいつ食べるのよ」と軽く考えて病院に向かった。


「先生、血糖値とかコレステロールが高いのですか?たとえ高くても食生活の見直しはしませんので、薬をくださいね」

 そんな麻美子の声に医師は頷くこともなく、データを見ながら深刻な顔で言った。「麻美子さんの病気は肺気腫、大腸がん、慢性骨髄性白血病と厳しいものです」


 人生は予測不可能なものである。麻美子が親よりも早く逝ってしまうとは予想もしていなかった。その彼女の死は、愛する人との時間がどれほど尊いのかを再認識させられたのである。


 気丈な麻美子、気丈というより覚悟のようなものが溢れていた。体の異変はマイアミで生活をしていた時から薄々感じていた。自分の体である。異変に気づかないはずがない。マイアミを離れたのも詭弁だった。最期は生まれ育った日本、優しかった父、純次郎と過ごしながら終えたいとその時から覚悟を決めていたのである。


 麻美子は、穏やかな微笑みを浮かべながら、静かな部屋の中でそっと最期を迎えました。死が迫る中、彼女の目には驚きや恐怖の色はなく、むしろ穏やかな光が宿っていました。家族や友人たちが集まり、彼らも彼女の勇気を受け入れる姿勢に敬意を表しました。


 彼女の人生は、常に新たな挑戦を求め、後ろを振り返ることなく前進してきました。異国のマイアミで様々な試練や困難に直面しながらも、希望を失うことなく、前向きに生きるその姿勢は、まさに人生の豊かさと満足度の象徴でした。


 麻美子の旅立ち後も、彼女が歩んできた生き様は、純次郎と純連の心の中で色褪せることなく生き続けています。彼女が教えてくれたのは、ただ生きることの尊さだけではありません。人生の不確かさに向き合い、自分の選択に責任を持って前進する勇気こそが、真の生き方だということでした。彼女の姿は、これからも永遠に心に刻まれ、何度でも力を与えてくれることでしょう。

 【読者のあなたへ】


お時間を割いて、目を通していただき、心から感謝申し上げます。どんな些細なご意見や感想も、筆者にとっては貴重なものです。今後の文章作りの参考にさせていただきますので、お気軽にお知らせください。

これからも、心温まる文章をお届けできるよう努めてまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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