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四話 凍てつく冬から若葉の春へ  

 日常生活の中には、見過ごされがちな美しさや、ささやかな喜びが満ちている。単調に見える日々のルーチンや生活のパターンも、一つひとつが確かに私たちの心に寄り添い、静かに意味と価値を与えているのだ。


 午前3時。まだ世界が眠りの中にある頃、純次郎はふと目を覚ました。布団の中でじっとしていると、外の静けさが耳に染み入る。風の音もなく、時計の針が淡々と時を刻む音だけが、小さく部屋の中に響いている。


 彼はそっと身を起こし、台所の明かりを最小限にして一杯の白湯を淹れる。湯気が立ちのぼるコップを両手で包み込みながら、窓の外を見やる。暗闇の向こうには、かすかに夜明けの気配が混じり始めていた。


 静かに始まるその時間は、彼にとってとても大切なひとときだった。誰にも邪魔されない静寂の中で、昨日の出来事を思い返したり、今日という日がどんなふうに流れていくのかを、ぼんやりと想像してみたりする。


 やがて朝6時。障子の隙間から柔らかな光が差し込み、部屋の空気を少しずつ暖めていく。純連もまた、自然にその光に目を覚ました。窓の向こうに広がる空は、淡い桃色からやがて薄青に変わろうとしていた。


「いい朝ね」


 そうつぶやく声に、朝の光が優しく応えるかのように室内を満たしていく。窓を開けると、冷たい空気とともに、どこかで咲いている沈丁花の香りが漂ってきた。


 純連は6時半に家を出て、公園でのラジオ体操に参加する。近所の人々と軽く挨拶を交わしながら体を動かすことで、眠っていた身体も目を覚ましていく。


 体操を終えると、彼女は家に戻って朝食の準備に取り掛かる。米を研ぐ水音がキッチンに響き、まな板の上では大根が小気味よく刻まれていく。その音は、まるで一日の幕開けを知らせる合図のようだった。


 間もなく、台所からふわりと湯気が立ちのぼり、炊き立てのご飯とみそ汁の香りが部屋いっぱいに広がる。焼き海苔がパチパチと音を立て、今朝の食卓が整えられていく。


 ちゃぶ台の上には、ご飯とみそ汁、漬物、そして焼き鮭がきちんと並び、ふたりは自然と向かい合って座る。


「今日は、よく晴れそうね」


 純連が湯呑みに緑茶を注ぎながらそう言うと、純次郎は湯気の向こうから静かに笑った。


「うん。君の味噌汁は、やっぱりほっとする」


「ふふ、そう言ってもらえると、やりがいがあるわ」


 窓の外では、鳥たちがさえずり始めていた。少し離れた通学路からは、小学生たちの元気な声も聞こえてくる。世界がゆっくりと目覚め、動き出す音が、ふたりの静かな朝に混じり合っていた。


「こういう朝が、ずっと続いてくれたらいいね」


 純次郎がぽつりとつぶやいた。純連はそれに応えるように、小さくうなずきながら湯呑みに口をつける。


 そこには、何の特別さもない。だが、穏やかで、心の芯まで温かくなるような幸せが、確かにあった。


「いただきます」と声を揃え、ふたりは箸を手に取る。朝の光が差し込むその場所は、まるで世界のすべてが微笑んでいるかのような、やさしい時間で満たされていた。


 そう、日々の生活には、気づかぬうちに通り過ぎてしまうような深い喜びと美しさがある。純次郎と純連が過ごすこの朝の風景は、まさにその象徴だ。


 ふたりが重ねてきた年月の静けさが、今という時間をさらにかけがえのないものにしていた。



「純連の生活って本当に素晴らしいよね。毎日が幸せに満ちていて、なんの苦労もしていないから羨ましいわ」と友人たちは口をそろえる。

 そのたびに純連は、静かに微笑みながら言うのだ。「あなたが支えてくれたからこそ、やっとこんな生活が送れるようになったのよ。感謝しています」と。


 ――あの時、こんな優雅で、こんな幸せな日々が訪れるなんて思いもしなかった。

 生きていてよかった。諦めずに生きてきて、本当によかった。心からそう思っている。


 かつての純連の暮らしは、振り返るのも辛い日々だった。

 前には姑が、左にはダウン症の娘が、右には引きこもりの長男が、そして後ろには無口で何事にも無関心な夫がいた。同じ屋根の下にいながら、誰一人として心を通わせる相手はいなかった。


 亡き夫は、一見すると落ち着いた雰囲気で、いつも穏やかな表情を浮かべていた。感情を表に出すことはなく、冷静沈着な態度が周囲の信頼を集めた。

 だが、その仮面の裏には、誰にも見せぬ深い闇が潜んでいた。

 自分の欲望を最優先にし、家族の願いや感情には無関心。家庭を顧みることなくギャンブルに大金を注ぎ込む。信頼を裏切ることにためらいもなく、責任や約束を破っても、後悔の色を見せることは一度もなかった。


 姑からは、「あんなギャンブル依存症になったのは、あなたが甘やかしたからよ!」と、すべての責任をなすりつけられた。

 家族の信頼関係は崩れかけ、家庭には暗い影が差していた。


 そんなある日、長男を出産した。

「これで変わってくれる――父親としての自覚が芽生えるはず」

 そう期待した。だが、現実は変わらなかった。夫のギャンブル癖は一向に収まらず、家計は日に日に苦しくなった。


 純連は、3歳になったばかりの長男を姑に預け、近所のスーパーで働き始めた。そのわずかな収入で、なんとか家計を支え続けた。


 長男が小学5年生になったころ、異変が起きた。

 突然、部屋から一歩も出てこなくなったのだ。


 純連が働く間、姑からの愚痴を浴び続けていた長男。幼い心は、じわじわと夢や希望を奪われ、やがて心を閉ざしていった。

「もう誰にも会いたくない」

 そう言って扉を閉め、現実の世界から目を背けた。


 彼の心の拠り所となったのは、ゲームの世界だった。

 部屋の中に響くのは、コントローラーから発せられる音だけ。虚構の世界に安らぎを求め、現実のすべてを拒絶するようになった。


 それでも、純連は前を向いた。

 やがて二人目の子を授かり、再び希望が芽生えた――そんな矢先だった。


 医師の診察室で、静かに告げられた。

「お子さんは、ダウン症の可能性があります」

 その声は冷たく、無情に響いた。


「うそでしょ……なんで私が……」

 言葉にならぬ想いが胸を突き、純連はその場に立ち尽くした。

 何度医師に問い直しても、答えは変わらなかった。

 幸せの絶頂から、絶望の谷底へと突き落とされた瞬間だった。


 姑の鬼のような仕打ちも、夫の無関心も、長男の引きこもりも、いつかは終わる日が来ると信じて耐えられた。

 だが、ダウン症は違った。

 その現実をどう受け止めればいいのか、純連の心は激しく揺れ動いた。


 思い切って、夫に打ち明けた。

「産む産まないはお前に任せる」

 彼は、顔色一つ変えずにそう言った。


 その数秒後、姑が怒鳴り込んできた。

「生まれてくる子を不幸にしてどうするの!」

 目を血走らせ、声を荒らげた。


 普段なら、どんな理不尽にも反論しない純連だった。

 だが、この時ばかりは違った。

 新しい命の誕生――それだけは、譲れなかった。


「命は平等です!ダウン症の子が生まれてはいけないなんてこと、あるはずがありません。不幸になるか、幸せになるか――それはこの子自身が決めることです。この子が『幸せだ』と感じられれば、それが幸せなんです。不幸ではないんです。この子が幸せになれるように手助けするのが、家族の役目ではありませんか!それが、私たちの使命ではないですか!」


 純連は、声を震わせながら叫んだ。


「その気持ちはわかるわ。中には才能が開花して立派な大人になる子もいるでしょう。でもね、それはほんの一握りなの。不幸な人生を送らせるとわかっているのに、なお産むのは親のエゴよ。命を授かったら大切にしろなんて、他人だから言えること。ダウン症の子を育てる?そんな綺麗事で子育てできるはずがないわ。それでも産むというなら、勝手にしなさい。あの子は、あなたたちの子供なんだから!」


 姑の言葉は、冷たく突き刺さるようだった。


 純連自身、迷っていた。産むべきかどうか、この子は苦労するのではないか、幸せになれないのではないか――不安が脳裏を何度も駆け巡った。しかし最後には、「新しい命を守ろう。見守ろう。応援していこう」と心に決めたのだった。


 日ごとに大きくなるお腹。普通の家庭であれば、出産に向けて里帰りするのだろう。しかし純連の実家は、六畳一間の小さなアパートで、親子で生活できるような余裕はなかった。


 出産予定日を2週間早く、突然陣痛がきた。エコーを見ながら穏やかに過ごしていたその日、夫に連絡しても「残業だから帰れない」と言われ、病院には来なかった。心が凍てつく思いの中、純連はひとりで無事に出産した。


 小さな手。手のひらにすっぽり収まる頭。どこを見ても、普通の可愛らしい赤ちゃんだった。ただ、長男の時とは違う点があった。あまり泣かないのだ。それに、助産師がミルクを与えても、なかなか飲まない。「女の子だからかしら」と思っていた矢先、助産師に呼ばれた。


「先生からお話があります」と。


「もう一度、詳しくダウン症の遺伝子検査を行います」と医師は告げた。


「先生……間違いの可能性はあるんですか?」


 震える声で尋ねると、医師は静かに答えた。


「可能性は非常に高いです」


 覚悟はしていたつもりだったが、それでも現実を受け入れるには時間がかかった。


 やがて、夫と姑が病院に来た。開口一番、夫は言った。


「俺は、これから障がい児の父親になるのか……」


 姑も続けた。


「これで我が家は障がい児の家系になったのね。あなたたちはこれから、一生苦しまなければならないのよ」


 生まれたばかりの子どもの命を心配するどころか、体裁のことしか頭にない――そんな家族に、純連は涙が止まらなかった。「最低だ」と、心の底から思った。


 ただ一人、引きこもりの長男だけは違っていた。妹を見つめるその目は優しく、これまで見せたことのない笑顔を浮かべていた。心から喜んでいることが伝わってきた。


 胸が張り裂けそうな思いで、母に連絡を入れた。


「お母さん、女の子が生まれたよ。でも……ダウン症なんだ」


 驚かれると思った。悲しまれるかもしれないと思った。けれど母は、穏やかに、こう言った。


「ダウン症?それが何か問題?私のパート先の店長の娘さんもダウン症よ。すごくいい子でね、命がほんとうに綺麗なの。私、あの子からたくさんのことを教えられてるわ。あなたは私の娘で、家族よ。つらくなったら、いつでも帰ってきなさい。一緒に育てていこうね」


 電話口で、純連は泣き崩れた。


「私はこの母の娘で、本当によかった」


 母は明るく、強く、そしてどこまでも前向きだった。純連は、改めて母を尊敬した。


 けれど、姑からのいじめは日ごとにひどくなっていった。ダウン症の孫には一切関わろうとせず、声をかけることさえなかった。それが、むしろ救いだったのかもしれない。


 ある日のことでした。

 テレビから流れてきた音楽に、彼女の瞳がぱっと輝きました。

 それはまるで、心の奥底で眠っていた記憶が呼び覚まされたかのようでした。


 誕生日の朝、小さな箱を開けた娘は、真っ白なオモチャのピアノを前に目を見開きました。手のひらほどの小さな鍵盤に、そっと指を置いたかと思うと、ためらいもなく音を奏で始めたのです。


 驚くほどに澄んだ音色。

 それは、彼女の清らかな心そのものが音に姿を変えたようで、リビングにいた夫も、姑も、そして部屋にこもっていた長男さえも、その音に引き寄せられました。


 娘の奏でる旋律は、家族の間に少しずつ、しかし確かに変化をもたらしました。

 長男はその日から、部屋のドアを少しだけ開けるようになり、やがて妹のそばで座って聞くようになりました。

 夫は、賭け事に費やしていた夜の時間を減らし、娘の演奏を聴きながら缶ビールを一本だけにするようになりました。そして、給料袋の中から初めて封も切らずに渡してきたあの日、純連は涙をこらえることができませんでした。


 そんな娘が小学校に入学する春の日、姑は驚くべき贈り物を用意してくれました。

 それは、一台のグランドピアノでした。

「この子は、本物だよ」

 そう言って渡されたそのピアノの前で、娘は何時間も、飽きることなく音を紡ぎ続けました。


 純連は、娘の才能を信じ、いくつかの音楽コンクールに挑戦させました。

 しかし結果はいつも最下位。

 楽譜に沿わず、自分の心の赴くままに鍵盤を叩く娘の演奏は、審査員の基準とはかけ離れていたからです。


 けれど、娘はどこででも、ピアノを見つけると自然に指を走らせました。

 楽譜など必要としない、心の中にある風景を音に変えるその姿は、まるで誰かの記憶を優しくなぞっていくようでした。


 ある日のことでした。

 屋内広場に設置された一台のピアノに駆け寄った娘は、人目もはばからず無心で弾き始めました。

 通りかかった人々が足を止めるなか、一人のディレクターが、その音に心を奪われました。


「なんと澄んだ音だ……。技術を超えている。これは“魂”そのものだ」

 そう語った彼は、娘を即座にスカウトし、その才能を世界へと導いていきました。


 娘の音楽は、一般的な評価軸を超越していました。

 それは聴く者の記憶に寄り添い、まるでそれぞれの人生に合わせて旋律が変化するかのようでした。

 誰かの悲しみを優しく包み、誰かの希望をそっと照らす──そんな音楽でした。


 彼女は世界を代表するピアニストへと成長し、その演奏会は各地で熱狂的な歓迎を受けました。

 技術だけではない、心からあふれる真の感情が、人々の魂を震わせたのです。


 引きこもっていた長男もまた、妹の音楽に触れながら、静かに自分の道を見つけていきました。

 ゲームソフト開発という世界で、彼は自らの過去や思いを形に変え、心に届く物語を紡ぎました。

「誰かの生きる力になるものを」──そう願って生まれた彼の作品は、世界中で高い評価を得るようになりました。


 ──月日は流れ、あの家は区画整理で道路へと変わり、かつて純次郎が営んでいた「レストラン・純連」も若きシェフに引き継がれ、新たな物語を紡いでいます。


 姑は、純連にこう言い残して旅立ちました。

「あなたが育てたあの子が、世界を照らしているよ。ありがとうね」


 夫もまた、15年前に静かにこの世を去りました。

 けれど彼のぬくもりは、今も純連の心の中に息づいています。


 夕陽が空を朱に染め、小さなアパートの窓辺に金色の光が差し込みます。

 そこには、今も変わらず笑い合う純連と純次郎の姿があります。


 しわくちゃの手を重ねて、そっと微笑み合う二人。

 物質的な豊かさではなく、共に過ごす日々のかけがえなさを噛みしめながら、

「今がいちばん幸せだね」と言える、その心こそが、真の宝物でした。


 純連と純次郎の愛は、時を超えて、静かに、そして力強く輝き続けています。


 時は移ろい、あの坂道も、かつての家も、静かに風景の中に溶けていきました。

 純次郎が営んでいた「レストラン・純連」も、若き料理人の手に渡り、

 今では新たな命の味を、通りすがりの人々にそっと届けています。


 春には花が咲き、秋には落ち葉が舞う──

 何も変わらないようでいて、すべては少しずつ、確かに変わっていく。

 けれど、あの音だけは今も胸の奥に残っています。

 あの子が初めて鍵盤に触れた日の、澄んだ一音。


 姑は旅立つそのとき、ほほ笑みながら言いました。

「あなたが育てたあの子が、世界を照らしているよ。

 あの音は、あの子の心の声だもの──ありがとうね」


 夫もまた、十五年前の春の日に、静かに眠りにつきました。

 遺された言葉は少なかったけれど、

 そっと背中を支えるように、今も純連の心に寄り添っています。


 暮れなずむ空に、茜色がゆっくりと溶けていきます。

 小さなアパートの窓辺に、金色の光が射し込むころ──

 今も変わらず、二人の影は並び合い、静かに寄り添っています。


 しわの刻まれた手と手を重ねて、微笑み合うふたり。

 言葉はいらない。

 ただ一緒にいるということが、

 人生の最後に辿り着いた、何より深い幸福。


 それは、誰かに評価されるものではなく、

 どこかに飾られるものでもない。

 ただ、日々を丁寧に紡いできた者だけが手にすることのできる、

 静かで、優しく、あたたかな光。


 ──音が紡いだ愛の旋律は、

 今も、遠い空の向こうでそっと響き続けている。

 それは、過ぎ去った日々への祈りであり、

 これからも続く命への、限りない希望のうた。


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