三話 純連との再会
穏やかな春の日、レストラン「純連」には明るい笑顔が溢れていた。店内には自然光が心地よく差し込み、ウッディな調度品と季節の花々が飾られ、香ばしい料理の匂いが広がり、食欲をそそっていた。客席からは爽やかな笑い声や楽しい会話が絶え間なく聞こえていた。
「今日も素晴らしい一日だな」と純次郎は心の中でつぶやいた。周囲の温かな雰囲気が、彼の内面にも微笑みを浮かべさせているのだろう。
今日は予約してくれた純次郎の同期が夫婦で来てくれる日。彼とは退職してから何年も会っていない。
「すごいね、さすが山宮本部長だ。」
「もう本部長でも何でもないよ。今はただのこのレストランのオーナーさ。」
「しかし、思い切ったものだ。出世コース一直線だったのに、そのまま役員になると誰もが思っていた。それなのに突然退職だもの。退職といえば、突然退職した純連さんのこと覚えている?このレストランと同じ名前の純連さんだけど。」
「純連?」そう言って、動揺を隠して話を濁した。
「純連さんの退職理由を聞いたことはなかったですか?」
「聞いたことないよ。」
「そういえば、彼女は結婚して、子供もいると。幸せに暮らしているようです。そんなことを街の端にあるカフェのマスターが言っていましたよ。」
「カフェのマスター?そうですか。幸せなことはいいことです。」
純連のことを忘れたことは一度もなかった。彼女の存在は常に心の片隅にあった。この街で暮らし始めたのも純連の生まれ育った街だからである。彼女に会いたいという強烈な願望があったからレストラン「純連」と名付けたのである。
純次郎は街の端に位置する小さなカフェに行ってみた。扉を開けると、コーヒーの芳香と軽快な音楽が満ちていて、訪れる者を優しく迎えてくれた。彼は一角の席に座り、手を古い木の机に置き、カウンター席にいるマスターに声をかけ、純連の写真を見せた。
「この女性をご存知ありませんか?名前は純連さんといいます。結婚して姓は変わっていると思います。」
マスターは写真をじっと見つめ、微かな笑みを浮かべながら、静かに語り始めた。
「若いころの純連さんの写真を見せてもらっても…時間は経ちすぎていて、その頃の面影を思い出すのは難しいのですよ」と言いながら深いため息をついて続けた。
「これは縁の問題なのです。会えるかどうかは運命や偶然が絡む場合が多いものです。」
マスターはゆっくりと思慮深い表情を浮かべながら、「そのまま、心の奥にしまっておいた方がいいのではないですか?思い出は美しい方がいいのですよ。時として、過去の思い出を鮮やかに保持することよりも、静かに心の中にしまっておくことで、その美しさや尊さが増していくこともありますからね。」
彼の言葉には、過去の深い感情や記憶に対する敬意が感じられた。
「思い出は、時折私たちを過去に引き戻す力を持っています。しかし、それは必ずしも過去に囚われることではなく、未来に向かって前進するための一部として捉えるべきものでもあるものですからね。」マスターは微笑みを浮かべながらそう言った。
彼の言葉には、過去の思い出を大切にしながらも、現在と未来への希望と向上心がにじんでいた。そうかも知れない。これは縁なのだろう。会いたいからといってこの縁を無理にこじ開けても会えるわけではない。縁があればいつか、どこかで会える日が来るのだろう。そう思いながら純次郎はカフェを後にした。
純次郎は、久しぶりに鈍行電車の旅に出ようと、駅に向かっていた。どこか懐かしい気配に誘われたような、そんな感覚だった。駅構内の売店で缶ビールと弁当を買い、改札を抜けたところで、ふと背後から誰かに呼ばれた気がした。
「……純次郎さん」
振り返っても、そこには誰もいなかった。気のせいか。次の瞬間、目の前で電車がゆっくりと動き出した。乗るはずだった電車が、トンネルへと吸い込まれていく。だが、慌てることはなかった。急ぐ旅でもない。次の電車で十分だ。
「すみません、次の電車は何時ですか?」
「お客様、上りも下りも、次は三時間後になります」
駅のベンチに腰を下ろしてからしばらく、純次郎は夢と現実の境界が曖昧になっていくのを感じていた。缶ビールの空き缶がいくつも並び、酔いが心地よく体を包んでいく。目を閉じると、再びあの声が響いた。
「純次郎さん……私ですよ」
その声は、あまりにも懐かしく、胸の奥をくすぐるような響きがあった。まるで、純連の声のようだった。何年も会っていない、いや、ずっと会いたくてたまらなかったあの人の声。
「純次郎さん、起きて……」
今度は、肩をそっと揺すられた。目を薄く開けると、そこに見えたのは──信じられない光景だった。
目の前に立つ純連の姿を見て、頭が真っ白になった。何度も目をこすり、もう一度目を開けるが、そこには変わらず彼女が立っている。まるで夢のようだ。再会の瞬間、心の中で何かが崩れ落ちたような、でも同時に安堵が広がっていった。
「本当に……お前なのか?」
その言葉は、長い間押し込めていた思いが、ようやく口に出た瞬間だった。
純連は微笑んで、少し恥ずかしそうに言った。
「ずっと探してたんです、あなたを」と純連は小さく呟くように言った。その声は震えていた。
「私がどうしてもあなたに会いたかった理由、今は言えない。でも、あなたと一緒にいないと、心がずっと空っぽだったんです。どんなに時間が経っても、あなたがいなければ何も意味がなかった。」
「昔の純連はこんな風に笑っていたな……」
再会した瞬間、純次郎の心には、過去の思い出が鮮やかに蘇った。純連がまだ若かった頃、二人でよく訪れたカフェでの時間。笑い合い、語り合った日々。あの日々が、まるで今のように鮮明に思い出され、胸が締め付けられる思いが湧いてきた。
「今もその笑顔を見られて、私は本当に幸せだ。」
何も言えず、ただその温もりを感じながら、二人はゆっくりと抱きしめ合った。夢でも現実でも、今はどちらでも良かった。二人の唇が重なり、あの頃に戻ったような、懐かしくも切ないぬくもりが広がっていく。
──夢でもし逢えたら 素敵なことね……
どこからか流れてくるそのメロディーに、純次郎の心が揺れた。
あれから二年が経った。
駅のベンチで偶然再会した私たちは、今では一緒に暮らしている。入籍はしていないが、周りから見れば、誰もが羨むような、お似合いの夫婦だと思う。
「駅で寝てる人が純次郎さんだなんて、最初は思わなかったわ。でも、あの首筋のホクロを見て、すぐにわかったの」
純連は、あの時の再会のことを、何度も繰り返すように話してくれる。彼女の目は、いつも温かく、優しく、そして少し涙ぐんでいるようだった。
「私、どうしてもあなたに会いたかったんです。あの日、あのベンチで会って、すぐに感じたんです。私たちは、またこうして一緒にいるべきだって」
純連の言葉に、純次郎はただ静かにうなずく。二人の間には、言葉にできない何かがあった。過去の出来事がどうだったか、今はもう関係ない。ただ、今この瞬間が大事で、そして未来が大事だと心から感じる。
「過去に何があったって、今が大事。未来が大事。今が変われば、未来も変わるんだもの」
純連は、真剣な目で純次郎を見つめながら言った。その言葉は、彼の心にも深く響いた。
残された時間が短いことを、私たちは知っている。だからこそ、今日という日を、明日という日を、全力で生きたい。
「これからも、ずっと一緒に歩んでいこう」
純次郎は、優しく純連の手を握りしめ、彼女の目を見つめた。二人で手を取り合って、これからの未来を共に築いていこうと心に誓った。
「未来がどうなるかはわからない。でも、今、こうして一緒にいることが何よりも大事だ。」彼は言った。
二人の歩みは、過去を越えて、確かなものへと変わっていく。どんな困難が待ち受けていようとも、二人でなら乗り越えられると信じて。
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