最終話 未来への手紙 : 大切な人へ伝えたい
峻厳な山道を越え、静かな渓谷を歩き、果てしなく続く平原を駆け抜けてきました。
季節は巡り、光と影の狭間を行き交いながら──
それが、私というひとりの人間が歩んできた、長く、遥かな人生の旅路でした。
その途上で、多くの人々と出会い、言葉を交わし、絆を育んできました。
なかでも「純連」という存在は、純次郎の旅路に深く、美しい彩りを添えてくれました。
「ありがとう」──
古くから受け継がれてきたこの言葉には、ただの感謝を超えた、言葉にしきれぬ思いが込められています。
ともに過ごした日々、交わした笑顔、そっと差し出された手──
その一つひとつが、今も彼の胸に、静かに、あたたかく灯っています。
「愛しています」。
この言葉を伝えることの尊さを、私は知っています。
けれど、もっと深く胸に響くのは、行いのなかにそっと宿る愛でした。
食卓に並んだ料理、無言で掃く朝の縁側、洗い上がった洗濯物に添えられた手のぬくもり。
それらは、言葉以上の愛を、確かに私に伝えてくれていました。
そして「尊敬」もまた、人と人とを静かに、しかし確かに結びつける力だと、彼は思います。
相手の美点を見つけ、それを素直に言葉にして伝えること。支え、信じ、そっと背中を押すこと──
それは、人生をともに歩む者の祈りに似ているのかもしれません。
言葉とふるまいが響き合うとき、感謝も、愛も、尊敬も、ひとつの調べとなって心に沁みわたります。
そうして人生という旅は、静かに、そして確かに、「成熟」という名の地へと向かっていくのです。
今、彼はその旅の終章に、そっと立ち止まっています。
風が頬をなで、ふと問いかけてくるのです──
「自分は、どのように生きてきたのだろうか。
悔いはなかったか。
やり残した夢はなかったか。
願いは果たされ、心は満ちていただろうか。」
若き日には見上げもしなかった問いのひとつひとつが、今は静かに、けれど深く、彼の心を照らしています。
そして、彼は思うのです。
この問いに耳を傾ける時間こそが──
人生という旅の、何よりも尊い宝なのだと。
押入れの奥にしまわれた段ボール箱。
それはもう何年も開けたことのない、過去への扉だった。
ふと手に取った一本のカセットテープ。透明なケースの中に、手書きで「Junjiro’s Songs」とだけ記されたラベル。細かい字で書き込まれた曲名の横に、小さな星のシールが貼られていた。
ああ、こんなものまで残していたんだな──
純次郎はそっとケースを開ける。
カセットをデッキに差し込むと、「カチリ」という機械的な音のあと、かすれたようなイントロが流れ始めた。
♪──
音程の甘いギター、震えるような若い声。
それは、まだ季節の名残が風に残る春、自室の隅で、夜な夜な吹き込んだ自作の曲だった。
当時、楽譜も読めず、コードも独学。
でも旋律だけは、なぜか心の奥底から自然と湧き上がってきた。
誰かに聴かせるためでも、うまくなりたいという気持ちでもなかった。
ただ、伝えたい何かが心にあって、それを音に変えることで、自分自身と向き合っていたのだ。
テープが絡まったときは、六角鉛筆を差し込んで、「カリカリ」と丁寧に巻き戻した。
あの手の感触、しゅわしゅわとしたノイズまじりの音──
すべてが、あの時代そのものだった。
「若かったな……でも、必死だったな」
そう呟いた純次郎の目の奥で、あの頃の自分が、まだ少し恥ずかしそうに、でも真っ直ぐに立っていた。
あれからどれだけの時が流れただろう。
音楽の道には進めなかったけれど、あの不完全な“音の花束”は、今も彼の中に生きている。
どこかで音楽を聴くたび、あの風景が、そっと胸をかすめるのだ。
あの一曲が、彼の原点だった。
純連は決まって、同じ昔話を語りはじめる。それが、今の自分を確かめるように。
テーブルの上には、香ばしく焼けたホッケや軟骨の焼き鳥など、湯気の立つ温かい料理が並んでいる。窓の外には夕焼けが広がり、部屋全体が柔らかなオレンジ色に染まっていた。
純次郎は昔から気が短い。純連が話のさわりを口にしただけで、「それ、何億回も聞いたよ」と言って話を遮る。顔にはほんのり赤みが差し、どこか照れたように目をそらしながら。
けれど、純連はまったく気にする様子もなく、自分の物語に酔いながら話を続ける。
「私の美貌に酔いしれた男が現れてね、私にこう言うのよ。『純連さん、僕と一緒に大邸宅で暮らしましょう。こんな狭いアパートじゃなくて。とりあえずこの10億円をどうぞ』って。でも私、答えるの。『そんなの、いらないわ。だって私、今が一番幸せなんですもの。この狭いアパートに、愛する人がいて、笑い声がある。これ以上、何を望むっていうの?』ってね。確かに純次郎には手間がかかるけど、それがまた幸せなのよ。どう? 私っていい人でしょ? こんないい人、なかなかいないんだから」
純次郎はため息まじりに、「はい、はい。ありがとう。涙が出るほど嬉しいよ」とつぶやく。
「ところで純次郎さん、最近ダンス愛好会にも行かなくなったわね」
「めんどくさくて」
「どうして? 昔だったら、家に閉じこもってなんていなかったのに」
新しい出会いも、友と過ごす時間も嫌いじゃない。ただ、人生の総仕上げに差し掛かった今、あとどれだけの時間が残されているか分からない。それを思うと、残された時間は気疲れしない時間に使いたい。それだけが、今の望みなのだ。
思い返せば、純連と暮らし始めてからも、穏やかな日常ばかりではなかった。
レストラン「純連」は慢性的な人手不足で、二人きりでゆっくり過ごす時間は、いつも後回しになった。
スタッフの管理やトレーニング、メニュー開発、調理、顧客対応、オーダー管理、清掃、衛生管理、在庫の確認と調達、運営管理業務――。
息つく間もない日々の連続。時計を見る暇もなく、一日が過ぎていく。
それでも、ふとした瞬間に見せる純連の笑顔が、どんな疲れも吹き飛ばしてくれた。
厨房の熱気と食材の香りが、服や肌に染み付いたまま、夜遅くに帰宅する。
着替える気力もなく、椅子に腰を下ろす日も少なくなかった。
早朝には、空が白む前に家を出て、市場へと車を走らせる。
魚の目を確かめ、野菜の張りを手で感じる――それが、店の味を守るための日課だった。
手のひらには包丁ダコがいくつも浮かび、指の関節は長年の酷使でごつごつと曲がっていた。
気づけば、その指は一度に三つの鍋を扱い、寸胴鍋の蓋を小指で持ち上げられるほどになっていた。
職人としては誇らしかったが、人間としての柔らかさが、少しずつ削れていくのをどこかで感じてもいた。
疲れ果てた夜――
玄関のドアを開けた瞬間、ふわりと出汁の香りが鼻をくすぐる。
その温かさに、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。
靴を脱ぐ間もなく、足音を聞きつけた純連がエプロン姿のまま顔を出す。
「おかえりなさい」
その声と笑顔は、決して大げさなものではない。
ただ、そこにあるだけで、全身から日々の疲れが少しずつ溶けていくようだった。
まるで壊れものを扱うように、こわばった手を指先から丁寧にほぐしてくれる。
「大変だったでしょう」と言いながら、遅い夜にもかかわらず、温かい手料理を差し出してくれる。
それが、何よりの癒やしだった。
言葉にならない感謝が、胸の奥でじんわりと広がる――そんな夜が、何度もあった。
その存在に、どれほど救われてきたか。言葉にはできなかった。
けれど、気づかぬうちに――
彼はその笑顔に、安心しきっていた。
「純連がいれば、大丈夫」
いつしかその思いが、彼の心の奥底に根を張っていた。
ある晩のことだった。
いつも通りに並んだ夕食。
味噌汁から立ちのぼる湯気の向こうで、純連の手がふと止まる。
箸を持ったまま、彼女は静かに言った。
「……私、このままでいいのかな」
小さな独り言のようだった。
だがその声には、何かが滲んでいた。
湯気の向こうで、彼女の横顔が少しだけ寂しそうに見えた。
「え?」
純次郎は思わず聞き返したが、純連はすぐにかぶりを振って微笑んだ。
「ううん、なんでもないの。ただ、ちょっと疲れただけ」
その笑顔は、どこか薄く、貼りつけたようなものに見えた。
けれど彼は、それ以上深く聞くことができなかった。
――あのとき、なぜ気づいてやれなかったのか。
その問いが、胸の奥でしんしんと疼いていた。
あの夜から、純連はときどき、何かを考え込むような表情を見せるようになった。
洗い物をしながら、ふと手を止める。
テレビを見ていても、笑う場面でまったく笑っていない。
問いかけると、決まって「大丈夫よ」と返ってくる。
純次郎は、その「大丈夫」にすがった。
深く聞けば、壊れてしまいそうなものがある気がした。
だから、聞けなかった。
だから――見ないふりをした。
ある日、ふとした出来事が、純連の心に小さな灯をともした。
それは、スーパーの帰り道、たまたま立ち寄った市民センターで開かれていた、小さな写真展だった。
被写体は、人生の節目を迎えた女性たち。
定年後に山登りを始めた人。
若い頃に諦めた画家の夢を、再び追い始めた人。
離婚して一人になったけれど、「今がいちばん自由で幸せ」と語る人――。
一枚の写真の前で、純連の足が止まった。
海辺で、風に髪をなびかせながら、瞳をまっすぐ未来へ向けている老婦人の姿。
――ああ、私、この人みたいになりたいかも。
帰り道、心が少しだけ軽くなっていた。
スーパーのビニール袋を提げた指に、春風が心地よく当たる。
その夜、純連は久しぶりに自分のためにワインを開け、小さなサラダにハーブを添えてみた。
「たまにはいいよね」
自分のために、小さな“特別”を用意する。それはどこか懐かしく、そして新しかった。
翌朝、いつもより少し早く目覚めた純連は、机の奥から昔のスケッチブックを取り出した。
若いころ、独学で学んだ絵。
家事の合間に描いたまましまい込んでいた風景画たち。
ページをめくるたび、心の奥にしまい込んでいた自分が、ふわりと浮かび上がってくる。
「私も、まだ何かできるかもしれない」
その小さなつぶやきが、純連の中で確かな手応えとなって響いた。
数日後、純次郎は気づいた。
帰宅すると、いつもと少し違う部屋の空気。
夕食は手の込んだものではないけれど、どこか軽やかで、純連の表情にも自然な明るさが戻っていた。
春の足音がようやく聞こえ始めたある朝、
純連は、コーヒーの湯気の向こうにいる純次郎に、そっと声をかけた。
「ねえ、今度、少しだけ遠出しない?」
新聞をめくっていた純次郎が、眉を上げる。
「遠出って……どこへ?」
「昔、一緒に行った、あの海……覚えてる? 若い頃、よく行った場所」
純次郎の手が止まる。
記憶の底から、潮の匂いと、彼女の笑い声が浮かび上がった。
無邪気に夢を語り合った、防波堤の風景。
「ああ……覚えてるさ。潮の香りが強くて、風がやたら冷たかったな」
「ふふ、そうだったね」
懐かしさと、少しの照れが混じる笑い。
ふたりの間に流れる空気が、いつもより柔らかく感じられた。
当日、少し早起きして、純連が小さなおにぎりを包む。
純次郎は、車のエンジンを温めながら、助手席に並んだ小さなスケッチブックに目を留めた。
表紙には、さりげなく貼られた「Re: Start」の文字のシール。
「描くつもりか?」
「うん。あの場所、一度、描いてみたくて」
その一言に、純次郎は何も言わずうなずいた。
高速道路を降りると、視界が一気に開けた。
澄んだ海の青、さざ波の音、そして、あの懐かしい防波堤が、ほとんど変わらぬ姿でそこにあった。
ふたりは並んで歩き出した。
かつては肩を寄せ合っていた距離が、今は少しだけ空いている。
けれど、その隙間に吹く春の風が、むしろ心地よかった。
「ここで……よく喧嘩もしたよね」
純連がぽつりとつぶやく。
「ああ。俺、待ち合わせに30分も遅れて……。そりゃ怒るわな」
「私は、あなたがいつも言い訳ばかりするのがイヤだった」
と笑いながら言う純連の目は、どこか潤んでいた。
それが涙なのか潮風なのか、どちらとも言えなかった。
防波堤に腰を下ろすと、純連はスケッチブックを広げた。
その横で、純次郎は海を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。
「……あの頃、未来のことなんて、何も分かってなかったな」
「うん」
純連も筆を止め、海の向こうを見つめた。
「ねえ、純次郎。もう、そろそろね。これで、区切りがつけられるわね」
純連が穏やかな笑みを浮かべながら言った。
彼女の目には、少しの疲れと、安堵の光が宿っていた。
純次郎は、長年の苦労が一気に押し寄せるように深く息をつき、
「そうだな。純連にはずいぶん苦労をかけたからなあ」と、しみじみと答えた。
その声には、感謝と愛情が込められていた。
純連は、柔らかな手で純次郎の肩を軽く叩きながら、「すべて、やりきったわね」と優しく言った。その声には、確かな誇りが感じられた。
純次郎は、瞳を細めながら微笑み、「そうだ。やりきった。後悔はないよ」
その言葉には、長年の努力が報われたことへの、深い満足感がにじんでいた。
「安心して、ゆっくり休んでください。お疲れさまでした」と純連が静かに言い、彼の手をそっと握った。
彼女の手は温かく、包み込むような優しさに満ちていた。
純次郎と純連が歩んできた日々は、多くの試練と困難に満ちていましたが、それらを乗り越え、使命を果たすことができました。
その結果、ふたりは今、満足感と達成感に包まれています。
七十歳を迎えた純次郎が、レストラン「純連」を引退できたのは、どんなに辛くても純連と力を合わせ、決して逃げずに挑んできたからでしょう。
純次郎は思っています――今まで貢献し続けてくれた純連に、心からの感謝と敬意を捧げたい。
彼女の尽力がなければ、この旅路は決して成し遂げられなかった。
そして今、これまでの忙しさから解放され、ふたりには“時間の贅沢”が訪れています。
人生がいつまで続くかは誰にも分かりませんが、時には深く、時には広く浅く、紆余曲折を乗り越えながら進んでいくものでしょう。
その終わりがどのような形で訪れるかは未知数ですが――
「いい人生だった」と言って、終着駅にたどり着ければ、それが最高の有終の美です。
あのとき見過ごした小さなため息も、貼りつけたような笑顔も――
今なら、きっと見つけられる気がする。
人は、誰かに寄りかかることで強くなれることもある。
けれど、本当に大切なのは、その寄りかかる誰かの重さにも気づけることなのだと。
純次郎も、純連も、まだ途中にいる。
壊れかけたものを拾い集めながら、少しずつ言葉にしていく旅の途中だ。
それでも、今、玄関のドアが開いたとき。
ただいまと、おかえりが交わされる限り――
二人の物語は、また静かに、続いていく。
読者の皆様へ、
この機会を借りて、心からお礼申し上げます。皆様のおかげで、私たちの作品は意味を持ち、輝きを放つことができます。日々の生活において、私たちの物語が一部となり、共感や喜びを分かち合えることを嬉しく思います。
読者の皆様からの温かい支援や励ましのお言葉は、私たちの原動力となります。これからも、その支えに感謝しつつ、より良い作品をお届けできるよう努めてまいります。皆様の日々に少しでも彩りを添えられるよう、心を込めて物語を紡ぎ続けます。
最後に、皆様のご健康とご多幸を心からお祈り申し上げます。
誠にありがとうございます。