一話 青天の霹靂
昭和の町並みは、今もなお、私の心の中に静かに息づいています。
戦後の混乱の名残をかすかにとどめながらも、そこには不思議な活気と、人の温もりがありました。瓦屋根が連なる家々、石畳の道、軒先に吊るされた風鈴や、色とりどりの看板。木造の建物が並ぶ細い路地には、夕暮れどきになると子どもたちの笑い声がこだまし、どこか懐かしい匂いが漂っていました。昭和の町には、暮らしの音がありました。ざわめきも、静けさも、人の気配とともに生きていたのです。
そんな風景も、いつしか静かに姿を消していきました。復興、成長、そして安全という言葉のもとに、町は変わり、古い建物は次々と姿を消しました。もちろん、それは必要な変化だったのでしょう。便利さも、効率も、安全も、人が生きていくうえで大切なものです。けれどその陰で、私たちは何か大切なものを失ってしまったのではないか――ふと、そんな思いにとらわれることがあります。
私は昭和26年生まれです。父からはよく「目配り・気配り」を教えられました。やさしい言葉ではありません。時にげんこつを交えて、でした。「たばこを持ってこい」と言われたら、灰皿とマッチを添えて持っていく。それが当たり前で、気が利かなければすぐに叱られました。一つ言われたら、三つ四つを察して動く。いま思えば少し息苦しいようなしつけでしたが、そのおかげで身についた感覚もあります。
そんな私も、年を重ねました。気づけば、「最近の若い人は……」と、つい口にしたくなる場面に出くわすこともあります。たとえば、部下たちととんかつを食べに行ったときのこと。新入社員が当然のように後部座席に座り、注文も水も自分のことばかり。お会計を済ませても、「ごちそうさまでした」の一言もない。注意はしましたが、どうもその意味が伝わらなかったようです。
そんなときふと思うのです。これは本当に、「世代の違い」なのでしょうか。昭和生まれでも気の利かない人はいるし、平成生まれでも驚くほど礼儀正しい人に出会うこともある。きっと、それぞれの人に、それぞれの背景と価値観があるのだと思います。
だからこそ、時代をひとくくりに語ることは、したくないのです。昭和という時代に育ち、見てきたこと、感じてきたこと――それらを、いまの世の中に重ねながら、少しずつ綴っていけたらと思います。エッセイのように、あるいは物語のように。忘れかけていた景色や音、あの頃の心のありようを、言葉にして残していけたらと願っています。
山宮純次郎と申します。二十歳を過ぎて、好みはコーラからビールへと変わりましたが、タバコは今も吸いません。恋人はいませんし、これまで女性とお付き合いしたこともありません。趣味はフォークソングを聴くことと、旅のパンフレットを眺めること。それくらいしか、特筆するようなことのない、地味な人生を送ってきました。
そんな私が、コネも資格もないまま、誰もが知る大企業に就職できたのは、いまだに友人たちの間で「七不思議」のひとつとされています。
入社のきっかけは、この会社の洗練されたロゴに惹かれたからでした。大学卒業が応募条件にあると気づかずに書類を出し、なぜか通過。学科試験はほぼ最下位でしたが、作文で「地域の伝統文化を現代にどう生かすか」というテーマに、自宅の庭にある梅の木と、それを取り巻く家族や地域の習慣について綴ったところ、意外にも高い評価を受けました。
面接では、少し風変わりなやり取りがありました。「あなたは何が、できますか?」という質問を、「何で来ましたか?」と聞き間違え、「電車で来ました」と答えたのです。面接官は思わず吹き出し、場の空気がやわらぎました。それが私の人となりを伝えるきっかけとなり、50人の応募者の中から一人、採用されることになったのです。
私は宮城の小さな農村で育ちました。自宅の庭には立派な梅の木があり、毎年、たわわに実をつけます。母が枝を揺すると、ポトポトと音を立てて落ちてくる梅の実を、私は5軒隣に住む奈々美と一緒に拾ったものでした。
奈々美は3つ年下の、元気いっぱいのお転婆娘でした。丸顔に日焼けした肌、ひざ小僧にはいつも擦り傷がありました。
「私、大きくなったら純次郎ちゃんのお嫁さんになるんだ」
そう言う奈々美に、母は笑って「そのときが来たら、梅干しの作り方を教えてあげるわね」と応えていました。山宮家の梅干しは、昔ながらの手作りで、村でも評判の味でした。
社会人になった今も、私は盆と正月には欠かさず帰省します。今年のお盆、縁側でスイカをかじっていると、懐かしい声がしました。
「久しぶりね、純次郎。すっかり男前になって」
振り向くと、そこにはお下げ髪の奈々美が立っていました。あのおかっぱ頭の少女はすっかり大人びていて、どこか照れくさそうに笑っていました。兄が背中を押すように「行ってこい」と声をかけてくれたので、奈々美と二人、かつてよく遊んだ河原まで歩いていきました。
久しぶりの河原で、私たちは夕暮れまで話し込みました。奈々美は私の都会での暮らしを気にかけ、「幸せにしてるの?」と穏やかに尋ねてくれました。私は、彼女の言葉一つひとつに、今までとは違う温かさを感じていました。
時は流れ、一年が経ちました。春のある日、会社に新入社員が配属されてきました。名前は純連。仕事の手順を教えるうち、私は次第に彼女に惹かれていきました。
彼女の手からは、まだ慣れない緊張感と、どこかほっとする温もりが伝わってきました。風に揺れる髪、笑顔に滲む優しさ。彼女といると、世界が少しだけ優しく見えるような気がしたのです。
「山宮さん、三番に電話です」
その合図は、彼女との秘密のサインでした。
「アパートに私、先に行っているからね」
社内恋愛は禁止されていたので、私たちは密かに会っていました。
扉を開けると、そこにはエプロン姿の純連が立っていて、にっこりと笑いました。二人は自然に抱き合い、そっと唇を重ねました。湯気の立つ料理がテーブルに並び、どれも彼女の手作り。彼女は料理が得意で、その味にはどこか懐かしさがありました。
「純連、明日休みだから、泊まっていかない?」
私の言葉に、彼女は一瞬ためらいながらも、「純次郎さん、結婚もしてないのに……」と答えました。
けれど、「君と一緒にいたいんだ」と言うと、彼女は少し照れながら、「そこまで言うなら」と小さく笑いました。
夜の静けさの中、彼女の笑顔が心に沁みました。
都会の喧騒を忘れさせてくれるような、柔らかな時間がそこにはありました。
幸せな日々が、まるで春の陽だまりのように穏やかに流れていった。そんなある晩のことだった。純次郎のもとに父・与三郎から一本の電話が入った。
「純次郎か。父ちゃんだ。大事な話がある。今から家に戻ってこい」
その声には、いつになく重く沈んだ響きがあった。胸騒ぎを覚えた純次郎は、黙って車に乗り込み、アクセルを踏んだ。
夜の十時過ぎ。仙台の市街から離れた実家に着いた頃、辺りはもう漆黒の静寂に包まれていた。街灯一つない田舎道には人影もなく、ただ頭上に散らばる星々が、何も語らぬまま空を照らしている。
家の戸を開けると、囲炉裏の周りに家族が集まっていた。その輪の中に、奈々美が俯いて座っていた。彼女の腕の中には、まだ目も開かぬ小さな赤ん坊が、静かに眠っていた。
父が口を開いた。
「純次郎、お前はとんでもないことをやらかした。この子はお前の子だ。奈々美さんとお前の間にできた子供だ。この子に父親のいない寂しさを背負わせるわけにはいかん。お前は父親として、男としてのけじめをつけろ。明日、役場に行って籍を入れてこい。結婚式は身内だけで済ませる」
言葉が胸に突き刺さり、純次郎は呆然と立ち尽くした。心は波に呑まれた小舟のように揺れていた。あの夏の日、ほんの一夜の過ちが、こうしてかたちになって目の前に現れたのだ。
言い訳も、逃げ道もなかった。後悔と罪悪感が交互に押し寄せ、頭の中は真っ白になった。
彼の無責任な行動は、すべてを狂わせた。純連に真実を告げた夜、彼女は何も言わず、ただ静かに会社を去った。そして彼の人生からも、二度と戻ることはなかった。残されたのは、言葉にならない喪失感だけだった。
それから三年。純次郎は奈々美と共に日々を積み重ねた。娘の麻美子の存在は、まさに生まれてきてくれた奇跡であり、彼にとってかけがえのない光だった。小さな手、小さな声、小さな寝息。それらすべてが、彼の中に眠っていた「父性」を呼び起こしていった。
けれど時折、ふとした瞬間に、純連の面影が心をかすめる。
情けないと思う。今ある幸せを大切にしたいと心から願っているのに、かつて愛した人の記憶が、まるで春先の風のように胸を撫でていく。
そんな思いを振り払うように、彼は仕事に没頭した。皮肉なものだった。心の迷いを抱えながらも、営業成績は右肩上がりで、周囲からの評価も高まっていく。
その夜も、疲れ果てて帰宅したのは午後八時を過ぎていた。
玄関を開けると、奈々美の寝息が微かに聞こえてきた。部屋には、麻美子のお気に入りのぬいぐるみが無造作に転がり、絵本が何冊も積み上げられている。布団の中で、奈々美と麻美子がぴったりと寄り添って眠っていた。乱れた髪、優しく緩んだ口元、娘の小さな背中。
その光景を目にした瞬間、胸の奥が締めつけられた。
「これが、俺の人生の答えなのか……」
心の中で問いかけたが、返ってくる声はなかった。
奈々美が悪いわけじゃない。今ここにある家族を、大切にしたい気持ちに偽りはない。それでも、心のどこかで、何かが足りないと感じてしまう自分がいる。
父として、夫として、生きていくために必要なものは何なのか。それは責任だけなのか。それとも、もっと別の何か――創造力とか、喜びとか、未来を語る力とか――そういったものなのか。
彼は窓の外に目をやった。春の夜明けが静かに始まっていた。柔らかな光が、東の空をうっすらと染めている。
会議室の机には、今日も書類の山が待っている。時計の針は、変わらずゆっくりと進んでいた。
「山宮君、おめでとう。栄転だよ。東京本社営業三課の係長に昇進です」
その言葉を受けた瞬間、純次郎は思わず息を呑んだ。驚きと喜びが波のように押し寄せ、胸が高鳴った。地方採用の彼が、まさか東京本社に転勤する日が来るとは夢にも思っていなかった。これまでずっと、地元仙台で穏やかな日々を送りながら、定年までの道を歩むつもりだった。しかし、突然開かれたその扉に、未来が広がるように感じた。胸の中で新たな挑戦への期待が膨らんでいく。
家に帰ると、純次郎は興奮を抑えきれず、奈々美にその報告をした。
「良かったわね、すごいわね。私も係長の奥さんなのね!」
彼女の言葉には喜びが満ちていたが、純次郎が期待した反応とは少し違った。
「でも…」と、奈々美の表情は次第に曇り、冷静に続けた。「幼稚園やご近所付き合いもあるし、私は行かないわ。やっと手に入れたこの家から離れるなんて嫌よ。お父さんもお母さんも私のために近所に引っ越してきたんだから。行くんだったら、あなた一人で行って」
その言葉は、純次郎の心に冷たい水をかけるようだった。喜びが一気に萎んでいくのを感じ、胸が締めつけられた。奈々美の意見は冷たくはない。むしろ、現実的で理にかなっている。それでも、純次郎は心のどこかで、二人の未来が共有できるはずだと思っていた。だが、その期待はすぐに打ち砕かれた。
その夜、リビングの柔らかな照明の中で、寝静まった麻美子を見守りながら、二人は改めて向き合った。静かな時間が、二人の心の距離をさらに深くさせていた。
「奈々美、わかってるよ。君の気持ちも大事だ。でも、これは僕にとって大きなチャンスなんだ。東京での新しい挑戦は、ただの昇進じゃない。僕の人生を変えるかもしれないんだ。君も一緒に来てほしい」
奈々美は静かに答えた。目を伏せ、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開く。
「純次郎さん、私だってあなたの昇進を心から嬉しく思っている。でも…麻美子の幼稚園のこともあるし、私の両親も近くにいる。家族全体のことを考えなきゃならないのよ。私たちの生活が変わることで、みんなに迷惑がかかるかもしれない」
その言葉に、純次郎の心は揺れ動いた。彼は本当にその選択が正しいのかと自問しながら、静かに答える。
「少し時間をくれないか。僕も考えてみるよ。どうすればいいのか、一緒に決めよう」
その後、二人は無言で過ごした。空気は重く、静かに流れていった。純次郎の頭の中では、東京への思いと、家庭の安定とが交錯していた。心の中で葛藤が続く。東京での新たな生活が待っている一方で、奈々美と麻美子と離れることに対する不安もあった。
そして、数日後、純次郎はついに一つの決断を下す。東京での新しい挑戦が、家族との絆を深めるための一歩でもあるかもしれない。しかし、それにはしばらくの間、家族と離れる覚悟が必要だった。彼は単身赴任を決める。その決断がどんな未来をもたらすのか、それはまだわからない。でも、彼はその一歩を踏み出すことを選んだ。
二年の月日が流れ、単身生活にも徐々に慣れ始めていたある日、突然奈々美から会社に電話が入った。その声は切羽詰まっており、何か悪い知らせが届くのではないかと、純次郎は胸騒ぎを覚えた。仙台に戻ると、予想とは裏腹に、奈々美ではなく彼女の母親が待っていた。
「お義母さん、ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。変わりはありませんか?」と挨拶を交わすと、テーブルには一人分の夕食が静かに並べられていた。
「奈々美は外出しているのですか?」と尋ねると、義母は少し間を置いて答えた。「純次郎さん、実は奈々美のことなのですが…」
その言葉に、純次郎の心は急に不安で満ちた。
「どうしたのですか?奈々美に何かあったのですか?」
義母は静かにグリーンの枠の離婚届を取り出し、テーブルに置いた。そこにはすでに奈々美の署名があり、純次郎の部分だけが白紙のままだった。
「奈々美は男の子を産みました」と義母は言った。「でも、その子は純次郎さんの子ではありません。」
その言葉を聞いた瞬間、純次郎は頭が真っ白になった。驚きと共に、言葉が胸に詰まっていった。どんな言葉を発しても、現実が受け入れられない。沈黙が部屋に重く漂う中、義母は続けた。
「奈々美は今、その男性と一緒に暮らしています。」
その言葉が、純次郎の心に深く突き刺さった。何も言えなかった。怒りも、悲しみも、情けなさも、何もかもが一気に押し寄せてきた。
「私が育て方を間違ったのです。悪いのはすべて私です」と義母は、どこか自分を責めるような表情を浮かべた。
それでも、純次郎は言葉を発しなかった。冷静さを保つために必死に心を整理していた。引き出しから印鑑を取り出し、離婚届に署名・押印した。義母はそれを受け取ると、何も言わずに立ち上がり、テーブルの上に鍵を置いて部屋を出て行った。振り返ることなく、扉を閉める音が響いた。
その後、純次郎は部屋を見渡した。寝室にも押入れにも、奈々美の荷物は一切残されていなかった。まるで、すべてが一瞬で消え去ったかのようだった。
家族という言葉の重みが、突然目の前から消えていった。冷徹な現実に、言葉を失った。心の中では、怒りや失望が渦巻いていたが、どこかで「これでよかったのだろう」と、感情を抑え込んでいた。
「家族という形にこだわることはない」と、今ならば言える。自分を押し殺してまでその形にしがみつく必要はない。奈々美と麻美子が幸せなら、それでいいのだ。離婚を引き延ばすことに意味はない。心が離れた家族に、無理にしがみついても仕方がない。
もう、この家には戻ることはないだろう。すべてが過去のものとして、今はただ未来に向かって進む時なのだ。
数日後、純次郎は荷物をまとめて家を出た。駅のホームに立つと、ふと空を見上げた。何もかもが変わってしまったが、人生は続く。どんなに過去が重くても、未来には新しい何かが待っているはずだ。心を新たにして、歩き出す決意が固まった。
【読者のあなたへ】
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これからも、心温まる文章をお届けできるよう努めてまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。