『真実の愛』?ならば応援するしかありませんね!!~愛する妹に婚約者を奪われたので私は妹の婚約者を落としにかかりましたが、不覚にも好きになってしまったかもしれません~
「お仕事中のところ、誠に申し訳ございません」
「いえレディ・ミットレンジ、どうぞお気になさらず。 ミットレンジ女伯となられる貴女の為でしたら時間など如何様にも」
妹の婚約者であるスペンサー・シーン卿は淑女の礼をとるエルヴィーラにそう柔和に微笑み、ソファへと座るよう促した。
だが、そこはやはり王宮内で働く騎士。
既に不穏さを内に秘めた様子で、言い回しにもどこか剣呑なモノをエルヴィーラは感じていた。
だがそもそもが突然の訪問であり、来たのが婚約者の姉、不審に思われても仕方ない。
スペンサーは西部の大貴族であるノーヴァ侯爵家の末息子。近衛として王宮で働いている。
彼に会う為に赴いたものの、会えなかったり時間を取ることが難しかったりする不安も相応にあった。
それもある程度覚悟していたエルヴィーラは、会えたことに一先ず安堵した。
なにぶん時間がない。エルヴィーラは念の為部屋の防音を確認した後で、単刀直入に切り出す。
「シーン卿……私では駄目でしょうか?」
交渉事は掴みが肝心。
ここは妹ユリエラ直伝の、必殺・前のめり上目遣いで勝負に出た。
コレをされると『もうユリエラを甘やかさない!』と決めていた筈の彼女も両親も、すぐ心が揺らいでしまうという。
ちょっと前のめりに急に距離を詰めることで、『テーブル越しであり大した距離でもないのに凄く縮められた気になる』上に、イイ感じの上目遣いになるという、実はなかなかに計算されたモノ。(※分析してみた)
果たして自分で如何程通じるのかは疑問だが、エルヴィーラは形振り構っていられないのである。
「……は?」
スペンサーはまさに『ポカン』という擬音がピッタリな顔をした。
(あら、これは引かれてしまったかしら?)
だが彼が引いたにせよ、エルヴィーラの方は今更後には引けない。
「私はご覧の通り、ユリエラのように可憐でも愛らしくもございませんが……」
視線を外しなるべく悲しげにそう言うと、ソファに身体を戻す。駆け引きが大事──だからではない、次の手の為である。
だがそんなことを知らないスペンサーは、態勢を整えるべく「コホン」とひとつ咳払いをする。
エルヴィーラは気付いていないが、先制攻撃は充分な動揺を彼に与えている。スペンサーは引いたわけではなく、驚きがなにより勝っていただけだ。
「い、いやいやそんな事は……というかイキナリ何を仰っ……えっ」
一応は態勢を整えた筈のスペンサーだが、先程より激しく動揺せざるを得なかった。
次の手に出たエルヴィーラが、ジャケットのボタンをゆっくりと外しにかかっていたのだから。
「えっ?! ちょっ、ちょっと待っ……」
「それでも『ユリエラより美しい』と自信があるところが……ひとつだけあるのです」
ユリエラの真似が駄目であった以上、エルヴィーラは自分の良さをアピールするよりないと考えていた。
できるだけあざとく!!──それがコンセプトと言って良いだろう。
エルヴィーラはスペンサーを動揺させ、気を引かねばならないのだ。
動揺の種類がなんであれ、そんなことはこの際どうでもいい。ここで狙っているのは所謂『吊り橋効果』である。
「なな、何をして?!」
恥じらうような仕草で勿体ぶって上着を脱いでいくエルヴィーラを、スペンサーは口では止めるようなことを言いつつも視線は釘付け。
女伯爵になる予定のエルヴィーラは普段から年齢よりも地味でお堅い服装であり、勿論彼女自身、身持ちは堅い。
実際エルヴィーラは一度たりともこんなふしだらな真似をしたことがなく、今とても恥ずかしいのだが……それが逆にとても扇情的であることを彼女はわかっていない。
スペンサーが本気で止めることができずにいるのは、理性と煩悩が戦っているからだということも。
とうとうジャケットを脱ぎ、タイを引き抜きにかかったあたりで、スペンサーの理性がようやく僅かに勝利した。
「レレ、レディ?! そんなッ、いけません!! おお話があったのでは?!」
「……卿が名前で呼んでくださったら。 私の名前は」
「エ、エルヴィーラ!」
「あら……」
「私の名前、ご存知でしたのね?」──そう言ったエルヴィーラの表情はどこかあどけなく、散々動揺させられたスペンサーは謎の羞恥が嵐のように吹き荒れる中、両手で顔を隠しながらソファから浮かせた腰をどっかりと倒れるように戻した。
★★★
今朝早く……それは、使用人達が仕事を始めるより早い時間のこと。
ここは高位貴族の王都別邸や領地を持たない貴族や商家の富豪の邸宅が多く建ち並ぶ、所謂高級住宅街。
周囲に比べるとそこまで大きな邸宅ではないけれど、建国から貴族として代々この国に仕えてきたミットレンジ伯爵家タウンハウスも、一応この並びにある。
そんな、王宮から少し離れたところにある伯爵邸の離れでの話。
「お姉様ごめんなさい……」
ミットレンジ家最愛の娘であるユリエラは、そう言って涙をポロポロと零した。
エルヴィーラは溜息をひとつ。
普段の彼女であれば、庇護欲を唆るその愛らしさに「いいのよ」と言い、頭を撫でて慰めてしまうところ。
だが、流石にこの状況は見過ごせない。
なにしろベッドの上、妹のユリエラの座る横には、自身の婚約者であるクロフォードが眠っているのだ。
二人とも、真っ裸で。
クロフォードとエルヴィーラの婚約はミットレンジ伯爵家とスタン子爵家の政略的なモノ……
ただし、関わっているのはこの二家だけではない。
スタン子爵家は元々この国有数の大貴族であるノーヴァ侯爵家直属の分家であり、先代子爵は侯爵の弟。
先代が子爵位と共に継承された領は狭く、侯爵領時代は飛び地。だが王都にはほど近く、西部貴族が王都との交易の際に使用する、重要な経由地である。
先代子爵夫妻は残念なことに、長男に爵位を継承してすぐ死んでしまった。新しく購入した別邸に向かう途中での事故だった。
夫妻が購入したのは、別邸とは言っても社交の為の新しいタウンハウス。
おそらくそこでゆっくりと社交をしながら爵位を継承したばかりの長男を支えつつ、次男の婿入り先を見つけるつもりでいたのだろう。
両親を亡くしたばかりの現子爵──つまりクロフォードの兄は弟の婚約まで手が回らず、伯父である侯爵に相談した。
そこで選ばれたのがミットレンジ家である。
由緒は正しいものの女児しか生まれなかったミットレンジ伯爵家──年齢的な面でもスタン子爵令息・クロフォードの婿入り先としては最適。
女伯爵とならざるを得ないミットレンジ家としても、この縁を結んだのがノーヴァ侯爵であるということは大きな後ろ盾になる。
また直接的な事業提携や資金援助こそないものの、西部貴族の結束を高めるのにも、非常に有効な婚約と言えた。
現にエルヴィーラとクロフォードは婚約者というよりビジネスパートナー的交流の方が多く、ふたりが会うのは侯爵経由による夜会やパーティーが殆どだった。
昨夜はいよいよ王都に出て、王宮で開かれた夜会に参加したのだが……そこでクロフォードの具合が悪くなってしまった。
エルヴィーラは慌てて、家のタウンハウスへと彼を連れて戻ることにした。
子爵家のタウンハウスは本来入る筈だった夫妻がいない為、最低限の人間しかいないと聞いていたので、心許なかったのだ。
「おそらく寝不足と疲労さ……そんなに心配しないで」
クロフォードはそうは言うものの、血の気がなく顔が真っ白だった。エルヴィーラが心配になるのも当然だろう。
「なら余計に、近い伯爵家の方がいいですわ。 離れですから気になさらないで」
「ありがとう……」
──ここからどう罷り間違ったかこういうことになるのだろうか。
そうは思えどふたりは裸。
余程疲れているのかクロフォードに至ってはまだ眠っているが、起こす気にはなれなかった。
★★★
「そんなワケで、スペンサー卿には私を選んで頂きたく。 それが一番円満な解決法かと」
「~~~~!!」
そこまでを簡潔に語ったエルヴィーラに、スペンサーは色々言いたいことを飲み込む代わりに髪をグチャグチャと乱す。
(ソレがどうしてアレになるんだ?!)
事情は理解したが、彼女の行動が理解できない。
確かにスペンサーはユリエラの婚約者であるが、婚約は彼の父であるノーヴァ侯爵が無理矢理結んだモノ。
出奔し騎士爵と姓を賜った意味が無い、と突っぱねたがあまりにしつこいので『彼女が18になるまでは絶対結婚しない』という条件で仕方なく合意したのだ。
無理矢理会わせられた当時、14のデビュタント用ドレスを着たユリエラは『今年のデビュタントの中で一番』と言われる程に可憐で美しかったものの、あまりに幼い。
そして、まるでスペンサーのタイプではなかった。
スペンサーのタイプは少しキツめの顔の真面目でお堅い感じの女性……つまり、エルヴィーラはどストライクである。
彼は禁欲的な女性が(※以下自重)
とはいえただのタイプであり性癖。
クロフォードとは従兄弟であり仲もそれなりにいい。邪魔をするつもりも横恋慕する気も特になかったが……
(アレは酷い! 破壊力が!!)
ハニトラ耐性はあれど、なまじ知っているだけに有り得ないと想定していた分、質が悪い。
暫く頭を乱していたスペンサーは、やがてガックリと肩を落としてから口を開いた。
「……俺はユリエラ嬢に『いつでも解消の相談に乗る』と言っていたのだが、それは聞いてないのか?」
そう、彼が一番解せぬのはそれだ。
すっかり口調は崩れ、やや投げ遣りな感じになったままそう尋ねる。
勿論スペンサーは、ユリエラのことも考えて合意に及んだ。
エルヴィーラとクロフォードの婚約の流れで父親が勢いづいたに過ぎない、と考えたスペンサーは『この時点では話し合いにならず、揉め事が大きくなる』と一旦引き伸ばしたのである。
結局のところスペンサー自身の爵位は一代限りの騎士爵であり、ミットレンジ家にとっては姉の婚約込みでの旨味でしかない。
それが圧になるのは事実だが、スペンサーが自身が機を見て説得する、とミットレンジ夫妻にも予め告げている。
幸い才媛のユリエラは学園に通うため王都に出た。ノーヴァ侯爵家の威光も西部から出ればあまり関係がなく、そこで出会いはいくらでもある。
ユリエラ自身も婚約継続・婚姻の意思は特にないようだったので、それ待ちと言ったところだったのだが。
しかし、エルヴィーラの回答は斜め上。
「つまり、『ユリエラが美し過ぎて気が引けるけれど本当は満更でもない』と……」
「どうして今のがそういう話になるんだ!?」
「え、ですが贈り物やお手紙は届いておりますし……」
「そりゃ義務だからだし誕生日や大きなイベントの時くらいはするさ! 常にプレゼントが裸の宝石なのも、換金するなり加工するなり好きにしたらいいと思っているからで……手紙もそんな内容だ!」
「では、私でもよろしいです?」
再びユリエラ直伝の、上目遣い。
今度はあざとく首傾げコテン☆ヴァージョンで。
スペンサーは「うっ」と小さく喉の奥で唸ると、「そういうことではなく……」と言いにくそうにモゴモゴした。
ユリエラとの婚約解消に同意し親父の説得に協力しろ、というならわかるし話は早い。 だが、何故そこまでエルヴィーラが必死に自分なんかに売り込むのかがわからない。
(いや翻弄されすぎだ、冷静に彼女の状況と言動を考えたら──はっ!)
エルヴィーラが『円満な解決法』と言っていたことに、ようやく思い至ったスペンサーはこう結論付けた。
「── もしかして、君は投げ遣りになっているのか?」
考えてみればそれも仕方ないことである。
スペンサー自身のことはいいが、メインはエルヴィーラとクロフォード……つまりミットレンジ家とスタン家の関係。
クロフォードの不貞とはいえ、相手は妹。
エルヴィーラは将来を捨てて妹に譲るか、妹と寝た男を夫にするかの二択だろう。
或いは補佐として家に残りながら、妹夫婦を日陰で見続けなければならない可能性すらある。
「それらから逃れる為、というのであれば──」
「ふふ、卿はお優しいのですわね。 ですが逃れるというよりは逃れた、というか……だから私を選んで頂きたく。 円満に解決する為、一番と思える方法が婚約者交換なので」
「父の説得くらいなんとかしてやる!!」
そう大きな声を出しながら机をドンッと叩いたので、エルヴィーラの身体は恐怖で一瞬激しく揺れる。
すぐにスペンサーはバツの悪そうな顔で謝罪した。
「ああ……すまない。 その、君が犠牲になることはないだろう……?」
「──」
その言葉に、不覚にもエルヴィーラからはポロリと涙が零れた。
「あら……おかしいわ……」
それを皮切りに理由のよくわからない涙が次々ポロポロ溢れ落ち、何故か止まらない。
確かにエルヴィーラはスペンサーとほぼ面識はないが、今回の犠牲で……という意識は特になく、あくまでも自分の意思。
だがこうも真剣に心配されると、なにか心にくるものを感じずにはいられなかった。
「私は……」
スペンサーは、慌てたように騎士服のロングコートのポケットからごそごそとハンカチを取り出した。
「あっ……」
「?」
既に使用し、無造作に突っ込んでいたハンカチはクシャクシャ。
「……つ、使うか? これでもよければ」
そう言って躊躇いがちに差し出すその仕草は終始スマートさの欠片もなく、あまりにも最初の怜悧な印象とは違う。
だが少し滑稽なそれが何故か愛らしくて、エルヴィーラは思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、ありがとうございます。 洗ってお返ししますね?」
「いいさ別に。 そんな大したモノでもない……逆に君の顔を汚してしまったかもしれん」
「まあ!」
エルヴィーラはハンカチを持った手で口許を隠し、暫く笑い続けた。
「──スペンサー卿」
「……」
「私を選んで頂けませんか?」
「まだ言うのか」
「ご縁を結んでくださっただけでなく、あれこれご尽力くださったノーヴァ侯爵様。クロフォード様と妹のしたことは既に、侯爵様の顔に泥を塗る行為です」
だからこそ、ふたりの『真実の愛』に真実味を持たせねばならない。
ミットレンジ家とスタン家の二家だけでなく、西部貴族の為に。
「だがもうそれは君が覚悟を決めてどうこうすることではない」
「ええ、承知しておりますわ。 心配もしておりません。 ただ、スペンサー卿の婚約者が私に変わったことで上手くいったのであれば、どうでしょうか」
「だからそれは」
「『犠牲』ではありませんわ、スペンサー卿。 私は『最善』を考えただけです」
エルヴィーラは元々、スペンサーがわかっているとは思っていない。だからこそあんな方法をとったのだ。
スペンサーにはなるべく柵なく、自分を選んで欲しかったから。
「この婚約の際ノーヴァ侯爵様は、我ミットレンジ家にスペンサー卿の婚約者としてミットレンジ女伯にならない方の娘を。 そしてスタン家には亡き前子爵夫妻が購入された家を、スペンサー卿と妻、ふたりの新居にするために譲渡せよ、とお求めになりました」
その条件にスペンサーは顔を青ざめる。
そんな前提があったとは、聞いていない。
「……そんな顔なさらないで。 卿が先にウチの両親にお気持ちを告げてくださったことで、ユリエラにも教えてないのです。 両親はユリエラの気持ちを慮り、貴方を頼る気でおりましたから」
子爵家からはタウンハウスが無くなるが、元々あちらは前子爵夫妻がいてこそ。
王都に用向きの際は、縁続きとなったミットレンジ伯爵家のタウンハウスを使った方が維持費も掛からず合理的──これには侯爵の配慮もあった。あるのは辛い思い出の記憶だが売るのは憚られる、という複雑な気持ちでいる筈の、甥に対しての。
そんなことを聞いてもスペンサーの耳には入らないが。
王宮通いのスペンサーには丁度いい新居であることに間違いはなく、父の自分への愛情が窺えるのがかえって許し難い。
ユリエラにミットレンジ夫妻が喋らなかったことだけが、唯一の救いと言っていいだろう。
「ですがこうなった以上、卿の婚約者変更への同意は円満で迅速な解決に必須。 そのために私はどうしても貴方に選んで貰わねばなりません。 ただ──」
スペンサーには教えるつもりもなかった聞き苦しい事実だけに、エルヴィーラは無心で淡々と喋り続けた。もう有り体に話すよりないと覚悟して。
だが何故か急にそれが途切れた。
いつの間にか彼女の視界の中央にきていたのはハンカチを握ったまま膝に置かれた手。
「ただ……」
エルヴィーラの様子のおかしさに、スペンサーは顔を上げる。
彼女はいつの間にか俯いていた。
「──エルヴィーラ嬢?」
「……今名前を呼ぶのはズルいですわ」
「え?」
小声で拗ねるように発せられた言葉のあと、
「今は……貴方が私を選んでくださったら嬉しい……そう思います」
顔を上げたエルヴィーラが、そうはにかむ。
「──」
スペンサーの脳内からは色々ふっとんだ。
悪女だ。
ここに悪女がいる。
「……あっ、スペンサー卿!?」
舌打ちをして立ち上がったスペンサーは、乱暴に扉を開けて出て行った。
(ああ……怒らせてしまったのね)
やはり私では駄目だったのか──エルヴィーラは途方に暮れるよりない。
(多少ふしだらでも、やはりあの時鎖骨を見ていただくべきだったかしら……)
ユリエラより美しいとエルヴィーラが誇れる唯一のところ。
それは鎖骨……デコルテである。
首の細さや長さ、少し撫で肩のラインもそれなりに自信があるが、特に彼女の鎖骨は位置が程良く低く美しく盛り上がっており、デコルテに女性らしいセクシーさとメリハリをつけていると友人達(※勿論女性)からも好評価。
(これを見ていただけば違ったかもしれませんわ。 よし、お戻りになったら今度こそ……!)
諦めたらそこで終わりである。
エルヴィーラが新たに(間違った方向に)気合いを入れ直していると、思っていたより早くスペンサーが戻ってきた。
生憎ジャケットはとっくに着直してしまい、まだ脱いでいないと言うのに。
「行こう」
「えっ?」
「君の家にだ。 三日程休暇を捩じ込んできた……それとも立場だけで俺は必要ない?」
(スペンサー卿……!)
スペンサーは悪女に誑かされることにし、キレ気味に半休と明日から三日の休暇申請を行ってきたのである。それはまさに、『捩じ込んだ』という表現が正しい。
「……いいえ! 貴方が必要です」
エルヴィーラは鎖骨のことなど忘れ、意気揚々と立ち上がった。
元々スペンサーは誰かと結婚する気は無かったので、18になってもユリエラがなにも言わなければ責任は取り大切にするつもりでいた。
好みのどストライクであるエルヴィーラに誑かされるのはこの際かまわないが、気になることはある。
馬車の中でエルヴィーラが先程までのことを謝罪すると、スペンサーはなんとも居心地悪そうに脚を組み換え、そっぽを向きながら尋ねた。
「……君は女伯爵になりたかったのでは?」
「いえ? 全く」
長女であるエルヴィーラは伯爵家を継ぐ者として育てられてきたが、決して優秀な人間ではなく……正直なところ、ノーヴァ侯爵が結んだこの縁は荷が勝ちすぎていた。
「スタン子爵家からの直接の打診だったら、少し異なっていたと思うのですけれども」
そう苦笑するエルヴィーラに、スペンサーは再び困惑した。
「えっ? だが……いや、それじゃ……クロフのことはいいのか?」
「勿論あの方に好感は抱いておりますが……必死だったので、正直それどころでは」
「だが」
共に頑張ってきた長年の日々や、そうして培ってきたと思っていたモノとの別れが悲しくない筈はない。
「確かに、色々としてきたことが無になり悔しいという気持ちはあるのです」
エルヴィーラの僅かばかりの矜持や自尊心が傷付けられたのも事実ではある。
「ですが、それよりも重責から逃れられた安堵の方が強いのです。 それに……」
チラリとスペンサーを盗み見ると、『腑に落ちない』という感じ。
エルヴィーラはどこまで心の内を語るべきか、些か測りかねた。
長い事寄り添ってくれたクロフォードには申し訳ないが、この短時間にも関わらずエルヴィーラはスペンサーに惹かれている。
あまり有り体に心の内を晒すと、嫌われてしまうのではないか不安に思えた。
(あら私ったら……保身の為に嫌われることを恐れているだなんて)
好かれないまでも精一杯気を引き『お前でも構わん』と言わせるのが目的だったので、勿論嫌われてはいけなかった。
嫌われたくないというのは同じだが、会って間もないというのにエルヴィーラの行動原理は今や、大きく揺らいでしまっているのである。
それだけに今後の選択にも迷いが出てきてしまい、エルヴィーラは口を噤む。
「……」
「……」
妙な沈黙が続いたまま、馬車はそれでも進む。もうすぐ家というところで、エルヴィーラは意を決して口を開いた。
「スペンサー卿、私は私の意思として、家や妹の為に貴方の婚約者になるつもりでした」
「は……なにを今更? そんなのはわかって──」
「ですが、私は貴方に惹かれています」
「──え」
「だから少し自分の為に我儘になろうと思うのです……貴方が望むならどこまでもお話しますが、どうされますか?」
もしかしたらそれで嫌われてしまうかもしれないが、エルヴィーラは彼に真摯でありたい気持ちを優先させることにしたのだ。
(なるほど、これが恋なのね。 恋がこんなにも合理的判断を鈍らせるのでしたら、『真実の愛』が困難極まりなくとも当然と言えましょう)
エルヴィーラがユリエラにした質問。
「ユリエラ、それは貴女にとって『真実の愛』なの?」
──これである。
エルヴィーラは幼い頃、ユリエラとよく一緒に本を読んだ。おませで賢いユリエラは、割と早くから年齢にそぐわないモノを読んでいたが、中でもユリエラのお気に入りは『真実の愛などと宣い、婚約者から王子様を奪った令嬢が結局王妃には不向きだと追い落とされる』という所謂ざまぁ恋愛譚である。
「お姉様! これを読んでホントウの『真実の愛』とは勝ち取るモノだと愚考致しますわ! ……奪ったところまではイイのです、その後が宜しくありません。 これはスナワチ、偽の愛ですわね!」
可愛らしいドヤ顔で、鼻息荒くそう語っていた天使のような幼いユリエラを、エルヴィーラは昨日のことのように思い出せる。
愛らしい妹にエルヴィーラや家族は色々な物を与えたが、ユリエラから強請ったことは殆どない。
あげた物は喜んでくれたが、ごく稀に「どうしても欲しい」とユリエラから欲した物は、物品に限らず今でもそれはそれは大事にしている。
そのひとつが、リディ。
ユリエラの12歳の誕生日の日、馬車からユリエラが見つけた犬の仔だ。
ユリエラは「誕生日プレゼントはこの子にして!」と買い物予定をキャンセルし、連れて帰った小さな犬をリディと名付けた。
ユリエラはリディの世話を決して他人に任せることはなく、忠誠心が高く賢く育ったリディは今や、そこらの護衛より頼りになる。
ユリエラの躾の賜物である。
彼女は自身が望んだモノを深く愛す。
だからもしユリエラがなにかをエルヴィーラに強請ったら、エルヴィーラはなんでもあげるつもりでいた。
それがまさか、自身の婚約者だとは思わなかったが。
ミットレンジ女伯になるのも含めユリエラの今後は大変なモノになるだろうけれど、彼女が『真実の愛』と言うからには然程心配してはいない。
ただ少しでも楽にはしてあげたかったエルヴィーラはスペンサーのところに赴き、今に至る。
──この件に於いて、エルヴィーラは家や妹のことを考えて動いたと言っていいだろう。
しかし、クロフォードの気持ちだけはまるっと無視していることに、自身でも気付いてはいた。
実のところクロフォードは婚約者としての交流の為に、時間を割いて色々誘ってくれていた。だが凡庸であるエルヴィーラにはそれどころではなく、断ることが多かったのだ。
そんな余裕のない婚約者を慮り、クロフォードからの手紙は外への誘いではなく、ミットレンジ家への訪問の先触れに変わっていた。
しかし文官であるクロフォードの仕事上妹が家に戻る週末が多く、エルヴィーラは度々妹に彼の相手を任せてしまったのだ。
勿論休憩などで、一緒に茶を楽しんだりはしたけれど、半分以上はユリエラに会いにきているような状態だったに違いない。
エルヴィーラがスペンサーに話すのを恐れているのはこの辺りである。
いくら必死だったとはいえ、常に誠実だった婚約者に対してあまりにも情がない、と言われても仕方ない。
(それがこの結果を生んだと思うと、反省すべき点は私にも大いにあるというか……)
──というか、クロフォード様については反省しかないというか。
『真実の愛は勝ち取るモノ』と言い放つ程、天使の容貌に幼い頃から苛烈さを秘めていた聡明な妹である。
離れの異変にいち早くエルヴィーラが気付いたのも、リディが何故か部屋の前にやってきて、彼女を離れへ連れ出したから。
離れは女伯爵となる娘のために、急で不本意な客人や下心のありそうな客人に煩う事のないよう、父が建てたモノ。婚約者とはいえ、昨夜の夜会後にクロフォードを泊めることができたのも、ここだからこそ。
なにも知らせがなければ、エルヴィーラもふたりの不貞に気付かずいただろう。
おそらくクロフォードの具合の悪さも、なにかを盛ったに違いない。
勿論エルヴィーラはユリエラの計画に加担どころか、気持ちにすら気付いていなかった。
だがそれも、同時にクロフォードに対する関心のなさであるとも言えないこともない。
(でもクロフォード様はきっと、ユリエラが幸せにするでしょうし……)
スペンサーが答えないまま、馬車はミットレンジ家タウンハウスに到着した。
(聞くか聞かないかの判断を委ねてしまったのが良くなかったのかしら……)
勿論そうではない。
(俺に惹かれている……だと?! 大体クロフは美形で女にモテるくせに誠実な男だ、本当に未練はないとか……くそっこの女、どこまでが本音なんだ?!)
その前の告白に動揺しているのだ。
既に落ちているスペンサーが、クロフォードへの関心のなさに安堵しこそすれ、エルヴィーラを嫌ったりすることはないのだが──
ポンコツ恋愛初心者のエルヴィーラがそれに気付くのは、まだこの件が片付いてからずっと先のことである。