商人と魔術使い
スルドゥージが初めてミズナと出会ったのは、彼がまだ十代終わりの頃だった。
スルドゥージは商団の筆頭の息子だ。ミズナの住む村から陸路で十五日程の街が本拠地だが、年の三分の一は海の上という生活をしている。中規模の商団だが、陸路も海路も利用していて、海路を利用する時は、海沿いにあるミズナの住む村にも立ち寄り、販売や仕入れを行っている。そして、村を訪れる度に魔術使いのミズナに絡む。ミズナの弟子でもある神官のヒナガは、「僕の知る限り、唯一の猛獣遣い希望者ですよ」とスルドゥージの勇気を、冗談半分に称えたものだった。
スルドゥージがまだ幼かった頃、両親は年の半分以上を留守にしていた。両親に代わり、まだ幼かった彼の面倒をみていたのは、彼の祖父母と街の魔術使いと神官だ。特に祖父母は、本拠地に構えた店を切り盛りしながら、商売の大変さや醍醐味を、幼い孫にしっかりと叩き込んだ。そのお陰か、元々の気質なのか、スルドゥージは愛想が良く物怖じしない、利に敏い子供に育った。
やがて、息子が読み書き計算が出来る様になった頃を見計らい、両親は息子を旅に連れだした。それまで街から出たことの無かったスルドゥージは、委縮するどころか大はしゃぎで、瞬く間に商団の大人達に馴染み、年の近い子供達の中では兄貴分の様な立場になった。
まだ小規模だった商団は徐々に大きくなり、当初は陸路だけで移動していたのが、海路も利用するようになった。
その日訪れた海沿いの村は、佇まいも露店に集まった住人も素朴で、既に旅慣れたスルドゥージの目にはやや刺激が足りなかった。次第に退屈を感じたが、それを解り易く表に出す程彼は迂闊では無かったが、息子の退屈にとうに気付いていた父親は、客足が少し落ち着くと、スルドゥージに休憩を与えた。
「他の店を見て来い。それも立派な勉強だ。但し、羽目を外さないことだ。この村には、中々恐ろしい方がいらっしゃるぞ」
商団の仲間以外が開く露店を見物し、スルドゥージの退屈は少し遠のいた。良い匂いを漂わせる屋台で貝の煮込みを買い、落ち着いて食べられそうな場所を探す。自分の店の布張りの屋根が小さく見えた。
まだ熱い煮込みは、かなり美味しかった。満足し、屋台に器を返しに行こうと、機嫌良く一歩踏み出そうとした時、向かいの屋台と屋台の間の細い路地が目につく。
(羽目を外すな、か。こんな長閑な村に、羽目を外せるような場所なんて無さそうだが。恐ろしい方なんて、本当に居るのか?)
決して腕っぷし自慢な訳では無いが、時には荒っぽい相手と商売することもあり、場数はそれなりに踏んでいる。彼の父親は尚更だ。その父に「恐ろしい方」と言われるような人物が、平和そのものの村に居るとは俄かには信じがたかった。
スルドゥージはにやっとした。父親の言いつけを破るつもりは毛頭なかったが、ただ言う通りにするのもつまらない。言い訳の利くぎりぎりが良い、そう考え、器を店に返した彼は、向かいの路地に足を踏み入れた。
路地を抜け少し歩くと、畑が連なていて、作業をしている人影がちらほらと目についた。街で育ち、旅暮らしのスルドゥージには、馴染みの薄い景色だ。これ以上行っても退屈しのぎになりそうもないなと感じ、それでも何とはなしに歩き続けていると、前方から人影が近付いて来るのに気付いた。自分の畑にでも向かってるのかな、等と考えながら道の端に避け、近付く人影を眺める。
(土地に縛られて生きるのは、どんな気分なんだろう? 生まれた地で育ち、結婚して、子を育てて、最後はその土地に還る……)
旅暮らしに慣れてしまうと、一か所に留まる生き方が退屈なように思え、自分には無理だと感じる。何方の暮らしが良いという事では無い。ただ、スルドゥージにとっては今の暮らしが性に合っていて、他の暮らし方が想像がつかないのだ。
(その良さは、屹度、俺には永遠に解らないだろうな)
珍しく考え込んでいたスルドゥージは我に返った。
遠くに見掛けていた人影は、何時の間にか、目鼻立ちが判る程近づいて来ている。
スルドゥージの心臓が跳ね上がった。
(なんて綺麗な人なんだ!)
長い黒髪に縁取られた小さな顔。切れ長の大きな瞳に、通った鼻筋と赤い唇。ゆったりとした服の上からでも判る均整のとれた肢体。だが、それよりもスルドゥージの心を打ったのは、その存在感だった。
スルドゥージは、目の前を通り過ぎようとする人影に、慌てて声を掛けた。
「あの、お嬢さん」
緊張で掠れたスルドゥージの声が耳に届かなかったのか、女は彼を一瞥することもなく、優雅な獣のように歩き続ける。ごくりと唾を飲み、スルドゥージはもう一度、今度ははっきりとした声で話し掛けた。
「初めまして、お嬢さん。何方においでですか?」
女はスルドゥージを無視し、歩き続ける。彼は少しむっとして、女に手を伸ばした。
「ちょっと待ってよ。挨拶位してくれても良い……」
最後まで言う事が出来なかった。彼の手が女の腕に触れたと思った瞬間、何故か目の前には空が広がっていた。背中に衝撃を感じ、呻きが聞こえ、その呻きが自分のものだとようやく気付いた時には、スルドゥージは地面に転がっていた。己の身に何が起きたのか、全く理解出来なかった。
畑で作業中の農夫が異変に気付き、慌てて走って来るのが見えた。
「おい、あんた、大丈夫か? ミズナ、やりすぎだよ!」
地面に転がるスルドゥージの視界に美しい顔が映り、形の良い唇が動く。
「お嬢さんってのはアタシのことか。そんな呼ばれ方するとは思ってなかったから、気付かなかった」
「他に人影は見当たらんだろうが。ほれ、あんた、起きられるかい?」
農夫は呆れた様に呟き、地面に転がったままのスルドゥージに手を差し出す。農夫の手を借り、上半身をおこしたスルドゥージは、背中の痛みに、漸く己が女に投げ飛ばされたのだと把握した。女の一連の動きは素早く、澱みなく行われた為、周囲にはスルドゥージが勝手に転がったように見えてもおかしくなかった。だが、女をよく知る村人は、何が起こったか見えていなかったとしても、状況をほぼ正確に理解していた。
農夫は溜息を吐いた。
「兄さん、この村は初めてだろう。ミズナにちょっかい出すなんて、何も知らない奴だけだ。彼女は、泣く子も黙るこの村の魔術使いさ」
ミズナは、真剣な顔で農夫に反論した。
「人聞きの悪い言い方をするな。アタシが乱暴者みたいじゃないか」
「乱暴者って言われてもしょうがないがね、投げ飛ばすなんて、ちとやり過ぎだろうよ。この兄さんが怪我したらどうするんだ」
ミズナはスルドゥージにじろっと目を遣り、鼻を鳴らした。
「考え事をしてたもんだから、身体が勝手に動いたんだ。でも、怪我なんぞさせてない。途中で加減したからな。そもそも、突然女の腕を掴む男にも非があるだろうさ」
普通ならそうかもしらんが……と、農夫がぶつぶつ呟いていると、騒ぎに気付いた他の村人が市場に人を呼びに行ったらしく、スルドゥージがやって来た方角から、商団の若者二人が走ってくるのが見えた。
「兄さん、迎えが来たようだぞ。まあ、ミズナもやり過ぎたが、兄さんも礼儀に難があったってことでさ、腹立たしいかも知らんが、余り大事にはしないでくれるとありがたいんだが……おい兄さん、どうした? やっぱり、どこか怪我してるのか?」
何を言われてもぼんやりとしているスルドゥージを不審に思ったらしく、農夫が彼の顔の前で手をひらひらと振る。
商団の若者が、息を切らして彼等の元に辿り着いた。現場に居合わせた農夫が彼等に事情を説明している間も、スルドゥージはミズナをぼんやりと見詰め続けていた。友人達は、彼の様子がおかしい事にいきり立った。仲間が農夫に酷い目に遭わされ、農夫がその言い訳をしていると考えたらしい若者の一人が、農夫に詰め寄った。
「こいつに何かしたのは、あんたか? 仲間が居るなら、隠し立てするな。俺等が相手になってやるよ」
「いや、俺は何も……」
焦る農夫に、額に青筋を立てたもう一人の若者が手を伸ばした。
「こんなお嬢さんが、こいつを伸せる訳ないだろ。言い訳なら、もっとましな嘘を吐……」
若者は最後まで言い切る前に、彼が伸ばした腕に細くしなやかな腕が絡みついた。若者が小さく呻く。ミズナが軽く腕を振るうと、若者は先程のスルドゥージ同様地面に転がった。ミズナはゆっくりともう一人に歩み寄る。
「へ? な……え?」
地面で呻く仲間と、近付いてくるミズナに交互に目をやり、混乱する若者にミズナの腕が伸びた。
「ここはアタシの縄張りだ。大人しくして貰おう」
「ミズナ、待て!」
農夫が慌てて止めに入ったが時遅く、若者の身体は宙に舞い、あっさりと地面に転がった。
農夫は天を仰ぎ、騒ぎを聞きつけた他の村人達が、様子を伺いに集まって来た。ここに来て漸く、村人と共に商団の責任者であるスルドゥージの父親が、駆け寄って来るのが見えた。
スルドゥージの父は、村人から在る程度の事情をすでに聞いていたこともあり、茫然とする息子と地面に転がる若者二人の様子を見ると、息の乱れを整える間も無く、ミズナと農夫に深々と頭を下げた。
「身内の者達がご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません。こちらは、手前の息子でございます。躾が至らず、親としてお恥ずかしい限りでございますが、どうか、若さ故の無知をお許し願えないでしょうか」
村人達は、転がったままの若者達に手を貸し乍ら、ミズナを窘めた。
「こっちこそ、うちの魔術使いがやり過ぎて申し訳ないねぇ。ほれ、ミズナさんも」
「まあ、若造相手に大人気無いことをしたかな」
「こらミズナ。兄さん達済まんな、ミズナは、決して悪い奴じゃないんだ。ただ、野獣みたいな処があるだけで」
農夫の言葉にミズナはそっぽを向き、何も言わず自分を見詰め続けるスルドゥージをじろりと睨んだ。
「何か言いたいことでもあるのか?」
「きちんとお詫び申し上げんか、馬鹿者! 愚息が申し訳ございま……」
スルドゥージの父親が、慌てて頭を下げさせようと、己より背の高い息子の頭を掴もうと手を伸ばすが、スルドゥージはその手を躱し、ミズナの前で片膝を付いた。
「惚れました」
「は?」
明瞭すぎるスルドゥージの言葉に、其処に居た全員が動きを止めた。
「貴女の全てに惚れました。嵐の夜も晴れた朝も、常に貴女の傍らに居たい」
ミズナは、スルドゥージの父親に、初めて申し訳なさそうな顔を見せた。
「済まない、アタシとしたことが手元が狂ったようだ。頭を強く打ったのかもしれん」
スルドゥージの父親は、片膝着いた息子の頭を一つ叩き、起きあがり、まだ腰を擦っている若者達に息子を抱えさせると、改めて詫びに来るとミズナ達に言い残し、その場を去った。
簡易小屋に帰り着くと、父は溜息を吐いた。
「こうなる気はしたんだ。もっと早く、正式に挨拶を済ませておくべきだった」
「正式だろうが偶然だろうが、結果は変わらないだろうな。どんな出会い方をしても、屹度俺はあの人に惚れたよ。なあ親父、あの人は独り身かい?」
息子の能天気な質問を、父親は無視した。
「浮ついた未熟な子供が、何故、状況に当てられているのではないと言い切れる。舐めてかかった獲物に返り討ちにされた初めての経験に、判断力が麻痺しているんだ」
「なら、親父は、あの人が魅力的じゃないって思うのか?」
息子の言葉に父親は口籠り、きょろきょろと辺りを見回した。気を利かせて席を外している妻に聞こえていない事を充分に確認し、頷いた。
「お前の言いたいことは分かる、無論、俺だって美しい方だと思ってるさ。だが、厄介な相手だ。賢く度胸もあり、魔術使いだ。魔術使いは、決して我々と同じ感覚では生きてはいない。大地や海、大自然の様なものだ。気を抜いて良い相手ではないし、あちらもお前を相手にするほど暇でもないだろう」
スルドゥージの父親は、息子に言い含めた。
「幸い、ミズナさんは後に引くような方では無い。この村での売り上げなどたかが知れてるが、魔術使い同士の繫がりは軽視すべきじゃ無いからな。お前も商売人なら判るな?」
「…………」
父親は俯く息子を一瞥し、反論して来ないことに満足したのか、息子の肩を軽く叩くと小屋から出て行った。
一人残されたスルドゥージは、俯いた顔をあげた。その表情は、反省とは程遠いものだった。
(ついてるぞ、親父のあの様子だと、あの人に決まった相手は居なさそうだ。や、しまった、俺はまだ名乗ってもないじゃないか)
彼には確信があった。
(あの人は親父が言うような『魔術使い』とは違う。覚悟を持って大きなものを見据える、血の通った『命』だ。美人だけど、あの存在感があってこその魅力なんだ。あの人が俺を相手にしていないのは、屹度あの人と俺達が違うからでも忙しいからでもない。俺がまだまだ未熟だからだ)
彼は独り頷く。
(商売と一緒さ。双方に益があれば流通は上手くいくし、偏った損益では長く続かない。俺は魅力的な商品にならないといけない。確かに、今の俺じゃあの人、いや、姐さんには釣り合わない)
スルドゥージが考え込んでいると、先程ミズナに投げ飛ばされた二人の若者が、簡易小屋に入ってきた。思いの外平常な友の様子に、二人は胸を撫で下ろした。
「俺等も商団長と親にこっぴどく叱られちまったけど、何がどうなったのか、今一つ分からん。結局、何だったんだ? あの別嬪は魔術使いで、彼女がお前を投げ飛ばしたってのは本当なのか?」
スルドゥージは頷いた。もう一人の若者が、あきれ顔になった。
「あの時のお前、様子がおかしかったぞ。本気であの女に惚れたのか? 片手で男を投げ飛ばす女だぞ?」
「大いに結構だね、それも魅力だ。どんな美女でも、大人しいだけじゃあいずれ飽きる」
珍しく真剣なスルドゥージの声に、二人の若者は顔を見合わせた。そして、口々に友に忠告した。暫く黙って聞いていたスルドゥージは、先程父親に訊いたのと同じことをもう一度口にした。
「なら、お前等は、あの人が魅力的じゃないって思うのか?」
二人はもう一度顔を見合わせ、同時に「いいや」と言って、大抵の事を飄々とこなす友人が初めて見せる姿に、しょうがねーなと苦笑した。
「本気なんだな。なら、俺達が口を挿むことじゃない」
「そうだな。他の奴等にも、あの姐さんにちょっかい出さない様に言っておくぜ。でも、これからどうする心算だ? 魔術使いとどうこうなったなんて話、周りで聞いたこと無いもんなぁ」
三人は腕組みしてを額を突き合わせ、結局は、正攻法が一番いいだろうとなった。魔術使いに虚勢は通じないし、仮にあの迫力に虚勢を張った処で、己が惨めになるだけだろう。
「お前はすこぶる美男子って訳じゃないけど、普段は礼儀も弁えてるし、愛嬌がある。無理しなくても、年上の相手と相性はいいだろう」
「だな。後は、どれだけ顔を合わせるかだ」
それからはこの村での商売は、出来る限りスルドゥージが表に出ることにした。接客も、配達も、商品の買い付けも積極的に熟す息子に、両親は複雑な顔をしていた。どうにか息子の目論見を挫こうとする商団長を、スルドゥージの友人達がさり気なく阻み、小言には都合よくスルドゥージの耳は遠くなった。時間が空けば、商売抜きで村を訪ねたりもした。尤も、ミズナは魔術使いの中でも忙しい立場なのか、村を留守にすることも多く、村を訪れればいつでも会えるわけではなかった。それでも顔を合わせれば、スルドゥージはミズナに自分を売り込んだ。何年も名前すら憶えて貰えなくても、飽きることなく口説き続けた。
『決して損はさせません。姐さん、俺と取引して下さい』
『何だか知らんが断る』
『姐さんの人生を下さい。俺の人生と交換ってことでどうです?』
『やらんし、要らん』
『俺の全てを受け取って下さい』
『押し売りはお断りだ』
挨拶代わりの遣り取りを村の誰も気にしなくなった頃、漸くミズナが彼を名前で呼ぶようになった。幾つかの重要な取引を成功させ、商人としての心構えもしっかりしてきたスルドゥージに対し、両親は溜息を吐くだけで何も言わなくなった。
それから更に数年たったある日。
ミズナが酷く体調を崩しているらしいという噂が、別の街で商いをしていたスルドゥージの耳に届いた。専門的な事はさっぱり分からなかったが、特別な仕事をした代償ではないか、という話だった。幸い、五日も陸路を行けばミズナの村に行ける距離に滞在していた彼は、迷うことなく早馬を調達した。
可能な限り馬を走らせ、予定よりも早く到着したスルドゥージを、初めて訪れた時と変わらない静かな村が迎えた。
(姐さんなら、大丈夫だ。あれから悪い噂も聞いてない。ほら、村だって長閑なもんだ)
スルドゥージは村の入り口で馬を預け、早足でミズナの庵を目指す。心臓が締め付けられるように痛む。幾人かの村人とすれ違い声を掛けられたが、御座形に挨拶を返すのが精一杯だ。早足は増々早まり、最後は殆ど全力疾走だった。
庵の前に着き、乱れた息を整える。大きく息を吸い、入り口に手をかけ、開けようとした時だ。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
若い男の声と共に入り口が開けられ、ミズナの弟子のヒナガが、にこやかにスルドゥージを出迎えた。何故、自分が到着した事が判ったのか不思議そうな顔のスルドゥージに、弟子は笑いかけた。
「そりゃあ、あれだけ足音やら気配やらがすれば、魔術使いじゃない僕にでも判りますよ。さあ、どうぞ」
土間の上がり縁にある囲炉裏の前で、ミズナが二人を見ていた。血の気が無い顔色ではあるが、思いの外元気そうだ。
へたり込みそうになる脚に力を込め、無意識に寄っていた眉頭を揉むスルドゥージに、ヒナガが優しく声を掛けた。
「あっちで座ってて下さい。今、お茶をお持ちしますね」
「おい、勝手に決めるな……はあ、まあ、こっちに来て座れ」
ミズナは弟子に文句を言いながらも、突然の来客の為に敷物を用意してやった。挨拶もそこそこに、スルドゥージはずかずかと三和土を横切り、敷物に腰を下ろすと、真向いのミズナの青白い顔をまじまじと見詰めた。
(良かった、少し痩せたみたいだけど、思ったより元気そうだ……でも、何だろう? 姐さんは、こんな顔だったっけ?)
スルドゥージの視線を気にする風でも無く、ミズナはぶっきらぼうに訊ねた。
「で、今日は何の用だ?」
問われて初めて、スルドゥージは手土産一つ持参していないことに気付き、顔を赤らめた。
「え? あ、いや、あの、用って言うか」
「先生の噂を聞いて、心配で来てくれたんでしょ? 態々有難うございます。幸い、狼の数頭位なら素手で追い返せる程度に元気ですよ」
しどろもどろになるスルドゥージに、茶を運んで来たヒナガが助け舟を出した。
「何でお前が答えるんだ。しかも、何だ、その言い種は」
「はいはい。スルドゥージさん、申し訳ないんですけど、僕、ちょっと席外してもいいですか? 畑を見てきたいんです」
頷く客に丁寧に頭を下げ、ヒナガはミズナの庵を出て行った。
村の顔役であるミズナの自宅には、始終、相談事のある村人が訪れる。だが、ミズナの体調を慮ってか、それともヒナガが気を使って言い含めてくれたのか、訪ねてくる者は現れなかった。
「言いたいことがあれば聞こう」
ミズナが唐突に口を開いた。
スルドゥージが今迄聞いたことの無い、静かでそっと突き放すような声に、魔術使いとしてのミズナを初めて意識し、同時に、その姿に違和感を抱く。その思いは言葉となり、口から漏れ出た。
「姐さんは本当に魔術使いだったんですね」
スルドゥージは慌てて口を噤んだ。ミズナは静かに笑った。
「何だ突然?」
暫し沈黙が訪れる。やがて、男が口を開いた。
「何時もの姐さんは何処に行っちまったんですか? やっぱり、まだ具合が悪いんですか?」
「言いたいことが分からん」
ミズナとスルドゥージの視線が交わる。スルドゥージは、これまでミズナから一度も向けられたことのない、全てを透過する様な独特な視線に言い知れぬ不安を覚えた。
「一体、どこを見てるんです? 俺とヒナガ君の区別、ちゃんとついてますか? 若しかして、茶椀と俺が同じに見えてません?」
ミズナは苦笑し、案外目利きだな、と呟いた。
「確かに、以前と世界の見え方が変わった。今のアタシは、お前と茶碗の区別はあるが、同じものにも見えている。お前の言う通りだ。これは、『魔術使いの眼』さ」
スルドゥージを透かし、魂のそのまた奥を覗いているようなミズナの眼は、底知れぬ夜の海の様だ。
魔術使いの眼は、人や動物の感情や深く繋がり合うもの同士の魂の結びつき、父母や更にそれ以前の先祖すらも、色とりどりの糸や光として認識する。「眼」を持たない者がそれらを聞けば、神秘的で美しい世界の話と感じるだろう。だが、神秘の世界の知覚はあくまで副次的であり、「眼」の本質は、世界を支配する法則を捉えるというところにある。人も岩も世界を構成する要素の一形態に過ぎないなら、それを見る者にとって人と岩の本質的な区別は難しいだろう。多くの者が感じる、魔術使い達の常に平等で時に冷徹に過ぎる程の穏やかさは、この眼が齎すものだ。
ミズナは何かを考え込むように顔を横に向け、暫くしてスルドゥージに向き直った。
「アタシは魔術使いとして重大な欠陥があった。長いこと『魔術使いの眼』が機能してなかったんだ」
幼い頃から、ミズナは異常に勘が鋭かった。普段の気の強さが嘘のように怯える時は、決まって大きな地震の前だった。足音を忍ばせた誰かが背後に近付けば忽ち気付き、姿を認識する前に相手を言い当て、急な天候の崩れや野犬の群れの接近に誰よりも早く気付き、逃げ出した。ミズナを診察した当時の魔術使いは、娘を抱きしめ困惑する両親以上に困惑した顔をした。
「あんたらの娘は魔術使いかもしれん。だが、そうじゃないかもしれん」
「どういうことです?」
「資質は十分過ぎる程ある。だが、目が開いてない」
「そんな馬鹿な。この子の目が見えていないって言うんですか?」
「そうではない。あんたらと同じものは見えている。ただ、力を持ちながら、魔術使いの見るべきものが見えていないということだ。このままだと暴走する可能性がある」
ミズナの両親はますます困惑した。「魔術使いの眼」を持たない彼等に、「眼」を通した世界を説明することは難しい。それに因って形成される魔術使いの精神構造を理解することは不可能だろう。
「意識せず生き物の行動を操ったり、ほんの些細なことで誰かの心臓を止めてしまうかもしれない。無論、その『誰か』にはあんたらやミズナ本人も含まれる。傷付くどころでは済まんのだ」
母親は娘をきつく抱きしめ、父親は魔術使いに縋りついた。
「お願いです、何でもしますから、この子をお守り下さい」
魔術使いは暫く唸っていた。
「力を封印するか、魔術使いとして力の制御を学ぶしかないだろう。儂には無理だが、魔術導師様ならば封印も可能やもしれん。本人に魔術使いになる意志があるならば、推薦状を書こう。何方にしても、早目に一度導師様にお目通りした方が良かろう」
ミズナの状態は前例のないことだったが、結局彼女は魔術使いになる道を選んだ。修行の末、『魔術使いの眼』で物を見る術も覚えた。だが、既にその頃には、ミズナの精神は魔術使いとしては異質なものに育っていた。
「『眼』を持たないアタシは、魔術使いの世界を常時見ることは出来ない。術で一時的に見るだけだ。とは言え、きちんと学んだ魔術使いなら普段は『眼』を閉じてるんだ、別に不便は無い。だけどな、アタシは彼等と同じ世界に住むには遅かった」
ミズナは温くなった茶を一口含んだ。
「魔術使いがあらゆる事に平等なのは、世界が本質的に同じもので構築されていると魂に刻まれているからだ。生まれつきそこに住む者と、一時的にそこを訪れるということは全く違う。こうなってみて、よく解った。心と五感は相互している。アタシは魔術使いに成りきることが出来なかった」
黙って聞いていたスルドゥージが口を開いた。
「姐さんの心は、他の魔術使いとちょっと違うってことですか?」
「そうだ」
「そんで、今の姐さんは、『魔術使いの眼』でしかものが見えないってことですか? 『眼を閉じる』ってことが出来ないんですか?」
「そうだ」
「体調を崩したってことと関係があるんですか? 何だか大変な仕事をしてたって聞きました。そのせいですか?」
「まあ、多分そうだ」
「ずっとそのままなんですか?」
「分からん」
スルドゥージはミズナをじっと見詰めた。
「その世界は、姐さんにとって居心地がいいですか?」
沈黙が続き、やがてミズナがスルドゥージから目を逸らした。
「アタシにはどうしてもやりたいことがあった。そして、皆のお陰でそれを成し遂げることが出来た。満足してる」
スルドゥージは思案顔になり、何か思いついたのか自分の服をごそごそと漁り出し、隠しから小袋を取り出した。
「姐さん、甘いものは嫌いじゃなかったですよね。手を出して下さい」
ミズナが差し出した右手に小さな物が乗せられた。明るい琥珀色をしたそれは、中心に小さな花びらが入った可愛らしい飴玉だった。スルドゥージは小袋からもう一つ同じものを取り出し、口に放り込んだ。
「小さい頃からこれが好きで、今でも持ち歩いてるんです。子供みたいで恥ずかしいから、皆には内緒にして下さいよ」
ミズナも飴玉を口に入れた。とろりと甘く、花の香りがするそれは、どこか懐かしい味がした。
「どうです?」
「え、ああ、美味いな」
でしょう、と得意気に笑う男に、ミズナは不思議なものを見るような目を向けた。
「世界の本質なんて難しいことは解らないけど、飴玉はいつだって美味いし、姐さんは姐さんだ。ですが、姐さんがどうしても俺と茶碗が同じって感じるなら、不本意ですけど、俺のことはちょいと気の利く茶碗だと思ってくれればいいですよ」
ミズナは思わず噴き出した。
「お前、偶には真面なこと言うな、スルドゥージ」
「ルディと呼んでください」
「ん?」
「親しい人にはそう呼ばれてます」
ミズナは先程までより幾分柔らかい、しかし真剣な表情をスルドゥージに見せた。
「……いい加減諦めろ。お前は商団筆頭の息子だ。何時までも遊んでないで、優しく賢い女を見つけて、両親に孫の顔でも見せて安心させてやれ」
「家や仕事の為に女を選べる程、俺は器用じゃありませんよ。俺がいつでも真剣だって、姐さんも本当は解ってるでしょう? そもそも、うちの商団の筆頭は世襲制じゃありません。仲間内で選ばれた奴が引き受けてるだけです。親父の前は、他の店の店主が就いてました」
「お前には今の暮らしが性に合ってるように見える。アタシは村を離れる心算はない」
「日々を共にするのは難しいかもしれない。それでも、俺は貴女の心に沿いたいんです。俺のことが嫌いならそう言って下さい。金輪際、商売以外で口を利かないと約束します」
いつになく真剣な男に、ミズナがたじろいだ……ように見えたのは、スルドゥージの都合の良い思い込みだろうか。だが、彼は己の感覚を疑わなかった。ミズナが誰に対しても同じ距離で接するのは、彼女の勤めに必要だからだ。彼女本来の気質なら、迷惑ならばはっきりとそう言うか、姿を見せることすらしないに違いない。まして、認めていない相手に過去を語ることなどありえないだろう。
(意識してないかもしれないけど、姐さんは俺の事嫌いじゃない、多分)
好機と見て取ったスルドゥージは、すくっと立ち上がり深々と一礼すると、片膝をついてミズナに向け腕を伸ばした。
「姐さん、いや、ミズナさん、貴女の気高さ、優しさ、賢さ、全てが美しい。貴女の存在こそが、俺の世界の本質。貴女になら、例えどれだけ投げ飛ばされても幸せしか感じません」
ミズナは呆れ顔でため息を吐いた。
「はー、やっぱり、お前もう帰れ」
「今のでグッときませんでしたか? ちょっと待って下さい、やり直しますから」
「そういうところがなぁ……ああ疲れた。少し休む」
「姐さんは病み上がりですもんね。もうお暇します。これでも食べて、ゆっくり休んで下さい」
スルドゥージは慌てて立ち上がり、飴玉の入った小袋を差し出した。小袋を受け取り、見送りに立ち上がりかけたミズナを制すると、スルドゥージは軽快な仕草で出口に向かった。
「それじゃあ、また」
戸に手を掛けて振り返り、にかっと笑った男に、ミズナが返した。
「気を付けて帰れよ、ルディ」
それから程なく、籠に野菜を載せて庵に戻って来たヒナガは、師匠に尋ねた。
「スルドゥージさんはどうしたんですか? 声を掛けたんですけど、気付かなかったみたいで、やけにふわふわした足取りで行っちゃいましたよ。馬で来たみたいだけど、忘れてないかな……」
そして、再び商団が魔術使いの住む村にやって来た。
(またこいつか……)
ミズナは溜息をついた。何故この男が、我が家で暢気に茶など淹れているのだろう。朝市に立ち寄っただけなのに。
午前中、ミズナは、定期的に開かれる市に買い出しの為に家を出た。市で出店するのは、村の商店だけではない。近隣の村の商店や、もっと離れた土地からやって来る商団が参加することもある。そういう時は、日頃手に入り辛い品を入手出来る良い機会で、村の住人は挙って足を運ぶ。
大半の魔術使いは医者を兼ねている。市は、自分の生活用品だけでなく、珍しい薬草等を手に入れる機会でもあり、必然、一人で持ち切れない程多量の買い物をすることも多々ある。店によっては、買い付けた商品を自宅まで配送してくれるので、今日もそのように手配した。
午後になって届いたそれらの荷は、大きなおまけつきだった。荷を運び、中身の確認をしたのは、そのおまけ自身だった。おまけは何故か茶道具を持参していて、家まで上がり込むと、家主が断る間もなく火鉢で湯を沸かし始めた。
気付けば大人しく火鉢の前に座ることになっている状況に、ミズナは天を仰いだ。男を追い出すのは簡単だが、そう思わせない。図々しいのに憎めない。
(本当にこいつは厄介だ)
魔術使いが本気になれば、相手を叩き伏せるのも呪い殺すのも造作もない。彼等がどの土地でも畏れ、敬われるのは、力を誇示する魔術使いが只の一人も居ないからこそだ。それは、人としての社会活動による行動の支配では無く、魔術使い特有の精神構造に因るものであり、脆弱な法などと比べ物にならない拘束力で彼等の行動を支配している。
尤も、個性豊かなのが生命というものだ。大半が物静かで冷静な魔術使いだが、中には変わり者も居る。極端に無口だったり、悪戯好きだったり、陽気だったり……ミズナも、仲間内では変わり者だと思われており、その自覚もある。
不思議な形の茶瓶に湯を注いでいた男は、ミズナと目が合うと鉄瓶を火鉢に戻し、干し果物を差し出してにかっと笑った。
「姐さん、これお好きですよね? 極上品を取っておいたんです。茶が良い具合になるまでもう少し掛かるんで、それまで茶請けに召し上がってみて下さい」
まるで自分の家であるかのように、男の振る舞いは自然で、増々ミズナの疑問は深まる。
小皿に盛られた干し果物を黙って受け取り、一口齧る。鮮烈な甘酸っぱい香りと味が鼻と口に広がり、その刺激に、身体がもう一口を要求してくる。ミズナはそれに従い、もう一口干し果物を齧った。
視線を感じ、顔を上げると男が嬉しそうに言った。
「それ、美味いでしょう? 俺も初めて食べた時は驚きましたよ。今迄俺が食べてたものは何だったんだ、同じものとは思えない! ってね。
さて、茶が入りましたよ。今召し上がってるそいつに抜群に合いますから、試して下さい」
ミズナは釈然としない顔で、差し出された椀を受け取った。椀に被された蓋をずらすと、控えめながらも華やかな香りが、大気にふわっと広がる。やや温めに入れられた茶を口に含むと、先程の干し果物の残り香と交じり全く別の香りへと昇華し、目の前に色鮮やかな花畑が広がったような錯覚を覚えた。思わず「美味い……」と呟く。
「でしょう?」
男は微笑み、黙って茶を飲むミズナに小皿に乗せた干し果物を勧め、自分も一つ口に放り込む。
「うん、やっぱり美味い。流石、ガルグジュ島産だ」
「ガルグジュ島に行ったのか」
珍しくミズナから発した問いに、男がにこにこと答える。
「いえ、ガルグジュには親父だけが行ったんです。俺は、隣のガザングジュ島で仕入れをしてました」
「そいつは残念だったな」
ガルグジュ島は、美味な果物だけでなく、美しい娘が多いことで有名な島だ。ミズナに揶揄われた男は、大袈裟に首を振った。
「いえいえ、綺麗なお嬢さんは拝見したいけど、あそこは掌より大きな虫がいるって聞いてます。そんなのに出くわしたら、繊細な俺は腰を抜かしちまいますよ」
表情豊かな男――スルドゥージにつられ、ミズナが小さく笑うと、スルドゥージが更に笑顔を浮かべる。屈託の無い男の笑顔に、ミズナは盛大な溜息を吐いた。
「確かに美味いが、アタシは余計な買い物はしない。試飲させてくれてありがたいとは思う。だが、持って帰れ」
「ははは、買っていただこうなんて思ってませんよ。偶々手に入った美味しい茶と茶菓子があったんで、姐さんとゆっくり味わいたかったかっただけです」
スルドゥージは空になった自分の茶碗に茶を注ぎ、美味そうに一口啜った。
魔術使いと神官は、どの街や村でも一目置かれる存在だ。特にミズナは、美しい見目と質量すら感じさせる迫力で名を馳せている。スルドゥージは彼女の前で自然体でいられる限られた人間、言い換えればミズナ以上の変わり者、どんなにミズナに睨まれてもどこ吹く風だ。
「何でこいつは何時までも帰らないんだ、って顔ですね。いいじゃないですか、偶には」
「お前は案外良い奴だから忠告するんだ。アタシに構ってないで自分の居場所に帰れ。後悔しないように、自分のやることをやれ」
スルドゥージは真顔になり、手にしていた茶碗を置いた。
「実は、そのことで姐さんにお願いがあるんです」
(頼み事とは珍しいな)
珍しいどころか、正面からの頼み事は初めてだ。ミズナは手にしていた茶碗を置いた。
「お願い?」
「姐さん、最近は前みたいに村を留守にしないんですね」
まるで関係ないことを問い返されたミズナは怯み、それでも男の問いに答えた。
「アタシがやりたかったことはもう済んだからな。それに、ヒナガも村を出たし、アタシまでここを空けるわけにもいかん。せいぜい村の奴らをこき使ってのんびりやってくさ。で、お願いってのは何だ?」
「俺、店を出そうと思ってまして……といっても、うちの商店の二号店って形になるんですが」
「そうか、頑張れよ。何だ、祝いでも欲しいのか?」
「いえ、この村に店を構えたいなと思ってまして。その為には、魔術使いに許可を頂かないといけないでしょ?」
「……は?」
「村の皆さんから南西の土地が空いてるって聞きました。家を建てるのも手伝って下さるそうで、いやあ、良い方ばかりで嬉しいなあ」
「何だと? 勝手に話を進めるんじゃない」
慌てて詰め寄ろうとするミズナに、スルドゥージは上着の隠しから一枚の書面を取り出した。
「うちの店の利益率はこちらです。村への還元率はこの程度でどうでしょう? 他に必要な記録なんかも揃えてあるんで、後でお持ちします。それと、これはあくまでうちの店の事情で商団とは別の話です。ですんで、商団が必要以上に村を騒がせたりはしませんので安心して下さい」
書面を手に取り目を通して唸るミズナに、スルドゥージは「許可を」と、にかっと笑った。
「店を出すなら、ここでなくともいいだろう。女の尻を追いかけながら成功する程、商売は甘くない。お前が欲しいのは何だ? 目的を見誤るなよ」
「どれも欲しいに決まってるでしょ、覚悟の上です。仕事も愛する人も手に入れてこそ、生きがいのある生活ってもんです」
「……アタシは、これまでやりたいことを貫いてきた。その陰で、ひどく傷つく者が出ると知っていても、な。アタシだけ幸せに浸る心算はない」
そっけない筈のミズナの言葉が、商人の心臓を跳ねさせた。
(姐さん、その言葉の意味に気付いてます?)
ミズナは己の行いを悔いては居ない。だが、それに伴い、誰かを傷付けてしまったことは、己の心も傷付けた。そして、その誰かの傷が癒えるまで、己の傷は血が流れるままにしておく心算なのだ。「傷を癒しかねない存在」を受け入れることは出来ない、と白状したも同然のミズナの苦しみに気付きながらも、スルドゥージの頬は緩みかけた。
(貴女の傷が貴女だけのものであるように、誰かの傷はその人だけのものかもしれないですよ。それでも、その人が貴女を責めるのであれば、俺も一緒に償います。俺の勝手でね)
商人はにかっと笑った。
「貴女は屹度、『己の真実に足掻く者』に弱い。例えそれが茶碗であってもね。そこに付け込もうと思ってます」
ミズナは堂々と宣言する男を睨みつけたが、その自然な笑顔と目が合うと、諦めたように視線を緩めた。
「大した茶碗だな。いいだろう、出店は認める。後で正式な取り決めを交わそう。ただ、相手の気持ちってものを少しは学べ」
「ははは。嫌われない程度にがっつくことにします」
ミズナが今日一番の大きな溜め息を吐く。
(『魔術使いの眼』なんぞあっても、役に立たんもんだ。何がこいつをそこまでさせるってんだ)
スルドゥージは、ミズナと自分の茶碗に新たに淹れなおした茶を注ぐと、まるでミズナの心を読んだかのように笑った。
「俺にだって、どうして姐さんなのかはわかりませんよ。でも、最初から言ってるじゃないですか。俺の魂は、何時でも貴女の傍に。穏やかな日も、嵐の時も、勿論、美味しい物を楽しむ時もです。さあ、茶菓子をもう一つどうですか?」
魔術使いはもう何度目かも分からない溜め息を吐き、屈託ない笑顔の商人が差し出した小皿から干し果物を摘まむと、それを噛みしめた。