ブレイジャー夫妻
「え......? 母さんが、何?」
キュルスは学校から帰ってきて、家の門の前で兄とすれ違うところだった。兄は肩から大きなトートバックを下げ、少し早足で駆けてきた。
キュルスは彼の言葉が信じられなかった。
「母さん、ここ数日体調を崩していただろう? 病院で検査したら、大きな病気が見つかってね。もう一月ももたないかもしれないそうなんだ」
兄は早口でそう言った。キュルスはその言葉を口の中で繰り返した。兄は続ける。
「とにかく、入院が決まったから。僕が付き添い人になるから、君は家で待っていて。何かあったら、オーケンに話すんだよ。彼には大まかに伝えてあるから」
じゃあね、と兄はバス停の方へと走って行った。昔は車を出してくれる使用人もいたそうだが、それはキュルスが産まれる前の話である。
キュルスはふわふわした足取りで庭を歩いた。夢でも見ているのだろうか。
あの母が。
絵画の住人にも寿命はあるようだ。
キュルスは美しい母が点滴の海の中で虫の息の様子を想像した。綺麗だ、と思うのだった。
長い睫毛が、残り少ない寿命を知ることで涙に濡れ、腹の上で重ねられた手は骨ばって冷たい。
医者もきっと息を呑むだろう。
その仕事に就いて初めての感動を味わうかもしれない。
美しすぎる亡骸を、きっと自分のものにしたいと思う。
それが己の母であることに、キュルスは優越感を感じてしまう。
*****
母は呆気なく帰らぬ人となった。一月と言われていた寿命はたったの七日であった。兄は大学を休み、ずっと母の傍に居た。キュルスは一度も病院に行かなかった。何処の病院かも知らされることなく、再会した母は棺の中に納められていた。
キュルスはこの亡骸の美しさに息を呑む。棺の木枠が絵画の額縁のようで、周りを飾る花々は母の美しさをよく引き出していた。
母を葬ったのは、兄とキュルス、そしてフェネリー家でたった一人、今も庭師をしているオーケンの三人だ。庭の片隅に母の墓は作られた。
土の上で、キュルスは母を感じた。
ミステリアスな彼女にも、死は訪れるのだ。
絵画の中に居ても、死は避けられないのだ。
当たり前な感覚なのだろうが、とても不思議な感覚だった。
隣で兄は黙っていた。静かに墓石を見つめる兄に、キュルスは夢中になった。
*****
母の死からすぐに、日常は戻った。兄は今までのように大学に通い、キュルスも学校に通った。広くなった家で、兄弟はそれぞれの時間を静かに過ごした。
母が居なくなって、心にぽっかりと穴が空いたキュルスだが、今このフェネリー家を牛耳るのは、たった二人の兄弟であることに何処か囁かな喜びを感じていた。
兄と二人だけのこの家に帰れる毎日が嬉しかった。
母が居る時よりも、兄が近くに感じられたような気がするのだった。
「兄さん」
理由も無く兄の部屋に行き、兄に勉強を教えてもらった。兄は読書をしていようが、勉強をしていようが手を止めて教えてくれた。大学では優秀な成績を収めているようで、この前も大学から大きな賞を貰ったと話していた。
キュルスは誇らしかった。こんな兄を独り占めできるのだ。
そんな兄と、この家で永遠に暮らしていけるのだ。
*****
ある日、キュルスは家に一人で居た。兄は大学で、その日は帰りが遅いと一言だけ言って出て行った。
キュルスは昼食を一人で食べ、読書をするために最適な場所を探そうと小一時間屋敷中を彷徨いた。見つけたのは、庭の木陰。昔はよく此処で遊んだものだ。遊び疲れて寝てしまうと、兄が抱いて部屋まで連れていってくれたのだから懐かしい。
オーケンが遠くで庭の手入れをしている様子を眺め、キュルスは本を開いた。初夏の爽やかな風と暖かい陽の光が、読書に最適な環境と言えた。
どのくらい時間が経っただろう。夢中でページを捲っているうちに、キュルスは違和感を覚えた。庭の入口が騒がしい。門がきゅるきゅると音を出して開いているのだ。
顔を上げると、オーケンが居ない。門の前の客の対応をしているようだ。庭師である彼は、そんな役目も自ら背負う。キュルスは本を閉じて立ち上がった。
すると、庭の中に黒い車が入ってきた。車種は分からないが、高級車であることはキュルスもよく理解していた。あんなにピカピカのボディを持った車なのだから、中から出てくる人はさぞかし大金持ちだろう。
車は少し遠くの砂利に止められた。運転席と助手席の扉が開く。オーケンがのそのそとキュルスの方へとやって来た。
キュルスは車の人物を見つめるも、遠いのでよく分からなかった。ただ、想像しているより質素な服に身を包んでいる。
「キュルス坊ちゃん、ブレイジャー夫妻がお見えになりましたよ」
そう言われても、とキュルスは首を傾げる。
ブレイジャー夫妻というのがあの二人なのだろう。しかし、キュルスの記憶には彼らは無い。父が亡くなってから、この家にはほとんど来客が無い。キュルスが知っている顔などほとんど居ない。
ブレイジャー夫妻も例外ではない。
キュルスが木陰で彼らを見つめていると、二人は此方に向かって歩いてきた。
来客となればお茶を出してもてなす必要がありそうだ。
だが、来客がほとんど来ないこの家で、キュルスはお茶の出し方など一切学ぶことがない。兄も居らず、母も死んでしまった。今この状況のフェネリー家の主人は自分である。
オーケンに任せるわけにはいかない。彼のフィールドは庭であって、屋敷の中ではないのだ。
キュルスがオドオドしていると、ブレイジャー夫妻はまっすぐキュルスの前までやって来た。
雰囲気が固くなりすぎないように、軽く整えられた髪を持つ、柔らかい笑みを浮かべる、40から50代と思われる男性だ。高級車から出てきたということはそれなりに金はあるようだが、纏う服は清潔感のある質素なものである。隣の女性は30代に見える。娘か、それとも妻か。夫妻となれば、後者なのだろう。
キュルスは彼らを見上げるしかなかった。彼らが一体何の目的でこの家にやって来て、自分の前に立つのか。
想像もできなかった。此処に兄が居たら、状況を説明してくれるのに。彼はまだ授業中だ。
「キュルス・フェネリー君ですね」
「......はい」
男性の方にそう言われ、キュルスは頷く。
「ルイス・ブレイジャーと申します。此方は妻のマデリンです」
「......はあ」
キュルスは曖昧に頷く。
「お兄様はいらっしゃいますか?」
「兄は大学です......えっと、どんな御用で......」
やはり知らない人だ。二人の名前は、キュルスの記憶には無かった。顔を見てもピンと来ない。怪しい商人ならば、オーケンが庭に入れる前に返すので、そういうわけではないのだろう。
ルイスはキュルスの目線に合わせるように腰を屈めた。キュルスは警戒して後ろに下がったが、木の幹が彼を阻む。
ルイスの口が開いた。
「キュルス君、あなたは来月からブレイジャー家で引き取ります。お兄様には、既に許可を頂いております」
*****
ルイス・ブレイジャー(Louis Brazier)は母の異母兄弟であった。キュルスは知らなかった。母に兄弟が居たことを。母は己のことを全くと言って良いほど語らなかった。息子との会話だってほとんど無かったのだ。
キュルスは彼らと共に家に入り、リビングで詳しい話を聞くことになった。特別にオーケンが横に居てくれて、共に話を聞いてくれた。
彼も、11歳にはあまりに重い内容だと悟ったのだ。
ブレイジャー夫妻は、此処から遠く離れた場所に住んでいるらしい。母は親類と縁を切り、この土地で父と暮らして子を授かった。何があったのかは、話すことは無かった。
今回、彼らがやって来たのは孤児となってしまったフェネリー兄弟を引き取るという話をするためだ。しかし、兄も共にブレイジャー家に行くというわけではない。兄はこの屋敷に残るそうだ。
「お兄様からは、そのような話は......」
ルイスがオーケンを見る。キュルスの反応を見て彼は気づいたのだ。キュルスはナッシュから何も聞かされていなかった。
兄と住む家を分けられ、そして自分は他の家で育てられる。
こんなにショックな出来事は、キュルスは初めてであった。
「お坊ちゃんは最近忙しくしておりましたから......」
オーケンが言う。彼の今言った「お坊ちゃん」は兄のことを言っているのだ。オーケンは兄をそう呼ぶのだ。
「そうですか」
ルイスが深刻そうな顔で頷く。彼は何かを悟ったらしい。
そうなのだ。こんなに大事な話を弟にしないわけがない。兄は何か後ろめたいことがあって黙っているのだ。オーケンはそれを知っているのか、兄を庇うような言い方をするのだった。
キュルスはオーケンの横で項垂れていた。ルイスの妻である、マデリンが淹れてくれた紅茶を見つめる。
兄は、どうしてこんなに大事なことを黙っていたのだろう。
いつだって話し出すタイミングはあったはずだ。
母が亡くなってから、キュルスは兄の部屋に通った。勉強を教えてもらう目的で、兄と会話をしている。その時の兄はいつもと変わらず、優しかった。
それが、何故。一体、いつからこんな話が進んでいたのだろう。
「キュルス君、ごめんね。もっと早くお話をしにくるべきだったんだけれど......」
ルイスの申し訳なさそうな声に、キュルスは微笑んで首を横に振った。子供らしく、嫌だと反論しておけば良かったのかもしれない。兄と一緒に居たいと強く言っていたら、ルイスはまた異なる案を挙げてくれたのかもしれない。
キュルスは大きなショックを受けていた。
ひとつは、もう兄と共に住めないということに、である。
もうひとつは、兄が大事なことを弟に明かさず、黙っていたということだ。
ルイスとマデリンが帰った後、オーケンはキュルスに簡単な料理を作ってくれた。兄に帰りが遅くなるという話を聞かされていたらしい。
オーケンが作ったペペロンチーノは、酷くしょっぱく感じた。




