瞳を通して
「明日の12時だ。試運転をするから、研究室まで来い」
水曜日の夜。キュルスはベルナルドの部屋に居た。バスローブを着ながら、彼はキュルスにあるファイルを渡してきたのだ。それは、この前エリゼから渡された資料の中身をさらに濃くした内容だった。
「クローン人間......」
「法律では禁止されているがな、これほど魅力的な生物は居ない。少し改造は加えたが、その中でも特に、お前には目に注目して欲しい」
「目ですか」
キュルスは顔を上げてベルナルドを見る。
「ああ、お前の好きなものが見られるかもしれないぞ」
キュルスは彼の言葉の意味がまだ分からなかった。
*****
部屋に戻ったキュルスは、着ていたバスローブを脱いだ。そのまま布団に潜り込もうと思ったが、汗も引かず気が引けたので、シャワーを浴びに行こうと決めた。一度脱いだバスローブを着て、部屋を出る。
シャワールームには誰も居なかった。綺麗に掃除され、水垢も無い。掃除員が期待以上の仕事をしてくれるのはありがたいことである。
キュルスはカーテンを閉めて蛇口を捻った。程よい温かさのシャワーの中で彼は体を洗う。備え付けのシャンプーを手に出し、泡立てながら考えた。
兄は、今頃何をしているだろう、と。
風呂に入った頃だろうか。もう寝ているかもしれない。
兄がいつもつけていたヘアオイルの香りを思い出す。椿の、少し甘い香り。決して崩れたところを見せない兄の、完璧な香りだ。
キュルスは十分に泡立てたシャンプーで頭を洗った。
兄は髪が長いので、きっと洗うのも大変だろう。
ドライヤーで乾かすのだって一苦労だ。
彼の髪を解く姿は一度も見たことがないが_____彼は、誰かにその姿を見せているのだろうか。
兄の乱れた姿も、きっと美しいだろう。
キュルスは再び蛇口を捻った。
項の噛み痕に、流れたシャンプーが染みた。
*****
キュルスはシャワーを浴びて部屋に戻る。ベルナルドから貰った資料を再度見てみる。ステープラーで綴じられた数枚の紙は、グラフや文字が並んでいる。
クローン人間。
法律で禁止された生物である。
それを作るということは、此処はやはり普通の会社ではないのだ。
キュルスはじっくりと資料を読んだ。
作ったのは男女のクローン。
女性にソニア・クーガン(Sonia Coogan)、男性の方をニコラス・ファラー(Nicolas Farar)と名付けたらしい。
顔写真も載っており、これがクローンか、とキュルスはまじまじと見つめる。聞いたことがある単語だとしても、実際に見ることなど無いと思っていた。
しばらく二人の写真を見たあとで、二人の体に内蔵された機能についての説明を読んだ。
まず、膨大な量の情報を記録できる。人間の脳とはまた違った記憶場所を設け、そこで指示を出すことで自在に操ることができるそうだ。つまり、元となった人間の人格は残しつつ、また異なった人格を出して操れる。まるで改造人間だ。
さらにもうひとつ。
遠隔で操るのはもちろんのこと、体に埋め込まれたカメラによって外界の観察が可能だという。彼らをBlack Fileの施設に放り込むことで、そこから情報を奪ってくるという、スパイのような役割を担わせるために作られたクローンたちなのだ。
「......Black Fileの施設......」
キュルスは何度もその部分に目を通す。
それは、兄が居るところだ。
兄が_____。
キュルスは横に倒れた。枕がぼふん、と音を出して、埃が舞った。
兄が、兄が見られる。
久々に、兄を見られる。
キュルスは紙に顔を押し付けた。
それは、嬉しいなどという簡単な言葉では片付けられない感情だった。兄のあの美しい姿を思い出しただけで、彼は疲れが吹っ飛んでいくのだ。
キュルスは微睡みの中で、兄を手繰り寄せる感覚を思い起こした。
小さな体を兄と壁に挟まれたあの幸福。兄の声を最も聞くことができる特等席。兄の髪が擽ったくてするくしゃみ。それに対して謝る兄の柔らかな言葉と声。母に切られた耳の傷。どこか寂しげな表情。
兄に会いたい。
キュルスは完全に意識を手放した。
*****
モニタールームの巨大なモニターに、たくさんの人間が映っている。皆纏っているものは一色、白衣である。
しかし、映し出されている映像はエスペラントの施設では無い。これは、Black Fileの施設だ。
少し前、エスペラントから二人のクローン人間を解き放った。クローン人間と言っても、その体にエスペラントの技術を詰め込んだ、所謂改造人間である。
彼らの目的はただ一つ。
Black Fileに保護され、その中での生活を記録させること。情報を盗み、エスペラントに送らせるのだ。つまり、スパイ活動をさせるのである。
このプロジェクトに、キュルスが大きく関わることはなかった。主にベルナルド、フランチェスカで進められ、その他、それ専門の研究員たちが集まっていたのは知っている。しかし、それくらいである。
なので今、その全てがキュルスの目の前で明らかにされるのである。
モニターに映るのは紛れもなくBlack Fileの施設だ。見知らぬ研究員達が廊下で団欒したり、真面目な顔で話し合いをしたりしている。その廊下の中央を進んでいく、ソニア・クーガン。
ソニアは女性のクローン人間だ。男性の方は、ニコラス・ファラー。二人はBlack Fileに保護されて複数の実験が行われてから、研究員としてセーフティールームから開放されたらしい。
倫理観の問題でそう言った選択が取られたようだ。案外優しい会社なのだな、とキュルスはモニターを見上げながらぼんやりと思っていた。
今、このモニタールームにはキュルスの他にベルナルド、フランチェスカ、そしてエリゼが居る。
エリゼはベルナルドに呼ばれたようだが、フランチェスカに怖い目を向けられるので、部屋に入るか入らないかのところに立っているだけだ。
終わらせたい仕事もあるだろうに、彼女はさっきからソワソワと腕時計を気にしている。
ソニアはドロシー・ベッセマー(Dorothy Bessemer)という星5のB.F.研究員に助手入りしたそうだ。ニコラスはレオ・アークライト(Leo Arkwright)という研究員。
ソニアは現在、ドロシーに預かった報告書を上司の元へ提出しに行く途中だ。
手には報告書があり、その内容は既に写真が何枚も撮られて、ベルナルドのパソコンへ直接送られている。
ドロシーは星5の研究員なので、彼女のオフィスにはそれなりの資料が置いてある。その内容はドロシーが部屋に居ない間に、順調に写真に収められていた。
「人がうじゃうじゃ居る施設だねえ」
そう言ってため息をつくのはフランチェスカだ。
「廊下自体は狭いからな。皆それぞれ個人のオフィスも持っているようだ」
「こりゃ探索にも時間がかかるね。ソニアもニコラスも、入れる部屋は限られてるんだろ?」
「ああ、創設者たちの部屋に入るのは難しいだろうな。地下の巨大な倉庫には工夫次第で入れそうだ」
「ふーん」
そんな会話を聞きながら、キュルスはモニターをまだ見つめていた。キュルスの目的はただ一つ。
兄の姿をこの目に収めることである。
もう何年も会っていない兄が、モニター越しとは言え目の前に現れてくれるかもしれない。
このプロジェクトに大きく関わっていない自分が此処に呼ばれたのは、きっとそういうことなのだ。
兄に画面越しに会わせてくれるのだ。
ソニアは、ある場所に着いた。廊下の色と同じなので、白飛びしてしまいそうな白さのカウンターである。
そこに、黒髪の男が一人座っていた。彼はカウンターに置かれたパソコンを厳しい顔で睨み、時折手元の資料に目を落としていた。
ブライス・カドガン(Brice Cadogan)だ。
Black Fileの最高責任者であり、兄の相棒。大学生時代、彼らが文書001の最先端を走っていた。
鋭い目がパソコンから上がった。その目はソニアを見る。画面の奥の自分たちに気づいているのではないか、というくらいの鋭さを持った目に、キュルスは背筋が凍るようだった。
冷酷な人間と聞いている。人の命を粗末に扱う点では、エスペラントと大差ない。
兄はこんな男と何がしたいのだろう。
『昨日の実験の報告書の提出に来ました』
少しロボットのように堅苦しさが混じった女性の声がした。ソニアの声だ。
ブライスは此方に手を伸ばす。ソニアが持っていた報告書が、彼の手に渡る。此処は報告書の受付場らしい。
最高責任者が廊下に居るのは、キュルスにとって意外な事だった。
ベルナルドは実験室か自室に籠ってしまい、下の者と密接に関わることなどほとんど無い。B.F.はその逆なのだろうか。
ブライスは報告書に目を通していた。ソニアの目はその間、廊下を見たり、壁を見たりと忙しく動く。人らしい動きがプログラムされた彼女の、人らしい動きだ。
やがて、ブライスが頷いた。
『よく書けている。ソニアも報告書の練習を始めたそうだな。順調か』
『はい。今回の超常現象の実験では私も報告書を書きました。練習に、一枚書いてみてとドロシーに練習用紙を渡されました』
『そうか。なら、次の実験はソニアが報告書を書いてくれ』
『良いのですか』
『練習した成果が目に見えて発揮された方が、やりがいも感じるだろう。できそうか?』
『はい。ありがとうございます』
そんな会話だった。
ブライスはキュルスが想像していた以上に温和だ。鋭い瞳が緩み、声の中に何処か優しさを感じるのは気のせいだろうか。口調に冷たさはほとんど感じられない。
『ブライスさーん、資料出来ましたー』
突然、緊張感の感じられない、間延びした声が聞こえてきた。
廊下の奥から他の研究員が歩いてくる。橙の髪が照明に照らされてキラキラと輝いている。ソニアの目は自然と彼が胸に付けているネームプレートにズームされる。
コナー・フォレット(Connor Follett)。B.F.星3研究員らしい。
『コナーか。ナッシュはどうした』
キュルスの胸が大きく跳ねた。
『実験で遅くなるって言ってました。これ、届けておいてくれって』
コナーの手には分厚い紙の束がある。それを彼はブライスに手渡した。
『そうか』
受け取ったブライスがソニアの方に目を向ける。正確にはソニアの後ろだ。コナーがハッとした様子で足早に来た道を戻って行った。
『ドワイト。ナッシュの手伝いに行ってくる。此処を任せても良いか?』
『もちろん』
画面に映ったのは、ダークブラウンの髪を持つ眼鏡の男だ。キュルスは頭の中で記憶のページを探る。
ドワイト・ジェナー(Dwight Jenner)。彼もまた、文書001の読解メンバーの一人である。
彼は柔らかい笑みを画面に向けた。ソニアに微笑みかけているのだ。
『ソニア、こんにちは。お使いかい?』
我が子に向けるような優しい笑みだった。
『報告書を届けに』
『そうなんだね。ご苦労さま。ドロシーが待っているから、もう行くと良いさ』
『はい、失礼します』
そこで、画面からカウンターが消えた。ソニアが回れ右をして、来た道を戻ろうとしているところなのだ。後ろからブライスとドワイトの会話が聞こえてくる。
『ナッシュは大丈夫なのかい?』
『危険な超常現象ではない。バリアボールは持たせてある』
『そうかい......とりあえず、此処で受付をしていたら良いんだね』
『ああ、頼む』
『任せて』
音声がフェードアウトしていく。ベルナルドが音を切ったのだ。画面もやがて見えなくなった。
暗くなっていた部屋の照明がパッと明るくなり、キュルスは目を瞬かせる。
「どうだい? なかなかのもんだろう?」
フランチェスカがキュルスの顔を覗き込む。
「画質も良いし、あれならば問題なく探索が可能だ。軽く警戒はされているようではあるがな」
ベルナルドも満足げにそう言った。
キュルスは真っ黒になった画面から、まだ目を離すことが出来なかった。彼らの会話の端々に感じる兄の気配。胸が早くなっていく。兄に会うことが可能なのだと、じわじわと実感が湧いてくるのだ。
「今日は運が悪かったねえ」
フランチェスカが軽く肩を小突いた。
「アンタの大好きなお兄ちゃんはまた別の日に見られるさ」
「ナッシュ・フェネリーは実験中だそうだな。何の超常現象の実験をしているのかも気になるところだ。また近々呼んでやるから、今日は仕事に戻れ」
ベルナルドが言い、キュルスは「はい」と頷いた。
まだ胸は早い鼓動を刻んでいる。
踵を返して部屋を出ようとすると、エリゼの姿が目に入った。彼女もまたモニターを見つめたまま動かない。
キュルスはその隣を通り過ぎた。
部屋の中でフランチェスカとベルナルドが話をしているが、もはやその内容は彼の耳に届かなかった。




