夜の帳が下りる音
ベティ・エヴァレット(Betty Everette)は、カウンターを囲むように円形になっている掘りごたつ式の席に腰を下ろした。マスターに果実酒を頼んで、持ってきたクラッチバックから煙草のケースを取り出す。
「悪い遊びを覚えてきたみたいだな」
隣に誰かが座った。それは右目の下に傷跡がある男だった。
ベティはそれでも煙草を取り出すのを止めず、ライターで火をつけた。
「煙草は学生の頃から吸ってるわよ」
ベティは隣の人物にそう答えると、赤い唇にそれを挟んだ。
「随分大胆に誘うもんなのね。政府公認じゃないから、もっと路地裏とかで落ち合うものだと思ってた」
ふう、と吐かれた白い煙は上の方に上っていく。
「そうは言っても此処はお前が思っているよりも純白な酒場じゃないぞ」
男が運ばれてきた酒に口をつける。ベティの前にも赤い果実酒が運ばれてきた。
「ギャングやスパイ、情報屋......世界の裏側で活躍する奴らの溜まり場だ。長居は命取りになる」
「......」
男の言葉にベティはちらりと辺りを見回した。ざっと見て七人がこの場にいるが、一般人と言えどもそう言われるとあのスーツや鞄の中身が気になる。
「怖がらせるつもりはなかったんだがな」
男が含み笑いで言うので、ベティはハッとして目線を戻した。
「......それで、話って何」
ベティは煙草を唇から離した。泣き腫らした目に煙は染みる。さっきまで外を歩き回り、久しぶりのハイヒールによって踵の皮が剥がれ始めている感覚がある。
「ああ、優秀な女医がBack Fileを辞職したという話を小耳に挟んでな。街をさ迷っていたところだ」
チラリと彼を見ると、煙の向こうで静かに笑っていた。如何にも女を手玉に取り慣れているような余裕さを感じさせる。
「変ね。盗聴器でも付けられていたのかしら」
ベティは煙草を口に戻す。かかっていたジャズが変わった。ゆったりとした雰囲気はくゆる煙によく似合っている。
「恋人に浮気でもされたか?」
「失礼なことを言うものね。ちょっとした喧嘩よ。少ししたら戻るつもりだもの」
「ほう。それは明日か?」
「......」
ベティは肩を竦める。
彼女は政府公認の超常現象調査組織であるBlack Fileで女医として働いていた。会社を立ち上げた当時からそこに居り、そこの最高責任者であるブライス・カドガン(Brice Cadogan)とは恋仲であった。ただ、考えの違いからその仲に亀裂が入り、逃げるように会社を出てきた。大きな鞄に荷物をまとめ、すっかり戻らないつもりでいたのだ。
ホテルを取ってこれからの事を考えていると、突然電話に一通のメールが送られてきた。『街の中のビルにあるバーに来い、話がある』とたったそれだけのものだ。送信者の名前に彼女は一瞬だけ躊躇ったが、今の心境ではその選択もありだろうか、と怒りに任せてやって来てしまったのだった。
「戻らないって言ったら、誘拐でもするつもり?」
ベティは煙草の先を灰皿に押し付ける。火が消えると彼女はようやくグラスを手にする。
「素直に従えば強要はせん。この場で全て済ませることは可能だ」
「......一体何が欲しいのかしら」
ベティは一口も口つけることなくグラスを置き、彼を見た。
「簡単に言えば情報だ。文書001に限らず、Black Fileが今まで取り貯めてきた超常現象らのな。頭の良いお前ならば全て記憶するくらい造作もないことだろう?」
「あら、残念。もっと素晴らしい取引だと思ってた。その情報を吐いたところで私が得をすることはあるかしら」
「そうだな。居場所をやっても良い。もしくは、素晴らしい実験を共にするという権利を与えよう」
「素晴らしい実験?」
ベティは眉を顰めて彼を見る。
「俺も会社を立ち上げた。文書001の下部が見つかったのだ」
「何ですって?」
思わず声が大きくなる。周りの目が一瞬だけ彼女に集まった。ベティの目は彼から離れない。男は反応に満足そうに笑う。
「お前たちが大学時代に喉から手が出るほど欲しがっていた代物だ。我々は遂にその文書を繋げて読むことに成功した初めての団体なのだ」
「......」
男の言葉にベティは黙り込む。
「世界はあの日を忘れている。お前たちが読解した部分はそれだけだ。だがな、続きは更に興味深いものだ。もしその話が聞きたければ_____」
「冗談じゃないわ」
ベティがキッと彼を睨みつける。
「そんなことを信用すると思ってた? 見つかったとしてそれを読解できたのは、あんたのとこの女が私の親友から情報を奪い取ってたからじゃない。そんな汚い奴らが文書を見つけたなんて、馬鹿らしい」
「そうか。ならば見せてやろうか」
「もう帰らせて。私は情報を売るために此処に来たんじゃないわ」
ベティは立ち上がった。クラッチバックを手にして、席を離れようとする。
「では、何のために俺の誘いに乗ったんだろうな」
彼の言葉がベティの足を止める。
「此処に来いと言ったが、理由などは一切明かさなかっただろう。でもお前は此処に来た。何を期待していた? 俺がお前の心の傷を癒してくれると思っていたか?」
「......」
ベティはゆっくりと彼を振り返った。
「素晴らしい実験の中身を教えてやる。知っているか? 文書の中身を。死のない世界を。生と死をひとつにすることを。我々の実験が、どれほど膨大で夢があるか」
ベティは小さく目を見開いた。
「医者として死というものを間近に見てきただろう、ベティ・エヴァレット。死から逃れる、いや、死と共存する方法を我々は編み出そうとしているのだ。あの文書の中身からヒントを得てな」
男は目を細める。笑っているのだろうが、その目はビー玉のようだった。冷たいが、美しい。
「来い。エスペラントに。我々と共に白衣をまとえ」
ジャズの音楽がピタリと止んだ。