きみの最上級
「体調はいいと聞いたが……痛みなどないだろうか」
「ありません。寝たきりだったので、体を動かす練習から始めなければいけませんが」
実際、半分ほど紅茶が入ったティーカップをつまむのもきついほどだった。
「あのときは勢いで決めてしまいましたが、婚約相手がわたしで本当にいいのですか? わたしは子爵の出で、評判もよくありません」
「権力を持った家と婚約すると、また要らぬことを言う人間が出てくる。私がこれ以上の権力も富も、フィアラーク家当主の座も望んでいないと知らしめたい」
ワーズワースは小さな土地を治めるのみで、森の木を売ったお金と、民からの税金で暮らしている。
有力貴族にとってワーズワースと付き合う利点はない。ワーズワースは権力に固執しているが、繋がりはわずかしか持っていなかった。
「評判も、きみの姉と元婚約者が吹聴したものだ。その噂は消えるから心配いらない」
「何かされたんですか?」
フィリップは薄く微笑むのみで答えなかったが、それでじゅうぶんだった。
「姉たちが言うのは本当のことです。勉強はできないし、魔法も上手ではありません」
「いい成績をとると暴力をふるわれるの間違いだろう。それに、きみの魔法は素晴らしい素質を秘めている」
(実技でいい成績をとったことがないのに?)
アンナは今まで、大した魔法を使えたことがない。
「ワーズワースとゲーデルの屋敷の地下に、魔力を張り巡らせていると聞いた。確認に行かせたが、魔力暴走でも揺らぐことなく、いまだ健在だ」
「あのときは……無関係の人を巻き込みたくないと必死で」
特にゲーデル家では、脅されて働いている女性が多かった。家族への危害をほのめかされ、やめられないのだ。
「あの場にいた方々は巻き込んでしまいましたけど……」
「よく抑えたのだから、気にしなくていい。私が言いたいのは、魔力量が極めて多く、訓練すれば一流の技を身につけることも可能という事実だ」
「え……ですがわたしは……」
アンナの脳内に、いままで投げつけられた言葉が渦巻く。
ーーあんたなんか何をしても出来損ないなのよ
ーー殴られるだけが存在理由だろ! 抵抗するな!
ーー死んだって誰も探さないし泣きもしない。惨めね!
ーーおいカス、はやく死んでみせろよ
「きみには素晴らしい可能性がある。きみが望む輝かしい未来のために、私の持ちうる全てを惜しまず使うと約束する。ーーきみが、それを望めばだが」
フィリップの声は淡々としていて冷たくも聞こえるが、そのなかに確かな優しさと、心配されていることをアンナは感じ取った。
いまだにアンナの心を蝕む棘が、優しく溶かされていく。
「屋敷を崩壊させる女でもですか?」
「それくらいで済むことを感謝されるべきだな」
「ふふっ、フィリップ様は変わっていますね」
「……そうだろうか? ああそうだ、屋敷を壊すときは、先に奴らの評判を存分に落としてからにするといい。今のままだと、どこかの貴族が金を流すかもしれない」
「それはいけませんね。路頭に迷ってもらわないと」
「追い詰めすぎるのも勧めない。敵はあまりに後がなくなりすぎると、捨て身の行動に出ることがある。聞くかぎり、ワーズワースは何かしでかしそうだ」
「おとなしく這いつくばってくれないでしょうね」
でも、それでいい。簡単に心が折れてしまっては、復讐のしがいがない。
上機嫌で紅茶を飲んだアンナは、ケーキに手を伸ばした。ひとくち食べるごとに、おいしさに目を丸くしたり、うっとりと味わったり、休めることなく手を伸ばしたりと、見ていて飽きない。
「……きみが望むのなら、ワーズワースと親子の縁を切ることができる。書類も用意させた」
「それは……とても嬉しいです。でも、簡単にできるとは思えません」
「きみには意図的に知らされていないかもしれないが、子を虐待すれば罪に問われる。きみが口外しないことと引き換えにすれば、サインさせられる」
アンナの青い目が、水底から見た水面のように、きらきらと輝いた。
「縁を切りたいです! あ、でも……そうなるとフィリップ様は平民と婚約することに」
「フィアラーク分家の養女となればいい」
フィリップは目を伏せた。初めて自由を得て羽ばたきたいアンナを縛り付けるのは、心苦しかった。
「……最短で5年、長ければ10年以上婚約してもらうこととなる。きみの婚期を逃してしまう。恋愛をするなとは言わないが、その相手と結ばれるのは遥か先だ。……きみこそ、婚約していいのか?」
「フィリップ様は、わたしのことを調べたのでしょう?」
アンナは心底不思議だと首をかしげた。
「あんな目に遭って、まだわたしが結婚を望むと思っているんですか? 本気で?」
「だが、よっぽどのことがないと……」
「わたしにとって、今までの日々は『よっぽどのこと』だったんです。すべての男性が息を吸うことすら不快な存在だとは思いませんが……夢見る時期は過ぎたんです」
「……そう、か」
「そうです。フィリップ様と婚約解消したら、平民の寡婦として遠くで暮らす予定なのでお気になさらず。たっぷりお金をくださいね」
場の空気を変えるために茶目っ気たっぷりに笑ってみせるアンナに、フィリップはかすかに微笑んだ。
「約束しよう。忘れないうちにこれを渡しておく」
フィリップが取り出した箱はビロードで覆われており、見るからに高いものだった。恐る恐る受け取ったアンナは、中を見て驚きでかすかな悲鳴をあげた。
中に入っていたのは、アンナの手のひらに乗る大きさの、色付きの魔石だった。透明に青く光るそれは、周囲に宝石や小さい色付きの魔石が散りばめられており、非常に豪華だった。
「これほど大きい色付きの魔石だなんて……こんな高価なものいただけません」
色付きの魔石は非常に珍しく、大きな魔獣を倒しても滅多に出ない。王家に献上してもおかしくない品が自分の手の上にあるのが、アンナは恐ろしかった。
「これは私が退治した魔獣から出てきたものだ。まだあるから遠慮せずつけてくれ」
「壊したら弁償できません!」
「あげたのだから好きにすればいい。空の魔石だから、できるだけ身につけていてくれ。万が一魔力が暴走しても大丈夫なように」
フィリップが立ち上がり、アンナの手からネックレスを取る。
フィリップが後ろへまわってネックレスをつけるのを、アンナは困惑しながら受け入れた。
フィリップから、ほんのりと草木のようなみずみずしい香りがした。長く絹のような銀の髪からは、シトラスの香りが。
ギュンターにいじめられる以外、異性とこんなに近くにいたことはない。どきどきしながらララが用意した鏡を見ると、上品なきらびやかさでデコルテが彩られていた。
「ありがとうございます。……こんな素敵なものをいただけるなんて」
「婚約者への贈り物だ。受け入れてくれて感謝する」
フィリップは自分の手を握りしめた。
指先にふれてしまった、アンナの白く柔らかな肌の感触が忘れられない。
「もし本人が望むなら、ララとその弟も一緒に領地へ来るといい」
「ありがとうございます。でもトト……ララの弟は、もうすぐ完治すると聞いています。ねえララ?」
アンナとララの目が合った。ララのひとみは凪いでおり、静かな決意をたたえていた。
「ご配慮に感謝いたします。弟と一緒にまいります」
「では、そう手配しておく」
「ララ、だめ! ようやくトトと一緒に暮らせるのよ!
「ええ、アンナ様もご一緒に。ここにいては、ワーズワースに何をされるかわかりません。……アンナ様さえよければ、また一緒にいてもいいでしょうか?」
「っ、いいに決まってるじゃない……! 」
飛び出そうとしたアンナは一度は衝動を抑えたが、フィリップに優しく頷かれ、駆け寄ってララを抱きしめた。
「本当にいいの? お友達は?」
「早くから働いていたのでいません。トトも隔離されていたので、親しい人間がおりません。お気になさらないでください」
「ララ、あなたがいてくれるだけで、どれほど心強いか!」
その後フィリップはアンナと細かなことを決め、部屋を出た。
自分の客室へ向かう途中でグラツィアーナと会い、しばし一緒に歩くこととなった。
「アンナと話はできて?」
「……魔石より、あのメイドが共に来ることを喜んでいました」
珍しく拗ねた声色のフィリップに、グラツィアーナは声をあげて笑った。
「あなたが毎日何度も、アンナを見舞っていたことを知らないのよ」
「知っていても変わらなかったかと」
「あなたのそんな顔、初めて見たわ。氷の貴公子も意外と素直に恋に落ちるのね」
「……からかわないでください」




