フィリップ・フィアラーク2
「わたしは婚約破棄をしたあと逃げ出して平民として暮らそうと思っていました。貴族のままでは実家からもゲーデル家からも逃げられないでしょうが、平民として逃げれば別ですから」
衝撃から立ち直ったフィリップは、青ざめたアンナに尋ねた。
「平民として暮らしていけるのか?」
「今まで一般的な平民以下の扱いを受けてきましたので」
「君が?」
フィリップは鼻で笑った。手入れされた髪といい物腰といい、どう見ても教育を受けた貴族だった。
「平民は、日常的に殴られたり背中に火を押し当てられるのでしょうか?」
「それは卑劣な罪を犯した奴隷の扱いだ」
「でしたら今までより、よっぽどいい状況です」
向けられた強い瞳にフィリップは怯んだ。
戦いでどんな憎しみに満ちた目で睨まれても受け流していたのに、この少女の内に潜むものは計り知れなかった。
「アンナ嬢、急に言われて混乱しただろう。だが、褒美はすべてメイドに渡してしまった。これからどうやって生きていくんだい?」
「殿下、わたしはララさえ健やかでいてくれればいいのです。残飯を食べるのは慣れていますし、どこかで仕事を探します」
「体を売るしかなくなるかもしれないよ」
「拷問で死ぬよりマシです」
ここでようやく、フィリップは自分が思い違いをしたのではと思い至った。
アンナの言葉を信じるならば、確かに平民以下の、劣悪な状況にいる奴隷の扱いだった。そんな状況で、初対面の男の婚約者になりたいわけがない。
「アンナお願いよ、そんなこと言わないでちょうだい。わたくし、初めて友と呼べる人ができたの。友人がそんな状況だと知って生きていけないわ」
「グラツィアーナ様……」
完璧を求められるグラツィアーナにとって、アンナは初めて心やすらぐ会話ができた人間だった。
派閥も、言葉の裏の含みも、なにも気にしなくていい。フィリップの婚約者となったなら、グラツィアーナといることは自然であり、これからももっとたくさん話ができる。
英雄を自国につなぎとめる楔は、多いほどいい。
「フィリップは望まないことはしない人間よ。暴力なんてふるわないし、ワーズワース家やゲーデル家より爵位が上だから、アンナを守ることができる。婚約は……10年ほど続くかもしれないけれど、そのあいだ市井でも生きていけるように準備すればいいわ。そうだ、そのあいだにメイドの弟君の病気も完治するのではないかしら! そうしたら3人で生きていけるわ!」
アンナの目が揺れた。
「アンナ、お願い。このまま市井に下ってそのような暮らしをするのなら、ほんのすこし我慢して、じゅうぶんなお金を持っていってちょうだい。わたくし、そのためならいくらでもお願いするわ」
グラツィアーナにそこまで言われると、アンナに拒否権はなかった。
渋々フィリップを見やる。
「……わたしを心身ともに傷つけず、婚約解消後に平民としてしばらく生きていけるだけのお金をくださるのなら、婚約します」
「……ああ」
フィリップの返事を聞いてアンナの胸に渦巻いたのは、安堵でも諦めでもなく、激しい怒りだった。
いつか逃げ出そうと耐えて、耐え抜いて、結局は男にすがらなければいけない自分が憎かった。自分ひとりでは何もできない事実に、怒りが燃え盛る。
「うっ、ぐ……!」
アンナの胸のなかで、なにかが熱く暴れまわる。激しい痛みに、アンナは胸を押さえてうずくまった。
戦の経験があるフィリップは、アルベルトを守りながら立ち上がった。
「魔力暴走です! おふたりとも急いで部屋を出てください!」
魔力暴走は、名前どおり魔力が暴走し制御できなくなる病だ。魔法を使いすぎたり溜め込みすぎたり、激しい精神的苦痛を与えられたときになると言われている。終戦した今では滅多に起こらなかった。
魔力が尽きれば終わるが、甚大な被害をもたらすので、本格的に暴走する前に魔石で魔力を吸い込まなければならない。
フィリップは万一のときのために身につけていた、空っぽの魔石をアンナへ放り投げた。魔力がうねり、魔石へ吸い込まれていく。
「駄目だ、足りない! 殿下、グラツィアーナ様、お早く!」
「フィリップ、これを!」
「これは殿下の魔石です!」
「命令だ、使え!」
「っ、はい!」
アルベルトが持っている魔石はかなり大きく、身につけられるよう細やかな装飾がついている。それらを惜しむことなく、フィリップは魔石を投げた。
魔力は滝のように魔石へ流れ込んでいき、大部分は収まったものの、まだ残滓が行き場を求めていた。
「エマ、わたくしの魔石も使いなさい。命令です」
エマと呼ばれた侍女が魔石を放る。整いすぎて恐れさえ感じるエマの顔は無表情だったが、グラツィアーナを背に庇いながら、じりじりと後退していた。
アンナの体に残る魔力もすべて魔石に吸い込まれると、ようやく魔力暴走が止まった。
意識を失って崩れ落ちるアンナをとっさに受け止め、フィリップは分厚い手を小さな口にかざした。
「……息はしています。おそらく命の危険はないでしょう」
空っぽの魔石がなく、魔力を無理に抑え込もうとすると死に至ることもある。
小さな体にこれほどの魔力が溜め込まれているなど、思ってもいなかった。
「アンナ嬢に有り余る魔力があれば、余計に家から逃げられない。おそらく、無意識に抑え込んでいたのだろう」
「ああアンナ……どれほどつらい人生を歩んできたか」
グラツィアーナはアンナの頬にふれ、キッとフィリップを睨んだ。
「アンナを少しでも不幸にしたら許しません」
「肝に銘じておきます」
「フィリップ、そのままアンナ嬢を運んでくれ」
「かしこまりました」
フィリップはアンナを抱き上げ、あまりの軽さに驚いた。エマの案内に従って部屋を出ようとしたところで振り返る。
「おふたりを危険にさらした咎は、あまんじて受けましょう。おふたりも、きちんと叱られてくださいね」
アルベルトはドアの外で控えていたテオに、グラツィアーナはエマに、それぞれ鋭い視線を送られていることに気づいた。
アルベルトとグラツィアーナを守りつつ逃げるように言ったフィリップに諭されては、素直に頷くしかない。フィリップは魔石を預け、大股で出ていった。
部屋には、やけに神妙な顔で、グラツィアーナより一足先に小言を並べられるアルベルトが残るのだった。