フィリップ・フィアラーク1
その日、フィリップは機嫌が悪かった。
フィリップの内情も心情も知っているアルベルトが、ひとりの令嬢を紹介すると言ったからだった。
大きな大陸に、大きさも武力も均衡した3つの国がある。そのうちの一つがアンナが住む国、クレヴァリアンだ。
昔は大小さまざまな国があったが、長い年月をかけ三国になっていった。三国はときには隣国と手を組みながら互いに戦争をしかけあったが、500年以上たっても決着がつかなかった。
幾度となく繰り返される戦に、国は疲弊していく。国力が落ちていくあいだに、海を隔てた遠い地から兵が攻め入ってきた。
この時ばかりは三国は協力して戦い、なんとか勝利した。
この戦は三国に脅威を抱かせるにはじゅうぶんだった。貿易もあまりしてこなかった国は造船が遅れており、次に攻められたら勝てない。
こうなってからようやく三国は協定を結び、国の安定と発展に力を入れた。
しかし、先祖代々の悲願は、そう簡単に忘れられるものではない。三国から武と知に優れたものをそれぞれ5名ずつ選出し、模擬戦で競わせることにした。
星辰の儀と名付けたそれは、国力を争い経済を回す、大陸で最も大事な政だ。
他国へ備えると同時に、隙あらば隣国を乗っ取ろうとする、昔と比べればだいぶ平和な戦争だった。
フィリップ・フィアラークは、武においてここ5年負けなしの英雄だった。フィリップのおかげでクレヴァリアンは優位を保てている。
(私の状況を理解してなお、令嬢を紹介するとは)
フィリップはアンナについて少しだけ聞かされていたが、特に興味はもてなかった。虐げられているのなら、逃げ出すなり叩きのめすなりすればいい。
努力もせずにうずくまっている人間は、フィリップにとって最も嫌悪する存在だった。
指定された部屋へ行くと、ドアの外にいたアルベルトの側近がドアをノックした。返事を聞くと、テオがドアを開け、フィリップが入るなり素早く閉めてしまった。
殿下が使うにはあまりにこぢんまりしたテーブルに、10代半ばの見たことのない女が座っていた。
長い茶色の髪はゆるくウェーブして、窓から入る光を反射して淡く光っている。あまりに細くて小さく、小柄を通り越して不健康に見えた。
深海のような青い瞳はまっすぐフィリップに向けられている。
媚も憧れもない、赤ん坊のような瞳だった。
好意も嫌悪も、好奇心すらない視線は初めてで、フィリップはわずかに戸惑った。
「お呼びに馳せ参じました。アルベルト殿下、お久しぶりです。グラツィアーナ様も麗しく」
「呼び出してすまなかったね。椅子に座ってくれ」
いつもの四角いテーブルならば下座に座るのだが、目の前にあるのは丸いテーブルだった。
一脚しかあいている椅子がなく、内心戸惑いながらも、顔には出さず腰かける。
「アンナ嬢、こちらはフィリップ・フィアラーク。我が国の英雄だ」
噂に疎いアンナでもよく聞く名だった。
目の前の青年はおそらく20代後半で、鍛えている身体に鋭く光る黒い目が印象的だった。細くて柔らかそうな銀色の髪を後ろへなでつけ、後ろでひとつに結んでいる。
アンナは驚いてフィリップを見つめてから、慌てて頭を下げた。
「アンナ・ワーズワースと申します」
(しまった、立つべきだった!)
挨拶してしまったあとでは、もう遅い。
アルベルトはふくみ笑いをしながら、話を続けた。
「フィリップ、アンナ嬢は世間に疎いところがある。フィアラーク家のことを説明するが、いいだろうか」
「仰せのままに」
フィリップの事情は、貴族にとって公然の秘密だった。
「フィリップは、フィアラーク本家の実子ではない。分家からの養子だ。本家の嫡男が成長して家督を譲り受ければ、フィリップに新たな爵位を与えることになっている。
フィリップは英雄だ。そのまま本家を継ぐべきという意見も多いが、義理堅いフィリップはそれを良しとしない。フィリップを跡継ぎにと推す者は多く、このままでは望まぬ婚約者を得て、そのまま跡継ぎに押し上げられるかもしれない。ここまで質問は?」
「ありません」
「次に、フィリップにアンナ嬢の事情を説明しても?」
「……はい」
まったくもって良くはなかったが、頷くしかない。
「アンナ嬢は先日の隣国からのスパイを捕獲する際に多大な貢献をしてくれた。その褒美として、暴力を振るう婚約者との関係を白紙に戻し、虐げる家族から匿った。
婚約破棄はすぐに出来るようしてあるが……彼らの性格をよく知るアンナ嬢に尋ねたい。婚約破棄をしたとして、彼らはアンナ嬢を手放すだろうか?」
アンナは力なく首をふった。
冷たく震えるアンナの指を、グラツィアーナが優しく包み込む。
「婚約破棄をしても、もう一度ゲーデル家から婚約の申込みを受ければ、ワーズワースは受けるでしょう」
「アンナ嬢をグラツィアーナの侍女とすることも考えた。ワーズワース家との接触は減らせるが、面会を希望されたら王家としてすべて却下するわけにはいかない。婚約も同様だ」
「はい……」
「アンナ嬢にとっては非常に不本意だろうが、子を望めない体になったと噂を流すこともできる。それでゲーデル家は諦めるか教えてほしい」
「諦めません。ギュンター・ゲーデルがわたしを逃がすとは思えません」
アンナはひとつの可能性に気づいて震えた。
もし子が産めないとなっても、ギュンターが外向けの顔で、愛するアンナと結ばれたいと言ったなら。
跡継ぎをもうけるために、公然と妻をふたり娶ることとなる。いや、アンナは愛人以下としてゲーデル家へ行くことになる。
孕むことを気にしないでいいのなら、これから先もっとひどい扱いを受ける。おそらく……拷問に近いことを。
「そこで、ふたりに婚約を提案する。フィリップとしては、中立の家の娘を婚約者とし、新たな爵位を授かってから婚約解消をするのが望みだ。アンナ嬢は実家と婚約者から逃れ、メイドとその弟を連れて遠い地で暮らせる。フィリップと婚約解消をした後は、生きていくに困らない金銭が与えられると約束する」
フィリップにとって、悪い話ではなかった。
見知らぬ娘に、子が出来たから責任をとってくれと言われるのも時間の問題だった。知らぬ間にフィアラーク家当主にさせられていることも考えられる。
フィアラーク家の中ではまだ抑えられているが、外部からフィリップ派が介入してくれば均衡は崩れるだろう。
フィリップが求めているのは、爵位が低く発言力がない家の、間違っても自分に懸想しない、手を煩わせない娘だった。
フィリップに憧れている娘はあまりに多く、家柄は当てはまるが恋はしないという娘がなかなかいなかった。
「仕方ありません。そのように進めてください」
フィリップは、いままで選ぶ側だった。
実力も爵位もあり、自分が肯定すれば終わるものと考えていた。
「……嫌です」
だから、アンナの低い声に心底驚いた。
「嫌です」
しかも、二回言われた。