片道地獄行き、ホームにて
じゅうぶんに休息を取り、心身ともに気力が充実したアンナは、父のパトリツィオに会うことにした。グラツィアーナにはさんざん心配され、フィリップは新たに空っぽの魔石を用意した。
フィリップは口下手で、冷たくも聞こえる言葉の中には心配と優しさが詰まっていた。第一印象があまりに悪く、アンナの中でいまだ悪印象を拭えていないフィリップだったが、言葉をかわすのは嫌いではなかった。
「フィリップ様はもう少し休んでからと言いますが、あの家と縁を切れるのはこの上ない喜びです。今日はわたしにとって記念すべき日、長年耐え抜いたことを盛大に祝う日です。許されるなら、あのクソッたれ……あら失礼、この世界にとって害しかもたらさない生物をぶちのめしたいのですが、後の楽しみにとっておきます」
アンナはまだパトリツィオの娘であり、暴力を振るえば自身も罪に問われてしまう。絶縁したあとはアンナは一時的に平民になり、貴族に危害を加えるのは重罪だ。
しかしそれも、もうしばらくの辛抱だ。フィアラーク家から復讐のGOサインが出たら好きにしていいと言われたときのアンナの輝きっぷりといったら、フィリップが「自分には笑顔を見せてくれるのも稀なのに……」と落ち込むほどだった。
王城に用意された部屋に入ると、パトリツィオがすでに待っていた。パトリツィオはアンナを見て歪な笑みを浮かべたが、次いで入室したフィリップを見て凍りつく。
パトリツィオはフィリップが女嫌いなことを知っており、この場に来るなど考えてもいなかった。
「書類にサインを」
フィリップはわざと挨拶をせず、すぐに本題に入った。磨かれた机に書類を置く。
自分だけでも挨拶をと見上げたパトリツィオに冷酷な視線が突き刺さり、パトリツィオは慌てて書類に目を通した。読むにつれ、顔の色が消えていく。
「読んだな? お前の罪を問わない代わりにアンナと絶縁し、ワーズワース家とフィアラーク家の一切の関わりを禁ずる。拒否権はない」
「……ララが苦しむでしょう」
「お前には関係ない」
「アンナ、お前はこれでいいのか? 確かに躾にしては行き過ぎたこともあったかもしれない。けれど、すべてお前を思ってのことだ。ゲーデル家に嫁いで恥をかかないようにと、お前のためにしていたんだ」
アンナはパトリツィオを見なかった。この空気の中ひとりでお茶を飲み、クッキーを食べる。
アンナにとってパトリツィオは、あの家ではまだマシ、ただそれだけだった。何があっても無視され、助けを求めることは早々に諦めた。ワーズワース家の負はすべてアンナに押しつけ、機嫌が悪いときは怒鳴りつけたり蹴ったりする。
たまにしかないから良かったが、男で力が強いぶん一撃が重く、アンナの骨が歪んだのはパトリツィオのせいだった。
パトリツィオは反応のないアンナにしつこく話しかけていたが、フィリップに睨まれてしぶしぶ、できるだけ時間をかけて署名した。フィリップが素早く書類を回収し、懐にしまう。
「ではアンナ、行こうか。用事はすんだ」
「ま、待ってくれ! アンナ、よく考えるんだ。誰が苦しむか。アンナが証言してくれれば、」
「黙れ! お前はもうサインした。今後いっさいアンナに話しかけるな触れるな視界に入れるな!」
あまりにも自分勝手な見苦しさにフィリップが怒鳴ると、さすがのパトリツィオも口を噤んだ。耳が痛いほどの静寂が訪れ、フィリップはハッとアンナを見た。
「先に私が怒ってしまってすまない。きみが話したいのならば話すといい。これが最後の機会だ」
アンナはフィリップを見上げ、心底おかしそうに笑った。
「わたし、害虫と話す趣味はないですよ。フィリップ様ったら、ご冗談が下手ですね」
「っお前、娘のくせになんという口を!」
「お前の娘ではない! 警告はした、二度目はない」
ひゅんっとフィリップの剣が風を斬る。
星辰の儀で勝ち続けるフィリップだからこそ許された王城での帯剣。稽古場以外ではじめて抜かれた剣はパトリツィオの口先に突きつけられていた。
口を閉じれば剣にふれる。パトリツィオの生死は、フィリップに握られていた。
剣が生き物のように動き、見苦しくない程度にパトリツィオの服を切り裂いていく。
「そのまま帰れ。お前には似合いの格好だ」
パトリツィオの一張羅はボタンがなくなり、スカーフは破れた。だらしなさやみすぼらしさを感じさせる匠の仕上がりに、アンナが喜びの声をあげる。
「確かに似合ってます! フィリップ様、センスがおありですね」
屈辱に震えるパトリツィオに見向きもせず、アンナは軽やかに笑って部屋を出ていく。アンナに二度も笑顔を向けられたフィリップも、いつもの凍てついた顔を溶かし、かすかだが柔らかな微笑を浮かべてそれに続く。
パトリツィオは白くなるほど握りしめられた手を見つめ、それからようやく事の重大さに思い至った。
(脅しを聞かなかった……アンナは人質を手に入れた? それとも人質の価値がなくなった? もしそうなら、もう私に出来ることはない……!)
パトリツィオは必死に考えるが、なにも思いつかなかった。そもそも、もう書類にサインをしてしまっている。あの場でサインをしなければ、きっと斬り捨てられていた。
汚名を飲み込めるなら、まだ貴族として生きていける。フィアラークとゲーデルを敵に回してだが。
息をひそめて生きていけば、目こぼししてもらえるかもしれない。だが、そう都合よくいかないだろう。フィアラークが噛んでいるのなら、素直に逃してくれるとも思えない。
「……どうすればいい。どうすれば……」
頭を抱えるパトリツィオに、ワーズワースに、救いの道はない。
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