クズの行く先
ニックの朝は遅い。建前として医院を開けてはいるが、主な仕事は人質を見張ることだからだ。
人質といっても、縛ったり監禁したりはしない。相手は病弱な子供で、いつもベッドで咳き込んでいる。薬を与えれば完治するが、決して治さないようにと言われている。殺さず治さずというのは、思ったより難しい。体力が落ちすぎると死にやすくなるが、死なせないために散歩などさせてはいけない。
いくら不機嫌でもある程度は優しく接しなければ、ときおり見舞いに来る彼の姉に疑われてしまう。不審に思われて全員で逃げ出されてしまえば、ニックの未来はなかった。
「襲っちゃいけねえってのがなぁ……ワーズワース様も酷なことを言う」
見舞いに来る姉のララは、なかなかに整った顔立ちとスタイルをしていた。手篭めにすればさらに言いなりにできるというのに、ワーズワース子爵は消極的だった。
いわく、そこまですればワーズワースで生贄となっている娘が何をするかわからないらしい。ギリギリ我慢できるようにしているのだから、最後の一押しがあってはならないと。
ニックはため息をついて煙草の火を消し、トトに偽の薬を処方した。そこらへんに生えている雑草をすりつぶしたものだ。
「……これ、飲まなくちゃだめ? 苦くてまずいの」
「飲まないとよくならない。お姉さんと早く一緒に住みたいんじゃないか?」
「……うん」
トトは素直で、たまにわがままを言ってもすぐに丸め込めてしまう。ベッドから出ないように言い、買い置きのパンを与えると、往診に出ると嘘をついて外へ繰り出した。
ニックにはじゅうぶんな給金が与えられており、たまに羽目を外すのが気晴らしだった。昼過ぎから飲んでしまおうかと街をぶらついていると、こんな僻地ではなかなか見かけない美女を発見した。美女はなにか困っているようで、ニックを見つけるとうるんだ瞳で見つめてきた。
「お金を落としてしまって……一緒に探していただけませんか?」
「もちろん」
即答だった。下心しかないニックは、美女が屈んだときの胸の谷間だとか、お尻の曲線を楽しみながらお金を探すふりを続けた。お茶の時間になると奢ると言って休憩して夕刻までねばり、夕食に誘った。
「まぁ……行きたいのですが、あいにくと手持ちが」
「いいんです、こちらが誘ったんだから気にしないでください」
「でも、先程もそう言ってくださいましたわ」
「美しいあなたの時間を、少しでも私と共有してくれるなら、これ以上の喜びはありません」
「……なんて優しい方」
うっとりと向けられる視線に、ニックは心の中でガッツポーズをした。
雰囲気のいい店で食事を酒を楽しみ、夜はこれからだぜ……と張り切ったニックは、翌朝ひとりで見慣れない宿で目を覚まし、唖然とした。まさかの酔いつぶれである。
落ち込んだニックは、美女からの「昨日出会った場所で待っています」という伝言を受け取り、大喜びで出かけた。そしてその夜、またしても酔いつぶれ宿で目を覚ました。
それを2回続けると、ついに美女からの伝言はなくなった。さすがに見限られたらしい。やけ酒で酔っ払ったニックが数日ぶりに医院へ帰ると、そこには誰もいなかった。
一気に酔いが覚める。
「……トト? どこにいるんだ?」
あの従順で御しやすい子供は、数日ニックが留守にしても、空腹を抱えながら待っていた。だから、いなくなるとは思ってもいなかった。家中探したがどこにもおらず、書き置きもない。
「…………殺される」
ようやくニックは事態を飲み込み、金目や大事なものを抱え、医院を飛び出した。人質がいなくなったと知られればニックはワーズワースに消される。
逃げ出すニックを見張り、後をつける人影は誰にも気づかれなかった。
・・・
エレナが報いを受けているころ、もうひとり絶望している者がいた。アンナの父親のパトリツィオだ。
王家から手紙が来て慌てて封を開けると、ご丁寧な言葉で「アンナが国に貢献した褒美として、ギュンター・ゲーデルとの婚約を破棄し、フィリップ・フィアラークと婚約する。これは王命である」と書かれていた。さらには「アンナの心身の休息に必要なため、ワーズワース家で雇っているメイドのララを連れて行く。この手紙を持ってきた使者に身柄を預けろ」とまで書いてあった。
アンナへの虐待はきっとバレている。そうなったときに口をつぐませるためにララを飼い殺していたのに、それまで連れていかれてはアンナを操れない。
パトリツィオは返事とともに、親としてアンナに会いたいと記した。封蝋をし使者へ手紙を預け、心配でたまらないという顔を作ってみせる。
「私も共に行かせていただきたい。アンナは無事ですか? 一目でいいから会いたいのです」
「ご無事です。王城の医師がついておりますので心配ありません」
……医師が診ているのなら、確実に虐待のことは知られている。
パトリツィオは焦りが顔に出ないよう注意しながら、なお言い募った。
「私もついていきます」
「まだ面会できる状態ではないと聞いております。アンナ嬢の体調が整ったらワーズワース子爵もお会いできるでしょう。メイドのララの雇用契約書をお出しください」
「……少々お待ちください」
ララはメイドとして働く建前で王城に行く。王城で働く者は、誰であっても二重雇用は許されていない。アンナとララが逃げられないよう契約したのに、自分の手で契約を終了しなければならないのは腸が煮えくり返る思いだった。
急いでララの雇用契約書を書き換え、トトや減給に関することは削った。いたって普通の契約書になったものを渡すと、使者は丁寧に確認し懐へしまった。
「王城にて雇用終了の手続きをいたします。では、メイドを連れてきてください」
「いま使いに出していますので、しばしお待ちください」
アンナがいなくなった家で苛立ちのはけ口にされたララは、すぐに人前に出せる身なりをしていなかった。
急いで新しい服を着せ、あざを化粧で隠したララは使者に連れられていってしまった。
(直接口止めしたかったが仕方ない。弟の命はまだこちらが握っているから何も言わないだろう。あの使者め、頑なに同行を拒否しやがって)
とにかく今はトトを連れてきて監禁するのが第一だ。パトリツィオが指示を出す前に、執事が慌てた様子でやってきた。
「失礼いたします。ゲーデル伯爵がお見えです」
「……すぐ行く」
(我が家に使者が来たのだから、ゲーデル家にも手紙は届いているはずだ。まさか我が家より先に届くよう送っているとは)
「ワーズワース! どういうことか説明しろ!」
パトリツィオが応接室へ移動する前に、ゲーデル家当主ウィルフリッドが執務室へ押しかけてきた。いつもパトリツィオの前で見せている傲慢さや優雅さはどこにもない。
「貴様があの娘をどうにでもしていいと言うから婚約したのだぞ! なぜ王族に嗅ぎつけられている!」
「私も今しがた知ったところです。ひとまず落ち着いてお茶でも飲まれませんか?」
「落ち着いていられるか! 罪に問われ賠償金まで支払わなければならないのだぞ!?」
家族内でも虐待は罪になる。婚約者とはいえまだ結婚もしていない、他家の未婚の女性に暴力を振るうのは、非常に重い罪だった。
「こちらには、まだメイドの弟が残っています。いくら医師が虐待だと言っても、本人が否定すれば終わりです」
「……そうか、まだ人質が残っていたな。人質はどこに?」
「いま確保に向かわせています」
パトリツィオは自信たっぷりに頷いてみせた。
(ゲーデルが帰ってすぐに連れてくるように言えばいい。何かあればニックから連絡が来るが、まだない。人質はまだ私の手の中だ)
「あいつを脅して、罪と賠償金を取り消させろ。伯爵である我がゲーデル家に罪などあるはずがない。賠償金も、全財産で支払えるかどうかだ。あの薄汚い娘にそんな金をかけていられるか」
「ええ、そのとおりです」
パトリツィオはウィルフリッドをなだめた。プライドだけは無駄に高いウィルフリッドは褒めれば上機嫌になる。
「ワーズワースではなく、ご自身のゲーデル領に堂々といらっしゃるのがいいのではないでしょうか? いずれ解決する問題なのですから、わざわざいらぬ憶測を呼ぶこともありますまい」
「おお、たしかに。では連絡を待っている。早くするように」
「かしこまりました」
ウィルフリッドを見送ったパトリツィオは、指示を出す順番を考えつつ執事を呼んだ。
(ゲーデルは代々妻や娘を虐待してきた事実が明るみに出るのを恐れている。ゲーデルには賠償金を請求したのに、我が家にはないのはおかしい。いずれ請求されるか、別の要求があるか……とにかく人質がいればどうにかなる)
「……旦那様。お客様でございます」
「いま忙しい!」
さらに出かけた文句は口の中でかたまった。
振り返ったパトリツィオの目に入ったのは、鮮やかな群青色の服。胸で光るのはアルベルトの紋だ。
「……アルベルト殿下の近衛が、我が領地にいらっしゃるとは。お待たせしてしまい申し訳ございません」
「こちらが待つと言ったのですからお気になさらず。パトリツィオ殿が王城へ呼ばれるまで警備を務めさせていただきます。後ほど順番に部下を紹介しますので、業務は我らを通して行っていただきたい」
パトリツィオの背中にじっとりと冷や汗がにじむ。
これは実質軟禁で、ワーズワース家の権限を取り上げられたようなものだ。これでは人質を確保しに行けない。
「近衛ほどの方々が雑務を行う必要はございますまい」
「ああ、ワーズワースの方々はあまり社交をしておられませんでしたね。わかりやすく申し上げますと、これは命令です。ご息女や奥方にも部下がついておりますので、貴殿がご説明に向かわなくて結構です」
パトリツィオの目の前が暗く歪んでいく。
残るはかすかな希望は人質だけだが、今動いては確実に感づかれる。それだけは阻止しなければならなかった。
ニックが逃げ出したことを知らないパトリツィオは、まやかしの希望にすがりつきながらアンナを脅せる日を待った。




