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楽市楽座令の本質

 

 筆者藤瀬の独り言にお付き合いいただきありがとうございます


 第2回は楽市楽座令の本質ということで

 本編でも一話割いて考察しましたが、楽市楽座って本当は何なのかなぁというのが『近江の轍』を書き始めたそもそものきっかけです


 ウェブ小説でも日本史改変ものを書いている作家さんにほぼ出てくるのが

「経済政策は楽市楽座で」

 というフレーズです

(他の作家さんの作品を批判しているわけではありません。念のために)

 確かに、織田信長の楽市楽座令は画期的な経済政策であると歴史学者さんに言われているんですが、調べてみると楽市でも座商人が勢力を失っているわけではないんですよね

 つまり、実際それによって商人の勢力図が塗り替えられたという根拠はどこにもなかったんです



 実際、安土城築城後の天正8年頃(だったと思います)に、近江の建部座(建部神社の油座)に油商売の独占権益を保障した信長自身の文書が残っていたり

 織田領になる前から越前の座商人から楽座ともいえる税の軽減の嘆願書が朝倉氏に提出されていたり

 あるいは対武田の最前線ともいえる小山に徳川家康から楽市令が出されていたり

 中国攻めの時には三木城方の補給基地である淡河を制圧した際に秀吉から楽市令が出されてたり


 なんか調べれば調べるほど『楽市楽座』というものがわからなくなってきました

 結局楽市って「ここは俺の縄張り!」と宣言する以上の機能を持っていなかったような気がしています



 ちなみに、織田政権の後継者を自任する秀吉ですが、彼が出した楽市令は信長存命中の淡河の一例だけでした

 蒲生氏郷のように配下の武将が自国領で楽市楽座令を実施する例はいくつかあるのですが、秀吉自身の令によるものは本編で上げた『破座・無座』令のみになります

 後にも先にも秀吉自身が実施した楽市は淡河のみってことですね


 徳川家康の時代になるとさらに少なくなって、小山のほかは楽市を認めたのは岐阜加納と八幡町の2例だけで、それも信長公が実施したからしゃーなしに認めたという感じがします



 ちなみに八幡町は正確には秀次ですが、その根拠として安土城下町の機能を全て吸収したのだからという建前を言っています

 ここからも、八幡町民は元々安土町の町民であり、さらに遡れば得珍保・小幡・馬淵・横関などの座商人を誘致したのがそもそもの八幡町民のルーツと言えます



 結局、自由商業という宣伝文句で、対立する座商人を仲直りさせて、平和にしてやったんだから今後は自分に税を払えよというのが安土の楽市令の意味だったんじゃないかなぁと

 じゃあ、それによって商業が発達したというのは嘘なのか?

 というとそうでもありません


 実際、楽市をきっかけに数々の後世に名を遺す商人が出て来ています

 近江の轍の主人公、西川仁右衛門さんもその一人ですね


 それ以前は『保内商人』とか『小幡商人』とか『馬淵・横関商人』といったグループ名を指すものばかりで、この楽市楽座を起点に『個人』としての商人の名前が文献に残るようになったのも事実です



「商業の発達に寄与したのはどちらかと言えば関の撤廃の方だったのかもしれない」


 というのが、私の仮説です

 楽市そのものには商業を活発化させる意図はなくて、自分の縄張りなんだからお前ら仲良くしとけよ

 程度の意味合いだったんじゃないかと…

 まあ、この辺の判断というのは学者さんたちにお任せするしかないわけですが


 ともあれ、織田信長の楽市楽座が果たした歴史的意義というのは、グループである『座商人』から個人としての『〇〇屋』を浮かび上がらせたというのがそれにあたるのかなと

 この機能を持った秀吉の政策がもう一つあります

 それが『太閤検地』です


 検地によって〇〇郷とか〇〇惣といった土地所有が、個人としての農民の所有になりました

 言い換えると、村の講で共有していた土地に所有者=納税責任者がはっきりと明示されたと言えます


 信長自身は太閤検地ほど徹底した検地はしなかったわけですが、これに先駆けて個人としての商人に納税責任を負わせるのが楽市楽座だったんじゃないかと考えています

 楽市令によって個人個人の才覚が問われるようになったことで、旧来の座というグループから脱落し、没落していく商人も当然いた事でしょう

 その辺の没落が座を解散させたとか商人の勢力図を塗り替えたと言われる原因になったように思います



 現代の感覚で言っても、例えば地方公共団体が自分の県や市に企業を誘致しようと思った時に、今まで何の実績もないベンチャー企業群を誘致するでしょうか

 大事な財源にしたいと思えば思うほど、実績と信頼のある老舗の企業や一流企業の進出を望むものではないのかなと

 その老舗あるいは一流企業は当時で言えば、当然湖東地域で輝かしい実績を上げている保内商人や近郷の座商人になるべきなんじゃないだろうかと思います


 つまり、旧来の座に所属してその権益をフルに活用しながらも、個人としてそれぞれの才覚で商売せよというのが

『楽市楽座の上、諸商売すべきこと』の本来の意味だったんじゃないかな~


 という妄想です




 参考文献


『楽市楽座はあったのか』 長澤伸樹 著

『楽市楽座の研究』 長澤伸樹 著

『百姓の力―江戸時代から見える日本―』 渡辺尚志 著

『近江八幡の歴史1~8巻』 近江八幡市史編集委員会 編

『日野町史』 日野町史編集委員会 編

『安土町史』 安土町史編集委員会 編

『「楽市」再考―中近世移行期における歴史的意義をめぐって―』 長澤伸樹 学術論文

『楽市楽座研究の軌跡と課題』 長澤伸樹 学術論文

『戦国期畿内の流通構造と畿内政権』 天野忠幸 学術論文




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