【第6話】『平和の終わり』
村は巨大な結界に囲まれている。
外の世界を支配する、“死の天使”から身を守るためだ。
結界の境界線からは様々な景色が見れる。
村の北には大森林と大山脈が聳え、人喰らいの化け物も住み着く危険な場所だ。
西には古代人の造ったと言われる巨大な都市の廃墟が並ぶ。
東には村を支える一本の川が流れ、南には薬草の取れる小さな森がある。
村人は毎日手分けをして、結界に壊れている箇所がないか見回っていた。
そんな村人の一人、アリストは南の森の近くに住んでおり、妻と二人の子供がいる。
今日は見回り当番として、南の森の結界を見て回っていた。
肩には袋を背負っており、中には新しい結界の札が入っている。
壊れている札を見つけたら交換する為だ。
今日は一つだけ交換した、もう少しで森を抜けて見回りも終わる。
アリストはふと、結界の外を眺めた。
「ヒカソ、アルト……またお前たちに会いたいよ」
何年も前に追放された夫婦の姿を思い出す。
彼らは一番の親友であり、かけがえのない存在だった。
彼らはあの後、どうなったのだろうか。
死の天使が支配する外の世界で、生きていける訳はない。
それでも、聡明な二人であればどこかで生きているのではないかという淡い希望が消せない。
今でも森の奥から、ひょっこり顔を出すのではないかと期待する自分がいる。
「馬鹿だな俺も……」
アリストは首を振って歩いた。
二人の結末を確かめる手段など残されていない。
ならば、諦めて進むしかないのだ。
彼らが残したヴィンを、自分はしっかりと守っていかなければいかない。
それがちっぽけな自分にできる、彼らへの弔いでもあるのだから。
気持ちを切り替えて歩みを進める。
そして――――
――――足が止まった。
木々の奥に、人が倒れている。
寝ているわけでは無い、力尽きて倒れているようだった。
「おい、大丈夫か!」
急いで近づき、その姿に思わず驚く。
倒れている女性が、見たことも無い格好をしていたからだ。
神官の取り決めた簡素な服装ではなく、色々な物を身に着けている。
黒い外套、鎧のように硬い服、背負った不思議な形の袋、村のどれよりも立派なナイフ、奇妙な道具の数々。
アリストは直感した、彼女は外からやってきた人間だ。
女性の身体を起こし、もう一つ驚いた。
端正な顔立ちをした、見たことのない女性の顔。
十代後半と思われる若々しい顔は整っていて美しいが、水を与えられなくなった花のように弱っていた。
よく見れば顔や服のあちこちに傷がある。
しかし、アリストが驚いたのはそこではない。
彼女は“アデスの神印”を持っていなかった。
「君は、外から来たのか?!」
アデスを信仰する者は皆、洗礼の儀式により左目の下に神印を刻まれる。
縦に三本の線を引いたような刺青は、アデスの三禁則を示すものだ。
神官も含め、村人は誰だって左目の下に三本の縦線、アデスの神印を持っている。
無くて許されるのは赤ん坊くらいのものだ。
神印の無い人間というのは、アデスを信仰しない人間ということ。
そのような人間が、外の世界で生きられるわけがない。
生きられるとしたら、それは悪魔の知恵を信仰する神の敵だけだ。
神の敵は絶対に滅ぼさなければならない。
アリストが小さい頃から教わってきたことを思い出し、身構える。
目の前にいる女性は、悪魔の知恵を信仰する神の敵なのかもしれない。
倒れた女性は、なけなしの力で言葉を紡いだ。
「み……ず」
絞り出すように発した言葉は、水を欲する二文字。
アリストは肩透かしを食らったような気持ちになる。
弱り切ったこの女が、神官様から聞くような恐ろしい存在には思えなかった。
どう見ても、ただ生きる為に水を欲する弱き人間の女だった。
声は掠れ、身体は傷だらけ、力はなく、今にも死にそうだ。
放って置けば数日と経たず死体になっているだろう。
アリストは迷う。
この女を助けるべきなのだろうか。
神の敵なら助けるべきじゃない。
しかし、彼女なら知っているのではないだろうか?
アリストが知りたくても知ることのできなかった、“外の世界”。
そこへ追放された、“親友達の結末”の事を。
何より女は弱って倒れ、人生の最期を迎えようとしている。
間違いなく助けられる存在はアリストしかいない。
助けるべきか、否か。
――――迷いは一瞬だった。
「外から来た女よ、私の家まで連れて行こう」
アリストは謎の女を背負い、南の森を走った。
日々村の仕事で鍛えられている彼でも、数々の物を身に着けた彼女の体は重くのしかかる。
汗だくになりながら足を動かし、アリストは思考を巡らせていた。
この女性はどれ程あそこで倒れていたのだろう。
いや、見回りは交代で毎日行われている。
倒れていた時間は長くない筈だ。
となれば命からがら逃げて来たのだろうか。
外の支配者、“死の天使”から。
しかし一体どうやって?
死の天使は絶対に抗えない存在だと聞いている。
身体はどんな刃も通さず、巨体は天に浮いている。
結界の外で人を見つければ、死へ誘う唄声を発して相手の精神を蝕み、そこへ猛毒の霧や消滅の水を浴びせて消し去るという。
過去に追放された者達は、誰一人として生きて帰っては来なかった。
旅に出た者達も、誰一人として生きて帰っては来なかった。
死の天使に挑んだ愚か者達も、誰一人として生きて帰っては来なかった。
アリストは聞いた話を思い出す。
この村では昔、死の天使を討ち取ろうと奮起したことがあったらしい。
結界付近で五十人の討伐隊を組み、一斉に弓矢で射掛けた。
しかし何の傷も与えられず、即座に撤退した。
走れば一分程の距離だったらしいが、誰一人結界内に逃げ込めた者はいなかった。
死の天使の唄声を聞き、逃げることをやめてしまったからだ。
それほど恐ろしい存在が、人間を探して空を彷徨っている。
外に出たら、一月と生きられないだろう。
だからこそ謎は深まる。
この女性は大人になるまでの間、どうやって死の天使を逃れ生きて来れたのだろうか。
神官様の言う、“悪魔の知恵”というやつだろうか。
ならばその知恵たるやどのようなものなのだろうか。
もしかしたらヒカソやアルト達も、同じように生き延びることができているのではないだろうか。
淡い希望が胸の中に色めき立つ。
「何としても聞き出さなくては……!」
森を駆け抜け、我が家が見える。
藁と木と土で作られた簡素な家だ。
アリストは疲れも気にならない興奮で家の中へ入ると、背負った女を床に下す。
妻と子供達が驚きの声を上げて出て来た。
「あなた、なんですかその人は?!」
「何だあの格好」
「もしかして外から来た人?」
家族の動揺や興味には反応せず、代わりに短く指示をする。
「マリー、甕ごと水を持ってきてくれ、ヴィン、清潔な布を頼む、レオ、傷に効く薬草が残ってた筈だから持ってこい、急いでくれ」
「で、でも……」
「話は後だ、助けられる命を見捨てる趣味はない」
家族があたふたと動き、謎の女性を看病する。
水を口元まで持っていくと弱々しく唇を動かして飲んだ。
「焦って飲むなよ、少しずつだ」
水分を取って落ち着いたのか、先ほどよりは元気が戻ってきたようだ。
「後は傷の手当てをしないとな、マリー手伝ってくれ」
「その前にあなた、何があったのか教えて」
妻が訝し気に眉を潜めている。
確かに家族には唐突な出来事で、説明が足らなかったかもしれない。
「見回りの最中に倒れているのを見つけたんだ、死にかけていたから連れて帰ってきた」
「その人、外の人間でしょう?まずいことにならない?」
「元気になった後で出て行って貰えば問題ない。一先ず怪我を何とかしないと死んでしまうよ」
「結界は大丈夫なの?連れてきたせいで死の天使がくるかもしれないわ」
「結界の中で見つけたんだぞ?それに余所者が一人入ったぐらいで神官様の結界が壊れたりするもんか」
「……そう、かしら」
「レオ、ヴィン、温かいスープを用意してくれ」
「ほいほい、ヴィンお湯沸かす係な」
「ずるいよレオ!大変な方を押し付けるなんて」
子供達のやり取りを余所に見たことも無い服を脱がせる。
金属を使った帯が脱がせずに難儀していると、彼女は弱々しい手を動かしてそれを弄る。
カチンという硬質な音が鳴ったと思えば、いとも簡単に取り外した。
「なんだこれは、どうやって作ったんだこんなもの」
「やっぱりこの人、古代人と関係があるのよ。神官様のところに連れて行った方が良いわ」
「マリー、軽はずみなことをするな。この人が殺されてしまうかもしれないんだぞ」
「匿えば私達が追放されるかもしれないのよ!」
「落ち着け、とりあえず彼女の話を聞いた後でも遅くはないだろう」
マリーは不安と不満の入り混じった表情で彼女の傷を拭く。
アリストはそこに薬草を塗り込み、布を巻きつける。
後ろでは、レオとヴィンが囲炉裏でスープを作っていた。
確かにこれは危険な行いだろう。
古代文明と関わり、アデスの神印を持たない人間。
神官が見れば神の敵と言うかもしれない。
そんな人間を匿って看病すれば、同じく神の敵と判断されても文句は言えない。
しかし、アリストは彼女を突き出す気にはなれなかった。
ヒカソやアルトを追放した神官には不信感を抱いているし、罪があるかもわからない怪我人を突き出して、もし殺されたとあっては罪悪感に押しつぶされるだろう。
何より親友達の結末を知る為にも、外の世界の話を聞いてみたい。
こんな機会は二度とないだろうから。
一通り看病を終え、藁の寝床に寝かせた彼女にスープを食べさせる。
ほどよく温かいスープを、謎の女性は少しずつ食べていく。
その様子を、家族は横並びに座って見守っていた。
「大丈夫かい?私はアリスト、この家の主人だ」
「あり、がとう。アリスト、さん」
女性が掠れた声で口を開く。
疲れているのか、外から来たからか、発音に少し違和感がある。
しかし、見つけた時よりは元気のある声だったのでアリストは胸を撫で下ろした。
「君の名前は何だい?どこから来たんだ?」
「わたし、は……」
女性は言い淀む。
怯えているのか、身体は小刻みに震えている。
「大丈夫だよ。君に危害を加えるつもりはないし、私達は話が聞きたいだけなんだ」
そう言い聞かせると、彼女はちらちらと自分達の顔を確認し、自分の服装や体の状態を確かめる。
それから何度か口を開こうとするが、怯えが勝るのか言葉に出せないようだった。
マリーやレオ、ヴィンが見守る中、アリストは再び安心させる為の言葉をかけた。
「君が私達に危害を加える気が無いなら、誰にも言ったりしない。話を聞かせてくれないか?」
言葉の真意を見定めるように、女はアリストの目を見つめた。
やがて結論が出たのか目を逸らし、ようやく言葉を紡ぎ出してくれた。
「私、はアメリア、です。ミストゾーンから廃、廃都市の探索中に、プテポリプスに襲われて、仲間とはぐれて逃げてきました」
「アメリアさんだね、ミストゾーンというのはアメリアさんの家かい?」
「はい、ミストゾーンは私のしょ、所属するコロニーで、アルテノン大山脈にあります。」
「プテポリプスというのは、死の天使のことかい?」
「そうです、あ、あなた達は死の天使と呼んでいるそうですね」
知らない単語が沢山出てきて困惑するが、文脈から大体の察しは付いた。
彼女は北の大山脈にあるミストゾーンという村に住んでおり、西にある古代都市の廃墟を仲間と探索していたのだろう。
だが運悪く死の天使に遭遇してしまい、命からがら逃げ出したが仲間とはぐれてしまった。
その結果、南の森の結界内で力尽きて倒れていたのだ。
「それは災難だったね、この村はアデス様の結界に守られているから大丈夫だよ」
「……アデス、様の結界、ですか」
何故かアメリアは悲しそうに俯いてしまう。
何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
家族の方を見ても理由はわからないようだった。
「アメリアさんの村も、結界で守れらているのではないのですか?」
「違います、私達のコロニーは電磁遮断被膜で覆われた……いえ、すいません」
「知らない言葉は多いですが、アメリアさんが謝る理由がわかりません」
アメリアは私達家族を眺めてから、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
何度か口を開いては閉じ、また開いては閉じる。
その一挙一動を、私達家族は見守っていた。
外の人間がどんな事を話すのか、あるのは興味と恐怖。
予測できない未知の言葉を、一言一句聞き逃すまいと静かに耳を傾ける。
いつもは騒がしい二人の子供も、この時は身じろぎ一つの音も立てていなかった。
どれ程の時間が経っただろうか。
実際はそれほどの時間は過ぎていないのかもしれない。
しかし沈黙という空間は、時の流れを遅く感じさせるものだ。
十分な時間が経った時、ようやくアメリアは言葉を紡いだ。
「あの、こんなこと、聞くのっていけないかもしれませんが、アリストさんは神様を信じていますか?」
愚問。
他の村人ならそう思っただろう。
この村において、神であるアデスを信じるのは当たり前のことだ。
それが普通過ぎて、信じないという状態が想像もつかない。
しかし、アリストは試されていると感じた。
質問の返事如何によっては、彼女は口を閉ざす気なのかもしれない。
ならばどう答えるのが正解なのだろうか。
本心としては、信じていないわけでは無い。
過去に親友を追放した判断は胸に引っかかっているし、それによる不信感はある。
それでも、“結界”や“恵みの日”など、疑いようのない事実が存在する以上は、存在まで疑うことはできないと思っている。
しかし、信じているという言葉を告げるのが正解とも思えなかった。
彼女には“神印”が無いのだから。
アリストは悩んだ末、神官には聞かせられない答えを出した。
「わからない」
「……っ、あんた!何言って……!」
マリーがあからさまに動揺し、顔を顰めてアリストを睨む。
しかしアリストは表情を変えない、ただ真剣にマリーを見つめて座るように言った。
そしてアメリアに問い返す。
「アメリアさん、あなたはアデス様を信じていないのか?」
アメリアは驚いたような顔を見せ―――
そして微笑んだ。
「アリスト、さん、あなたは変わっているのですね」
「どういう意味ですか?」
「今から言う私の言葉は信じなくても構いません。ですが聞いて頂けると嬉しいです」
アメリアは姿勢を正して座り、真っすぐこちらに向き合った。
どうやら彼女の話を聞くための“試験”は突破したようだ。
どんな話をするのか想像もつかず、緊張で皆の背筋が伸びる。
「私達はあなた達のような村人のことを、アデス教徒と呼んでいます。そしてアデス教徒は世界中にいるとされています」
「私達のような村が、他にもあると?」
「そうです、そしてあなた達の信仰する神、アデスというのは……」
アメリアが言葉を止める。
本当に言って良いのだろうか、言ったらどうなるのだろうか、そんな迷いが透けて見えるようだった。
それでも意を決したのか、先ほどより力のこもった声でアメリアは驚愕の言葉を言い放った。
「アデスという神は、人の手によって生み出された偽りの神です」
「……なっ」
アリストの驚きの声より先にマリーが立ち上がった。
子供達の手を握り、そのまま外へ出ようとする。
「待て、マリー!どこへいく!」
「神官様に知らせる!あの娘には関わっちゃいけないとわかったわ!」
「落ち着け!怖いのはわかる、だがお前も知っているだろう、ヴィンの両親の受けたことを!」
マリーの言葉が詰まった。
「俺たちはずっと村で生きてきた。外の話は神官様からしか聞いてない、外は地獄だと教えられて育ってきた」
「ええ、そうね」
「だが事実は違った、彼女のように外で暮らす人たちがいる。アデス様を偽りの神と呼ぶ彼女が、外で暮らしているんだ。知らなきゃいけないと思わないか?」
「なにをよ」
「真実だよ。ヒカソやアルトを追放したアデス様を、外に住む彼女がなぜ偽りの神と呼ぶのか、俺達は知らなきゃいけないと思わないか?」
「知って、どうするのよ、村を棄てるの?!」
「わからない、だが知らなきゃいけないんだ。もうこんなことは二度と起こらない。彼女がいなくなった後、聞かなかったことを後悔しながら一生を生きることになってもいいのか?」
マリーの視線が泳ぐ。
子供達を握る手は力んで震えていた。
レオとヴィンは心配そうな顔で大人たちを見つめている。
「……わたし、怖い」
震える声でマリーは言った。
それはアリストも同じだ。
今まで信じてきたものを根底から覆すアメリアの存在は、どう転んでも人生を変えてしまうのだろう。
それでもアリストは、マリーを優しく抱きしめた。
背中をさすり、それから強く抱きしめた。
「お待たせしてすまない、話の続きを聞かせてくれないか?」
「……正直、聞かない方が良い話かもしれませんよ」
「いえ、聞かせて欲しい、なぜアメリアさんは、アデス様を偽りの神と呼ぶんだ?」
アメリアは一つ息をつき、それから皆の目をしっかり見て話した。
「アデスという神は、人間を支配する為に生み出されたのです」
「人間を、支配、ですか?」
「はい、プテポリプス、死の天使というのは何だと思いますか?」
「かつて神の領域へ近づこうとした人間にアデス様が怒り、滅ぼすべく生み出された存在だと教わりました」
「では神官というのはどういう存在だと思っていますか?」
「アデス様のご慈悲により、改心した人間を死の天使から助けるべく力を与えられた救世主です」
「実は、その全ては自作自演なんです」
「ど、どういうことでしょうか……?」
「簡単に言えば、神官が死の天使を操って、村の外にいる者を殺しているんです」
アリスト達が固まる。
あまりにも衝撃的な内容で、理解するのに数秒の時間が必要だった。
「ま、待ってくれ!守るではなく、こ、殺す?死の天使を操って?神官様が?」
「はい、そして神官は私達と同じ人間ではありません。新人類のノーマンです」
アリストたちの今の顔を表現するなら、それは“ポカーン”だ。
言葉はわかるのに何を言っているのかわからない、というのはこのことだろう。
「訳が分からない、順を追って説明してくれ……」
「そうですよね、すいません……私の袋を持ってきてくれませんか?電子パッドを使って一つづつ説明します」
理解できない言葉がありつつも、何かを使って説明してくれるという意図を汲んだアリストは部屋の隅へと向かい、彼女が背負っていた袋を持ってきて手渡した。
アメリアは身体を苦しそうにしながらも、膝の上に置いた袋に手を伸ばす。
カチャリカチャリと耳慣れない音を鳴らしながら、奇妙な袋は奇妙な開き方をした。
留め具が弾け、継ぎ目に穴が開いて中身を覗かせたのだ。
何が飛び出るかわからず、アリストとマリーは子供達を庇えるよう無意識に動く。
その姿を見たアメリアは慈しむ表情を浮かべ、「大丈夫ですよ」と言いながら一枚の板を取り出した。
布より固く、石より柔らかい板はしなり、アメリアの手元に置かれる。
注視しても、それが何なのかわからない。
木でもなく、石でもなく、布でもない。
奇妙なほど四角に切り整えられた光沢のある黒くて薄くて柔らかい板。
「……それが、“でんしぱっど”という物なのですか?」
アリストが恐る恐る尋ねると、アメリアは微笑みながら頷いた。
「そうです、アリストさん達は初めて見たかもしれませんが、危ないものではありません。外に住む人達はよく使っている道具です」
安心と不安が同時に沸き立つ。
危ないものではないと言われても、それが何なのかわからなければ不安に変わりはない。
この奇妙な板を使って、先ほどの衝撃的な話をどう説明するというのだろうか。
相変わらず警戒しながらも、アリスト達はアメリアの所作に注意を向け続ける。
「電子パッドには画像や映像……つまり、“世界の一部”が詰まってます」
「せ、世界の一部?」
「今から私の知る世界の一部を、皆さんに見せたいと思います」
そう言ってアメリアが板に触れると、黒い光沢から塗り潰さんばかりの光が溢れた。
それからの時間は、アリスト達にとって頭を殴られ続けるような衝撃だったと言う他ない。
見知らぬ土地、見知らぬ人間、見知らぬ世界。
板には見たことが無いものが次々と映し出され、アメリアはそれを一つずつ丁寧に説明していった。
信じられない話、知りたくなかった話、知りようが無かった話が次々にされる。
何より恐ろしいのは、アメリアの話の説得力だった。
彼女の話は神官の話と違い、理路整然としていて一切の誤魔化しを感じさせない。
“信仰心”や“神の意思”、と言った概念的な要素は持ち出さず、全ての話に具体的な根拠と説明がある。
アリスト達がどんな質問をしても、アメリアは膨大な知識を以てそれに答えた。
十分な時間を使い、丁寧な説明を重ね、アリスト達の頭にもようやく突拍子もない話が入りきる。
*
彼女の話をまとめるとこうだ。
世界には我々と異なる人類で、“ノーマン”という存在がいる。
彼らの目的は安全と繁栄であり、我々人類は彼らの邪魔になるので排除、又は無力化されようとしている。
アデスの村というのは、無知な人間を集めて無知なまま支配する為の場所らしい。
その為に、「三禁則」を生み出して知恵をつけさせないようにし、「恵みの日」を生み出して自給自足できないようにし、「結界」を生み出して村から出られないようにしている。
「アデス」も、「死の天使」も、「恵みの使者」も、「神官」も、全ては支配の実行に必要な駒であり、裏で動かしているのは「ノーマン」に他ならない。
無知な村人達はある日突然連れて行かれ、ノーマン達によって様々な用途に使われる。
世界中にあるアデスの村と村人は、全てがその為の予備ということになっている。
そんな支配の環境にあっても、中には知恵を付ける者や、支配に勘付く賢い者達がいる。
ノーマンはそういった人間を危険な存在と見做し、“追放”して抹消している。
追放された者は殺されるか、連れて行かれて様々な用途に使われる運命が待っている。
そうして意のままに人間を支配しているノーマンだが、気に食わない存在もいる。
それが“アメリア”のような人間で、古代人のように科学力を保有する存在だ。
彼らはノーマンを脅かす存在である為、早々に排除しようと動いている。
「神印」の刺青や、「神の敵」という教育は、支配地の人間が文明人に毒されない為の手段の一つだという。
*
話を飲み込み、最初に感情を露にしたのはアリストだった。
「ふ……ふざけるな!」
“怒り”という感情がアリストの胸に溢れ、制御を失っていく。
「ふざけるな!ふざけるな!ふざけるなぁあああ!」
力いっぱい地面を叩くが、土の床ではぺチンぺチンと情けない音を立てるだけだった。
床は凹み、拳は擦りむいて血が滲む。
それでも尚、アリストに沸き立った熱情は収まる気配がない。
「君の話が本当なら、私の親友は、ヒカソとアルトは、支配の邪魔になったから消されたということじゃないか!」
青筋を浮かべて睨みつけると、アメリアは怯える表情を見せた。
話が事実なら、アメリアには何の罪もない。
罰するべきは全てを生み出したノーマンという存在だろう。
だが怒りの矛先はアメリアに向いてしまった。
実感できないノーマンよりも、今目の前にいるアメリアに。
残酷な真実を教えたアメリアに。
「ふざけるな、ふざけるなよお前!」
「あんた!バカやってんじゃないわよ!」
胸倉を掴んで殴りかかろうとしたが、妻のマリーに諫められて自分が暴走していたことに気が付く。
怯えたアメリアの姿を見て、浅はかな行動をした己を悔いた。
「すまない、アメリアさんに当たってしまって」
「いえ、私こそすいません……」
怒りを鎮火させるよう押し黙り、暫くの静寂が訪れる。
沈黙の流れを変えたのは息子のレオだった。
「ねぇお姉ちゃん、どうして人間はノーマンの邪魔になるんだ?」
「レオ、変なこと聞かないの!」
「気になったんだからしょうがないだろ」
マリーは動揺しているが、レオは臆することなく純粋な瞳でアメリアを見つめた。
外から来た未知の存在に、興味こそあれど恐怖は無いという様子だ。
「恐らく、人間が生み出すものに怯えているのだと思います」
「生み出すもの……?」
「説明した通り、人類はかつて高度な科学技術を有しました。その中には自分達の存亡を脅かす程の技術もあったんです」
「うーん……」
レオは今一つ実感を得ないという顔をする。
「えっと、レオくんは、誰かと殴り合って喧嘩したことはある?」
「ん?ああ、この前派手にやったよ」
「……本当に派手にやったよね、ははは」
二人の少年が笑う。
詳細は何も知らないが、アメリアは話を続けた。
「その喧嘩で、世界が滅ぶとしたら大変じゃないですか?」
「喧嘩で、世界が……?」
「そう、核爆弾、水素爆弾、反物質爆弾……まあ、要するに、とんでもないものを人間は生み出してきたんです」
アメリアはそう言いながら、電子パッドを操作して映像を見せる。
遥か空から見下ろした地上には、レオ達の知らない広大な大地が広がる。
荒れた土地に緑は少なく、僅かに点在する木々は一本一本を判別できない程に小さい。
恐らく、この村全体よりもずっと広い範囲を映しているのだろう。
何が起きるのかわからないまま画面を覗き込む。
――――刹那
画面が真っ白になり、何もかもが見えなくなる。
やがてそれが光であるとわかった頃には、赤い灼熱が中心から溢れ出していた。
微動だにしなかった画面が揺れ、音が割れる。
衝撃は荒れた大地も、わずかな緑も全て飲み込んで巨大な土埃に変わる。
赤い熱は黒い塊へ変化し、立ち上る。
煙というには大きすぎるそれは、南の森で採れるキノコの形にも見えた。
巨大すぎる黒煙の塊は、不気味なほどゆっくりと天へ向かって伸び、地上は全て煙に覆われた。
そして時間が経ち、再び姿を現した大地を見て息を呑む。
穴だ。
巨大すぎる穴。この村の端から端までを収めても、有り余るほどの巨大な穴が映されていた。
そこに自分達の家があったらどうだろうか、村があったらどうだろうか。
考えるまでもない、何もかもが消えて無くなるだろう。
レオも、ヴィンも、アリストも、マリーも、ただ唖然としながら見入っていた。
恐怖も、怒りも感じない。
ただ、理解が追い付かない。
映像はそこで終わり、アメリアは画面を消した。
「この映像なんて比べ物にならない威力の破壊兵器を、古代人は無数に生み出し所有していました」
喧嘩で世界が滅ぶ。
馬鹿げた話だ。
馬鹿げた話であるべきだった。
「信じられねぇ」
レオが固まったように言葉をこぼす。
その感想を誰が責められようか。
信じられるわけがない。
これは、世界を終わらせる力だ。
「人間というのは危険な生き物だとは思いませんか?」
「確かに、誰かの喧嘩でこんなことが起きるなら、危険なんてもんじゃないと思う……」
ヴィンが小さな声で同意する。
「この力が自分達に向くのを恐れるからこそ、ノーマンは人間を無力化しようとしているのだと、私は考えています」
ノーマン。
自分達とは違う人類。
人間を脅威と見做し、支配する存在。
「しかし、人間とノーマンの何がそんなに違うのでしょうか?」
ようやく怒りも収まり、冷静さを取り戻したアリストが疑問を投げかける。
仮に強力な兵器を持った人間がいなくなっても、強力な兵器を持ったノーマン同士で争えば同じことではないか。
その疑問に、アメリアは首を振って答えた。
「ノーマンの敵はあくまで人間です。その違いは“脳”にあります。解明されてない部分はまだまだ多いですが……」
「“脳”、ですか?」
アメリアは語りながら自分の頭を指でつついた。
「考えたり、憶えたりするのは脳という器官の役割です。人間とノーマンはそこが決定的に違います。ノーマン同士は脳で繋がっていて、相手の考えを聞くまでもなく理解できるそうです」
脳が繋がるという状態がわからないが、確かにそれならば人間と違うというのも納得できる。
「へぇ、便利じゃん」
「自意識とかあるのそれ……」
レオとヴィンが思ったままの感想を述べる。
アリストも声にこそ出さないが、凄い内容の話が自分の脳に染み込んでいくのを感じた。
「だから人間同士は争いますが、ノーマン同士は決して争うことは無いそうです。何千万、何億人いようとも。彼らであれば、喧嘩で世界を滅ぼすような事もならないでしょう」
家族全員が絶句した。
それほど途方もない人数がいて、争わないというのは想像を絶する。
夫婦として長い事一緒にいるアリストやマリーでも、理解し合えずに喧嘩することはある。
レオやヴィンも喧嘩するし、村人達だって喧嘩くらいするものだ。
それなのに、ノーマンは誰一人として喧嘩をしないという。
自分達とは違う、あまりにも違う存在だ。
「もし世界がノーマンだけであれば、争いは起こらないのかもしれません。ですが、私達は人間として生まれ生きています。彼らの理想の為に滅ぼされる筋合いはありません」
「私達は……一体どうなるのですか?」
「村の平和はいつか必ず終わります。アリストさん達は連れて行かれ、人間の命など何とも思わないノーマンに好き放題に使われて、一生を終えると断言できます」
吐きそうだった。
マリーは憔悴して何も喋らず、レオやヴィンも子供ながらに衝撃を受けている様子だった。
こんな話、誰が信じるというのだろうか。
村で言えば頭のおかしくなった狂人として吊るしあげられるのが目に見える。
しかし、目の前にいる女性は説明してしまった。
確かな根拠と説得力を以て、反論の余地もなく。
もはや聞かなかったことになどできない、だからといってどうすれば良いのか。
無数の思考と感情が入り混じり、頭の中は収集がつかなくなる。
自分達はずっと騙されて育ってきたのか?
平和だと思っていた村の生活は、偽りのものだったのか?
何を憎めばいい?何を信じればいい?
困惑と動揺の渦の中でアリストの脳裏に浮かび上がってきたのは、一組の夫婦の笑顔だった。
そして自然と涙が溢れてくる。
知りたがったのは自分だ。
それでも、知りたくなかった。
アリストは呆然とし、取り留めもなくアメリアに呟いた。
何か答えが欲しかったわけではない。
ただ、言わずにはいられなかった。
「アメリアさん……」
「なんでしょうか」
「私の友人のヒカソとアルトは村の飢饉を救うために、新しい食料の保存方法を編み出しました。その結果、村は救われましたが三禁則に反すると神官様によって追放されました」
「そうでしたか……」
先ほどの怒りの理由を知り、アメリアは同情の念を抱いた。
「ここにいるヴィンは息子のようなものですが、本当は彼らの子供だったんです。当時幼かったので追放を免れ、私達が引き取りました」
ヴィンの表情が曇った。
子供ながらにも、その出来事が幸福でないことは理解している顔だ。
レオは何も言わず、ヴィンの背中をぽんぽんと叩いて慰めた。
「追放された彼らを探し回ったのですが、見つけることはできませんでした。彼らは、やはり、追放されて、死んだか、連れて行かれたのですか?希望はどこにもないのですか?」
救いのない結末しかないと知った。
それでもアリストは聞いた。
聞かないわけにはいかなかった。
彼らが悲劇的な最期だったなんて思いたくない。
僅かでも希望が残っていて欲しい。
縋るような問いかけをされ、アメリアは悲しげに俯いた。
「私達のようなコロニーに拾われた可能性はあります。実際ミストゾーンにも元アデス教徒の男が一人だけいます」
「で、では……!」
アリストの目に希望の光が宿るのを見て、アメリアは罪悪感に顔を歪めた。
追放者が助かる可能性は無いに等しい。
アメリアのコロニーにはいないし、周囲のコミュニティにもそんな噂は聞かない。
希望は無いと言っていい。
しかし、アリスト達の表情を見て、事実を告げられなくなった。
アメリアは出掛かった言葉を飲み込み、気休め程度の言葉を代わりに伝えた。
「……どこかで、生きているかもしれません」
アリストは僅かに希望が残ったことに安堵し、息を吐きだした。
もし悲劇的な結末しか無いと告げられれば、心が折れていただろう。
それでも、今まで聞いた話が絶望的な内容であることには変わりない。
村は言ってみれば、家畜小屋の人間版だ。
今は仮初の平和を生きているが、いずれ屠畜場に送られる運命が待っている。
それを知ってしまった以上、村で生活し続けることなどできる筈もない。
「それで、私達はどうすればいいんですか……」
悲痛な呻きがアリストの口から漏れた。
崩れそうな表情でアメリアを見つめる。
全てを失い、救いを求める人間の瞳だった。
アリストだけではない、マリーも、レオも、ヴィンも、話に絶望し、救いを求めている。
四人の縋るような視線を受け、アメリアは気圧される。
罪悪感がのしかかり、目を伏せる。
話してしまった。
巻き込んでしまった。
教えてしまった以上、責任を取らなければならない。
両手の握り拳に力がこもる。
やがてアメリアは意を決し、顔を上げた。
「ミストゾーンは、村の人全員を救う力はありません。ですが、アリストさん達だけであれば、私達のコロニーに迎え入れることができます」
「それはつまり、アメリアさんの住処に引っ越すということですか?」
「はい、この事を口外せず、私の体が回復するまで匿って頂けるのであればですが」
逃げ道があることを知って、アリスト達に安堵の色が見えた。
しかし、すぐにアリストの表情が曇り、必然の悲劇を確認する。
「何も知らない他の村人達は、何も知らないまま終わりを迎えるということですよね……」
「いずれはそうなります……明日か、十年後か、百年後かはわかりませんが」
アリストは疲れた顔を家族に向ける。
マリーもレオもヴィンも、どうしたらいいのかわからない顔だ。
「ショックな気持ちはわかります、ですが悪い事ばかりではありません。ミストゾーンの人々は温かいですし、楽しい事も沢山あります」
「そうですか……」
「今は村の人達全員を助けることはできませんが、アリストさん達が協力してくれるのであれば、その方法も見つかるかもしれません」
「私達にできることなんてあるのでしょうか?」
「あります、私達は村の内情に精通している訳ではありません。アリストさん達の知っている知識は私達にとっても貴重な情報です」
アメリアの前向きな姿勢に、沈み切っていた心が揺らぐ。
振り返って見れば、大切な家族の顔がある。
今の自分にとっては、家族を守るのが何よりも大事だ。
「もし、あなたを神官様に突き出したら、どうなると思いますか?」
その気はない。
そんなことをしても碌な結果にはならないとわかっている。
しかし、起こりうる未来を一つでも知りたかったし、確認したかった。
「全員終わりです。私は自殺する他ありません」
アメリアはきっぱりと答えた。
そして自殺をするという予想外の答えに目を白黒させる。
理由は聞くまでもなく、アメリアが続けた。
「ノーマンは記憶を調べる技術を持っていると聞きます。もし私が捕まって記憶を調べられたら、コロニーの場所がばれて、私の仲間たちを危険な目に晒すことになります」
「だから自殺をするんですか?」
「はい、私達のコロニーはノーマンの支配下にありません。そしてある程度の科学力を有しているので、絶対に殲滅されます。情報は漏らすわけにはいきません」
「そして話を聞いた私達も、記憶を調べられて同じ運命ということですか」
「そうなると思います」
アリストは教会で見た「神の冠」を思い出す。
どんな嘘も見破るあの神器が、彼女の言う“記憶を調べる技術”だというのだろうか。
ならばこの女と関わってしまった時点で、逃げ道なんてないではないか。
なんて残酷なんだ、アメリアはそうなると知った上で、自分たちに話をしたのだろうか。
「わかっていてあんな話を聞かせたのか」
アメリアは俯いたまま黙っていた。
沸々と怒りが湧いてくる。
何の変哲もない、良くも悪くも平和な日常だった。
不幸な出来事はあったが、不幸な人生だったかと言われれば違う。
マリーと結婚し、レオとヴィンという子供たちがいる。
――――幸せだった。
それが与えられた幸福だったとしても、滅びの上に建てられた幸福だったとしても、知らなければ終わりの時まで幸せだっただろう。
だけど知ってしまった。
目の前のこの女が、外から来た謎の女が、アリストたちの知る日常を全て壊していった。
もう元に戻ることはできない。
アメリアのコロニーに引っ越して、そこで新たな幸せを見つけることなんてできるのだろうか。
変化の無い人生は終わり、大きな変化が今まさに近づいてきている。
「はぁ、どうしたもんかねお前たち」
アリストは疲れ果てた顔で家族の方を伺った。
「……どこへ行くにしても皆一緒です」
マリーは怯えながらも、そう言ってくれた。
「もう、行くしかないだろ」
レオは投げやりな様子で言い放った。
「そうだね……」
ヴィンは俯いて力なく言った。
外は暗くなり始めている。
アリストは部屋の隅に置かれた袋に目が留まる。
神官から預かっている新しい結界の札が入っている袋だ。
教会に返さないといけない。
立ち上がると痺れを感じた。
少しもつれる足取りで袋を背負うと、家の外へ歩く。
「あなた、まさか神官様に言うつもり?」
マリーが怯えた様子で立ち上がった。
「心配しなくても、結界の札を返してくるだけだよ。戻ったら話の続きをしよう」
アリストは胸を撫で下ろす家族を横目に、家を出る。
意味の無いものに、今まで縋って生きてきたというのだろうか。
背中で木の板がカラカラと音を立てていた。