【第17話】『二つの終わる日常』
「――ぉ、――レオ、ねぇ、レオ!起きてよ!」
自分を呼ぶ声が聞こえる。
ヴィンの声だろうか。
眠い、放って置いて欲しい。
「……むにゃむにゃあと五時間」
「えいっ!」
瞬間、両の胸にある先端部分に想像を絶する痛みが走った。
「いでででで!ばか!おまえばか!アーッ!クソッ!何だってんだチクショウッ!」
「おはよう、遅刻するとギルバさんに殺されるよ」
「こっちが殺されたかと思ったわ!あー、くそ、いてぇ」
一日が激痛から始まるということの辛さを、彼は理解できないだろう。
痛みを知らないからこそ、こんな悪行を続けられるのだ。
いつか必ず思い知らせてやる。
そう思って睨めつけていると、隣の部屋の扉が開いた。
テレサが、髪やら何やらを整えて戻って来たのだ。
「あ、レオおはよう〜」
「お、おはようテレサ」
テレサはニコリと微笑んで椅子に座り、いつものように電子パッドを弄り始めた。
両胸がジンジンと痛みながらも、その何気ない仕草に心が奪われる。
「……はぁ、まただ。参ったな」
彼女の横顔を見て溜息をつく。
最近、レオには小さからぬ悩みができた。
毎朝乳首を抓られるのも悩んではいるが、それよりももっと深刻な悩みだ。
――――というのも、テレサが可愛いのだ。
ここに来た当初は余裕がなくて頭から飛んでいたが、改めて見てみるとテレサはかなり可愛い。
性格や思考に関しては深淵な部分が多々あるが、それを差し引いても十分に可愛い。
そんな彼女が同じ部屋で生活しているのだ。
悩まない方がおかしいだろう。
最近はやけに色気が増してきた気がするし、膨らむべきところが膨らんできた気がする。
一緒の部屋にいると無防備な姿を見せたりするし、その警戒心の無い姿にむず痒くなってきて困る。
具体的にどこがむず痒いかは割愛するが、彼女はそういう事に配慮したりはしないのだろうか……
いや、配慮もなにも勝手なことをするつもりはない。
テレサは大切な家族だし、彼女に嫌われるようなことはしたくないからだ。
したくはないが、彼女は可愛くて近づくと良い匂いがする。
それは特に変な意味とかではなく、純粋に良い匂いがするなぁというだけであって……
「ええい!何を考えている!今日も訓練をしなければいけないのだ!そんなことを考えている暇はないッ!」
「うわっ、びっくりしたなぁもう。どうしたのレオ?」
「思春期だもん、しょうがないよ」
「違うッ!いや、違わないかもしれんが……っていうかテレサお前!わかってたのかッ!」
「あはは、なんのことー?」
恐怖で全身に鳥肌が立った。
『シシュンキダモン、ショウガナイヨ』
嘘だ、嘘だと言って欲しい!
今まで完璧に隠し通していたつもりだったのに。
彼女の言葉はまるで、自分の気持ちを『理解している』かのような物言いではないか。
男の子の思考を!思春期の思考を!
「ち、違うんだテレサ!俺はテレサが嫌がるようなことをするつもりはないし、テレサとは今まで通り仲良くしたいッ!だけど俺もほら、男としてのアレがあるんだよ!姉ちゃんがちょっと前に授業してたじゃんか!これはそれに類する問題であって、正常な生き物としての成長過程というか、不可抗力というか……わかるだろ!」
「えー、私は女の子だからわかんない」
「お、お前も授業受けただろッ!わかってくれッ!わかってくれよォ!」
テレサは薄い笑みを浮かべて見つめてくる。
まさか慌てている自分を観察して愉しんでいるというのか。
こちらは男女の間にある複雑な溝を配慮しつつ、良好な関係を維持する為に頭を痛めているというのに。
何という恐ろしい女だ!
「そ、そんな目で俺を見るなっ!俺は悪くない!やめてくれ!」
「ねえレオぉ、わたし肩凝っちゃったからぁ、揉んで貰ってもいい?」
「お前絶対わかってんな!わかってる上で弄んでるな!男心を弄ぶのは許さんぞテレサッ!」
「あはは、レオおもしろーい!録画するからもう一回やって!」
「ぬああああ!」
発狂するレオと電子パッドを向けるテレサのやり取りに、ヴィンは溜息をつく。
「二人とも何を騒いでるか知らないけど、お姉さん起こすから手伝ってよ」
「ぐぐぐ、仕方ない。テレサ!二度と男心を弄んだら承知しないからな!」
「はーい!」
何だか凄くしょうもないことで揉めていた気がするが、無かったことにする。
恥ずかしいような、いたたまれないような。やり場のない気持ちを誤魔化し、レオはアメリアのベッドに近づいた。
今日も馬鹿みたいな鼻提灯を出して、死んだカエルのように爆睡している。
あれだけ騒いでいたのにこの寝顔だ、災害が起きたら死ぬんじゃないだろうか。人のこと言えないけど。
レオは頬を叩いて気を引き締めると、既にヴィンにホールドされているアメリアの足の裏の前でしゃがむ。
一つ合図を交わし、今朝から溜まったありったけの鬱憤を彼女にぶつけた。
「おらっ姉ちゃんくたばれーッ!」
「お姉さん早く起きてー!」
こちょこちょこちょこちょこちょ
「んにゃはははッ!ごぼへっ!ごへっ!やめてやめて!起きます起きますっ!」
慌ただしくも充実した一日。
いつもの『日常』が、今日も始まる。
*
時同じくして、『ミストゾーン』から数百キロ離れた場所には、一つのコロニーが存在していた。
彼らには彼らの人生があり、彼らなりの『日常』が続いている。
しかし『ミストゾーン』と違うのは、彼らの日常に明日は来ないということだろう。
「アンナッ!」
一人の男が叫ぶ。
白い触手に絡め捕られ、空高く舞い上がりながら。
「アンナ―ッ!」
特出した才能もなく、偉大な功績もない。
凡人の域を逸しない平凡な男が、血まみれの口を精一杯に開けて叫ぶ。
助かる筈がないとわかっていても、叫ぶしかできない。
「ノリス!」
彼の叫びに、女性の声が応える。
彼と同じく白い化け物に捕らわれ、蒼天の彼方へと連れ去られながら。
「ノリスーっ!」
彼女も偉大な人ではなかった。
世界が望むような人でもなかった。
それでも彼女は愛されることを知り、愛することを知る人であった。
二人にとってお互いは、誰よりも特別な人だった。
「アンナッ!君を愛してるッ!君のことを誰よりもッ」
「ノリスっ!私もよ!私も愛してる!ノリス!」
血まみれの口を開けて、二人はお互いの名前を呼ぶ。
声は震え、涙は遥か後方へと飛んでいく。
ノリスは声を枯らして叫び、己の通ってきた道を悔いた。
どうして、もっと警戒をしなかったのか。
どうして、もっと早く気付くことができなかったのか。
どうして、誰も救うことができなかったのか。
友達も、家族も、愛する人も、誰一人残らない。
こうなる前に手を打っておくべきだった。
こうなる前に――――
全ては半年前に始まった。
『ホワイトスター』というコロニーの地上部隊が、自分たちのコロニーの地上部隊に対して攻撃を仕掛けてきたのだ。
彼らの先制攻撃によって、僕達は数名の死者を出した。
必死の撤退によりそれ以上の犠牲者が出ることは無かったが、心には深い傷を負った。
「代表、仲間たちの無念を晴らしてください」
「信じられん……まさか本当に、『ホワイトスター』が襲撃を……?」
事の顛末を説明すると、代表はかなり困惑した様子を見せた。
無理もない。『ホワイトスター』とは長年友好的な関係を築いてきたのだ。
襲撃されるなんて誰一人として考えてはいなかっただろう。
程なくして、二つのコロニーの間で話し合いの場が設けられることになった。
「お会いできて光栄、とは言えないでしょうね。エルモンド・ホワイトスター殿」
「ええ……わかっとります」
誰が悪いのか、どうしてああなったのか。
僕たちは総力を挙げ、徹底的に事実の究明を行った。
結果として、『ホワイトスター』の代表が全面的に非を認め、僕たちに謝罪と賠償を行うことになった。
残っていた映像などのあらゆる証拠が、彼らの襲撃を証明していたからだ。
「儂の先走った部下が、取り返しのつかないことをしてしまった。代表として心から謝罪する……」
「エルモンド殿、死んだ彼らは……彼らの人生は、一体何だったのですか」
「……本当に、申し訳ない」
『ホワイトスター』の代表は深々と頭を下げた。
対談の見張り役には、比較的精神状態の安定していた僕や他の仲間が選抜されたが、僕らとて穏やかな胸中ではいられない。
『ホワイトスター』の代表である彼に悪意がなかったとしても、彼の部下は僕たちの大切な仲間を手にかけたのだ。
簡単に許せる筈がないだろう。
「謝るだけでは我々の怒りは収まりません。罪なき命を奪ったことこに対する相応の誠意を見せて下さい。でないと、我々の関係は取り返しのつかないことになるでしょう」
「わかっとります、私どもにできる精一杯の償いをさせて下さい」
その後、『ホワイトスター』は事件を引き起こした地上部隊の隊長を引き渡し、賠償の為に物資を提供すると申し出た。
僕たちの代表はそれを受け入れ、襲撃の件は和解という形で幕を閉じる。
誰も納得はしていないだろうが、彼らの提示した賠償内容は妥協点としては十分なものだった。
「今日も来たぞー!」
「こりゃまた凄い量だな」
地上部隊の者が口々に漏らす。
あの対談以降、大量の食料、消耗品、機械が、日を分けて何度も運び込まれるようになった。
これだけの物資を吐き出すのは、相当な身を切らなければできない筈だ。
そこには確かに彼らの誠意を感じた。
引き渡された元隊長の男にはあらゆる拷問が行われた。
男は自らを地上部隊の隊長だと自覚していたが、襲撃の事実やコロニーの機密情報に関しては何も知らない、憶えていないと宣った。
重要な情報を守る為に記憶を消されたのだろう。
それは不誠実にも感じたが、男に数多くの拷問をしたことでコロニーに溜まっていた鬱憤は幾らか晴れた。
誰もが少しずつ怒りを収め、『ホワイトスター』を許してもいいと感じる者も増えていった。
警戒心が、なくなっていった。
――――それが僕らの犯した過ちだ。
何十回目かに送られた物資の中に、追跡装置が入っていたらしい。
最初の数回しか荷物の検査をしなかった僕たちは、それに気づくことなく大量の箱を拠点に迎え入れる。
仕込まれた装置により、拠点の位置は割れ、侵入経路も完璧に把握された。
そして、僕たちのコロニーは終わりを迎えることになった。
「おいノリス、お前いい加減にアンナに告れよ!」
「ぶっ!何を言いだすんだよガルロフ!」
「だってお前ら、両想いなのに全然付き合わねぇじゃん」
「う、うるさいな!僕たちには僕たちのペースがあるんだよ!」
「はぁ、そうやって奥手すぎると愛想を尽かされてだなぁ……って、なんだ?!」
それは何気ない日常の途中に起きた。
友達と他愛のない話をしている時、突然部屋の電気が落ちたのだ。
強力な電磁パルスを放たれたなんて、この時には思いもしない。
「うわっ、通路も真っ暗だ。こりゃ大規模な停電かな」
「すぐに復旧するよ。下手に動き回る方が危ない」
「ま、それもそうだな」
待っていれば元に戻ると思っていた。
だけど、何分経っても戻る気配はない。
「流石に遅くね?予備電源もあるし放送くらい入れるだろ」
「何かあったのかな、連絡入れてみようか」
僕は暗闇の中、電子パッドを探す。
暗くて何も見えないが、置く場所はいつも同じなので見つけることができた。
指に当たる感触を頼りに、電源ボタンを押し込む。
しかし、画面から白い光が溢れることはなかった。
それはそうだ、この一帯の電子機器は何一つ使えない状態になっていたのだから。
「あれ、つかないんだけど」
「ちゃんと押してんのか?」
「押してるよ!なんでだろう、充電が切れたのかな」
「いや、俺のもつかねぇ。なんか変だぞ」
ここで僕たちは初めて異常に気づいたが、時は既に遅すぎた。
外の通路から、複数の足音が聞こえてくる。
「お、誰か来たぞ。おーい!どうなってるんだー!」
ガルロフが声を掛けるが、返事はない。
足音は更に大きくなる。
粗暴で、強い意志を感じる足音だ。
僕は咄嗟に叫んだ。
「ガルロフ!ドアを閉めて!」
「はあ?何叫んだんだよノリス」
「いいから!早く!」
その後、彼は返事をしなかった。
扉を閉めることもなかった。
ただ、ドサリと鈍い音を立てて倒れただけだ。
「ガルロフ!ガルロフ!」
急いで彼の元へ駆け寄る。
扉の前に飛び出した時、何かが僕に刺さった。
そして僕も、彼のように意識を失った。
「うぅ、うぐ」
目が醒めると、そこは地上だった。
燦々と太陽が輝き、空は青く、肌に当たるアスファルトが熱い。
痺れる身をよじって顔を上げると、辺りに沢山の人が転がされているのが見えた。
みんな半裸にされ、口と手足を縛られ、身動きが出来ずにいる。
慌てて自分の身体を見ると、僕自身も同じように縛られていた。
そこら中から呻き声が聞こえ、取り囲む大勢の武装した者達を見て、ようやく僕は『捕まってしまった』のだと理解した。
「ぐふっ、ふご」
僕は慌てて人を探した。
ガルロフ、リージィ、エギロ、ラッコス、ハーレイ、アグラス……アンナ。
僕の中で最も大切な人たちを探した。
見回していると、彼らは次々に見つかる。
親友のガルロフが何かを叫んでいた。
妹分のリージィが泣いていた。
実兄のエギロが震えていた。
師匠のラッコスが転がっていた。
母親のハーレイが怒っていた。
義父のアグラスが絶望していた。
大好きなアンナと目が合った。
ああ、何ということだろうか。
全員がここにいる。
それは、決して喜ばしいことじゃない。
誰も逃げられなかった、ということじゃないか。
アンナ、君まで……。
パンパン!
手を叩く音が聞こえ、僕らの意識はそちらに向いた。
襲撃者の親玉だろうか。
誰がこんなことをしたのか、一体何が始まるのか。
様々な感情を渦巻かせながら視線を向けると、予想だにしていなかったものが目に入った。
――そこにいたのは、天使のように美しい一人の女性だった。
僕たちは言葉を失う。
「みなさま、こんにちは」
転がされた裸体の山の奥で、彼女は挨拶をした。
暖かい昼下がりのような微笑みを浮かべ、透き通る声は見た目に劣らず甘美な響きで脳を揺らす。
穢れのない純白の装いをし、金色の髪と瞳が太陽の如く煌めいていた。
人の心を奪うために生まれたとしか思えない、完成された美の結晶だった。
これほど美しい人は見たことがない。
彼女は視線を動かし、何人かの仲間を見た。
ちらり、ちらり、ちらりと見る。
それから最後に、僕のことを見た。
そして、僕を見つめながら言った。
「またお会いしましたね」
心臓が音を立てる。
動揺の波が広がる。
彼女は何を言っているのか。
僕が彼女と出会った記憶はない。
これほど綺麗な人は一度見たら忘れる筈がない。
他の仲間も、同じように動揺するばかりだ。
恐らく誰も彼女と会ったことなど無いのだろう。
にも拘らず、彼女は僕たちを知っているという。
彼女は一体、何者なのか。
ダクトテープで口を塞がれた僕達は尋ねようが無いが、彼女は答えた。
慈母のような優しい声で、耳を疑う残酷な真実を。
「私は『ノーマン』です。物資を受け入れて頂きありがとうございました」
そう言って彼女は微笑む。
咄嗟に理解できた人がどれほどいただろうか。
大半は聞き間違いか、或いは世迷言か、或いは夢の世界の話だと思っただろう。
僕とてその中の一人だった。
そうでも解釈しなければ、とても受け入れきれないと本能が理解していた。
だけど、現実逃避は長く続かない。
美しき白い女は、情け容赦なく僕たちに突きつける。
撃たれて死ぬよりも恐ろしい、悪夢のような現実を。
「皆様のコロニーは我々が責任を持って引き継ぎます。皆様の命も無駄には致しません」
否が応でも理解してしまった瞬間、全身が寒気立ち、肉も血も凍ったような気がした。
僕たちは、嵌められたのか。
『ホワイトスター』に、『ノーマン』に。
全ては僕達から、何もかもを奪い去る為に。
「お疲れ様でした」
白い女はそれだけを告げ、何処へと去っていった。
「んぐ、んぐぅ……ッ」
塞がれた口から嗚咽が漏れ、滴る涙がアスファルトを濡らす。
もうどうすることもできない。
僕たちは詰んだんだ。
『ホワイトスター』もきっと、ずっと前から詰んでいたのだろう。
操り人形だったんだ。
誰も、彼も。
「ンンンンン!!」
「ンゴ、フガッ、ンンン!」
「ンッフ!ンンン!」
知り合い達の声にならない阿鼻叫喚の中、一帯に奇妙な音色が響き渡った。
サイコウェーブという、人間の精神に影響を与えて行動力を奪う攻撃だ。
これほどの大音量を放つ存在は一つしか思い当たらない。
僕は絶望に打ちひしがれながら空を見上げる。
巨大な白き絶望、プテポリプスが迫って来ていた。
「ノリス!ノリスっ!」
名前を呼ばれたので視線を向けると、アンナと目が合った。
見れば口は血だらけで、貼り付いていた筈のダクトテープが剥げている。
まさか、地面に擦り付けて剥いだのだろうか。
そんな無茶ができる女性だとは知らなかった。
いつもは繊細で、針の一本も怖がるような人だったというのに。
「ノリス、わたし、私っ」
ボロボロと泣く彼女。
彼女の声に、彼女の姿に、胸が苦しくなる。
そんな顔をさせてしまってごめん。
君を守ることができなくてごめん。
無力な凡人でごめん。
空に散らばった小さな影が降ってくる。
プテポリプスの中に詰まっていた、ポリプという小型の生物機械だ。
あの中の一匹にでも捕まれたのならば、僕は二度とこの地面に触れることは出来ないだろう。
僕はアンナから視線を外し、アスファルトの地面に顔を擦りつけた。
もう時間はない。だからせめて、これだけでも。
一人、また一人と宙に連れ去られて行く。
それでも僕は擦り付ける。
口を塞ぐ邪魔なものを擦り付け、削って、削って、削って。
ゴリゴリと皮膚が削れ、神経が大音量で痛みを訴える。
構わない、知ったことか、痛みが何だっていうんだ。
僕にはこれしか出来ない、
君の気持ちに応えるチャンスは、この先残されていないんだ。
擦り付ける、削り取る、剥ぎ取る、引き千切る。
こういうのを“血の滲む努力”、とでもいうのだろうか。
僕は遂に、口の自由を得た。
その瞬間に身体が宙に浮く。
僕は叫んだ。
「アンナッ!」
人生のどんな瞬間よりも強く叫んだ。
魂を絞り出して叫び声を上げた。
「アンナ―ッ!」
皮肉なほどに壮大な景色の中で、青空の向こうから声が返ってきた。
よく知った声が、アンナの声が。
「ノリスっ!」
「アンナッ!」
ああ、もし誰かに伝えられるなら伝えたい。
コロニーの人々でも、中立都市の人々でも、人類基地連合の人々でもいい。
誰でもいいから伝えたい。
どうか僕たちのようにならないで欲しい。
彼らに騙されないで欲しい。
願わくば、二度と僕たちのような人がでませんように。
アンナ、愛している。
*
――――『日常』は終わり。
「起きてよレオ」
「むにゃむにゃあと五時間……」
「ていっ!」
「ンがぱーッ!」
『日常』は続く――――
*
レオ、ヴィン、テレサ、ニマ。
四人は『ミストゾーン』の面々に守られながら、何事もなく訓練の日々を続けていた。
「今日からは仮想現実運動装置を使うッ!ステップアップってヤツだ、喜べクズどもッ!」
「「はいっ!」」
ギルバの訓練は相変わらず厳しかったが、慣れとは凄いもので今では心を打ち砕かれるようなことは少ない。
基礎訓練が終わってからというもの、応用編は驚くほどの勢いで進んでいった。
「メス豚!どこを狙って撃っているッ!貴様の敵は地面なのかッ!」
「違います!」
ある日は射撃の訓練を行い。
「へたれ馬鹿!無線機の仕組みも知らんのかッ!今まで何を勉強してきたんだッ!」
「これから覚えるのですっ!」
ある日は道具の使い方を覚え。
「ウジ虫!貴様の応急処置は死ぬほど上手いな!つまり救いようがなく下手くそってことだッ!とっととやり直せッ!」
「今度は上手くやりますっ!」
ある日は応急手当の訓練をし。
「口だけ雑魚!何度捕まれば気が済むんだッ!そんなんでプテポリプスから逃げられると思っているのかッ!」
「ちくしょうッ、もう一回だ!」
またある日は、シミュレーションされた敵から身を隠す訓練を行った。
野営の訓練、機械操作の訓練、集団行動の訓練、緊急時の訓練、任務の訓練。
目まぐるしい日々が流れ、四人はついに一通りの訓練を修了する。
トレーニングルームの前で、ギルバは力強く語った。
「よく今日までやり遂げたなッ!これでお前たちは何の役にも立たないゴミクズを卒業し、最低限の立ち回り方を身につけたことになるッ!だが自惚れるなッ!お前たちが矮小な存在だということに変わりはないのだからなッ!」
「「はいっ!」」
張りのある声で答える四人。
以前と比べて、その立ち姿には力強さが滲んでいる。
「宜しい!では約束通り呼び名を改めよう!口だけ雑魚!貴様は今日から地上調査隊のレオ・ミスト・グレイフだ!」
「はいッ!」
「臆病ウジ虫!貴様は地上調査隊のヴィン・ミスト・グレイフだ!」
「はいっ!」
「メス豚根性なし!貴様は地上調査隊のテレサ・ミスト・グレイフだ!」
「はい!」
「最後にへたれ馬鹿!貴様は地上調査隊のニマ・ミスト・スタンシャだ!よく頑張ったなッ!」
「はいなのですっ!」
皆の肩を順々に叩き、ギルバは猛獣の顔で笑う。
訓練を開始してから二年の月日が流れ、四人はまた一つ成長を重ねたのだった。
*
「千メートル走タイムスコア」
1位:0分59秒「ギルバ・ミスト・ダグラス」
2位:2分23秒「ブライズ・ミスト・コニー」
3位:2分50秒「アロフ・ミスト・スプリング」
4位:2分51秒「マテュー・ミスト・マーケル」
5位:2分55秒「ニマ・ミスト・スタンシャ」
6位:2分56秒「スヴェン・ミスト・メイヤー」
7位:2分56秒「レオ・ミスト・グレイフ」
8位:2分57秒「エルヴィス・ミスト・フェリクス」
9位:3分7秒「アメリア・ミスト・エリス」
#中略#
15位:3分31秒「ヴィン・ミスト・グレイフ」
21位:3分50秒「テレサ・ミスト・グレイフ」
#中略#
110位:リタイア「寝るなロビン」
*
「ハッピバ~スデ~トゥ~ユ~♪ハッピバ~スデ~トゥ~ユ~♪」
食堂ではアメリア、エルヴィス、ニマ、他数人の親しい面々が集まっている。
彼らの歌声が重なり、三角帽子を被った三人の子供を祝う。
地上調査隊の訓練を終えて、十六歳の誕生日を迎えた、レオ、ヴィン、テレサだ。
誕生日の歌を変だと思うことは、すっかりなくなった。
「おめでとー!」
フラッシュが焚かれ、指笛が鳴らされる。
「ありがとうございます!」
「ありがとー!」
「恥ずいな……」
ヴィンが頭を下げ、テレサは微笑み、レオは照れ臭そうに頭を掻く。
パチパチと拍手がされて、エルヴィスによってカップケーキが運ばれた。
ささやかながら、誕生日の人に贈られることになっているものだ。
三人は滅多に食べられない嗜好品に目を輝かせた。
「おお、チョコのやつだ!」
「見て!刺さってる旗に『16』って書いてある!」
「去年は『15』だったよね!」
喜びの声を上げていると、アメリアが嬉しそうに指を立てて話す。
「今日はそれだけじゃないわ、プレゼントがあるの!」
三人が目を丸くした。
ミストゾーンに来てから四度目の誕生日になるが、贈り物を貰うのは初めてだ。
一体、誰が何をくれるというのだろう。
期待に心を躍らせて待っていると、一人の男がやって来た。
綺麗に整った髭を蓄える、ミストゾーンの指導者。
オースティン・ミスト・フランツだ。
「じゃっじゃ~ん!三人とも誕生日おめでとう!ワンダホ―なプレゼントを用意したから、受け取ってくれたまえ!」
剽軽なステップで登場したオースティンは気兼ねない友人のように微笑み、上着の内側から小さな箱を三つ取り出した。
シンプルな白無地の箱には、レオ達がそれぞれ好む色に合わせてリボンが巻かれている。
レオには黒と赤の縞々模様、ヴィンには白と青の菱形模様、テレサには黄色と桃色の水玉模様だ。
派手過ぎない飾り気のある三つのリボンは、白い箱が特別なものだと感じさせてくれる。
「おおっ!」
「わーかわいい!」
「い、頂いて良いんですか?!」
「勿論だとも、開けて中を見てごらん!」
恐る恐るリボンを解くと、白い箱の蓋が剥き出しになる。
それを片手で掴み、ゆっくりと持ち上げる。
箱の中に、黒い帯と銀色の光沢があるのを見つけた。
中身を取り出し、レオ達は唾を飲む。
「これはッ」
「そう、『ホロウォッチ』だ!」
『ホロウォッチ』とは、手首に巻き付けて使う道具だ。
普段は腕時計として使用可能だが、ホログラムのインターフェースを呼び出して様々な機能を利用できる。
ストップウォッチ、リマインダー、カレンダーは基本中の基本。
メモ機能、撮影機能、録音機能、電卓機能、辞典機能、歩数計機能、気温計機能、湿度計機能、体温計機能、距離測定機能。
ホロウォッチ同士での近距離無線通信から、マインスイーパーなどのミニゲームまで可能。
要するに、凄く便利な腕時計だ。
「こ、こ、こんなもの頂いて、だ、だ、大丈夫なんですか?!」
あまりの贈り物にヴィンの呂律が壊滅的になっているが、無理もない。
ただの腕時計ならいざ知らず、これほど多機能なホロウォッチは決して安い品では無い筈だ。
「いやぁ高い買い物だった。ミストゾーンの財産の大半を処分して何とか用意したんだ。明日からは貧乏な暮らしを強いられるだろうな。大事に使ってくれよ?」
「そんなの受け取れませんよ!」
「リーダー、冗談もほどほどに」
「ははは、アメリアちゃんの視線が怖いから種明かしをしよう。心配しなくても、それは無茶な贈り物ではないよ」
オースティンはアメリアから少し距離を取り、彼女と目線が合わないようにしながら贈り物の説明をした。
「地上調査隊になった者には全員渡しているものだ。だから気にせず使ってくれ。ただ、誕生日プレゼントでもあるから、他の皆よりはちょっとグレードの高いやつになっている。内緒だぞ?」
「なるほど、そういう事でしたか」
「なぬっ!それはニマちゃん聞いてないのですよっ!」
話を聞き、笑顔で見守っていたニマが物凄い形相で迫って来た。
ヴィンの貰いたてのホロウォッチを掴み、自分の腕に巻き付けているものと比べている。
「そっか、ニマはもう貰ってたんだね」
「むむっ!確かにビンビンの方がちょっとゴツくてカッコいいのですっ!交換を申し込むのですっ!」
「そ、そんな……っ!」
ずいずいと引っ張られる。
このままでは強引に交換されてしまう。
初めてのプレゼントが、貰って一分で奪われてしまう。
そんな絶望感に崩れ落ちそうになっていると、アメリアのチョップが炸裂した。
「こらっ!それはヴィンの物よ。羨ましいからって盗ったら駄目でしょ!」
「これは交換なのですっ!取引なのですっ!」
「相手が嫌がってたら泥棒と一緒よ!」
「むむむっ!」
「ヴィンも、嫌ならはっきり拒絶しないと駄目よ。世の中、優しい人ばかりじゃないんだから」
「は、はい」
やんや言われている二人を尻目に、レオとテレサは早速ホロウォッチを巻き付けて眺めていた。
「どうよ?似合ってるか?」
「いい感じ!私はどうかな?」
「いいじゃん、か、かわ……スタイリッシュだぜテレサ」
「えへへ」
その後も、三人はカップケーキを食べたり、皆でゲームをしたり、オースティンのすべらない話などを聞いて誕生日パーティーを楽しんだ。
一つの『日常』に区切りがつき、地上調査隊という新たな『日常』が始まろうとしていた。
*
緑色の髪が揺れ、一人の男が夜空の先を見据える。
大山脈を縦断する廃都市の奥にあるのは、とある小さなコロニーだ。
彼らこそ確かめるのには相応しい。
男は静かに呟いた。
「ミストゾーン……お前達は我々の敵か?」




