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観劇の感想(ネタばれ満載)「十二人の怒れる男たち」

作者: 空色大福

観劇の感想「十二人の怒れる男たち」


名作といわれる劇を見て大変感動したため、個人的に感じたことをつらつらと書いていきます。

テレビ版・映画版とも未視聴の状態で、脚本も読んだことがありません。

ツッコミどころが多々あると思いますので《優しく・甘甘々口で》教えていただければ幸いです。


簡単なあらすじ

登場人物は、全員初対面の12人の陪審員。彼らが担当するのは、少年による父親殺しの裁判。


陪審員制度により、彼ら全員が有罪と判断すれば少年は電気椅子での死刑が執行され、無罪と判断すれば少年は社会に戻っていく。


裁判の経過から、少年の有罪はほぼ確定。11人は有罪と判断する。そんな中、1人の男だけが有罪と確定するには疑いがあると判断する。


陪審員制度は、全員一致でなければ判断が下せないため、11人は文句を言いながらも陪審の席に着く。

(参考:Wikipedia「十二人の怒れる男」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%80%92%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%94%B7#.E3.81.82.E3.82.89.E3.81.99.E3.81.98)



感想:

上演の日は、奇しくも参議院本会議でテロ等準備罪(組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案)が採決・可決された日でした。

そのためか、見終えてからしばらく色々な考えが浮かんでは消えていきました。



まず気になったのは、舞台上の装置と人物の配置です。


裁判所の中の一室という設定だと思いますが、下手側に部屋の入り口、中央に陪審のテーブルとイス、上手側に給水器とトイレという配置でした。


登場人物が入ってくると中央のテーブルに着席するのですが、その際に手前側の登場人物は全員客席に背を向け、顔が見えません。

演劇の基礎として「客席に背を向けるな」と繰り返し言われてきた自分にとって、人物の紹介が行われると思った場面で、人物の約半分が背中しか見えないというのは軽くショックでした。


次に驚いたのがトイレの装置です。壁を隔ててトイレがあるのですが、トイレ内部の照明がつくと壁が透けて客席からトイレの中が見える、という設計になっていました。

「プロってすげえなぁ……」とため息を漏らしてしまいました。



次に気になったのは、登場人物についてです。


作品はもともとアメリカのドラマ・映画であり、そこから舞台が作られたそうです。当然登場人物は全員アメリカ人ということになります。


日本の劇団が演じる場合、日本の俳優がアメリカ人としてふるまうか、登場人物を日本人という設定にするかしないといけないと思います。


今回の舞台は、脚本に忠実に全員がアメリカ人ということになっていました。……しかし、初見では誰もアメリカ人に見えません……。


TV版が1954年、映画版が1957年ということですから、1940年代後半~1950年代中頃までの成人アメリカ人ということになろうかと思います。


しかし、舞台に上がってきたのは、おそらく全員日本人というルックスでした。見た目が日本人的である、というだけでなく、歩き方や所作のタイミング・所作の体の使い方が、普段見慣れている日本人だなぁ……と感じました。


もちろん、日本人的であるからと言って、大きな障害にならない場合もあります。

しかしこの劇では、スラムや移民、肌の色、父親の国籍、貧富など、様々なアメリカ的モチーフが登場します。


例えば「自分は移民である」と主張する場所を例にとって見ます。

どこから来た移民なのか、1世なのか2世なのか3世なのか、第一言語は何語なのか、英語は何番目に覚えた言語なのか、生まれた国とアメリカとの関係は、アメリカにわたってきた目的・理由はetc……。移民とひとくちに言っても様々な場合が考えられます。


また「自分はスラムで育った」と主張する場合

どの程度の清潔・安全が保障されているのか、教育の程度はどの程度か、周りに住んでいる人々の属性はどのようなものかetc……。こちらも様々な場合が考えられます。


しかし、今回舞台に上がっていたのは全員アメリカ人ではない人々です。セリフもほとんど標準語で話しており、そこから人種や社会的階層を読み取ることがほとんどできませんでした。


ひどい例えをすると、日本の裕福な家庭に生まれ、安全で豊かな暮らしをしている人がギャングスタやハスラーを名乗っているような……そんな感覚を覚えました。



この劇は、見た後に感想を語りたくなる劇だと感じました。その理由は、テーマに様々

な階層があるからではないかと思います。


見た目は「法廷モノのサスペンス」

話の内容は「証拠を積み重ねて無罪を勝ち取る」

とわかりやすいのですが、その下には「民主主義的手続きとは何か」「人が人を裁く基準は何か」「仮面と本質」などなど様々なテーマがちりばめられています。


このことにより、見る人によって見た目が万華鏡のように変わり、他人と語り合うことによって、視点の補完が進むため、見た後に感想を語りたくなるのだと感じました。



さて、物語では最初の評決でただ一人「無罪」を主張した人が、証拠と理論を積み重ねることで徐々に「無罪」と主張していく人が増えていきます。


様々な仕掛けによって、笑いと爽快感を味わいながら、僕は何か背中が冷たくなるような気分を感じました。


それは、最後まで「有罪」の意見を曲げない人を見るその他の人々の表情への恐怖であったと思います。


作中で民主主義や、少数意見の尊重という言葉が何度も繰り返されるのですが、最後の最後「有罪」派が一人になったときに、登場人物たちの表情が冷たく、威圧的に変わったように感じました。


下からライトで照らされた男たちが、一人の男を取り囲み冷たい表情を浮かべて無言で見つめる。


そこには民主主義や少数意見の尊重ではない、同調圧力によって意見を変えさせようと行く空気があったと思います。


それぞれの人物が、正義感や人権意識や感情や論理的思考を表に出していたはずなのに、最後の最後でそれらが消え去り、冷たい表情の圧力をかける。

その姿がとても恐ろしく感じました。



この物語では、民主主義・少数意見の尊重・証拠主義・採決の重要性といったことが何度も語られています。


はじめは「スラムに住んでいるから」「移民の血を引いているから」「教育を受けていないから」殺人を犯しても当然だ。と考えていた人々が、次第に証拠に目を向け始めるという流れですが、舞台を2017年の日本に置き換えたとき、少年に当たる立場の人間が「韓国人だったら」「ムスリムだったら」「左翼だったら」「ネトウヨだったら」……我々は果たして証拠主義に則ることができるだろうか? と考えずにはいられませんでした。


劇を見ている間、自分も含め最近の風潮として「〇〇支持=悪」「〇〇支持=善」といった考えが広がっているような気がしました。

そこでは、人格否定、出身・身分・門地による否定、主義や思想の方向による否定が大きく取り上げられており、肝心の中身まで踏み込んだ議論ができなくなってきていると感じます。


それぞれが属するコミュニティやトライブの垣根を越えて「およそ事実である」と考えられることの積み重ねで議論を展開することは、とてつもなく難しいのだな、と感じました。



最後に、劇では「少年が有罪であるというには疑わしい点が残っている」という理由で無罪の評決が下りますが、ひねくれ根性から「もし、本当に少年が犯罪者だったら? 確実な証拠が出た場合、この陪審員たちはどのような反応をするのだろう?」などと妄想をしてしまいました。



思いつくままに書いたためとっ散らかってしまいました。

読みづらかったらすみません。


終わり


参考資料

Wikipedia「十二人の怒れる男」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%80%92%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%94%B7#.E3.81.82.E3.82.89.E3.81.99.E3.81.98


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