(3)
「だからさ、俺は別に、澤田くんに文句言ってるわけじゃないんだよ。好きで熱出したんじゃないことくらい、わかってるって。でもね。一言くらい、連絡があってもいいと思うわない? なんにも知らずに来てみたら、昨日はタイヘンだったんですよって聞かされる身にもなってみてよ!」
「いや、でも、そんな大袈裟なことじゃな……」
「ナニ言ってんだよ! 鏡見た? たった一日でそんなゲッソリ窶れちゃって、『大丈夫』とか言ったらぶっ飛ばすよ?」
やってるやってる。
和人の声は廊下まで丸聞こえで、馨は忍び笑いをかみ殺しながら、そっとカーテンの隙間から顔を出した。
「こんにちは」
目が合うと、頭部を起こしたベッドに横たわった男が、ホッとしたような顔をして頷いた。確かに疲労の色は見えるが、具合は悪くなさそうだ。
「よかった。熱、下がったんだね」
「なんだよそれ。馨は知ってたわけ?」
和人が眉根を寄せて振り返る。
「あ、うん。昨日たまたま、将くんと逢って聞いたんだ」
「将? アイツ、俺にはなんにも言わなかったくせに」
「和人くんは、忙しかったから」
「それにしたって、メールくらいできるだろ」
「だって、将くんだよ?」
こっちから送ったメールをちゃんと読んでるのかもアヤシいくらいで、返事がないのは「イエス」だと思え、と言ってはばからず、そのくせ「ノー」だとしてもやっぱり返信はしない究極の面倒くさがり屋に、そんな配慮を求める方がムリだろう。
和人にもそれはわかっていて、結局矛先は病人に向かう。
「将が来たんだ?」
「将」というのが、長めの髪を金色に染めた、見るからに生意気そうな面構えの小柄な青年であることは理解している。しかし、昨日その彼がここに来たのかは、定かでなかった。発熱のせいで一日中いろんな人が出入りしていたし、意識も朦朧としていた節がある。だが、そんなことを不用意に言ったら、この青年をまた怒らせてしまいそうだ。
口ごもる男に、和人の眉間の皺が深くなった。
「覚えてないの?」
「いや……」
肯定したら、この青年はたぶん傷つく。しかし、否定するのは嘘をつくのと同じことだ。どちらも選択しかねて視線を落とすと、先ほどあらわれた端正な顔立ちの青年が、助け船を出してくれた。
「澤田くんは眠ってたから、そのまま帰ってきたって言ってたよ」
「ふーん」
和人は男をどこか胡散臭そうに一瞥し、一旦姿を消したかと思うと、勝手知ったる様子で来客用のパイプ椅子を調達して戻ってきた。そうして仲良く並べた二つの椅子に、二人の青年が腰掛ける。
和人と、馨。気だてのよい、愛嬌のある顔立ちの和人と、穏やかでおとなしげな、ノーブルな容貌の馨。
似たような年格好だが、雰囲気は違う。違うのだが、どこか似通った印象もある。
「なに?」
意識する以上にしげしげと眺めていたのか、まだちょっと不機嫌そうな和人が無愛想に言った。
「いや、その……仕事は、いいのか?」
平日の昼下がり。若い男がふらふらしている時間ではないだろうと、深く考えもせず発した問いだったが、二人は揃って虚を突かれたような顔になった。
こんな状況で、立ち入ったことを口にすべきではない。不用意な物言いだった。
男が「悪い」と言おうとするのを遮るように、和人がすっと姿勢を正した。
「俺は、早朝の犬の散歩を二件済ませてきた。夕方にも同じ仔たちと公園に行く予定。昨日のデブ犬講習で教わったトレーニング、さっそく実践してみようと思って」
「俺も、昨日の庭仕事のつづきをやってから来たんだ。家庭教師の方は週三日の契約で休みだから、この後は事務所に顔を出して、書類整理をやるつもり。広瀬くん以外誰もやろうとしないし、その広瀬くんもここのところ忙しそうで、だいぶ溜まってる感じだから」
和人も馨も、神妙な顔をして報告する。そう。それはいかにも「報告」で、彼らがこれまでにもこうしてきたんだろうことがよくわかる。そして、これからもこうして「澤田くん」に「報告」したいんだろうということまでも、二人の表情は告げていた。
「今度、業務日誌持ってこようか。新規のお客さんはそんなに増えてないけど、リピーターになってくれた人は結構いるよ。俺たちの仕事っぷりが評価されてるってわけ。澤田くんは、それが大事なんだって、いつも言ってたよね」
和人の口振りがあんまり嬉しそうで、言葉に詰まった。
待て。待ってくれ。
それが一番いまの気持ちに近い言葉だが、何を「待て」というのか、待った先に何があるのか、それを思うと何も言えない。
「業務日誌とかまでは、もう少し元気になってからでいいんじゃない? 今は休養中なんだから、のんびりしてた方がいいよ。澤田くんは、働き過ぎだったんだし」
馨は、鷹揚な笑みを二人に向けた。そののんびりとした調子に、和人は前のめりになっていた姿勢を元に戻し、男は救われたような顔をする。
待ってるけど、急がなくてもいいんだよ。待ってるから、急がないでも大丈夫。
馨のゆったりとした笑みと声は、そんなことを伝えているようでもあった。
「そうだ。俺、ランチ持たされてきたんだよ。たぶん和人くんもいると思って、二人分。食べる? それとももう食べちゃった?」
「さっき澤田くんとコンビニ弁当食べちゃったけど、てゆーかこの人は相変わらずぜんぜん食べなくて、俺がひとりで食べてたようなもんだけど、あるなら食べる! なんだよ、ランチって」
「サンドイッチとか、いろいろ」
「うおー! ナニこれ、めちゃくちゃウマそう!」
馨が膝に抱えていた紙袋から取り出したランチボックスには、たっぷり野菜とローストビーフ、エビフライとタルタルソース、彩り鮮やかなフルーツと特製クリームの三種のサンドイッチのほか、から揚げや卵焼き、ポテトサラダが詰め込まれている。
「昨日、ちょっと料理の話になってさ。そしたらなんか、スイッチが入っちゃったみたいで」
「清さん?」
ウェットティッシュを手渡しながら、照れくさそうに馨は頷く。
「すげーなー。馨は毎日こんなの作ってもらってるんだ」
和人は冷蔵庫からいそいそとペットボトルのお茶を取り出し、それを馨にも勧めながら、いかにも切なそうに訴えた。
「澤田くんの賄いが休止になってから、俺の食生活はほんと残念なことになってるんだよね。まあ、将はもっと悲惨だろうけど」
「それを言うなら、津村くんもじゃない?」
「そうそう。それで見るに見かねて、広瀬くんがウマいもん食べに連れてってくれるんだけどさ」
それはそれでありがたいし、嬉しいし、楽しいんだけど、家庭料理は別腹だ。ああやっぱり早く帰ってきてくださいよと、健全な胃袋を持つ成年男子は切に思う。
「なんか悪いね、俺たちだけ」
「本当は、澤田くんにも食べてもらいたかったみたいなんだけど、食べ物の差し入れはダメなんだよね?」
男が頷くのと同時に、和人が待ちきれないとばかりに「いっただっきまーす」と勢いよくサンドイッチにかぶりついた。
「まじウメぇ! ナニこれ、超ヤバいよ!」
せっせと咀嚼する合間に器用に言って、目をキラキラさせながら次々にサンドイッチを制覇していく。
「これだけ喜んでもらえたら、清さんも嬉しがると思うよ」
馨も笑いながら、はみ出しかけたエビを慌てて頬張り、口のまわりについたタルタルソースをぺろりと舐めた。
二人分と言いながら、優に三人前はありそうな弁当が次から次へと消化されていくのを眺める男の唇の端に、あるかなきかの笑みが浮かぶ。
「ほんと、ウマそうだな」
ウマそうに食べるんだな、お前たちは。
そういう意味で言ったのだが、和人はハッとしたように男を見た。
「やっぱり、病院飯がマズくて食欲ないわけ? これだったら食べられそう? ねえねえ、なんかちょっと、食べてみなよ。あとで看護師さんには言っておくからさ。食べられるものがわかれば、向こうも助かると思うよ」
あらかた食べ尽くされたランチボックスを目の前に突きつけられて、男は反射的にたじろいだ。少しでも距離をとろうと、枕に背中を押しつける。
「悪い、食べたいってわけじゃないんだ。食べられないと思う、実際には」
遠くで見ている分には問題ない。しかし、においを嗅いだだけでも胃のあたりがムカついて、口にしようという気にはどうしてもなれない。
我ながら、情けないと思う。見るからに落胆している和人には、申し訳ないとしか言いようがない。
ごめんな、と言おうと視線を上げた途端、世界がぐるりと回転した。
「あ……っ」
「澤田くん?!」
ぐるぐるとまわりながら、和人がこちらをのぞき込む。
いや、現実にまわっているわけではない。背中を仰け反らせた弾みで、いつもの目眩がはじまったのだ。
ほんのちょっと重心を後ろにずらした、ただそれだけのことだというのに、どうしてこんなことになるのだろう。大時化の海に放り込まれた難破船のように、カラダが持ち上げられたかと思うと沈み込み、上下左右なく振りまわされているかのような錯覚に翻弄される。
「頼む、頭を下げてくれ」
それだけ言うのが精一杯で、こみ上げる吐き気を堪えるためにギュッと奥歯を噛みしめた。
和人は手にしていたランチボックスを馨に押し付け、同時にすばやくリモコンのボタンを押してベッドを水平にする。
「大丈夫? ナースコール押そうか」
口を利くことも首を振ることもできず、男は和人の目を捉えようと食い入るように見つめたが、焦点を合わせることがどうしてもできない。
「目、閉じた方がいいよ。力抜いて、ゆっくり深呼吸して」
おかしな風にひしゃげた和人の残像が目の前に迫ったかと思うと、しっかり両肩を掴まれた。脱臼した右肩に痛みを与えないよう加減しつつ、それでも確かな力が伝わってくる。
目を閉じても、世界が大きく波打っているように感じられるのは変わらない。自分がぐるぐると回転しつづけるのを止めることもできない。
しかし、和人の両手が碇となって、落ち着かせてくれようとしているのはわかる。ここを基点にして、安定させればいいのだ。両肩に置かれた力と熱に、意識を集中させる。
「……とまった」
実際にはまだゆらゆらしている感じではあったが、大波が間遠になったところで囁いた。が、きちんと声になっていなかったのか、和人は返事をせずに、そのままの姿勢を保っている。それからもうしばらく静かに深い呼吸をくり返し、ようやくピタリと世界が制止すると、それがわかったかのような間合いで、両肩にかかっていた手が離れていった。
ベッドの脇に立ち尽くし、和人が用心深く見下ろしている。そうしてようよう納得したのか、静かに一歩後ろに下がり、わずかに椅子を軋ませ腰を下ろした。
目を閉じたままでも、男にはその様子がはっきりと感じられる。
ゆっくりと目を開けると、不安そうな面持ちで和人と馨がこちらを見ていた。
「悪いな。食欲、なくなっちまっただろう」
唐突にこんな場面を見せられて、平静でいられるわけがない。
「ううん。それはぜんぜん、大丈夫だけど」
「俺たちの食い気を舐めんなっての」
気を使っているのか事実なのか、二人は再びランチボックスに手を伸ばし、サンドイッチやから揚げを摘みはじめた。しかし先程までの陽気さは影を潜めて、どこかしら悄然とした様子は、親とはぐれた寄る辺のない子供のように頼りなげだ。
自分はこの先、どれだけこの青年たちを裏切りつづけることになるのだろう。どこまで傷つけたら、彼らは諦めてくれるのだろうか。
もう充分すぎるくらい、失望と落胆を味わわせているというのに。迷惑をかけ、醜態をさらし、なにひとつ期待に応えられない自分を、どうして彼らは頑なに待ちつづけるのか。そんな価値は、自分にはない。少なくとも、今の自分には。いや。かつての自分にだって、あったとは思えない。
「ダメだよ、澤田くん」
和人は最後のフルーツサンドをすばやく馨の指先からかすめ取ると、デキの悪い生徒を叱責する教師のようにピシリと言った。
「またツマんないこと考えてるでしょ。そういうのはね、時間のムダなの。誰も幸せにしないんだから、やめときなって」
「それさ、俺のだと思うんだよね。最後はフルーツにしようと思って、とっておいたんだ」
「お前もツマんないこと言ってんじゃないよ。こーゆーのは早い者勝ちに決まってんだろ」
「いやいやいや、六個入ってたら三個ずつでしょ!」
「残念でした、もう食べちゃったもーん」
「あー!」
得意げにモグモグしてみせる和人に、馨は恨みがましい顔を向ける。それでも根っから人のよい馨は、ランチボックスを仕舞うかたわら、デザートのパンナコッタを和人に渡した。ベリーソースを添えたパンナコッタを手に、和人がとっておきの笑顔を馨に向ける。
「今日帰ったら、清さんに『愛してる』って伝えておいてな!」
「絶対やだ」
「なんでだよ。あ、『次は和食がいいなー』ってのも忘れるなよ」
「和食?」
「切り干し大根とかヒジキとか、そういうのが無性に食べたくなるんだよ。お浸しとか膾とか煮豆とか」
「若いのになかなか渋いね、和人くん」
「年下のくせに、若いとか言うなよ」
「一個しか違わないけどね」
「その一個が大きいんだよ! 学生だったら先輩と後輩だぞ。タメ口とか許されないんだからな!」
たぶん、気を引き立てようとしているところもあるのだろう。二人は罪のない応酬で、空気を和ます。
こうしてまた、彼らに救われている自分がいる。どこまで彼らに甘えてしまうのだろうか、自分という人間は。
男は強い疲労感に襲われて、目を閉じる。
「少し、顔色が悪いね。やっぱり、まだ本調子じゃないのかな」
「昨日の今日だから」
二人の声が、小さくなった。
「午後のリハビリは中止かなぁ。やるとなったら、どうせムリするに決まってるし」
和人が溜息まじりに言うと、馨が「らしいね」と応じてくすりと笑う。
男の言うこと、やること、ひとつひとつに、彼らは「らしい」と反応する。おかしそうに、嬉しそうに、満足そうに、ああいかにも澤田くんらしいよねと、頷きあう。
不思議なものだ。
自分が彼らの「澤田くん」であるとは思えないのに、どうしたってそんなことはありえないと思うのに、話し方、笑い方、考え方、無意識のうちに行うそれぞれが、彼らの「澤田くん」そのものなのだと言われてしまう。
いっそ、まったく異なっていればよかったのに。
ヘタな期待を抱かせることなく、ああダメだ、これは確かに別人だと、見捨ててもらえた方がお互いのためになったのではないだろうか。
「俺、そろそろ事務所に行くね。和人くんはもう少しいるんでしょ?」
「ああ、うん。リハビリの先生と、ちょっと話したいから」
「わかった。じゃあね、澤田くん。また来るよ」
いいや。もう、来なくていい。
本当は、そう告げるべきなのではないか。そう思いつつ、男は目を閉じたまま、横たわっていることしかできなかった。
何かがのし掛かっているかのような胸苦しさに、いっそ押し潰されてしまいたいと願いつつ。
「みんなには、なんて言おうか」
馨は廊下に出ると、見送りだと言ってついてきた和人に囁いた。
熱も下がって元気そうだったよ、だけで済ませられればよかったが、それだと少々、目にした事実と齟齬が生じる。だがしかし、結果的には数分で収まった目眩の発作についてまで説明したら、それはそれで事実以上に大事だったような印象を与えてしまいそうだ。昨日の将の様子を思うと、余計な心配はかけたくない。
「さっき医者に聞いたら、熱が出たのは風邪とかウィルスとか新たな問題発生とかじゃなくって、頭を打った後遺症で、一時的なものだろうって。目がまわるのもおんなじ理由なんだろうから、時間がたって自然に治るのを待つしかない。ということは、『なんか体力消耗してたけど、心配はない』って感じでいいんじゃね?」
和人は考えを巡らせながらそう言って、うん、と頷く。和人自身がつけている「看病日誌」には、その日に起きたことをすべて記すし、いつの日かそれを澤田本人やほかの誰かに見せるときが来るのかもしれないが、今のところは和人ひとりの備忘録みたいなもので、それがあるからこそ、共有する知識はもう少し緩やかなものでかまわないと思っている。なんでもかんでも赤裸々にするのはプライバシーの侵害のような気もするし、知らない方がいいことだって、世の中にはたくさんある。
馨もしばらく考えてから、「そうだね」と頷いた。将も安心させられて、自分の良心も痛まない、ちょうどよい匙加減の回答だ。
昨日は昨日でタイヘンだったんだろうけど、今日のあの様子を目にしたのが、将くんじゃなくてよかったな、と馨は思う。ぶっきらぼうで愛想がなくて、他人に誤解されがちではあるが、将は感受性が強くて繊細だ。澤田が変調をきたした時間は短いものだったし、近くにいなければ気づかなかったくらい、見た目には変化のないものではあったが、澤田本人は本当につらそうで、その後の憔悴具合から見ても、相当に消耗したようだ。和人の適切な対処がなかったら、もっと酷いことになっていたかもしれない。そんな場面に将が立ち会っていたら、澤田以上にショックを受けそうだ。
将くんは、優しいから。それに比べて、自分は。
そうつづきかけた考えを、馨はそっと押し留める。
ちょうど、エレベーターの前まで来た。
それじゃ、と上げかけた馨の右手を、和人はすっと指さした。
「どうしたんだよ、それ?」
見ると、肘の内側がミミズ腫れになっている。
「ああ、水無月だよ。俺と一緒に見舞いに行く気満々だったから、猫は人間の病院には行けないんだよって言ったら、いきなりガリッと」
「あの飼い主にちっとも懐かない猫にやられたのか」
「ちょっと! 俺よりも澤田くんに懐いてるだけで、俺に懐いてないわけじゃないから!」
「それ、ほとんど認めてるようなもんじゃん」
しれっと言ってのける和人に、ぜんぜん違うよ、とぼやいてから、馨は「でも」と言い足した。
「本当は、俺よりも水無月の方がいいんだよね」
和人は少し考えてから、病室の方を振り返りつつ、問い返す。
「澤田くん?」
馨はこくりと頷いて、うっすらと淋しげな笑みを浮かべた。
「こんなときくらい、もっと誰かに甘えたらいいのになぁとか思って。でも、俺じゃ力不足なのはわかりきってるし。広瀬くんだったら、少しはいいのかもしれないけど……」
年齢もキャリアも対等な広瀬は、その分、負っている責任も重くって、見舞いに来ている暇がない。
「言いたいことはわかるけどさ」
和人にしたって同じことだ。口惜しいけど、どんなにガンバったって、所詮、自分たち年下組は守られる側の人間だ。馨に足りない力が自分にはあるだなんて信じるほど、傲慢ではない。
でも、今度ばかりは、広瀬を頼るわけにもいかないのだ。自分たち以上に澤田という人間を理解しているはずの広瀬が、今このときに微妙に距離を置いているのは、おそらく「仕事が忙しい」なんてことのせいばかりではない。それが何かはわからないけど、何かがある。むしろ、ないはずがない。だから、広瀬が自分から動こうとしない以上、こちらからとやかく言うべきではないのだ。
そして、一番の問題は、澤田自身。
「あの人、お母さんにだって甘えられないんだぜ?」
澤田の母親があまり病院に顔を出さなくなったのは、夫にそうするよう指示されたからで、納得する部分もあるから従ったのだろうけど、不満がないわけでもないらしく、和人相手にこぼしたことがある。
澤田は娘が二人つづいてからの待望のひとり息子で、父親は澤田が幼い頃から、「男子たるものこうあるべき」と厳しく躾たのだそうだ。とにもかくにも、男は強くなければいけない。涙を見せるだなんて以ての外、他人に甘えるのも許されない。己を律し、常に鍛錬を怠らず、他者の手本となるようでなければならない。
「でもね、うちのお姉ちゃんたちは、強いのよ。年齢も離れているし、本人たちは末っ子の弟をかわいがってるつもりなんだけど、智くんとしては、イジメられてるのと紙一重のようなところがあって」
「なんか、かわいがられすぎてストレス溜めてる仔猫みたいな?」
「そうね、そんな感じだったかも」
本人たちに悪気はないから、「やめて」と伝えてもやめてくれない。母親に苦境を訴えようものなら、「告げ口した」と非難される。さらに、そんな話がうっかり父親の耳に入ったら最後、叱られるのは被害者のはずの末っ子だ。男が女に泣かされてどうする。しかも卑怯な振る舞いをするとは情けない奴だ。そんな子はもう家には置いておけない。そういう論法が繰り広げられることになる。
「どっちのお姉ちゃんの味方をしたとかしなかったとか、キッカケは小さなことなのよ。二人とも智くんがかわいいから、かわいさ余って憎さ百倍じゃないけど、ちょっと意地悪をしたとかで。ごめんなさい、もうしません、で仲直りして、それでおしまいの話なのに、お父さんが入るとすぐに大事になっちゃって、夜中に智くんを外に放り出したりするのよ。本人も怖くてビックリして大泣きするけど、お姉ちゃんたちだってまさかそんなことになるとは思わないからショックでね、泣いて取りなしてなんとか許してもらおうとするんだけど、とにかくお父さんは頑固だから。そりゃあもう、タイヘンなのよ」
当時を思い出したのか、普段は言葉数も少なく穏和な婦人が、一気にまくし立てる。その勢いに自分でも驚いたようで、ふぅっと小さく息をつき、それからいつもの調子に戻って話しつづけた。
「それで、智くんはなんでもかんでもガマンするようになっちゃって、母親の私にさえなんにも言わなくなったのよ。甘えてるのがみつかると、お父さんが怒るから。でも、いいじゃない、甘えたって。子供が母親に甘えて、何が悪いのよ」
そうして膝に置いたトートバッグの取っ手をいじりながら、呟いた。
「私が、もっと守ってあげればよかった。悲しくてもつらくても、『だいじょうぶ』しか言えない子にしちゃったのは、私なのよね」
和人がはじめて逢ったとき、澤田はすでにオトナだった。もちろん、生まれたときからオトナな人間がいるはずはなく、誰にも子供時代が存在するのはわかっているが、無口で無愛想で目つきが悪くて、第一印象が「怖そうな人」だった澤田がそうなる前の姿なんて、想像したこともなかった。
でも、当たり前だけど、あったのだ。もちろん。
「澤田くんは、ちゃんとわかってたと思うな」
和人は、疲れ切ったように肩を落として俯いた婦人に、にっこり笑ってみせた。
「お母さんはゼッタイ味方でいてくれるってわかってたから、ガンバれたんだよ、きっと。澤田くん見てれば、わかるよ。お母さんは、いいお母さんだ」
婦人は澤田とよく似たすっと切れ上がった目元を潤ませて、和人の顔をじっと見つめた。
「和人くんは、いい子ね」
じわりと染みるような優しい声でそんなことまで言ってくれたから、和人まで目を赤くすることになってしまって、ほんと困った。
力になりたい、甘えて欲しいと願っているのは、みんな同じだ。自分に一番にそうして欲しいけど、それがダメならほかの誰でもかまわない。甘えて、寛いで、ほんのわずかにでも癒されてくれればそれでいい。
けれどあの意固地な男は、頑なに自分を許そうとしないのだ。
「だからだよ。ペットセラピーって、あるでしょ。あんな感じで、水無月にだったら、澤田くんも少しは気を許せるんじゃないかと思ってさ」
自分が誰かとか、過去がどうとか、これからどうするとか、そんなの一切関係ない。何も言わなくていいし、考えなくていい。無言で寄り添う猫を、ただ撫でていればそれでいいのだ。
「アイツは、澤田くんが好きだから。ほら。前にも、あったよね」
自分たちにはどうすることもできなかったとき、ただ猫だけが、彼の傍らにあった。勝手に甘えて、餌をねだって、傍若無人に振る舞いながら、それでも彼を労り、励まそうとしているようだった。そういう猫を、彼は邪険にはしなかった。特別かまうこともなかったけれど、拒絶しようともしなかった。
もしかしたら、あのときのように、猫が澤田を取り戻してくれるかもしれない。可能性がゼロではないなら、試してみたっていいはずだ。
馨はエレベーターのボタンを押しながら、そっと呟く。
「体調のせいもあるんだろうけど、精神的に、参ってるみたいな気がするんだ」
和人はちらりと馨を横目に見て、キュッと唇を引き結んだ。
「……そんなの、わかってるよ」
多少の揺り戻しはあるにせよ、カラダは順調に回復している。しかしそれに反比例するかのように、澤田の心は蝕まれていっている。そう思えてならなかった。
それだけ、意識がしっかりしてきたということなのだろう。現状をハッキリ認識できるようになったからこそ、悩むし、迷うし、苦しむのだ。
自分のことがわからない。過去の記憶が思い出せない。
それがどういうことなのか、どんなに想像しようとしたところで、本人の気持ちを本当に理解することは、きっとできない。お互いにそれがわかっているから、澤田は一層、孤独になる。
和人も馨も、相手から顔を背けたまま、押し黙った。
なんとかしたいのに、なんにもできない。何かをしようとすればするほど、澤田を追いつめ傷つけてしまう。
「じゃ、また明日」
「うん」
エレベーターが到着し、馨は箱の中に消えていった。
和人は踵をめぐらせながら、口の中で小さく言う。
「水無月、か」
あの猫を拾ってきたのは、和人だった。
澤田ではなく、別の人のために。
あの頃、「ペットセラピー」なんて言葉はまだ一般的ではなかったが、それでもねらいは同じようなところにあって、和人は動物にだけは心を許す彼女の笑顔が見たくって、仔猫を拾った。本当は事務所で飼いたかったのに、本人がどうしても同意してくれなくて、馨に飼ってもらうことになったのだ。
自分は、卑怯なのだと思う。
澤田に思い出してもらいたい。澤田自身のことも、自分たちのことも、何もかも。
だけど、せっかく忘れられたというのなら、そのまま忘れていて欲しいと願う記憶もある。彼女のことも、彼女たちのことも、それに纏わるもの、丸ごとぜんぶ。
もしかしたら、それは彼女の望みでもあるのかもしれない。
自分のことを忘れて欲しい。すべての記憶を消し去りたい。
あんなにも澤田のことを好きだったくせに、彼女は澤田の前から消えることだけを望んでいたから。そうして本当に、行ってしまったから。
遠く離れた別世界に、たったひとりで行ってしまった。
あんなに大好きだったのに。
本当に、信じられないくらい好きだったのに。
ちょうど、今くらいの季節。
紫陽花の花が咲き綻ぶ、水無月の頃。




