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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
夏の訪れ
8/34

(2)

 将を乗せたバスは、駅前のロータリーでしばらく停まってから、線路を越えて駅の反対側へと進んでいった。

 川を渡ったところで、たぶんこのあたりだったはずだと降車ボタンを押す。


 事務所があるのはごくごく普通の住宅街だが、川向こうのこちらは、全国でも有数の高級住宅地だった。直線距離だとたいして離れていないというのに、豪奢な屋敷が整然と建ち並ぶさまは、まったくの別天地だ。

 このうちのどれか、このあたりのどこかに、馨の実家がある。

『もしもし? 将くんからかけてくるなんて、珍しいね』

 ここまで来てから思いついて電話をかけると、馨ののんびりとした声が聞こえてきた。

「お前んち行こうと思ったんだけどさ」

『え?』

「お前、いんのかなーと思って」

『ちょ、将くん、今どこにいるの!』

「わかんね」

『は?』

「バス降りたとこ。たぶん、近いんじゃねーかな」

『近いって……うちに?』

「たぶんな」

『ちょっと待って、そこ動かないで! 俺もいま家に向かってるとこだから。バスってあれかな、駅から出てるヤツ? あ!』

 電話にくっつけている右耳とフリーの左耳と、両方から「おーい」という声が聞こえてきた。顔を上げると、道路の反対側の曲がり角から、馨が大きく手を振っている。こっちこっちと手招きされて、将はすばやく通りを渡り、当たり前のように「よう」と言った。

「将くん、ひとり?」

「ああ」

 馨は「ふーん」とだけ言って歩き出したが、しばらくすると、小さく笑って付け足した。

「行ってきたんだね、お見舞い」

 将が答えずにいると、さらに言い足す。

「病院の前からバスに乗って、事務所を素通りしてここまで来たんでしょ?」

 なんでそんなことがわかるんだよ、という問いは、ムカつくから声にはしない。まあ、バスのルートと経過時間から見当をつけたんだろうことは察しがつく。

「どうだった? 澤田くん」

 将が黙っているせいか、馨の声が小さくなった。ちらりと並んで歩く横顔に視線をやると、馨もこちらを横目で見ている。

 将が「うん」とだけ答えて沈黙すると、馨もやはり、「うん」と頷き返して前方を向いた。それ以上は尋ねてこずに、話を変える。

「覚えてる? この木が目印。この枝垂れ桜のある家を通り越して、右に曲がったところがうちだから」

 馨は簡単に言うが、「枝垂れ桜のある家」を通り越すためには数分歩かねばならず、「右に曲がったところ」にある馨の実家は、公園か学校か病院か、とにかく公共の施設だとしか思えない広大な敷地を有している。はじめてきたときには驚いたが、なんだかあまりにもスゴすぎて、かえってすんなりと受け入れてしまった。ナニしろ入口にたどり着くだけでも一仕事なのだ。

「将くん、夕飯まだだよね?」

「うん」

「じゃ、ちょうどいいから裏門から入ろう。ここからだとその方が近い。俺は食べてきちゃったけど、なんか用意してもらうよ」

「いや、でも」

 さすがに突然押し掛けて、「飯を食わせろ」はないと思う。思うのだが。

「いいんだよ」

 器用にクイッと片眉を上げて、馨が笑う。

「こんな風に『トモダチ』連れて帰ってきて、『お腹すいた!』なんてワガママ言ったら、喜ぶ人たちだから。わかってるんだけど、俺、昔からうまくできなくてさ」

 馨がそう言うのなら、そうなのだろう。将に異存があるわけもなく、「うん」と頷きついて行く。

 将はこれまで何度かここを訪れているが、馨のほかには、この屋敷の家政全般を司る老紳士にしか逢ったことがない。だが、その度に彼の妻の手料理を振る舞われてはいて、二人が馨の育ての親同然の存在だということも知っている。馨の母は馨が五歳のときに亡くなっていて、父親とは折り合いが悪く、今では同じ屋敷に暮らしながらも絶縁状態らしい。

 その父が澤田や広瀬が勤めていた会社の代表取締役で、馨がその跡取り息子だということを将が知ったのは、イロイロあった後のこと。もしも順序が逆だったら、こうして並んで歩いていることはなかっただろう。「苦労知らずの金持ちのぼんぼん」なんて、将がもっともキライなものだ。だがしかし、はじめて逢ったときの馨は、いかにもお育ちのよろしそうな大学生ではあったけれど、「鼻持ちならないキザ野郎」だという感じはしなかった。高校中退後、社会の底辺を這いずりまわった将には、馨のおっとりとした鷹揚さが浮き世離れして見えることも多々あるが、馨にはどこか淋しそうなところもあって、そちらの方に意識が向いたからかもしれない。

 将は、好き嫌いが激しい。他人にもよく言われるし、自覚もある。コイツをキライにならなくてよかったと、そんなことをふと思う。


 そのまましばらく歩きつづけると、小柄な二人の身長よりも高い塀がようやく途切れ、事務所のエントランスよりもよっぽど豪勢な「裏門」があらわれた。馨が門柱のブザーを短く押すと、待つほどもなくカチリと音がし、鉄扉のロックが解除される。扉の向こうは砂利敷きで、きれいに掃き清められた小径を辿っていくと、古びた洋館に行き着いた。

 二人が姿を見せるのと同時にかわいらしい飾り窓のついたドアが開き、中から白髪の紳士が迎え出る。

「馨様。きちんと正面玄関をお使いになるようにと、いつも申し上げて……」

 厳しい口調ではじまろうとした説教は、将が馨の後ろからひょこっり顔を覗かせたところでふつっとやんだ。

「これは、樋口様。お久しぶりでございます」

 いつもながらの恭しい挨拶に、「様」は勘弁してくれよと思いながら、将も「ども」と頭を下げる。

「そこで、バッタリ会ったんだ」

 馨は何食わぬ顔でにこやかに言い、「ただいまー」と声をかけながらするりと屋内へ侵入する。すると、奥から紳士と同年輩――七十がらみだろうか――の婦人が、エプロンで手を拭きながらあらわれた。

「まあ、坊ちゃま。こんなむさ苦しいところへ」

 「むさ苦しい」どころか、勝手口も、それにつづく作業部屋やら貯蔵庫やらも、塵ひとつなく掃き清められ整然としている。この前掃除したのがいつだか思い出せない俺の部屋見たら、この人ぶっ倒れちまいそうだな、と思いつつ、将がここでも「ちっす」と無造作に会釈すると、婦人は突然の珍客に「まあまあまあ!」と目を丸くした。

「あのね、将くん、食事がまだなんだって。何か食べさせてあげてよ」

 馨は婦人の肩に手を置いて、くるりとカラダの向きを変えさせる。

「まあ、なんてこと! もっと早くに仰ってくだされば、ご用意しておきましたのに」

「だって、ほんとにたった今そこで会ったんだよ」

「今夜は馨様もいらっしゃらないし、私どもは有り合わせのもので済ませてしまったんですよ。本当にたいしたものは残っていなくて……」

「いや、ほんと、俺は食えればなんでもいいんで」

 やっぱり迷惑だったんじゃね? と馨を睨みつつモゴモゴ言う将を、婦人は思案深げに振り返った。

「そうですねぇ。将さんは、ハンバーグはお好きですか?」

「お好きです!」

 即答し、わかりやすくパッと笑顔になった将に、婦人も頬を綻ばせる。

「それでは、ちょっと煮込んで、ロコモコ丼にでもしましょうかね。すぐにお部屋までお届けします」

「別に、ここでいいっすよ」

 わざわざ二階の馨の部屋まで運んでもらう必要はないだろうと、何の気なしに口にしてから馨を見やると、馨もうんと頷いた。

「将くんがいいなら、俺はぜんぜんいいよ」

「でも、それでは……」

「いいからいいから。早く食べさせてあげてよ」

 馨は躊躇う婦人を調理場に押し込み、将をこの屋敷で働く者たちが使っているダイニング・テーブルへと誘った。

「馨様」

 しばらく姿を消していた紳士は、十人は座れる大テーブルの端にちょこんと並んでいる二人を見ると、眉を顰めた。この家の跡継ぎが使用人部屋で飲食をするなど許されることではない、と言いたいのが一目でわかる。しかし、馨が穏やかな笑みを浮かべて小さく首を振ると、何も言わずに溜め息だけをこぼし、壁際の棚からミルを取り出しコーヒーを煎れる支度をはじめた。

 そうして、豆が曳かれ、ネルから香ばしい液体が抽出されていくのを眺める間に、将の夕飯が登場した。

 丼飯の上にはたっぷりとキャベツの千切りが盛られ、そこにかぶせるように乗せられた煮込みハンバーグの上に、さらに目玉焼きが鎮座している。付け合わせの粉ふきいもと人参のグラッセが縁からこぼれそうに盛りつけられて、ボリューム満点だ。

「いただきます!」

 将はパンと両手を合わせると、いかにも待ちきれないというようにフォークを繰り出す。

「なんか、すっごく豪勢だね」

 馨が片眉を上げてみせると、オーブンから取り出したオニオングラタンスープを運びながら、婦人は小さく首を振った。

「冷凍しておいたものや作り置きばかりですけどね。馨様がやっぱり食べると仰ったときのために、いくらかは準備してあるんですよ」

「へー」

「まったく、便利な世の中になったものです。手間は一緒ですからね、なんでも多めに作って凍らせておくと、無駄も出ないし、使い勝手もいいんですよ」

 口いっぱいに頬張っていたハンバーグを飲み込みながら、将は「ああ」と呟いていた。

「澤田くんも、おんなじようなこと言ってたな」

 澤田は暇をみつけては、事務所のキッチンで立ち働く。大量に買い込んだ野菜を切ったり茹でたり、取り敢えず下拵えしておいて冷凍しておくと便利なのだと、大型冷蔵庫の冷凍室にはストック野菜がきれいに並べられているほか、誰でも解凍するだけですぐに食べられるように、ピラフやシチューがいくつも保存されていた。調理済みのものはあっという間に消費されたが、食材は数ヶ月たった今もそのまま残っているものも多い。広瀬や津村がたまに焼きそばやラーメンを作るほかは、誰も料理なんてしないのだから、当然だ。

「家事に終わりはありませんからね。いかに効率よく片づけるか、みんな知恵を絞るんですよ」

 婦人はうんうんと頷いて、二人と向かい合う椅子に腰を下ろした。その隣りの席に、人数分のコーヒーを携えた紳士が座り、静かに問う。

「澤田様と仰るのは、確か、事故に遭われてご入院されているという?」

 一瞬の間をおいて、将と馨が「うん」と同時に頷いた。婦人の顔にも影が差し、躊躇う素振りを見せてから、思い切ったように問いかける。

「お加減は、いかがなんです?」

 将はもぐもぐ咀嚼しながら、「うん」と再び頷いた。そうして少し長すぎる間が空いた後、半分ほどに中味が減った丼を見下ろしつつ、ボソリと言う。

「今日は、あんまりよくないみたいだった」

 言葉にすると、実際よりもさらによくないみたいに聞こえるようで、眉根が寄った。それがいかにも深刻そうな表情になって、見守る三人の顔も自然と曇る。

 不意に落ちた沈黙の中、紳士はすっと立ち上がると、調理場の脇の小部屋に姿を消した。扉を開けたり閉めたりする音がかすかに聞こえ、さして待つほどもなく戻ってきたときには、四つに切り分けられたケーキが乗ったトレーを手にしていた。

「馨様も、何か召し上がりたそうなご様子でしたので」

「うん。将くんがあんまりおいしそうに食べるからさ」

 馨は照れくさそうな笑みを浮かべ、婦人の焼いたバナナと胡桃のケーキにさっそく手を伸ばした。シナモンの香りがほのかにして、完熟バナナの甘みと胡桃の香ばしさを引き立てている。

 子供の頃、こうしたおやつは馨が椅子に上っても手の届かない、高い棚の中にしまわれていた。婦人よりも身長が伸びてから、こっそり小部屋に忍び込んで例の棚を探ってみたところ、おやつの隠し場所はすでに変更されており、今に至るまでそれは謎のままになっている。あの部屋のどこかにあるはずなのに、馨にはどうしてもみつけられない。祖父の代からこの屋敷の家政を切り盛りし、亡き母の養育も任されていたという二人には、いくつになってもかなわない。

 将はケーキをちらりと見やり、丼の残りを一気にかき込む。とろけたチーズについた焦げ目がいかにもうまそうな、バゲット入りのオニオンスープまで平らげたらそれだけで満腹間違いなしだが、手作りケーキをスルーするのは不可能だ。

 一足早くケーキを食べ終え、二杯目のコーヒーが注がれたところで、馨は誰にともなく静かに言った。

「俺、明日、行ってみるよ」

 気にはなるし、心配しているのも確かだが、将の足はこれでまたしばらく遠のくに違いない。それを慮っての言葉らしいことは、唇の端にうっすら浮かんだ笑みを見れば明らかだ。将は「うん」と「ふん」の間のような声で、返事に変える。

「そうですね、そうなさいませ。何かお見舞いの品をご用意しましょうか」

 それはいかにも婦人らしい気遣いだったが、馨も将も迷うことなく首を振った。

「食いもんってわけにもいかねーし」

「今は本を読んだりもできないみたいだし、澤田くんに花っていうのも、ねぇ」

 馨の言葉に苦笑し同意しながら、不意に思う。


 そういえば、あの人が好きなものって、なんなんだろう。

 たとえば、馨のところでこんなものをご馳走になったという話をしたら、津村や和人がお前ばっかりズルいだなんだとヤイヤイ騒ぐ。澤田は特に話に加わるわけでもなかったくせに、いつのまにか将や馨からもう少し具体的な情報を引き出して、翌日の昼食に同じようなものを再現してみせたりする。料理がキライじゃないのは事実だろう。自分が作ったものを一緒に食べるのだから、イヤイヤやっているとも思わない。しかし澤田が作るのは、津村が好きなナポリタンとか、将の好物のオムライスとか、和人がねだるクリームコロッケとか、そんなのばかりだ。広瀬が探してきたレシピで手間暇のかかる煮込み料理に取り組むこともあれば、ほかの四人に圧倒され遠慮がちな馨にさり気なく探りを入れて、密かに食べたがっていた餃子の山を築いてやったりもする。

 でも、自分で食べたくて、自分だけのために、何かを作ったことがあるのだろうか。カレーを作るときだって、津村の好きなシーフードにしようとか、将だったら肉だよなとか、和人はキーマ・カレーが好きだからとか、思い出すのはそんなセリフばっかりだ。

 これまで気にしたこともなかったけれど、澤田の好物すら知らないのだ、自分は。向こうは当然のように弁えていて、何も言わなくてもテーブルいっぱいに将好みの料理を並べられるというのに。


「将くん?」

 将は大きく割ったケーキを口に入れると、ゆっくり味わうように咀嚼した。

「うまいな、これも」

 手作りのケーキなんて、この家に来るまで食べたことがなかった。

 それは本当においしくて、だから何も言えないんだとしても、誰も不思議に思わないに違いない。そうしてバナナケーキに専念する将の隣りで、馨が穏やかに話を継いだ。

「さすがの澤田くんも、デザート系は作らないよね。澤田くん、甘いの苦手だから」

 ああそうだ、確かに頂き物の焼き菓子やチョコレートがあったりしても、澤田は決して手を出さない。

 澤田くんは、甘いものがダメだから。

 これまで単純にそう思っていたけれど。そして、それも本当だろうとは思うのだけど。もしかして、甘いものに目のない五人のために、「俺の分も食べていいぞ」と言ってたところもあったのではないだろうか。考えてみるとそれはいかにも澤田が言いそうなことで、将は我知らず眉間に皺を寄せていた。

「お好きな方はお好きなんでしょうけど、おやつのためにケーキやパイを焼く男性は、少ないかもしれませんねぇ」

「澤田くんは負けず嫌いだから、そんなこと言うとムキになって作るかもしれないよ。アップルパイとかパンプキンパイとか、食べきれないくらい並べられそう。凝り性だからさ、シュークリームとかシフォンケーキとか、気づいたらレパートリーが広がってたりして」

 馨がカップを手にしながら微笑むと、婦人も慈愛に満ちた笑みを浮かべて、感じ入ったようにしみじみと口にした。

「本当に、みなさんを大事に思われているんですねぇ、澤田さんは」

 残念なことに、最悪のタイミングでケーキを食べ終えてしまった将は、ミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーをグイッと飲み干す。

 言わないでよ、そんなこと。そういうのダメなんだ、マジで。

 そんな心の声が聞こえたのか、将が突然席を立っても、馨は驚いた様子を見せなかった。

「ごちそうさまでした」

 ペコリと頭を下げて、だけど二人の顔を見ることはできずに、将は椅子を元に戻す。食べ終わった皿を重ねようとすると、「どうぞそのままで」と言われてしまい、甘えることにした。

「お邪魔しました」

「どうぞ、またいらしてください。今度は大ご馳走をご用意しておきますから」

「お履き物はまわしておきましたので、正面玄関からお帰りください。馨様のご友人は、あちらをお使いにならなければなりません」

 厳格な紳士の声は、優しくもあった。将も「はい」とすなおに答え、馨に長い廊下へと案内される。

 紳士と婦人とは、そこで別れた。もう一度頭を下げると、二人も丁寧に会釈をし、廊下を曲がるまで見送ってくれた。


 増改築が繰り返されたらしく、何度来てもよく構造のわからない屋敷で、ひとりだったらゼッタイ迷うな、と将が確信した頃、玄関ホールにたどり着いた。馨は車寄せまで出て、だらだらとつづく小径の先、ここからは見えない錬鉄性の瀟洒な正門まで送ろうとしてくれたが、将は「ここでいい」と断った。

「じゃ」

「気をつけてね」

 挨拶とも言えない挨拶を短く交わし、将は馨に背を向ける。形よく整えられた植え込みをぐるりとまわり、見送っているであろう馨の視界から消えたあたりまで来ると、自然と溜め息がこぼれ落ちた。


 なんかさ、もしも自分が食べたいものがないってことなら。もしもそういうことなんだとしたら。それってつまり、生きようとしてないってことじゃないのか。


 婚約者の目覚めを待ちつづけた三年間も。彼女が亡くなってからの二年間も。

 澤田が苦しんでいたのは知っている。傷がすっかり塞がったとは思わない。完璧に癒えることは、ないのだと思う。

 それでも、深い喪失を抱えたなりに、立ち直ったのだと思っていた。少なくとも、立ち上がろうとしているのだと信じていた。

 しかし、そうではなかったのだろうか。

 そういう性分なのもあるだろうけど、澤田が料理に腕を振るうのも、部屋をきれいに片づけるのも、庭の手入れに精を出すのも、基本的にはほかの誰かのためなのだ。事務所はいつ行っても居心地よく整頓されて、食べ物も飲み物も切らすことなく用意されている。クッションやブランケットはふわりとお日様のにおいがして、窓もピカピカに磨かれて、そこから見える庭には季節の花が咲いている。

 あそこにいるのが澤田ひとりなのだとしても、同じようにしていただろうか。自分のために食事を作り、掃除をして、花を育てるか? いや。誰かに言われるまでろくに食べもせず、庭を眺めることなど思いつきもしないような気がする。そうして死んだように生きている姿が、ありありと思い浮かぶ。

 だって、知っているんだ。

 意識の戻らない彼女を見守りつづけた、長い長い時間の終わりの頃。

 澤田は彼女をこちらに呼び戻すのではなく、自分が彼女の側に行きたいと願っていた。そう願いながら、毎日彼女のもとに通っていた。ギリギリまで追い詰められて、疲弊し擦り切れそうになっていて、そんな彼を辛うじてつなぎ止めていたのは、自分たちへの責任だけだった。若いヤツラの身の振り方を決めてからでなければやめられない。消えられない。いなくなれない。

 本当は、今すぐにでもすべてを投げ出し、彼女とともに消えてなくなってしまいたいのに。

 いつからそんな風に考えるようになっていたのかはわからない。心の澱が積もっていって、いつしか口にはしなくても、にじみ出るようになってしまった。そんな感じだったのではないかと思うだけだ。

 そういう澤田を、みんなで取り戻した。こちら側に引き戻した。

 そのはず、だったのに。

 本当は、ずっとあの頃のままだったのだろうか。

 ぜんぶ忘れて、あちら側に行ってしまいたいと願いつづけていたのだろうか。


 スニーカーの先に当たった小石が、カツーンと固い音を立てて転がっていく。

 下り坂が緩やかになり、足下を照らす小さな灯りに向けていた顔を上げると、正門があらわれた。今は無人だが、昔は本当に人が常駐していたのだという門番小屋近くの脇門は、内側からだと難なく開き、きちんと閉めると自動的に施錠される。

 将は屋敷の外に出ると、塀に設置されているモニターを見上げ、おそらく確認がてら見送ってくれているであろう紳士に向けて、ぺこりと頭を下げた。

「さて、と」

 馨はいつも、事務所まで自転車で通っているが、歩けない距離ではない。将のアパートまでだったら、さらにもう少し近いはずだ。その程度の距離しかないというのに、線路を渡った駅の向こうで、さらに川を越えてしまうと、一気に「お魚くわえたどら猫」が闊歩しそうな超庶民的な町並みへと変貌する。

「あ」

 そういえば、馨のところの猫をからかい損ねた。

 ちょうど二年前の今頃、和人が拾って事務所に連れてきた猫で、飼うことになった馨が「水無月」と名付けた。耳も目も大きくて、シッポもすらりと長く伸びて、そのせいか余計に小さく見えるかわいい猫だ。自転車の前籠に入れられしょっちゅう事務所にも来ていたから、みんな顔馴染みでかわいがっているのだが、扱い慣れている和人や格好の遊び相手の津村、飼い主である馨をも差し置いて、水無月がもっとも慕うのが澤田だった。邪険にするわけではないかわりに構うこともなく、たまに煮干しを分けてやったりするだけのことなのに、水無月は澤田のそばから離れない。気づくとソファに並んで新聞を読んでいたりして、馨に焼き餅を焼かせていた。

 澤田がいないからなのか、馨はここのところ、水無月を連れてきていない。


 ――ひょっとして、ひょっとすると。アイツを見たら、ぜんぶ思い出したりしねーかな。


 不意に浮かんだ考えを、自分で打ち消す。

 そういうんじゃない。そういうことじゃない。

 ほんとはなんにもなくしてないし、忘れてもいない。そうだろ?

 機械が動いているかぎり、半永久的に生きつづけるはずだった彼女が、唐突に生きることを止めたとき。

 あのときだって、あんな抜け殻みたいになってしまったときだって、ちゃんと帰ってきたんだから。まるっきり生ける屍みたいで、話しかけることもできなくて、はじめはそっとしておこうと距離を置き、そのうちそれがダメなんじゃないかと誰かがそばにいるようになり、どちらにしてもなんの反応もなく、どうしていいのか途方に暮れるしかなかったところからだって、連れ戻すことはできたのだ。

 澤田は今日、つらそうだった。熱に浮かされ、苦しそうでもあった。

 それは、いいことだ。

 「苦しい」ってのは「戦ってる」ってことで、「生きようとしてる」ってことでもある。


 だから、そう。

 あれはやっぱり、本物だ。正真正銘、澤田の目だ。

 将はひとり頷き、ポケットに手を突っ込んで歩きつづける。

 あんな状態で、「なんにも覚えていない」と言いながら、津村を慰めようと差し伸ばされた、細い腕。すっかり筋肉が落ちてしまって、たったあれだけのことが思うようにできなくて、それでも諦めることなく、津村のことだけを見つめていた。

 大丈夫。アンタはアンタで、ぜんぜんなんにも変わってない。


 梅雨時のどんよりとした雲に覆われた夜空には、星も月も見えはしない。

 しかし、その上の天空には、燦然と輝く星々がある。見えても見えなくても、星は変わらずそこにあるのだ。

 将がねらいをつけて小石を蹴ると、小気味いい音とともに、石ころは遠く先まで転がっていった。




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