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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
夏の訪れ
7/34

(1)

 別に、誰に責められたわけではないけれど。

 人それぞれ、自分のペースで、気が向いたときに行ってるだけだってことはわかってるけど。

 和人のそれがやたらとハイペースなのを誰も気にしないのと同じように、この数ヶ月間に二、三度しか顔出ししていないのをとやかく言われたりするわけでもないのだが。

 なんとなく、勝手に気が咎めるようなところはあって、だから余計に気が重くなり、一層行こうという気持ちが萎えてしまう。

「コドモかよ」

と和人は眉根を寄せ、

「気にすることないよ」

と広瀬は笑う。

 そう言われたところで、じゃあ行こうとか、行かなくてもいいかとか、そういう気持ちになるわけでもなく、やはりなんだかモヤモヤとしたものだけが残る。

 だいたい、向こうが喜ばないだろうと思うのだ。少なくとも、自分だったら「来るな」と思う。単純に怪我や病気だというだけならまだしも、イヤだろう、ゼッタイ。「やめてくれ」と思う方がフツウじゃないのか。

「けど、もしもこれが逆だったらさ。イヤだって言っても、やめろって言っても、澤田くんは見舞いに来るでしょ、ゼッタイ」

 気づかれないように、こっそりと。心配で、ほっとけなくて、毎日通うに決まってる。

「そんで俺は、ウザいなぁ、勘弁してよって思うんだけど、それでもやっぱり、心のどっかで来てくれるのを待ってたりもするんだろうなぁとも思うんだ」

 和人はそんなことを言って、出掛けていった。今日は飼い犬の散歩代行三件と躾教室の同伴が入っていて、病院には行けそうもない。そこからはじまった会話だった。

 和人らしいなぁと思う。それはそれで正しいよなぁ、とも。

 でも。だけど。

「いいんだよ、ほんとに」

 広瀬が言ったのはそれだけだけど、見抜かれているんだろうと思う。

 なんで行かないのか。どうして行けないのか。

 広瀬自身あまり行っていないのようなのも、仕事のせいばかりではなく、同じ理由なのかもしれない。

 それは、みんなが知っていることだ。でも、実際にあの場で彼女と向き合ったことがあるのは、自分と広瀬だけだから。

「俺、面会時間に間に合うようだったら、帰りにちょっと寄ってみるよ」

 午前中はひとり暮らしのお年寄り宅の庭仕事に駆り出され、午後からは不登校の中学生の家庭教師を務める予定の馨が、屈託なく言う。最年少で、一番新しいメンバーで、イロイロ訳ありだったくせに、今ではすっかり落ち着いて、馴染んでいる。

 そう。イロイロあって、やっと落ち着いて、ようやくこの新しい体制が馴染んできたと思ったら、こんなことになったのだ。

「いつも勉強の後に一緒に食事していくように勧められるんだけど、それ断ればぜんぜん余裕だと思う」

 馨がいかにも育ちの良さそうな整った顔立ちにおっとりとした笑みを浮かべて言い足すと、広瀬は素っ気なく首を振った。

「完全看護なんだから、一日くらい誰も顔を出さなくったって、問題ない。せっかくのご好意を無にしちゃダメだよ。少しでも一緒にいたいって思ってくれてるってことは、それだけ心を開いてくれたってことでもあるんだからね。成績を上げるためだけに雇われたわけじゃないんだよ?」

 この依頼が馨の担当に振り分けられたのは、教員免許を持っていたのが馨だけだったからではなく、「学校の先生」をやってみたいなどと奇矯なことを一瞬でも考えたことがあるのが馨だけだったからでもなく、十五歳の少年と一番年齢が近いのが二三歳の馨だったからだ。少年の両親からは、勉強の遅れも心配だが、それよりむしろ、一人っ子の彼のために、兄のような年上の友人のような、そんな関係を築いてもらえるとありがたいと告げられている。それだったら、最年少ではあるが大人びたところのある馨よりも、一つ年上だけど高校生でも通りそうな和人の方が適任ではという声もあったが、本人が「中学の勉強をもう一回やりなおすなんて、ぜってーヤダ!」と言い張り譲らなかったのだから仕方がない。

(まさし)は久々のフリーをのんびり過ごして、明日に備える。以上」

 広瀬はキッパリと言い渡すと、馨と連れ立って出て行った。「調べものがある」とかで、ここのところヒマさえあれば出掛けてしまい、ほとんど事務所に居着かない。

 今日は津村も朝から姿を見せないから、将だけが取り残された格好になる。

 昼は四人で宅配ピザを食べた。まだ腹は減っていないし、おもしろそうなテレビもなく、ゲームも飽きた。昼寝でもしようかとも思ったが、どういうわけか、今日にかぎって眠くならない。近くに借りてるボロアパートに帰ったところで、同じことだろう。

 将はソファーからゆっくり立ち上がると、両手を上げて伸びをして、それからおもむろに玄関に向かった。荷物は持たない主義なので身軽なもの、いつものスニーカーを引っかけて、ポケットから事務所の鍵を取り出し施錠する。

 マンションのエントランスから外に出ると、空は今にも降り出しそうな雲に覆われていた。

 そういえば、もうそんな季節だっけか。

 手入れをする人もいないのに、庭の紫陽花に蕾がついているのをチラリと見遣り、将はのんびりとした足取りでバス通りへと向かった。


 まあ、その、なんだ。

 チラッと顔だけ覗かせて、さっさと退散すればいい。うまくすれば、ロビーや廊下にいるところを遠目にチラリと確認して、そのまま引き上げるというのもアリかもしれない。

 病院前のバス停に降り立った将は、そんなことを考えながら、ぶらぶらと入院病棟の入口に歩いていった。ロビーをぐるりと見渡してから、少し遠回りになるのも厭わずリハビリルームも覗いてみたが、残念なことに見覚えのある人影はなく、観念してエレベーターに乗り上階へ向かう。

 寝ているようだったら、そのまま黙って帰ってこよう。

 まだそんな考えにしがみつきつつ開けっ放しの入口を潜り、ひょこっとカーテンの隙間から中の様子を窺おうとして、その場の光景に固まった。

「あら。こんにちは」

 てきぱきと手を動かしながら笑顔を向けてくる看護師に、「ども」と頷き返し、眼差しだけで問いかける。

「今日は朝から熱があるんですよ。三八度を超えて、呼吸もつらそうなので、酸素をつけてもらってます。いま氷枕を取り替えたので、ちょっと様子をみましょう。何かあったら声をかけてください」

 看護師は頭の下だけではなく、両脇と足の付け根にもタオルにくるんだ保冷剤らしきものをあてがい、にこりと会釈をして立ち去った。将もどうにか頷くような会釈を返し、ひとりになったところでボソリと呟く。

「なんだよこれ。聞いてねーよ」

 将が来たことにも気付く様子はなく、額に汗を滲ませ荒い呼吸をしている男を一瞥し、パイプ椅子にどさりと座る。

 順調に快復している。どんどんよくなって、車椅子に座っていられるようにもなったし、本格的なリハビリもはじまった。そう聞いていたのに、なんなんだ、これは。

「酸素マスクとか点滴とか、そういうのはもう終わったんじゃなかったのかよ」

 コードとかチューブとか、そんなのに繋がれてる姿は見たくない。それはもう散々眺めたはずだろう。ようやく解き放たれたと思ったのに、どうして戻っていかなきゃいけないんだ。

 将はくすんだ金髪をグシャグシャにして、そのまま頭を抱えるようにして項垂れる。

 思い出したくなんかないのに、勝手に再生される記憶を止められなかった。

 一日も欠かさず毎日毎日、ひとりひっそりと男は病室を訪れる。コードやチューブに繋がれて、機械に囲まれ眠る婚約者を、ただひたすら見守りつづける背中は別人のように頼りなくて、今にもくず折れそうに疲弊していて、そのままかき消えてしまいそうに薄く見えた。

 意識のないまま生きている彼女に、優しく語りかける低い声。

 男の目にだけは目覚めた彼女が映っているかのような、どこか危うい穏やかな笑み。

 ガラス越しに眺める光景は、甘く切なく、残酷だった。

 そうして、ついに彼女が息を引き取るまで、三年もの月日を過ごしたのだ、この男は。

 そうしてようやく、彼女の存在しない世界で新しくスタートを切ったのだ、自分たちは。

 それなのに、今度はこの男自身がベッドに繋がれ横たわっている。

 そんなことがあっていいのか。いいわけがない。そうだろう?

 後戻りはしない。誰にもさせない。ゼッタイに。


 ――将。


 ふっと顔を上げると、男がまっすぐに将を見ていた。揺るぎない強い視線が、こちらを射抜くように向けられている。

「……え」

 これって、もしかして。

「澤田くん?!」

 将が腰を浮かせるのと同時に、背後から悲鳴のような声が聞こえてきた。

「津村くん!」

 反射的に振り返ってから、すぐさま元の姿勢にかえる。

 視線をはずしたのは、ほんの一瞬だ。それなのに、男の眼差しは、熱に浮かされた人のうつつないそれに戻ってしまっていた。

「なんだよ、どうしたんだよ、どうしちゃったんだよ」

 将は自分も動揺したまま、ベッドに縋りつくように崩れ落ちようとする津村を自分が座っていたパイプ椅子に落ち着かせる。

「熱があるんだって。なんかでも、様子をみましょうとかって、あんま焦ってる感じでもないみたいよ」

 そんな心許ない説明が聞こえているのかいないのか、津村は上掛けの端をギュッと握って、肩を震わせ俯いた。必死で嗚咽を堪えているのがわかって、将はそっと、津村から離れる。

「俺、もう行くから」

 どちらへともなくボソリと言って、そのまま一歩、後ろに下がった。

 男がいかにも苦しげに顔を歪め、痛々しいくらい細くなった右手をわずかに浮かす。その指先がどうにか津村の髪を掠めるようにしてぽとりと落ちて、津村の背中が一層丸くなるのを視界の端に捉えながら、将は病室をあとにした。


 思ったよりも長くあそこに座っていたようで、病院の外に出ると、すっかり日が落ちていた。

 両手をジーンズのポケットに突っ込んで、小柄な背中を怒らせるようにして将は歩く。

 津村が毎日、澤田を見舞っていることは聞いていた。ただ、和人とは違って、声をかけたり顔を合わせたりはせずに、ナースステーションで様子を確認するだけで帰るのだという。

 どうしてだろうね。

 和人は首を傾げていたけれど、それは理由が思いつかないからというよりは、気持ちはわからないでもないけど、そんな必要ないのになんでそんなことをするんだろう、と言っているように将には聞こえた。

 津村の気持ちは、将にもわからないではない。

 津村の時間は、あの日からまったく進んでいないのだ。


 事故の知らせが届いたとき、将は広瀬とともに事務所にいた。

 澤田と津村が交通事故に遭ったらしいが、詳しいことはわからない。取り敢えず自分が病院に行って状況を確認してくるから、将はここで待っていてくれと広瀬は言った。和人と馨が仕事から戻ってきたら、説明してやって欲しいとも。何かわかり次第連絡するからと言い置いて、広瀬は飛び出していった。

 一時間ほどして二人が帰ってきたときにも、広瀬からの知らせはなかった。いつも冷静な広瀬も、さすがに慌てていたのだろう。将もそこまで気がまわらずに、病院の名前を聞きそびれていたため駆けつけることもできなくて、三人で澤田が作っておいてくれたカレーを食べながら、ただただ待っていることしかできなかった。

 日付が変わる頃になって、津村は問題ないが、澤田の手術が長引いていると、電話があった。そうしたところでどうにもならないのはわかっていたが、いても立ってもいられなくて、三人で病院に向かった。案の定、そこでも待っていることしかできなくて、イライラしながら夜を明かし、ようやく手術を終えて出てきた医者は、「予断を許さない状況だ」とのたまった。

「すみませんすみませんすみません」

 廊下に這いつくばるようにして慟哭する津村を、澤田の父と広瀬が助け起こした。

「君も休んだ方がいい。大きな怪我はなくても、あちこち傷んでいるだろう」

 澤田はどちらかというと母親似のようだったが、津村を労る父親の声は、澤田のものとそっくりだった。たぶん、それが一層、津村を泣かせたのだと思う。

 いつでも陽気な津村のあんな姿を見たのは、はじめてだった。

 澤田が一命を取り留めて、ゆっくり回復していって、津村も元の調子に戻っていった。

 でもそれは、本物ではない。ただの見せかけ、まやかしの明るさだ。だからさっきのように、ちょっとしたキッカケですぐに綻び壊れてしまう。

 責任を感じる必要なんてどこにもない。負い目に感じるようなことではさらさらない。

 他人にいくらそんなことを言われても、素直に頷けない津村の気持ちが将にはわかる。和人にもわかっている。みんな、わかりすぎるほどにわかっている。だけど、どうしてやることもできなくて、見て見ぬ振りをしているのだ。

 バス停でバスの到着を待つ間、将はポケットから右手を取り出し、目の前で開いた。

 指先が震えている。そのまま心臓に押し当てると、こちらも奇妙にバクバクしている。

 さっきの、あの目。

 深い光を湛えた、切れ長な双眸。すべてを見通すような、鋭い眼差し。

 将は、「記憶喪失」なんてものを認めていない。そんなのはドラマとか映画とか作り話の中の出来事で、現実にはあり得ない。あるはずがない。

 だから広瀬から話を聞いたときにも、ナニ言ってんだ、と思っていた。そんなわけあるもんか。たまたま具合が悪かっただけで、すぐに元に戻るに決まってる。自分のことがわからないとか、俺たちのことを覚えてないとか、そんなことがあってたまるか。

 今でも、そう思っている。

 なんにもなくしてなんかいない。失われたものなんてあるわけがない。

 ちょっと眠っているだけで、今は休んでいるだけで、確かに、確実に、そこにある。そうに決まっている。そうでないはずがない。

 そうして、あの目だ。

 あれは、澤田のものだった。

 見た瞬間、すぐにわかった。戻ってきた、そう感じた。やっぱり、ちゃんといるのだ。忘れてなんかいない。なくしてなんかいない。

 四人に伝えるべきだろうか。

 誰かに話したい気持ちはある。このままひとりにはなりたくない。

 事務所に行けば、広瀬が帰っているかもしれない。だが、そのうち津村も戻ってくることを思うと、やめておいた方がいいような気もする。少なくとも今日のところは、津村は将と顔を合わせたくはないだろう。

 なんとはなく最寄りのバス停で降り損ねて、将はそのまま駅まで運ばれていった。



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